素堂の芭蕉への想いが理解できる

「芭蕉追善句文」刊行年による

 

★元禄7年十月十二日、芭蕉大阪にて歿。

 

『枯尾花』元禄七年(1694)

深草のおきな宗祇居士を讃していはずや、友風月

家旅泊芭蕉翁のおもむきに似たり。

旅の旅つゐに宗祇の時雨哉

雲水の身はいづちを死所

 

『翁草』元禄九年(1696

頭巾着て世のうさ知らぬ翁草

 

『陸奥衡』元禄十年(1697

亡友芭蕉居士、

近来山家集の風体をしたはれければ

追悼に此集を読調するものならし。

あはれさやしぐるる比の山家集

 

『柱暦』

茶の羽織おもへば主に穐もなし

 

『続有磯海』元禄十一年(1698)

ばせを墓にまうでて手向草二葉

秋むかし菊水仙とちざりしが

苔の底泊の露やとどくべし

 

『芭蕉庵六物』元禄十二年(1699)

予が家に菊と水仙の童を久しく翫びけるが、

ある時ばせををまねきて、

此ふた草の百草におくれて霜にほこるごとく、

友あまたある申にひさしくあひかたらはんとたはぶれ、

菊の絵をはなして贈る時、

菊にはなれかたはら寒し水仙花

 

『はだか麦』元禄十三年(1700)

芭蕉庵三回忌

歎とて瓢ぞ残る垣の霜

 

『冬かつら』元禄十四年(1701)

ことしかみな月申の二日、

芭蕉の翁七回忌とて、

翁の住捨ける庵にむつまじきかぎりしたひ入て、

堂あれども人は昔にあらずといへるふるごとの、

先思ひ出られて涙下りぬ。

空蝉のもぬけしあとの宿ながらも、

猶人がらのなつかしくて、

人々句をつらね、

筆を染て、志をあらはされけり。

予も又、ふるさ世の友とて、

七唱をそなへさえりぬ。

其一

くだら野や無なるところを手向草

其二

像にむかひて

紙ぎぬに倍しをま、の佛かな

其三

像に声あれくち葉の中に帰り花

其四

翁の生涯、

風月をともなひ厳泊を家とせし

宗祇法師にさも似たりとて、

身まかりしころもさらぬ時雨のやどり哉

とふるめきて悼申侍りしが、今猪いひやまず。

時雨の身いはゞ髭なき宗祇かな

其五

菊遅し此供養にと梅はやき

其六

形見に残せる葛の葉の緒墨いまだかはかぬがごとし。

生てあるおもて見せけり葛のしも

其七

予が母君七そじあまり七とせに成給ふころ、

文月七日の夕翁をはじめ七人を催し、

万葉集の秋の七草を一草づゝ詠じけるに、

翁も母君もほどなく泉下の人となり給へば、

ことし彼七つをかぞへてなげく事になりぬ。

七草よ根さへかれめや冬ごもり

といふものはたそや

武陽城外葛村之隠 素堂子也

 

『そこの花』元禄十四年(1701)

芭蕉の塚に詣して

志賀の花湖の水それながら

 

『きれぎれ』芭蕉塚にて

志賀の花湖の水それながら

 

『渡鳥集』

芭蕉居士の奮跡を訪

志賀の花湖の水それながら

 

『追鳥狩』

此句粟津翁塚に手むけぐさとなん

夢なれや梅水仙とちぎりしに

 

『三河小町』元禄十五年(1702)

ちからなく菊につゝまるばせをかな

 

『木曾の谷』……宝永元年(1704)

あはづ芭蕉塚にて

志賀の花湖の水それながら

 

『千句塚』

しぼミても命長しや菊の底(前書、本文参照)

 

『誰身の袖』

去来丈追善の集編せらるゝのよし傳へ聞侍りて、

風雅のゆかりなれば、

此句をあつめて牌前に備ふ。

元察子執達給へ。

枯にけり芭蕉を学ぶ葉慶草

 

『東山萬句』宝永三年(1706)

前のとしの春ならん湖南の廟前に手向つる句を

ふたゝびこゝに備るならし。

志賀の花湖の水それながら