〔芭蕉、死出の旅立ち&素堂の立場と慕情〕

元禄6年の消息

元禄7年の消息

<重要書簡>素堂、曾良宛書簡(妻の死)

芭蕉書簡、曾良宛 素堂のこと

素堂消息、九月刊、戸田茂睡編『不求梨本隠家勧進百首』入集。

芭蕉、十月十二日大阪にて歿。

素堂消息『枯尾花』発句一入集。其角編。「芭蕉翁終焉記」

芭蕉の消息、芭蕉山桃青寺について

素堂と芭蕉の交流略年譜

芭蕉書簡、曾良宛 素堂のこと

 

《筆註》

 素堂と芭蕉との密接な関係を紐解いた研究者は少ない。しかし当時の書を見れば、素堂の下に、素堂の手のひらの中で喘ぐ芭蕉が如実に見えてくる。江戸以来の俳諧動向をみれば、芭蕉への尊敬より、芭蕉の最大限の利用活用が目立つ。これは芭蕉を用いることで宗匠の地位を高め、研究者の位置をも高めるためのものではなかったか。したがって素堂と芭蕉の高尚な遣り取りで出来たものを、芭蕉独自のもののように書き綴るから、味気のない上滑りのものとなる。芭蕉の死後の動向も、弟子となる人々により、恰も芭蕉が伝授したかのように俳諧指南書や論争を展開する。こうした多くは芭蕉遺語というより持論を芭蕉に重ねたものであり、特に「不易流行」など素堂の提言を無視して展開している。素堂の提言は其角「続虚栗」の序文に記されたものであるが、他にもそれらしい記事が散見できる。素堂を頼りにする其角に対して芭蕉の元に行きなさいと諭す素堂の立場は、芭蕉の上位に居ることは間違いない。ここに掲げた芭蕉死についても一考を要する。場所死後の追悼には多くの門人が不参加であったと記す書も。ある

 

〔芭蕉の動向〕

元禄三年「奥の細道』の旅を終えた芭蕉は、九月六日大垣を立って伊勢の遷宮を拝み、同月末郷里に帰った。

伊賀の山路で

○初しぐれ猿も小蓑をほしげなり

郷里では人々との交遊も多かったが、しばらく滞在の後京都へ出た。

元禄三年の春は、湖南の膳所で迎えた。歳且吟

○薦を着て誰人います花の春

これから元禄四年秋東下するまで、芭蕉は引続き上方に滞在する。

 

〔芭蕉、幻住庵へ〕

四月には、近江石山の奥にあった幻住庵に入って、八月までとどまった。「幻住庵記』は

○先頼む椎の木もあり夏木立

八月には下山し、名月は大津の義仲寺で賞した。この問、春には『ひろ野』が、八月には『ひさご』が出版されている

元禄四年、新春を大津で迎え、

○大津絵の筆のはじめは何仏

この正月にも帰京して、

○山里は万歳おそし梅の花

この夏四月十八日から五月四日まで、芭蕉は嵯峨の落柿舎に滞在、その起居のさまを『嵯峨日記』に書いている。落柿舎は門人の去来の別宅。去来は温厚な人柄で、芭蕉に深く信頼されていた。七月には、かの『猿菱』が出版された。

九月の末には帰束の途につき、諸所で交遊しながら、十月二十九旦二年ぶりで江戸に戻った。

     ともかくもならでや雪の枯尾花

というのが、その感懐であった。宿は、橘町の彦右衛門というものの借家。

元禄五年の歳且吟は、

     人も見ぬ春や鏡の裏の梅

●五月には、杉風らの世話で、旧庵の近くに芭蕉庵が建てられた。

●七月には近江の曲水が来、

●八月には彦根の許六が入門し、

●九月には近江の珍碩が来て、翌年一月末まで滞在した。

 

・元禄六年(1693)

 

     歳且吟は、

     年々や猿に着せたる猿の面

     三月末、芭蕉は草庵で病を養っていた猶子桃印を失った。桃印は二十年も世話をしてきただけに、その悲しみも深く、知人に宛てて、「死後断腸之思難止候問、精情草臥、花の盛・春の行衝も夢のやうにて暮()」と書き送っている。

     初秋のころには、「閉関之説」を草して客を謝した。

「人来れば無用の弁有、出ては他の家業を妨ぐるも憂し」

     十月は、葛飾の素堂亭に遊んだ。

 

元禄七年(1694)

