没後も行き続けた素堂の家系と俳諧

     誤伝、山口素堂その後(新提示・未稿)山口素堂資料室 清水三郎著

目次

1、素堂と俳諧

2、素堂の社中
3、『通天橋』

4、子光と『素堂句集』
5、馬光と素丸
6、『睦百韻』の小叙(二世来雪襲名披露記念集)
7、黒露と馬光
8、素堂と黒露
9、寺町百庵
10、黒露(雁山)と百庵
11、紀伊国屋文左衛門と寺町百庵
12、百庵の周辺
13、雁山、黒露となる。
14、雁山、江戸を出る。
15、黒露と駿河

16、甲斐の黒露
17、百庵の位置
18、素堂の一族
19、葛飾派
20、葛飾派の俳論書
21、芭蕉門弟の俳論書
22、江戸俳諧の時代的背景

23、素堂と芭蕉の俳諧

没後も行き続けた素堂の家系と俳諧
1、素堂と俳諧

 山口素堂については、松尾芭蕉のように詳細には伝えられてはいない。これは素堂が早くから隠遁生活に入ったことにもよるようである。
 芭蕉は俳諧の宗匠として自立し、後に退隠して俳諧の芸術性の追求に突き進み、晩年は俳聖と讃え称されるようになった。
 一方時代を同じくする素堂は俳諧の宗匠として道を極めることをやめ、隠士として多くの文化人や著名人たちを交流を深め、芭蕉に俳諧の新風を起こすことを託して助言や提言を繰り返した。多くの識者が芭蕉のものとする、「不易流行論」などは、すでに素堂が芭蕉に先がけて提示しているのである。(『其角編『続虚栗』序文)素堂が芭蕉に先んじていることを示す資料としては、元禄六年(1693)の折り、芭蕉の門人で素堂とも親しい鯉屋杉風が奥州の公羽に宛てた手紙に、「宗匠にて之無き者にも名高き者は素堂と申す者にて御座候」ときしていて、また芭蕉の本屋嘉右衛門宛ての手紙にも

……二日にもぬかりはせねそ花の雲……
 (改め……二日にもむかりはせじな花の春……)
……はまくりにけふは賣かつ若葉哉…… 
 (改め……はまくりにけふは賣かつ若菜哉……)
…右の両句申進候。其外に二三句斗も有之候へ共あまりおもしろからす候故
 御目にかけ申すまし□□、近き内に素堂可参候間御聞可被下候。
 此間は何角用事しけく候故早々申入候。以上
  十九日   桃青
  本屋嘉右衛門様
 
 とあり、他にも多くの識者が偽書とする芭蕉の「素堂先生」の手紙もあるほどである。
 さらに元禄六年(1694)52才の折りにはこれまで出入りしていた林家の正式な門人(『升堂記』)として、親しい人見竹洞と共に活躍した足跡を残す。当時の素堂は人物・識見・教養とも秀でた存在であり、それは大名や当時の著名人との交流の深さを見れば一目瞭然である。
 
 元来素堂は和漢学者で儒学を修めた詩人であり、和歌・連歌より出発した俳諧者であったから、洒落風や比喩体(本人は狂句などといっているが)の傾向のある作風がみられるが、正風体の句も早くから詠んでいる。後世の俳諧研究に携わる人々が「素堂は句作が少なく学者的句が多いなどと批評しているが、これは素堂という人間の研究と追求が浅いことに起因している。素堂は俳諧で世を渡った人ではなく、隠士としての立場を守りながら俳諧者であり、その俳風も軽妙であり、その奥行きでは芭蕉に及ばないかも知れないが深く追求しないのが素堂の持味でもあったのである。従って詠み捨て的な作風もあり、素堂の及ばない部分を刺激された芭蕉が蕉風(正風)という大きな流れを作り上げたのではと思われる。

 素堂は基本的に隠士の立場を守り、生涯門弟はとらなかった。後世の俳諧系統図などに細かい素堂の俳号が掲載され、恰も素堂が生存中から存在していたかの内容をみるが、素堂周辺の資料からは「信章」・「来雪」・「素堂」・「素堂主人」のような号は散見できるが、これは殆ど号と本名一致している。『葛飾正統系図』〔嘉永三年(1850)馬場錦江著〕に見られるような「山口霊神」・「信章斎」・「蓮池翁」・「今日庵」などは後世の素堂門を名乗る俳諧者たちの創作した号である。「素堂」の号は山口素堂−寺町百庵(本人は固辞)−佐々木来雪(素堂三世)までは資料にみえる。(別述) 素堂の家や亭には和漢の教えや俳諧のことを尋ねて来るものは何人か居たようで、素堂没後に『素堂句集』を著した子光や後の馬光などがそれであろう。また親族の中にも寺町百庵や山口黒露など素堂の影響を受けた人々も居た。素堂の家系の後継者としては素堂の嫡孫山口素安が確認できるが、こうしたことは素堂を論じる人々の記載内容には見られないことである。
 結論づけてしまうと、素堂には門人が居なっかったということになる。

2、素堂の社中

 素堂の「社中」については、文化3年(1806)刊の随筆『鳴呼矣草』(おこたりぐ)に、

……社中というは、廬山の恵遠法師、庭際の盆地に白蓮を植えて、その舎を白蓮社という。劉遣民雷次宗宗炳等の十八人、集会して交わりを為す。これを十八蓮社という。謝霊運、その社に入んことを乞う。恵遠謝霊運が心雑なるを以て、交わりを許さず。斯かる潔白なる交友を集会をなさしより、蓮社の交わりと云。
然るに芭蕉の友人山口素堂師致仕の後、深川の別荘に池を穿り、白蓮を植えて交友を集め、蓮社の擬せられしより、俳諧道専ら社中と云う事流行しぬ。云々……
 
とあり、素堂は隠士とはいいながら豊かな生活と多くの交友と語る隠士生活が目に見えるようであり、素堂の社中は百年弱経た時代でも語り継がれていたのである。
 
 素堂の日常生活を示す資料に、佐々木来雪改め三世素堂が『連俳睦百韻』の後序で、……我伝道之祖者貞徳翁也。我教□調之師者葛飾翁(素堂)也。其切精深至 所謂能伝導解惑者也。絶感嘆衆人仰称俳道之宗匠……
 
 これが当時からの素堂に対する多くの人の認識であったと思われる。
 素堂は芭蕉の高弟杉風や其角、嵐雪それに桃隣らを愛し、芭蕉の没後は去来を芭蕉の後継者とすべく努力もしている。嵐蘭や芭蕉の門人とされる曾良とも特別な交友関係を晩年まで続けている。素堂=曾良=芭蕉で行き来した書簡や、その内容からも俳諧には関係ない事柄が示されている。また素堂の周辺には琴風や沾徳、祇空・沾州・序令。郁文・専吟など、先上げた俳人たちの門人も素堂亭に出入りしていた。素堂の晩年を知る好資料である『通天橋』から素堂を忍んでみよう。

3、『通天橋』

…『通天橋』…山口雁山(黒露)編。素堂一周忌追善集。享保2年(1717)刊。
……序文、内藤露沾(風流大名内藤風虎の息子で職を継がずに俳諧を継承した)
  
  かつしかの素堂翁は、やまともろこしうたを常にし、こと更俳の狂句の達人なり。おしひかな、享保初のとし八月中の五日、終に古人の跡を追いぬ、予もまた志を通ること年久し。しかあれど猶子雁山、をのをの追悼の言葉を桜にお集んとて予に一序を乞。おもふに彼翁、周茂叔が流に習ふて、一生池に芙蓉を友とせしは、此きはの便りにもやと、筆を染るものならし。
 遊園軒
月清く蓮の実飛で西の空 露沾

  追悼

狙公をうしなふて朝三暮四のやしなひだにあたはず。
猿引にはなれてさるの夜寒かな  雁山

  悼

素堂翁は近きあたりに軒を隔て、月雪花鳥のころは、互に心を動し、句をつづりけるに、時こそあれ、仲秋中の五日に世  

を去て筆の跡を残す。
枕ひとつ今宵の月に友もなし    衰杖(杉風)

