素堂は遠路何故唐津を訪ねたのか(主君への別れ)
延宝六年(1678)37歳
〔素堂と深い関係の唐津〕参考資料----「山梨大学研究紀要」
素堂
夏の頃、長崎旅行に赴き越年する。
唐津での句をめぐって、(仕官先が窺える)
二万の里唐津と申せ君が春
素堂研究者の清水茂夫氏一故一はこの旅行の、「二万の里……唐津」の句をもって、素堂が主君との別れの挨拶句であるとしている。
〔講演内容〕
ところで信章は、延宝六年の夏には長崎旅行をし、翌年暮春ころ泣戸に戻りました。そして程なく致任して、上野不忍池のほとりに隠居しました。それまでは、林春斎に朱子学を学んだ信章は儒官として何延かに任官していたと思われますが、確証はありません。上に記した長崎旅行の際唐津まで赴いて次の句を吟じています。
二万の里唐津と申せ君が春
君が春は御代の春と同じで、仕官している唐津の主君を祝っていると考えますと、唐津に藩主にでも什官していたのではなかろうかとも考えられます。しかしこの旅行を契機として理由はわかりませんが致任しています。
〔不易流行〕
そして清水氏は『続虚栗』の素堂の序文「はなに時の花有り」を挙げて、
「素堂は時の花とは一時の興を与えるものであり、その時だけの目新しさ・新奇さを持つ句にあるとし、終の花とは永遠にその興を与え続けるものであり、時代を超えて人々を感動させる句にあると考えたのです。これは後に芭蕉によって論された不易流行の先駆をなす見解であると言えます」とある。