 

●歳且は、

○蓬莱に聞かばや伊勢の初だより

●このころ、芭蕉は江戸俳壇に対する不満を洩らしている。それは、その工夫にかかるいわゆる軽みの新風を其角や嵐雪が理解しないというところにあった。芭蕉の理念は、必ずしも、多くの人々に正しく理解されたとはいえなかったようだ。

●5月11日、芭蕉はまた江戸を後にして、上方への旅に出た。次郎兵衛が同行した。

     麦の穂をたよりにつかむ別かな

●京都に滞在中、江戸から寿貞の病死を知らせてきた。寿貞は、芭蕉の若いころ交渉のあった女性かというが、よく判らない。旅に伴った次郎兵衛は、その子である。

盆には帰郷して

     家はみな杖に白髪の墓参り

とよみ、寿貞のために

     数ならぬ身とな思ひそ玉祭

と手向けた。

●九月のはじめ、支考を柵手に『続猿蓑』の編集を終えた。

●そのころ大阪の門人の問に確執があり、芭蕉の来阪を願っていた。

     芭蕉は九月八日、支考・惟然・次郎兵衛らとともに出発した。兄の半左衛門は、朝霧の中を、後影の見えなくなるまで見送っていた。大阪では幾つかの俳席などに参加、

     この道や行く人なしに秋のくれ

     この秋は何で年よる雲に鳥

     秋深き隣は何をする人ぞ

すんなりと人の心に溶け込む句風である。

     二十九日、はげしい下痢がはじまった。門人たちの手厚い看護の甲斐もなく、容態は日増しに悪化していった。

     十月十二日の午後四時ごろ、南御堂前の宿で、ついに五十一歳の生涯を終えた。

     旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

     遣骸は、その夜川舟で近江の義仲寺に移し、かねての遺言の通り、そこに葬った。葬送には、三百余人であったという。

 

素堂消息〔芭蕉死す〕

元禄7年(甲戌)1694(素堂53才・芭蕉51才)

 

 

芭蕉書簡、曾良宛 素堂のこと

 

依水

三月七日付、曾良宛書簡

来ル十八日の翁も参られ候筈に御座候。一席催し候間、素堂子御誘ひなされ候ひて御出で下され候様に待ち奉り候。

 

芭蕉

五月十六日付、曾良宛書簡『芭蕉文集』(荻野清氏著)                  

  尚々宗波老へ 願置候素堂書物早々かへされ候と相申よし申上可被下候。

 

五月十六日付、曾良宛書簡『甲斐俳壇と芭蕉の研究』(池原錬昌氏著)

  尚々宗波老へ 預置候素堂書物早々かへされ候様ニ頼申よし御申可被下候。   

                       

 

素堂消息、九月刊、戸田茂睡編『不求梨本隠家勧進百首』入集。

 すむ庵を世の人のかくれ家といふきゝて

人しれぬ身にますれはをのつからもとむともなきかくれかにして      法し茂睡

  いりかある言葉の花の世にもれは身のかくれかのかひやなからむ  信章素堂

  隠家もとなりありとは言の葉の道をわけたる人にしられて           幽山高野 

  けふはまつよろつの民の言の葉に治る御代の春をしるかな           清水宗川

  貝ひろふ蜑の子あまた数見えて霞む海邊の春の朝なき                 原安適

 

茂睡

・寛永六年(1620)生、〜宝永三年(1706)歿。年七十八才。

     戸田氏。通称茂右衛門、後に茂睡。渡辺監物忠(三河国戸田家から旗本渡辺山城守茂の養子となる)の子として駿府城内に生まれる。

     父は主君徳川忠長の改易の事に坐して下野国黒羽に蟄居、茂睡も二十才まで同地で過ごした。

 

・ その後江戸の伯父戸田政次の養子となり、明暦元年〜寛文十二年(一説には天和三年〜宝永元年)の間、本多侯に仕官し

た。

・ しかし本多侯の国政改革に際して浪人となり、晩年は遁世して浅草金龍山などに住んだ。

     祖父・父とも和歌連歌を嗜む名門で、環境に恵まれた。

     実作より歌学面に見るべき点があり、古今伝授や制詞を重んじる因襲的の堂上歌学に痛烈な批判を加えた。

・ 著作書―『梨本集』『百人一首雑談』『僻言調』『鳥の迹』『紫の一本』『梨本書』『御当代記』など。

 

 