愛蓮のあるじ尋よくはゐ掘     専吟

 其むかしの句を
目には青葉うつり行世の野分哉  青雲(甲斐の人)

 山口素堂子さりし八月良夜、また月に思ふ。宗鑑が下の客いかに宿の月、といひしは三十年朞年にとなふ。
下の客に折まて世界柴の露  沾徳

  深川の旧庵をおもへば、あるじなし。文の巧みは人口にありて、おもひだすに
蓑むし蓑むし錠に錆うき水の月  祇空

 来れるは何ごとぞや。なつかしの素堂、しかじかの夜復命すとや。我此人をしらず。それを唯しらず。まことに蓮を愛して周  

子に次ぎ、名を埋て炉下に帰ス。されば其情を同じうして其世を同じうせざることをうらむ。愁て今さらに其ことをしらんと

すば、炭消えて灰となり、灰空しうして一炉寒く、残るものとては唐茶に酔し心のみなりけらし。猶その趣を携て一句を積と

は、我をしてなかしむるか。汝におなじきものは何ぞや。葉は眠るに似てうつぶき、花は語るに似て笑。誰か是に向かひ

て昨日をしたひ、けふを啼ざらめやは。花散葉折て非風謡ひ芦花舞て池水秋なり。かれはその秋の冥々たるに入、我は

偶然と口明き偶然と手を打て後あゝこゝに呈す。同じくはうけよ。
秋にして舞ふて入けり風の笠  謝道

 素堂翁は、世にありて世をはなれ、富貴は水中の泡と貧泉を苦しまず。前の大河、後ろの小流を常に吟行し、武江の東葛

飾に住居し、一窓に安閑をたのしみ、花の日は立出てとかなで、雪の朝は炉中に炭などものして、沁(?)音にしたしき友

を待、さて月のゆふべは即興の章おもしろく、拙からも筆をしめて、まことに其名都辺までも著し。折こそあれ、享保のはじ

めのとし名月の其夜果られしこと、哀も殊勝になつかしくおもひ侍りて
名月に乾く日ごろの硯かな  麦々堂 昌貢

はづかしの蓮にみられて居る心  素堂
 此句世の人口にとどまり候。此度の一集へ御加入可被成候。
   雁山サマ  桃隣

 三潭印月硯 釈心越禅師及有一見。竹洞記(幕府儒者)
   端石円而大不満尺。
   石而如高山聳峙有其中自然淵。
   濃意味不似異石。
   所謂為硯海有三孔偶通墨矣。
   謂與西海一景三潭印月硯。
   尚二子於記中詳焉。
雲起す硯の潭の秋の風  雁山
  一とせ野竹洞老人より素琴を送られける趣を
月見前聞たことありいとなき世

 少し引用が長くなったが、素堂の在世中のことが多少理解していただけると思う。この他にも素堂の『とくとくの句合』の跋を草した高野百里や旧来の友京都の言水も句を寄せている。謝道は館林の人で江戸の茶瓢とともに素堂の座像を作っている。
 前書きでも触れているが、この『通天橋』の連衆は素堂の生前に素堂亭に集まった、芭蕉門の杉風や其角・嵐雪・桃隣らの関係者や沾徳を始め未得・調和・不卜・才麿らの関係者や、露沾・青雲・言水など江戸から上方まで参加している。
 この一周忌追善を主催した雁山(後の黒露)露沾が云うように、素堂の猶子になっていたと考えられるが、雁山と素堂の家系上の関係については複雑な為に後に譲り、素堂の周辺に現れたのは元禄末から宝永年間で、雁山本人が『摩訶十五夜』(まかはんや)の中で……本人が船に乗って浅草にまで芝居見物に行く……下りがあるからである。 
 また『通天橋』の雁山の文中に

それの春(享保元年)野夫(雁山)京師に侍りしに、この便りに此句にて心得よとて、いひ送られしか、猶その際迄も、都の花を慕ふ心、いと浅からずや。実に今おもひ合すれば、とく其期を知れるにや。

かの文の
  奥に、
 初夢や通天のうきはし地主の花  素堂

 とあり、素堂の辞世の句が示されている。また京都に居た雁山に素堂の急逝を知らせた僕伝九郎の存在や、晩年素堂の周辺居た子光のことは、資料不足で明確にはできないが、旧友の追悼文を見ると杉風(衰杖)は、同じ深川でも新開地のう海辺橋近くに、早くより別荘の採茶庵を開き、退隠後はそこに住んでいた。後世の書には杉風の姉が甲斐に住んでいて、天和三年の春に芭蕉が甲斐谷村に来た折りに、この姉を頼ってきたとの記載もあるが、根拠資料が不足しており、確定していない。別荘は「近き辺りに軒を隔て」で素堂の近所に居て往来していた。
雁山は幼い頃は甲府から京都に出て入山していたようで、素堂も京都には頻繁の出かけていて、素堂への移住への思慕を表わした句文もあり、晩年は京都で越年することも度々あった。『通天橋』は京都臨済宗東福寺にある橋の名称であり、嘉禎2年(1236)に藤原道長が創建し、禅宗の一派の寺院で唐の普化禅師を祖とし、建長6年(1254)に東福寺の法燈国師覚心が普化宗を宗より伝えたという。東福寺大本山として江戸時代には幕府から普化宗の総支配寺とされた。この東福寺に元禄年間に通天橋が建立された。今日では紅葉の名所として有名になったが、通天橋の本来の意味は、現世を虚無とする道程を示すもので、解脱することにより完遂すると説き、これにより天への架け橋を渡れるとしたものである。素堂も上京の砌には立ち寄りあるいは請われて宿坊とし使用したのかも知れない。なお素堂は日蓮宗を深く理解し、母没年の元禄八年の夏には深草の元政の故事に憧れ甲斐身延山久遠寺に詣でている。
素堂は谷中の感応寺(現在の天王寺)に葬られたが、その後雁山により他の寺へ移葬されている。
 素堂と京都の関係を示す資料は多くあり、本文に収録してあるので本文を参照のこと。 その他『通天橋』には多くの追悼句文が掲載されているが、拙著『山口素堂の全貌』の本文に掲載してあるので一読されたい。
また文中に「……けらし」「……ならし」らの語句が見えるがこれは素堂がよく用いたものである。

4、子光と『素堂句集』

 子光については享保六年(1721)に『素堂句集』を編んだことは判明しているが、子光自身の姓氏経歴は伝わっていない。俳諧書にも「子光」の名が散見できるが、これが『素堂句集』を編んだ子光とは判別できない。唯句集の中で「私にはまた一つの力助がある。それは素堂の食事のせ世話や身の周りの仕事である。私は幸いに素堂師について十数年になる」と記している。文章も書き慣れた風が見えず、素堂に師事して俳諧や文学などを習っていたのでなくて、雁山に素堂逝去を知らせた「僕伝九郎」と同様な書生的な存在であったのかも知れない。天明3年(1783)晩得編『哲阿弥句藻』に子光追善の句があり、寛政8年(1796)素丸編『素丸発句集』にも子光追悼の句があるが、これが句集を編んだ子光と同一人物かは計り知れない。前掲の子光の名の見える撰集からすれば、子光は天明頃までは生きていたのであろうか。ただしこの時期子光は高年齢に達していて追悼の対象人物は別人である可能性も残されている。

5、馬光と素丸

  馬光は『葛飾正統系図』によれば、二世其日庵を名乗り初名を素丸といった。俗称は長谷川半左衛門・藤原直行。名を白芹と云い、素堂の門に入り絢堂素丸と改め、後に其日庵二世の主となり、『五色墨』や『百番句合』を著した。
 絢堂素丸は二代目で葛飾蕉門では三代目の総師になっているが、これは素堂を初代とするからである。初代素丸は始め誰に師事したかは判明しないが白芹と云い、素堂の社中となってから絢堂素丸と改め、後に馬光と称した。その門人二代目白芹が統を継いで二代目素丸となった。仮説を逞しくすれば、その素丸が馬光と同胞であった子光の追悼句を贈ったのではないだろうか。

 子光の『素堂句集』序文には素堂の性格や思惑態度が書かれている。

・素堂は聞き分ける力や記憶力が優れていて、
・数多く詠んだ詩歌和文らの作品はみ な己の胸中に秘めて全て覚えている。
・人が紙と硯を添えて句や文を請えば、すぐに筆書を与える。
・左のごとき草稿(『芭蕉庵再建勧化簿』)はここに写して高位高官の人は
・これを召し、好事者は最も鐘愛する。招かれるとそれに従い宿することは数日から〜十日にも及ぶ。然るに人や待遇によって勿体振ったり別け隔てる考えはなく、誰彼とも話し合いしかもその内容については口を閉ざし、人に説く話は固く他言はしない……

6、『睦百韻』の小叙(二世来雪襲名披露記念集)

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人見竹洞子、素堂を謂ていはく、「素堂は誰ぞ、山口信章来雪なり」と。
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かゝる古めきし名は当世知る人あらず。来雪は前号也。ことし雅君忠久名あらため----給ふる。
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其旧号心つけて其高当乃価□(高蹈の価値)をしたひ行一歩にや。むさし野の草の----心かりよるとくりなきため山なりけり。そや、この名を為したまふ倶老が詠じ奉るに、----笹のつゆ何のさわりやさぶらはん。
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風雅を学ぶは風雅の徒、ただにつゝみし候して、長くこの有にあなひましませ。来雪----と聞へしは『長学集』によれる名とぞ。
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于時宝暦万年第二申歳孟春吉   江東草々斎 黒露(雁山)著

《解説》
 この小集はごく身近な人で構成され、七吟百韻は、黒露・来雪・寒我・竹酔などであり、その他の多くは黒露の津知友や門人であった。因に二世来雪は佐々木一徳で字は仲祐、名は忠久と云ったようであり、後に来雪庵三世素堂となる。二世素堂は誰なのかは、後述するが素堂の嫡孫とる山口素安が素堂没後素堂の親族である寺町百庵に譲ろうとしたが、百庵は固辞した為に空席のままであったと思われる。

7、黒露と馬光
 
 二人は一才違いで馬光が一才上である。二人とも素堂の周辺で活動し素堂の教えを受けながら俳諧修業に入ったのは宝永年間であると思われ、句の作風も同じような傾向を示している。ここに判る範囲で句集や入集句を比べてみる。

○宝永6年(1709)素堂68才。
黒露…『紫竹杖』無倫編。入集。(雁山)
馬光…『菊の塵』園女編。入集。(素堂序文)

○正徳4年(1714)素堂73才。
黒露…
馬光…『二の切れ』湖十編。入集。

○正徳5年(1715)素堂74才。
黒露…
馬光…『芋の子』玉全編。入集。

○享保1年(1716)素堂逝去。

○享保2年(1717)素堂没後。
黒露…(雁山)『通天橋』雁山編。
馬光…(素丸)『通天橋』入集。『百寿草』沾徳編。入集。

○享保3年(1718)
黒露…『成九十三回忌』朝叟編。入集。
馬光…

○享保4年(1719)
黒露…上洛する。『阿女』祇空編。『花月六百韻』入集。
馬光…(素丸)『花林燭』文露編。入集。

○享保5年(1720)
黒露…(雁山)『やすらい花』祇空編。入集。
馬光…(素丸)「沾徳点俳諧帖」椿子舎興行。入集

○享保7年(1722)
黒露…(雁山)『今の月日』潭北編。入集。
馬光…(素丸)『その影』(素堂七回忌追善)素丸編。

○享保8年(1723)
黒露…(雁山)『晋子(其角)十七回忌』淡々主催。『俳諧ふた昔』一漁編。入集。
   『ひろ葉』捨翠編。入集。『そのはしら』貞佐編。入集。『月の鶴』湖十編。入集。
   『野あかり』雨橘編。入集。『百千万』雁山編。『嵐雪十七回忌集』百里編。入集。

馬光…(素丸)『その影』素丸編。『晋子(其角)十七回忌』淡々主催。『俳諧ふた昔』
   一漁編。入集。『ひろ葉』捨翠編。入集。『そのはしら』貞佐編。入集。
   『秋風七回忌』文露編。入集。『百千万』雁山編。入集。

○享保9年(1724)
黒露…(雁山)『長水吟行百韻』長水編。入集。
馬光…(素丸 『ふたもとの花』露月編。入集。『五重軒月次』・『染ちらし』露月編。
   入集。

○享保10年(1725)
黒露…(雁山)『百千万』沾州編。
馬光…(素丸)

○享保11年(1726)
黒露…(雁山)『代々蚕』歌仙。貞佐編。入集。
馬光…(素丸)『俳諧春の水』千魚編。入集。『代々蚕』歌仙。貞佐編。入集。
   『白字録下』沾州編。

○享保12年(1727)
黒露…(雁山)『閏の梅』露月編。入集。
馬光…(素丸)『俳諧宮遷表』露月編。入集。
(『とくとくの句合』百里跋。素堂十三回忌追善集か。

○享保14年(1729)
黒露…(雁山)『花坦籠』歌仙、常陽編。入集。
馬光…(素丸)『花坦籠』歌仙、常陽編。入集。

○享保15年(1730)
黒露…六月駿河宇津山に雁山の墓(現存)を建てる。これ以後、黒露と称す。
馬光…

○享保16年(1731)
黒露…
馬光…(素丸)『五色墨』風葉(宗端)編。入集。

○享保18年(1733)
黒露…
馬光…(素丸)『百番句合』宗端編。敬雨跋。入集。

○享保19年(1734)
黒露…伊勢の乙由を尋ねる。
馬光…(素丸)『紀行俳諧二十歌仙』淡々編。入集。『俳諧二十集』露月編。入集。

○享保20年(1735)
黒露…(黒露)『とくとくの句合』祇空編。五人組歌仙二巻付。(歌仙は前年のもの)
馬光…(素丸)『とくとくの句合』祇空編。五人組歌仙二巻付。(歌仙は前年のもの)
   『次の月』歌仙。和橋編。入集。『大和記事』歌仙。講古編。入集。

○元文元年(1736)
黒露…(黒露)甲斐、稲中庵で宗端と興行。『燈火三吟』黒露編。
  …甲斐より江戸に戻る。
馬光…(素丸)甲斐、稲中庵で宗端と興行。『燈火三吟』黒露編。入集。
   『霜なし月』歌仙。桃里編。入集。

○元文2年(1737)
黒露…(黒露)『有渡日記』黒露編。
馬光…(馬光)『有渡日記』馬光跋。歳旦に立机する。『島山紀行』百韻。岑水編。入集。

○元文4年(1738)
黒露…(黒露)『するが百韻』黒露編。
馬光…(馬光)『跡の錦』歌仙。入集。

○元文5年(1739)
黒露…(黒露)『すずり沢紀行』黒露編。付興行。
馬光…(馬光・白芹)『すずり沢紀行』黒露編。付興行。入集。

○寛保3年(1743)
黒露…(黒露)『芭蕉林』朶雲編。馬光主催。黒露序。
馬光…(白芹)『芭蕉林』朶雲編。馬光主催。黒露序。

○延享元年(1744)
黒露…(黒露)『老山集』黒露編。宗端との両吟。
馬光…(白芹)『老山集』黒露編。発句の号に白芹・馬光。

○延享3年(1746)
黒露…(黒露)『寝言』黒露編。
馬光…(馬光)『寝言』黒露編。入集。『三十二番句合』柳里恭編。馬光判詞。

○延享4年(1747)
黒露…(黒露)『いつも正月』黒露編。
馬光…(馬光)