<重要書簡>素堂、曾良宛書簡(妻の死)

 

御無事ニ御務被成候哉、其後便も不承候、野子儀妻ニ離申候而、当月(十月 )ハ忌中ニ而引籠罷候。                                                         

一、桃青大阪ニて死去の事、定而御聞可被成候、御同然ニ残念ニ存事ニ御座候、嵐雪・桃隣二十五日ニ上り申され候、尤ニ奉存候。  

 

一、元来冬至の前の年忘れ素堂より始まると名立ち候。               

 内々ノみのむしも忌明候ハゞ其日相したゝめ可申候、其内も人の命ははかりがたく候へ共、

云々          

一、例ノ年忘れ、去年ハ嵐雪をかき、今年は翁をかき申候、明年又たそや

                                          素 堂                                                       

    曾良賀丈                              

 

素堂……妻の死のため芭蕉の葬儀(大阪)へ行けず。

 

《註》

…前掲の素堂、曾良宛書簡により、素堂の妻の死が確認できる。                                        

これまでの素堂伝記諸本による、素堂の母の死(元禄三年説/荻野清氏)や素堂は妻を娶らずなどの伝記は史実ではない。                                                         

又、素堂の生家は酒造業であったとの伝記も根拠のない説で、後世に於いての創作である。この書簡は素堂の数少ない書簡である。全文を掲げた紹介書は未である。

                  《註》… 参考資料 『連歌俳句研究』森川昭氏紹介・『俳諧ノ−ト』星野麦久人氏著・『芭蕉の手紙』村松友次氏著 

 

芭蕉、十月十二日大阪にて歿。

 

 〔芭蕉の死〕‥『芭蕉年譜大成』今栄造氏著。(掲載書名は略)

◆十月十一日

この朝から食を廃し、不浄を清め、香を焚いて安臥する。夕刻、上方旅行中の其角が芭蕉の急を聞いて馳せ参じる。夜、看

護の人々に夜伽の句を作らせる。丈草・去来・惟然・支考・正秀・木節・乙州らに句あり。この内丈草句、「うづくまる薬の

下の寒さ哉」のみを「丈草出来たり」と賞す。

◆十月十二日

申の刻(午後四時頃)歿す。

遺言により、遺骸を湖南の義仲寺に収めるため、夜、淀川の河舟に乗せて伏見まで上る。この折の付添人は、去来・其角・乙州・支考・丈草・惟然・正秀・木節・呑舟・次郎兵衛の十人。膳所の臥高・昌房・探志ら三名、行き違い大阪に下る。

◆十月十三日

朝、伏見を発し、昼過ぎ湖南の義仲寺に遺骸を運び入れる。支考が師の髪を剃り、智月と乙州の妻が浄衣を縫う。埋葬は、臥高ら三名の戻りを待って明日に延期される。

◆十月十四日

夜、子ノ刻(午後十二時頃)葬儀。同境内に埋葬する。導師、同寺直愚上人。門人焼香者八十人。会葬者三百余人。

◆十月十六日

伊賀の土芳・卓袋両人、十三日に師危篤の報を得て大阪に急行。廻り道してこの日朝、義仲寺に至る。両人、師の行脚中使用の遺品を改めて伊賀の兄半左衛門のもとに送る。杖・笠・頭陀は義仲寺奉納と決まる。

◆十月二十五日

この日、義仲寺境内に無縫塔が建立される。高さ二尺余の青黒の自然石の表に「芭蕉翁」背に年月日を記す。

 

素堂消息『枯尾花』発句一入集。其角編。「芭蕉翁終焉記」

十月十八日、於義仲寺、追善の誹諧

なきながら笠に隠すや枯尾花            晋子(其角)

温石さめて皆氷る聲              支考(温石=をんじゃく)

行灯の外よりしらむ海山に        丈艸

やとはぬ馬士の縁に来て居る            惟然

つみ捨し市の古木の長短          木節

洗ふたやうな夕立の顔            李由

森の名はほのめかしたる月の影    之道

野かげの茶の湯鶉待也            去来

水の霧田中の舟をすべり行        曲翠

旅から旅へ片便宜して            正秀

暖簾にさし出ぬ眉の物思ひ        臥高

風のくするを惣くがのむ         泥足

こがすなと齋の豆腐を世話をする  乙州

木戸迄人を添るあやつり          芝柏

(以下略)