○寛延元年(1748)
黒露…(黒露)
馬光…(馬光)『戊辰試豪』馬光編。

○寛延2年(1749)
黒露…(黒露)『素堂三十三回忌』黒露編。『職人尽俳諧集』寥和編。入集。
馬光…(馬光)『素堂三十三回忌』黒露編。入集。

○寛延4年(1751)
黒露…(黒露)『つゆ六歌仙』大梅編。独吟歌仙。
馬光…(馬光)5月1日没。68才。

○宝暦2年(1752)
黒露…(黒露)『睦百韻』佐々木来雪編。黒露小序。馬光追善『松のひびき』黒露編。

 以上、大まかな対照表を作成してみたが、馬光を筆頭とする葛飾派の動きは黒露の動とほぼ一致することが理解できる。やはり葛飾派としては黒露が素堂社中の筆頭人との認識を持っていたようである。黒露や馬光にしても番年の素堂の影響を強く受けており、其角・嵐雪・沾徳など素堂の指導や影響を受けた俳人の周辺に在ったと考えられ、黒露は馬光の没する寛延4年までは付かず離れずの状態にあったと思われる。黒露の作風は享保期の十年(1725)近い間に、俗に云う支麦派という伊勢美濃系の影響を受けていることは、諸氏の指摘されているところであり、馬光も五色墨運動の後徐々に影響されていったように思われる。
 また宗端らと沾州の争いに馬光らが巻き込まれたかは不明であるが、享保19年(1735)の沾州編『俳諧友あぐら』に素丸名で取られていて、素丸は両派の争いの当て馬にされたようである。
 黒露は立机したのかは不明であるが、馬光は元文元年(1736)の桃里歌仙『雪なし月』では素丸であり、同年8月の黒露編『燈下三吟』の歌仙で麦阿と共に馬光が三吟を巻いているから、この年の辺りで立机しているのであろう。因に麦阿は長水の事で享保18年(1733)に麦林門に入った。馬光の『歳旦帖』は「元文二丁巳歳旦」が初出。次いで延享2年(1745)に門人の白芹に絢堂素丸名を譲り、同四年(1747)致任して剃髪し泥山と号した。ついでながら前掲の対照表に寛保2年(1742)の珪淋追善『蓮社燈』(晩牛編)、寛延元年(1741)の珪淋追善『万燈供』(番牛偏)・延享元年(1744)の宗端追善『翌(あした)たのむ』に出句しているが、寛保2年(1742)の柳居(麦阿)追善『扶桑三景集』には名が見えず、この頃から柳居門との交流が跡絶えたのではないだろうか。
 余談ではあるが、葛飾派には二つの秘書(伝書)があると云い、馬光に伝えられた『俳諧大意弁』(享保16年書写)と二世素丸の『乞食袋』(延享3年成)が存在していた。

8、素堂と黒露

 前にも触れたが黒露は素堂の一族に属する人であるが、これといった資料が見当たらないが、散見する諸書から推察を試みてみることにする。諸書の記載には、「甥」・「姪」『通天橋』の後文では「ふたたび舅氏にあふ…」、『摩訶十五夜』でも「舅氏・亜父」、との記述が在る。これらの用例からすると黒露は、素堂の姉妹の子、素堂の母方の「おじ」いうことになる。なお古文書に記述される血筋、血統での文字の用例は実に厳密である。
 …甥…(そう・おい)をひ、姉妹の子。或いはむこ(娘の夫)。妻の兄弟姉妹の夫。外孫にもつかう。
 …姪…(てつ・をひ)兄弟の生んだ男子。めひ…兄弟の生んだ女子。妻の兄弟の子。
 …舅…(をぢ・しゅうと)母の兄弟。
 …舅氏…(きふし・をじ)伯父・叔父。
 …舅甥…(きふさう)母方の「をぢ」と「をひ」。
 …亜父…(あふ)尊敬語。おやじさん。父につぐとの義。
 以上の用例から推察すると、黒露は素堂の妹の子として生まれたが、事情があって後に素堂の所に元禄の終わり頃に引き取られた。黒露の生年は没年から逆算して貞享3年(1686)である。素堂の親族については別に記してあるが、『甲斐国志』の素道の項に記載されている甲府府中魚町四丁目の山口屋は素堂とは関係が見出すことができない。 『連俳睦百韻』の寺町百庵の序に「雁山の親は友哲、家僕を取り立て山口氏を遣し、山口太郎右衛門、その子雁山なり。後に浅草蔵前米屋云々」とある。家僕とは身分制度の確立していた頃は、「一家をなしていない者」・「独立していない者」などは家僕と記される事もある。素堂親族の寺町百庵や山口黒露は放蕩生活も長く、素堂もその扱いには苦労したようである(この項は別述)

9、寺町百庵

 寺町百庵は素堂の一族の出身であると『俳文学大辞典』などにも記載がある。百庵は元禄八年(1695)の生まれである。百庵の考証は中野三敏氏の「寺町百庵の前半生、享保の俳諧」に譲り、諸書に紹介されている略歴を記すと、姓は寺町名は三知(智)また友三 、幕府御茶坊主で御坊主組頭を務め俸禄百俵二人扶持で、矢の倉に住んでいたが百庵の号のごとく住所を転々としたとする書もある。俳諧や和歌それに故実に精通して道阿・梅仁斎・不二山人・己百庵・新柳亭など号した。唇子言満の狂名や越智百庵とも称した。寛保元年(1741)冬、過ちがあって転役となり、翌春より時守を勤め後小普請入り、宝暦六年(1756)致任して買閑の身となった。俳諧は二世青峨門と云うが、一世青峨門とも素堂門とも云う。儒者の成島道筑と交わり、権門富豪の取り巻きも努めた。殊に紀伊国屋文左衛門の幇間俳人の一人として、吉原での小粒金の豆撒きをした折の。撒き手の一人だった話は有名であるが、年代が合わないとも思える。後の住処は石町の鐘楼に隣接していたとか伝わるが、浅草待乳山に草庵を構えて、不二山人と号した。
 御坊主組頭を努めただけあって故実考証に造詣が深く、連歌師、歌学者でもあったが、一説には転役の原因を幕府連歌方への運動工作にあったという。著書も多く『花葉集』・『梅花林叢漫談』・『林叢余談』・『楓考』・『蕨微考』・『花月弁』・『芭蕉考』などがある。その他の話題も多いがここでは省く。天明六年(1786)2月27日に没した92才の長寿であった。素堂の家系についても『連俳睦百韻』の序文中で『甲斐国志』とはかけ離れた記載内容を述べている。後世の研究者は都合よく両書を継ぎ合わせて素堂の生涯にして「素堂誤伝」を生み出しているが、両書の記載内容は全く異質であり、結びつかない内容である。
 ここで素堂の後継者についての記述のある、百庵の『毫の秋』を見る。この書は百庵の愛児一周忌の追善集で四十二才の時であり、序文中で自分の生い立ちを語っている。百庵の父は三貞といって、幕府に勤めていた。この『毫の秋』に寄せた素堂嫡孫山口素安の文がある。百庵にとっても素堂にとっても重要な文である。

『毫の秋』 素堂嫡孫 山口素安の文

 執文朝が愛子失にし歎き、我もおなじかなしみの袂を湿す。まことや往し年九月十日吾祖父素堂亭に一宴を

催しける頃、
よめ菜の中に残る菊
 といひしは嵐雪の句なり。猶此亡日におなじきを、思ひよせて、
十日の菊よめ菜もとらず哀也
 かくて仏前の焼香するの序、秋月素堂が位牌を拝す。百庵もとり素堂が一族にして誹道に志厚し、我又誹に

うとければ、祖父が名廃れなむ事を惜み、此名を以て百庵へ贈らむと思ふにぞ、かゝるうきが中にも、道を

よみするの風流、みのがさの晴間なくたゞちにうけがひぬ。よって素堂世に用る所の押印を添えて、享保乙

卯の秋九月十一日に、素堂の名を己百庵へあたへぬ。    山口素安

 俳号百庵の初出は今のところ享保15年(1730)午寂編『太郎河』で其角系を主に沾徳・調和系の俳人十六人の独吟歌仙集で、里村家連歌師の丈裳も入っている。午寂は人見元治・又八郎といい、其角門である。儒学者で医師、幕府に出仕する。素堂と親しかった人見竹洞の一族の人見必大の子である。次いで享保19年の前出の『たつのうら』と同年4月刊行の百庵他編『今八百韻』で、百庵や青峨等との四吟ほか、江戸新風を目指したもの。元文元年の『毫の秋』に露月の『跡の錦』、寛保3年の二世湖十の『ふるすだれ』宝暦6年(1756)6月の栄峨編『心のしおり』などが知られている。『心のしおり』には松江。新発田諸侯や江戸座の俳家に柏筵ら役者が参加している。

10、黒露(雁山)と百庵

 其角と嵐雪が死んだ宝永4年(1707)、雁山は22才、百庵は13才。素堂はこの時期元禄16年末の地震火事で焼け出され、宝永元年に深川六間掘の続き地に家の建築願いを出して上洛の旅に出て、京都で越年して宝永2年5月末に江戸に帰った。江戸の家を守っていたのは子光か僕伝九郎、それに雁山であったのであろうか。
 宝永4年春、素堂は上京して『東海道記行』を著した。このために其角の病死に会えず、追善にも出席できなかった。その年の10月の嵐雪没には間に合って、雷堂百里の嵐雪追悼集『風の上』に序文を載せた。次いで九月末頃に雁山を伴って浅草へ、鈴木三左衛門の勧進興行を見物(『摩訶十五夜』)に出かけている。雁山は6月越後の人志村無倫編の『紫竹杖』(江戸俳友よりの送句)に入集している。
 雁山が俳諧に手を染めはじめたの頃の素堂の周辺には、其角・嵐雪・桃隣・沾徳らとその一門が大半を占めていた。雁山の言によれば、素堂は様々な指導をしていたが、雁山は嵐雪の生前に彼の所え出入りしていたらしい。後に其角門の人たちと親しく交流しているから、其角・嵐雪周辺の俳人と思える。
 百庵は素堂門とも言われるが、どの辺りにいたのであろうか。結婚するまでの30才頃まで放蕩生活に浸っていた。つまり享保12年(1727)くらいまで遊び呆けていた
という。『連俳睦百韻』の序文の中に、水間沾徳・佐久間長水の事が引き合いに出てくる。
沾徳は享保11年(1726)に没して、その追悼集『白字録』(沾州・長水等編)を撰した事が記されている。この年百庵32才、翌年は子供の安明が生まれ、享保15年には其角門の午寂による『太郎河』(8月刊)に百庵として登場する。この集は其角系統を主に沾徳、調和系の俳人で構成された集で、百庵36才の時である。各書に見られる俳号の由来は、これ以前に成されたものと考えられる。周辺では享保12年には高野百里や素堂の序文(『一字幽蘭集』)を写した書道家佐々木文山などが没している。享保19年には豪商紀伊国屋文左衛門が没して、馬場美濃守信房を祖という馬場存義が立机している。

11、紀伊国屋文左衛門と寺町百庵

 文左衛門は寛文9年(1669)の生まれ、姓は五十嵐、初めは文吉のち文平。紀伊熊野の産で、若くして江戸に出て商いを学び、材木商を営みながら、紀伊国の物産を江戸で捌いたという。元禄の初め頃、其角に俳諧を学び俳号千山と云う。(千山を号する同時代の俳人がいた)書は佐々木文山の兄玄龍に習った能書家でもある。江戸と云う土地での商売柄、幕府の要人に取り入るために、吉原と云う廓を舞台に派手な遊びを繰り広げ、特に奈良茂と云う豪商に張り合う為にはかなり苦労したらしい。その一つが吉原揚町での小粒蒔きの逸話があり、奈良茂の接待交渉を妨害したという。
 紀文が吉原を積極的に利用し、商売のための社交場とし始めたのは元禄の初期からで、殊に幕府勘定方萩原重秀や将軍側用人柳沢保明(後の吉保)など、幕府要人との接触にあった。為に二回の吉原惣仕廻しをしての豪遊が伝えられ、取り巻き連中は其角をはじめ、交際の広い其角から多賀朝湖(英一蝶)や佐々木文山らと知り合い、同業の栂屋善六などがいた。また元禄6年には其角の手引きで芭蕉にも紹介され、翌7年の難波畦止亭での芭蕉最後の句会にも一座した。
 紀文が吉原で豪遊したのは宝永五年(1708)頃までのようで、翌6年は店仕舞いと旅行に出ているところから年初くらいまでとみられる。後に享保年間の出来事として語られているのは後の人の仮託した噺である。百庵が紀文の豪遊に参加したり小粒蒔きを買って出たとする噺も、この年、百庵は数えのやっと14才である。紀文の豪遊と百庵の放蕩が結びついた噺でないだろうか。

12、百庵の周辺

 次いで青峨門について見ると、初代青峨は和田東湖門で、東湖は元禄2年(1689)頃に嵐雪に師事し、同6年(1693)万句興行をして立机した。青峨は東湖の没後に沾徳門に移り、享保16年に没した。享保2年の素堂追善『通天橋』に一座の青峨はこの人である。二世青峨は黙斎で前田氏、はじめ刃梁といい、二柳庵。元禄11年の生まれで宝暦9年没62才、(延享3年没とも)。馬場存義は二世青峨門ではじめ泰里といい、享保19年に立机。古来庵・西門と号した。岡田米仲も二世青峨門。沖巣・八楽庵と号し、享保20年に米仲と改めた。(明和3年没とも)この米仲は享保19年に百庵と組んで青峨・超波の四吟八百韻を行ない、江戸新風を目示して4月に『今八百韻』(百庵等編)を刊行した。この年の『たつのうら』が刊行され百庵も入集している。以上簡単に述べたこの門は嵐雪・其角・沾徳系の一門であって、百庵と近かったと思われる高野百里は(雷堂)は嵐雪門であった。
 先にも少し触れたが百庵の愛息が9才という若さ幼逝した。賢くこの息子をこよなく愛していた百庵の落胆ぶりは大きく、翌年元文元年(1736)の一周忌に際して追善集『毫の秋』を編んで仏前に供えたのである。この集に寄せた追悼句は沾徳・其角・嵐雪系俳人に、祇空系俳人や葛飾門の馬光、調和門や歌舞伎役者、上方の仙鶴(沾徳門)・早野巴人(其角門)歌仙は江戸座俳人を中心にしたものであり、後序を平砂が担当するといった、俳壇の名流を網羅した集であった。この時点で百庵は越堂、己百庵と号していた。

12、雁山

 雁山はこの時期江戸を離れていて所在不明であり、当然この集に参加していない。雁山は享保2年の追善興行の後、翌3年沾徳主催の玉泉軒成九追善集『成九十三回忌』(仮題朝叟編)に参加した。この興行に柳居が椿子として参加している。翌4年には上京して京都紫野に祇空(敬雨)を訪ね、松木淡々とも交わった。雁山は幼少の頃から上京していて素堂の没年の享保元年にも春までは京都に居たことは『通天橋』の記述で判明でき、雁山は以前からしばしば往来していたようである。享保4年には祇空編『阿女』・白鶴編、敬雨序の『花月六百韻』に参加して、享保5年3月、祇空(敬雨)や淡々の後援を得て、京都紫野今宮神社の鎮花祭『やすらい『を編じ、江戸に向かった。この『やすらい』は江戸で刊行されたが、翌7年までの動向は不詳である。享保7年(1722)は潭北の『今の月日』に顔を出すが、素丸(馬光)編の素堂七回忌『その影』には出なかったらしい。江戸での俳諧活動は翌8年が活発になされている。尚『やすらい』の自序に「台隣居雁山」の署名がある。8年の動向は先に示してあるが改めて提示する。

黒露

(雁山)『晋子(其角)十七回忌』淡々主催。『俳諧ふた昔』一漁編。入集。
『ひろ葉』捨翠編。入集。『そのはしら』貞佐編。入集。『月の鶴』湖十編。入集。
『野あかり』雨橘編。入集。『百千万』雁山編。『嵐雪十七回忌集』百里編。入集。

《参考》
馬光

(素丸)『その影』素丸編。『晋子(其角)十七回忌』淡々主催。『俳諧ふた昔』
一漁編。入集。『ひろ葉』捨翠編。入集。『そのはしら』貞佐編。入集。
『秋風七回忌』文露編。入集。『百千万』雁山編。入集。
 さて、この雁山のことを、百庵が『連俳睦百韻』の序文でいう、商家の「ある方へ聟に遣し、其後放蕩不覊にて業産を破り、江戸を退き……」はいつ頃になろうか。