十月廿三日追善

亦たそやあゝ此道の木葉掻        湖春

一羽さびしき霜の朝鳥            素龍

碇網綰なる月に浪ゆりて          露沾 (綰−わが)

野分の音のかはる兀山            萍水 (兀山−はげやま)

秋中に殘らずつけし蔵の壁        桃隣

青苧の長を引上にけり            岱水

青苧−あをう

内かたは物やはらかな人づかひ    野坡

ほろく雨の末は四五町            孤屋

その形に紙で巻たる百合の花            利牛

竈の火けして庵たて寄            杉風 (竈―くど)

雲水の身はいづちを死所          素堂

帆をもつ舟は疊也けり             

 

素堂……深草のおきな、宗祇居士を讃していはずや。

友風月家    旅泊

芭蕉翁のおもむきに似たり

旅の旅つゐに宗祇の時雨哉        素堂

 

義仲寺へ送る悼

氷るらん足もぬらさで渡川   法眼季吟

告て来て死顔ゆかし冬の山        露沾

凩の聲に檜原もむせびけり        素龍

 

素龍……生年不詳、〜正徳六年(1716)歿、年五十四才とも六十一才とも。

  通称義左衛門 。もと阿波国徳島藩士。元禄五年(1692)に芭蕉と相識り、『奥のほそ道』を清書し跋文を寄せた。本領は歌学で幕府歌学方季吟に接近し、元禄十三年(1700)頃、 柳沢吉保の禄を得て、将軍綱吉の前で『源氏物語』を購読する栄に浴した。吉保の息子吉里にも仕え、柳沢家の和歌指南として謹仕し没した。

 

岱水……生没年不詳。貞享〜宝永頃。貞享四年(1687)の『伊賀餞別』に苔翠の号で入集以来芭蕉庵の側に住居する。著に『木曾の谷』がある。

 

湖春……慶安元年(1648)生、〜元禄十年(1697)歿。年五十才。

     季吟の長男。幼時から父の俳席に列して腕を磨き寛文七年(1667)宗匠として独立。『続山井』を編んだ。以後父季吟の実務担当者として活躍し、後京都で活躍。元禄二年(1689)

 に父とともに幕府に歌方として招かれる。

 

芭蕉の消息、芭蕉山桃青寺について(『芭蕉の全貌』萩原蘿月氏著より)

 

 震災前は桃青寺といふ寺は本所中ノ郷原庭町三十五番地にあって、寛文三年黙宗和尚の創立にかゝり、初は白牛山定林寺と云った。臨済宗である。

此寺の檀越に長谷川馬光(二世其日庵)といふ者あり、芭蕉没後境内に芭蕉堂を建て(寛保三年/1743)小川破笠作の芭蕉像(破笠晩年の作で高さ八寸五分)頓阿作の西行像素堂の像を安置し、四時仏前に風雅を手向けた。後文化中、其日庵白芹再び桃青堂を修理した。延享二年(1745)俊岩和尚の際、舊事に因みて芭蕉山桃青寺と改称し、其後火災に逢って灰燼に帰したが、宝暦中(1751〜63)に泰龍和尚が中興し、東盛寺と改めた。   

伴し、明治二十五年再び舊號に復した。

現在の(昭和十年頃)芭蕉堂は明治二十六年十一月芭蕉二百回忌に建てられ、正面に芭蕉と素堂の二像を安置し、周囲の數多の芭蕉を植えた。云々

 

素堂と芭蕉の交流略年譜(概略、詳細は本文で)

                                                  

延宝三年(1675)

素堂34 

芭蕉32 

☆宗因歓迎百韻の興行。

 

延宝四年(1676)

素堂35   

芭蕉33 

☆天神天満宮奉納両吟     

☆『江戸両吟集』

 

延宝五年(1677)     

素堂36   

芭蕉34 

☆風流大名内藤風虎の『六百番俳諧句合』参加。

☆江戸三吟

延宝六年(1678)   

素堂37   

芭蕉35 

前年から信徳を交えて

☆『江戸三吟集』

 

延宝八年(1680)     

素堂39   

芭蕉37 

☆素堂、幽山『俳枕』に序文。芭蕉入集

 

天和元年(1681)     

素堂40   

芭蕉38 

両吟(真筆)

枯枝に烏とまりけり秋の声  芭蕉

鍬かたげ行霧の遠里     素堂

 

天和二年(1682)     