『通天橋』悼文を読むと、雁山は素堂の身辺の世話はしていなかったようである。『摩訶十五夜』では、
世に言伝ふ、恩を仇にて報ニハ、今一個の身の上にセめ来れり。清名をけがす事 あまた度なれど、生涯露ほども腹だち給ふ機をだに不見、吾舅氏ながら実に温(略)


これによると、こうした雁山の行為は素堂の生前中のことであり、素堂は「些かも叱らなかった」というのである。聟先の米

屋の家産を傾けたり、放蕩生活の尻拭いを始め、雁山の行為の全ての責任を素堂が負っていたと思われる。素堂は身持ちの定まらない雁山を猶子として身近に置いて、修業をさせていたのではなかろうか。『通天橋』の記述では雁山は常に素堂の周辺に居たのではなくて、その修業の地を素堂の助言で京都に求め、それは素堂が頻繁に京都を訪れている一因とも考えられる。雁山は素堂没後しばらくして、江戸を離れ行脚にでた。自らの愚かな行為を反省し、素堂の生前の諫めを胸に秘めての自己研鑽の修業の旅立ちであったのではなかろうか。
 享保9年(1724)年の雁山の動向は、長水編の『長水興行百韻』に一座、同10年には貞佐の伊勢参宮外の旅行記念の集『代々訶蚕』に送句、11年5月には沾徳が没し、門人沾州・長水らの追悼集『白字集』に参加し、同12年露月ほか編の『閏の梅』(絵本『ことしの花』)に入集した。この年雷堂百里跋による『とくとくの句合』(素堂著)が刊行された。百里はこの集の跋を草して後5月に没している。この集を編んだ切っ掛けは素堂十三回忌追善であろうと思われる。

13、雁山、黒露となる。

 この辺りの雁山の去就は不明な点が多く、江戸を出て再び現れるまでの十年間、流浪の旅に出るが、元文元年(1736)八月の末に、江戸へ帰って麦阿(長水、後の柳居)の前に現れたのである。そして、麦阿・馬光・雁山改め黒露の三人による『燈下三吟』を催した。その序文を草した麦阿は、

 鳥とりのかつしかあたりに、あいしれる法師の有けるが、十とせばかりさきならん,
 さだかには覚えず。捨の月みむとて、虚をふりすてゝ去しに、そのゝちはいなばのそよりとも、音信をもせず。もし行先に死。もやうせけん、雲水の身のはかなさよと、立出ける日を思ひ出ては、回向をもし侍りしが、ことしの葉月の末ならん、久しき顔をも++++て来たれり。俤はさのみ昔にかはらねと、翠の眉の中に、白き毛一すじ二筋ほのかにみえたるは、殊勝にもいとあはれなり。偖いかがして有けるぞと問ふに、かな山月を望しよりそぞろあるき、神のいざなひにて越路の雪にさまよひ、あるはよのゝ花も聞たり。淀のわたりのほとゝぎすも見たりと、あちらこちらとりまじへての物語に、東++++家の叟も入来りて三吟を催ん。

14、雁山、江戸を出る。

 雁山が江戸を出たのは前述のように享保12・3年頃で「業産を破り、江戸を退き、遠国に漂白し」(『連俳睦百韻』)『翁ははじめ郷に在るときは富みかつ賤しからず、一旦没落して部江を去る」(『黒露追善集『留守の琴』安永四年編)のである。雁山は麦阿が『燈下三吟』でいう「姥捨の月見」が目的で江戸を後にした。知友への音信不通であったはずの雁山は享保14年の常陽編『花胆籠』歌仙に風葉(宗端)・素丸(馬光)らと一座している。雁山は、享保15年6月、駿河の宇津山に雁山の墓を建て(村上龍昇氏「山口黒露の研究再考 駿河38」)黒露と改名した。改名の要因を推測すると、伯父素堂に対する不義理に悩み、俳号雁山が常に重くのしかかり、素堂の一周忌以後、おのれの進む道模索する中で、ようやく俳諧師として覚悟が定まり、故事に準えて宇津山に俳号雁山への決別の証の墓を建てたと考えられる。その後の黒露の足跡は享保21年(1736)春の宗端の甲斐入りまで不明である。改元して元文元年の八月の末に江戸の麦阿を訪れ、前掲の『燈下三吟』を催したのである。
 黒露の江戸出立つを思い留まらせなかった長水・素丸・風葉(宗端)等は、翌十六年、京都より東下した祇空(敬雨)の応援を得て、芭蕉俳諧の復興の運動「五色墨」を行なって気勢をあげた。一方の百庵は黒露の去った後を埋めるが如く前述のように、其角門の午寂編『太郎河』(享保15年)に登場し、嵐雪・沾徳系の青峨門と親しみ、享保19年4月に「五色墨」に対抗するように『今八百韻』を発表し江戸新風を誇示した。

《参考》『みをつくし』黒露追善集。
………山口黒露は其むかし享保の中頃、雁の山越える秋、甲斐が根にわたり、此地に仮の庵を結びてら不二の詠めに倦ず、烟も立ぬ塩の山、友呼かはす千鳥もなき、さし出の磯の淋しみを喜びて、星霜を重しは誠に風雅の道人也。(略)

《参考》『冷標集』序、鉾杉坊撰
………前略、爰に稲中庵の法師は享保の末、甲斐がねの夕日、富嶺の北むき南ともしろがりて、東都より来たりて遊ぶこと、茲に年ありし也。されや此人あまさかるひなにありは、木地の炉ふちに白梅を感じ、子規に幾代をふかし、萩の路ぢに秋を寂しがり、落ち葉の声を時雨と疑ふ、燈の下にはひとり源語の幽玄を愛し、あるは箏を弾じて雲井のふかきを好み、誠に風流のしれもの、(中略)翁また貧道を頼み、ものし給ふげにや……(後略)

 と記述する。つまり享保の末頃に甲斐に入り、府中に庵を構えたことが分かる。旧知の宗端が甲州入りしたのが享保21年春、そこには府中で稲中庵を結んでいた黒露がいた。
ここで久々の句会を催した。(『甲山紀行』・『燈下三吟』)享保21年改めて元文元年秋、宗端から江戸の消息を知ったのであろうか。黒露は江戸に出て麦阿の居に到って、前述の通り『燈下三吟』を催した。この集には伊勢の乙由の入集が見られる。宝暦10年刊(1760)の『秋の七草』に「麦林舎にまかりて…かく有るしも25年前の古ル事」とある。厳密に25年前とすると元文2年と云うことになるが、『燈下三吟』から見れば甲斐府中に落ち着く前の事と考えられる。さらに厳密にみると『燈下三吟』には、江戸へ行く黒露の送別をする俳友門人等の歌仙や送別吟が含まれている。諾自・魚道・臥雲・吾桐らの顔触れから見ると、『通天橋』以来の甲州俳友らの顔が見え、黒露はすでに甲斐府中に於いて宗匠として定着していたと考えられる。これからすると黒露の麦林舎訪問は享保19年(1734)前後と推察できる。

15、黒露と駿河

 黒露は駿河にしても、甲斐府中定着以前の享保5年の京都よりの東下時以降に、深い繋がりが出来あがったものである。恐らく駿河の稲中庵は有渡山に近い三保の磯辺に構えたものではないだろうか。これは元文5年(1741)に入ってからのものと推察される。
 元文5年『すゞり沢』紀行の冒頭に、「二月中嶺南の稲中庵を出るとて」、「嶺北の草庵をたつ日、我いなば琴はひとりやすみれ草」、『すゞり沢』付録の「東行脚より武陵にもどりし頃」の中で寥和が「黒露叟は甲斐の国に庵を結び、又ある時はさかしき道を這て駿陽に出、三保を門飾に詠て春を迎へ……(略)」。駿河の門人雁州が「(略)かつしかの故園に遊び、嶺南の居に長途行脚の草鞋をとかゝるは長月の八日の比なるべし。……」

16、甲斐の黒露

 甲斐に於ける黒露の住まいは『みをつくし』に『老師久圧煩劇、結廬于府之緑巷」あり、『留守の琴』に「我いなば琴はひとりや菫草 須磨屋 黒露」。甲斐の稲中庵は府中の緑町に有った。『みをつくし』の撰集を手がけた久住は「露叟の扉は府の柳町といふにつゞきし緑町と申所なり。むかし素堂も此所にしばし仮居せられしとなん」とある。素堂が甲斐に来たのは元禄8年の夏のことである。その折の府中の宿は妻方の親の野田氏宅であり、府中の町外れに泊まる必要はみえない。ここで黒露の江戸再登場以後を年譜風にしてみる。

○元文元年(1736)晩秋。『燈下三吟』麦阿序。黒露・麦阿・馬光三吟。珪琳両吟。
○元文2年(1737)4月〜9月『有渡日記』馬光序。10月より甲斐に向かう。
○元文4年(1739)夏刊。『駿河百韻』
○元文5年(1740)『すずり沢紀行』。2月駿河を立って身延を経て甲府へ、江戸か
らきさ潟へ行き、再び江戸に帰着し駿河帰庵まで。
○寛保2年(1742)『酒折百句』未詳。
○寛保3年(1743)『芭蕉林』馬光主催。芭蕉翁五十回忌追善。黒露序。
○延享元年(1744)『老山集』夏刊。宗端との両吟。江戸在住。
○延享2年(1745)『俳諧職人尽集』寥和編。馬光序。
○延享3年(1746)『寝言』江戸在住。
○延享4年(1747)『いつも正月』春刊。江戸在住。
○寛延2年(1749)『俳諧職人尽集後編』寥和編。黒露序。素堂三十三回忌追善(未)
○寛延4年(1751)『つゆ六かせん』大梅編。黒露らの6人の独吟歌仙。
○宝暦2年(1752)『睦百韻』春刊。佐々木来雪編。黒露叙。二世来雪襲名記念集。
○宝暦3年(1753)『こふくべ』9月刊。8月甲駿行脚。8月、黒露は6年ぶりに甲
斐を訪れる。
○宝暦4年(1754)『甲陽廿歌仙』上下二巻。5月〜8月まで甲斐俳諧興行。
○宝暦6年(1756)『さいたん』正月刊。
○宝暦7年(1757)『住吉文集』上下二刊。七月刊。
○宝暦8年(1758)『甲斐さいたん』春刊。
○宝暦12年(1762)『壬午旦牒』正月刊。(稲中庵車中)『秋の七草』上中下三巻、
7月刊。黒露喜寿記念集。百庵参加。
○宝暦14年(1764)『申歳旦』
○明和2年(1765)『摩訶十五夜』素堂五十回忌追善集、三十三回忌合併集。百庵序。
『甲相二百韻』刊。
○明和4年(1767)『すねぶり』3月刊。綉葉編。竹阿・二世素丸序。黒露入集。
『田舎集』上下巻。黒露、最後の撰集。

 百庵の『連俳睦百韻』の序文には、従兄弟同士でもある百庵と黒露の交流はほとんど無かったかに見えるが、以外と密接な関係を保っていたように思われる。黒露も百庵も其角・嵐雪・沾徳系の江戸座俳人の周辺にいたわけで、ともに点取り俳諧よりの脱却を目指した。黒露は俳系を問わず交流し、百庵は主に江戸座中心に交流して、素堂や芭蕉を目指して活動してしたのである。

17、百庵の位置

 百庵は蔵前派・葛飾派と交流し友好を保っていたされるが、果たしていかな位置にあったのであろうか。残されている少ない資料から探ってみる。
○元文元年(1736)『毫の秋』愛児一周忌追善集。
 作者は江戸座宗匠を中心に歌舞伎役者まで広く含まれている。先にも述べたようにこの集に寄せた素堂嫡孫山口素安が「二世素堂号を百庵に与えた」とある。これを百庵は「ただちにうけがひぬ」とある。しかし後年の『連俳睦百韻』序では「恐れあれば名乗らず。
此趣は予が撰る『葦の秋』(未見)と云ふ撰集の中に記す」とあり、何か葛藤が有ったようである。
○元文4年(1739)『跡の錦』露月編。宗端・馬光・露邑・珪琳らの歌仙に参加。
○寛保元年(1741)冬、御連歌御連衆を願い「あやまつ事侍て勤所を転ぜられ、時の鼓の高楼を守べきよし」(『林叢余談』)
○寛保2年(1742)寛保二年三月十三日時守の身と成て十五年、歌連俳事繁ければも
らしつ」とある。組頭から時守に降格させられてから歌連俳事に励んだと述べる。
○寛保3年(1743)十月、『ふるすだれ』湖十編。歌仙に一座。
○宝暦6年(1756)買閑の身となる。(小普請入り)6月『心のしおり』栄峨編。
○宝暦7年(1757)『華葉集』(『花葉集』)百庵編著。全五巻。この著の中に偽書とされる素堂著の『松の奥』に関する記載がある。
○宝暦年間(1751〜63)『俳家奇人談』(玄々一著、文化13年刊)の越谷吾山の項に「ある時、百庵が吾山の室町の庵に遊女を引き連れ食客となる。時守となりて十五年歌連俳事かるゆえ云々」とある、吾山は江戸室町の庵号を師竹庵と云い、明和元年、江戸馬喰町に移り古馗庵を結び宗匠となった。これからすると百庵が買閑の身となったのは宝暦6年以前のことと思われる。
○宝暦12年(1763)『秋の七草』黒露編。黒露喜寿の賀集。
○明和2年(1765)『摩訶十五夜』黒露編著。素堂五十回忌追善。百庵序。
○明和8年(1771)『梅花林叢漫談』刊行。西行法師の研究。
○安永3年(1774)『林叢余談』(明和九年春正月奥書)。詩歌連歌の論書。中で芭蕉の『奥の細道』の句に触れ、西行の遊行「柳の歌」について画題詠であるのを、芭蕉が現地詠と誤解しての詠であると指摘する。しかも沾徳評の後「今おもうふに(中略)余まだしき頃なれば論に能はず、芭蕉も沾徳も今世にあらば余がよき遊敵ならんと思ふ物を」と豪語している。

○安永8年(1779)『連俳睦百韻』三世素堂編。百庵序。《素堂の家系の箇所》
 抑々素堂の鼻祖を尋るに、その始め、蒲生氏郷の家臣山口勘助良侫(後呼ぶ侫翁)町屋に下る、山口素仙堂太郎兵衛信章、俳名来雪、その後素仙堂の「仙」の字を省き素堂と呼ぶ。その弟に世を譲り、後の多里太郎兵衛、後保井法体して友哲と云う。後桑村三右衛門に売り渡し侘家に及ぶ。その弟三男山口才助訥言林家の門人、尾州摂津侯の儒臣。その子清助素安、兄弟数多くあり、皆な死す。その末子幸之助、侘名片岡氏を続く。
 雁山の親は友哲、家僕を取立て、山口氏を遣し山口太郎右衛門、その子雁山也。後ち浅草蔵前米屋笠原半平子分にして、亀井町小家のある方へ婿に遣し、その後放蕩不覊にて業産を破り、江戸を退き、遠国に漂泊し黒露と改め俳諧を業とし、八十にして終わる。
 蓋、古素堂翁和漢の方士、芭蕉翁に象る叟にあらず。□然此の叟詩歌を弄び茶事を好
む。乱□その余多芸、俳諧の妙手なるといへども、俳諧のみにあらず。門弟子をとらず、誠に絶者なりけらし。