素堂41   

芭蕉39 

☆高山麋塒主催「錦どる」同席。

☆桃青八吟歌仙「月と泣く夜」同席。

☆芭蕉と木因、素堂訪問の打ち合わせ後訪問。(三者の三物)

★芭蕉、暮れ火災に遭う。甲斐流遇か。

☆谷村藩秋元但馬家(素堂の関与)

 

天和三年(1683)     

素堂42   

芭蕉40 

☆素堂、芭蕉庵再建勧化簿を作成。

 

貞享元年(1685)     

素堂43   

芭蕉41 

☆芭蕉、「野ざらし紀行」の旅に出る。

 

貞享二年(1686)     

素堂44   

芭蕉42 

☆芭蕉、旅から帰る。素堂、芭蕉の

☆素堂、芭蕉の帰庵を待って、

「いつか花に茶の羽織檜笠みん」

☆芭蕉『野ざらし紀行』、

☆素堂『野ざらし讃唱』

☆『古式百韻』に同席。

☆素堂、風瀑『一楼賦』に跋。

 

貞享三年(1687)     

素堂45   

芭蕉43 

☆芭蕉庵蛙句合衆議判同席。

☆芭蕉の瓢に四山の銘を与える。

 

貞享四年(1688)     

素堂46   

芭蕉44 

☆『続の原』素堂、芭蕉判者。

☆芭蕉、『鹿島紀行』の旅立ち。

☆素堂句餞別。

☆素堂、「帰郷餞別吟」

☆「蓑虫」の遣り取り

 

元禄元年(1689)     

素堂47   

芭蕉45 

☆素堂亭十日菊

☆芭蕉庵十三夜。

 

元禄二年(1690)     

素堂48   

芭蕉46 

☆芭蕉「奥の細道」へ旅立。

☆素堂餞別句。

 

元禄三年(1691)     

素堂49   

芭蕉47 

 

☆芭蕉曾良宛書簡、素堂への伝言。

一、素堂へ御伝へ下さるべく候。大津尚白大望の間、菊の句芳意にかけられべくと。御頼み申すべく候。云々

一、素堂なつかしく候。かねさねてひそかに清書御目に懸くべく候間、素堂へ内談承るべく候。

一、素堂文章、此近き頃のは御座無く候也。なつかしく候。

 

元禄四年(1692)     

素堂50   

芭蕉48 

芭蕉曾良宛書簡、素堂の事。「素堂なつかしく候」云々

素堂亭忘年会。

 

元禄五年(1693)     

素堂51   

芭蕉49 

☆素堂母喜寿の賀宴。

☆素堂・芭蕉和漢百韻。

 

元禄六年(1694)     

素堂52   

芭蕉50 

芭蕉許六宛書簡、素堂に面会できずに名残りを惜しむ。

 

元禄七年(1695)     

素堂53   

芭蕉51 

 

芭蕉書簡、曾良宛 素堂のこと

 

依水

三月七日付、曾良宛書簡

来ル十八日の翁も参られ候筈に御座候。一席催し候間、素堂子御誘ひなされ候ひて御出で下され候様に待ち奉り候。

芭蕉

五月十六日付、曾良宛書簡『芭蕉文集』(荻野清氏著)                 

  尚々宗波老へ 願置候素堂書物早々かへされ候と相申よし申上可被下候。

五月十六日付、曾良宛書簡『甲斐俳壇と芭蕉の研究』(池原錬昌氏著)

  尚々宗波老へ 預置候素堂書物早々かへされ候様ニ頼申よし御申可被下候。 

 

★十月十二日、芭蕉大阪にて死去。

★素堂妻の喪中につき大阪へ不行。(曾良宛素堂書簡)

素堂……曾良宛書簡(妻の死)

御無事ニ御務被成候哉、其後便も不承候、野子儀妻ニ離申候而、当月(十月 )ハ忌中ニ而引籠罷候           

一、桃青大阪ニて死去の事、定而御聞可被成候、御同然ニ残念ニ存事ニ御座候、嵐雪・桃隣二十五日ニ上り申され候、尤ニ奉存候。  

一、元来冬至の前の年忘れ素堂より始まると名立ち候。                    

 内々ノみのむしも忌明候ハゞ其日相したゝめ可申候、其内も人の命ははかりがたく候へ共、云々     

一、例ノ年忘れ、去年ハ嵐雪をかき、今年は翁をかき申候、明年又たそや

                                                   素 堂                                                                     

    曾良賀丈