 最後に百庵の事蹟について多少触れておく。その著書には『楓考』・『蕨微考』・『花月弁』・『芭蕉考』などいずれも晩年に近い時期の論書である。和歌は『林叢余談』に見えるが如く、冷泉為久・為村門、茶道は伊佐琢門。先述したが百庵は故実考証や本草学に詳しく、観世流謡の更訂も行ない、歌連俳の考証論者でもある。
 引用すべき書が少なくこの著が必ずしも素堂没後の素堂周辺俳諧人の全てを明らかにしたものではない。甲斐俳人の動向については池原錬昌先生や故人になられた清水茂夫先生の著がある。ただ清水先生は研究論文が多く刊行書は見えないので、多くの人に知られる機会も少ない。先生の論文は『山梨大学研究紀要』に多くは所収されているので是非ご一読下さい。

18、素堂の一族

 素堂の家譜は『連俳睦百韻』と『甲斐国志』以外には伝わらない。この両書とても不十分な記述であり、他の俳諧系譜の家譜に関する記述は『甲斐国志』をもとにしているものが多く見られ、それに正確さを求めることはできない。また予断ではあるが、『甲斐国志』が独自に記載している『甲斐府中、濁川改浚工事』関与の記事は誤伝で『甲斐国志』編纂者の創作である。どうしてこのような過ちを犯してしまったのであろうか。
 さてこの章の本題である素堂の家譜により一族のことについて述べてみたい。

 江戸期までの系図を見ると、身分のある家や特別の事柄がないと、一般の女性の名は記載されていない。単に「室」「女」「女子」とのみ記されるだけで、武家の系図に見られるように「何々家に嫁す」は良い方で、殆ど記載されることはない。また系譜は過去に遡って記載されるのが殆どであり、代々書き綴られる場合は少ないと思われる。江戸時代初期の寛永18年(1641)、幕府による『寛永諸家系図』の編纂が為されて以降に、贋系図作りが横行し、享保期(1716〜35)には最も流行する。これに手を焼いた幕府はたびたび禁令を発したが容易には止まらなかった。幕府は元禄から享保にかけては、妄りに先祖のことを掲載することを禁じた。しかしこの法令を守る者と無視する者や贋作を続行する者などが入り乱れて系譜は混乱する結果となった。

 こうした背景の中で素堂の家譜を見ることにするが、『連俳睦百韻』は安永8年(1779)『甲斐国志』は文化11年(1814)の刊である。素堂の生涯の一部について触れている享保2年(1717)の『通天橋』、享保6年(1721)の『素堂句集』は概念的な素堂事蹟のみの掲載で系譜につながる部分は少ない。

 まず寺町百庵についてであるが、百庵の親は寺町氏で山口素堂の親族である。寺町家は江戸幕府御坊主衆の家柄であり、父については当時の幕府の官職要覧に見える。この辺の系図について細かに見たわけでないが、寺町氏は室町末期に文化面で登場する寺町三左衛門の系譜に繋がると考えられる。素堂の山口氏も摂津の出である。『連俳睦百韻』(前述参照)によれば、蒲生氏郷の譜代の家臣と取れないが、氏郷に仕えた後町屋に下ったとする。この寺町氏と山口氏がどのように結ばれているか解明は及ばないが、百庵は素堂の直系に近い存在と考えられる。年齢的に見れば素堂の孫の部類に属する。

 次に黒露の系譜であるが『連俳睦百韻』によれば、素堂より家督を譲られた弟(友哲)が家僕を取り立て家を継がせた者の子と記してある。江戸期にあっては当主(主人)と嗣子以外の者は、例え兄弟であっても家人の扱いである。でなければ一家を纒とめて継続していくことは困難であった。恐らく素堂と弟の友哲とは腹違いの兄弟であり、黒露は外舅ともあるから、黒露の親は素堂の妻の関係者か、友哲の妹にした者の子と思われる。最も推測出来るのは野田氏との関係で、素堂の正妻野田氏の弟で素堂の妹を嫁にした者との子と考えられる。これは黒露が素堂を伯父と呼んでいる事からも推測できる。

 素堂家譜の系統順位で云うと、一位が句嫡孫山口素安、二位が百庵で三位が黒露となる。しかし、猶子でわる黒露が雁山時代に、相続放棄ともとれる行動が為され(放浪行脚)で嗣子の位置が素安に戻ったか、元々黒露は素堂の俳諧の系統を継ぐだけだったのか、何れにしても一時的に素安が門筋を預かったと考えられる。素安と黒露の関係はかなり複雑であったようである。

《『連俳睦百韻》を参考に作成した素堂家譜
 山口良助……□□□(?)…長男−山口素堂……?
 …次男−友哲(太郎兵衛)……山口黒露
 …三男−山口才助…山口清助素安…幸之助(片岡氏を継ぐ)
 …妹
 …妹

 山口素安は『連俳睦百韻』と『毫の秋』に名が見えるので間違いのないことで、また享保20年までは素堂亭も健在であったことも知ることが出来る。こうした素堂の家系は先述のように『甲斐国志』の記載する甲斐府中山口屋市右衛門の家系とは全く繋がらないもので、従って『甲斐国志』を盲信して山口素堂が甲斐の人物だとする多くの著書は再考を余儀なくされることになる。しかし素安の父儒学者才助にしても林家関係の書物に記載があるのか未見であり、究明は今後の課題である。
 黒露は江戸再登場以来、江戸・甲斐・駿河と三箇所を拠点に往来して俳諧に励み、素堂の後継者の位置を多くの俳人たちに認めさせた。素堂の生き方を求める黒露は点者宗匠には進まず、精錬と修業に徹して他の門派とも広く交流した。一方馬光の率いる葛飾派も前に述べたように黒露を素堂の後継者と一目置いていた。馬光の門人二世素丸(葛飾蕉門三世)は黒露の没後、自派勢力の拡大のために天明4年(1784)春、葛飾蕉門を称して素堂を自派の初祖とし。三世其日庵と号したのである。

19、葛飾派

 ではこの葛飾派は黒露とどのような位置関係にいたのであろうか。前出の馬光・二世素丸・竹阿らは理論的に対立するのではなく交流していた。後半の九世錦江が著した『葛飾蕉門文脈系図』と同じく嘉永3年(1850)の『葛飾正統系図』にその記載がある。

《『葛飾正統系図』》

黒露。

稲中庵。甲陽の産、素堂の姪、山口氏を称し、素堂に江府に従ひ、後桑梓に帰りて門人多し。摩訶十五夜・秋七草・連俳睦百韻を撰す。明和年中祖堂の墓碑を江府小石川厳浄院に移しその年死す。門人起早庵稲後、其門人幸松園利躬、其門人又幸松園利躬と云。八世其日庵門人となりて法券にすすむ。

宝暦、明和頃、来雪庵素堂といふものあり、連俳睦百韻 そのほか小集にその名見えたり。是また甲陽の人にて素翁の氏族也。黒露に友子の情深し。爰に略す。

《『葛飾蕉門文脈系図』》

黒露。摩訶十五夜・秋七草・連俳睦百韻等を著し、素隠士の墓碑を小石川厳浄院に営ず。按ずるに、黒露は素堂の血縁にあらず。少年より素堂に仕えて座右に教授をうけ、終りに山口氏を冒して素堂の姪と称し、其家具を受くる。是予が先哲に     聞く所、古集に考へて知る処なり。他日其証を記すべし。今爰に略す。

二世素堂。来雪庵、俳祖素堂血縁の姪なり。甲陽山口に住し、没後来雪庵二世素堂を称す。睦百韻の主たり。又葛飾の隠士を称す。宝暦二年門人曾令「ふた夜の影」を撰し、俳祖の追福となす。是が序を書す。曾令は水府の人なり。

 この両書は黒露や百庵が没してから、かなりの時間を経ての記述であるから、誤伝や間違いが多分に認められる。殊に黒露が没してからは、二世素丸の活動が活発であった。蕉門系図(上掲二書)によれば、甲斐の黒露門の門人が葛門入りしたと、勝ち誇って書いている。葛門になびかなかった俳人に対しては「葛門を慕うといへども死して又聞こえず」とする。これは九世其日庵を名乗る錦江(馬場氏)が、おのれの父八世秦々事蹟を誇示するためでもある。これは三世素堂(佐々木来雪)の著した天明七年(1787)刊の『奥の細道解』に対する無視するような著述も見逃せない。また小林一茶についての記述「文化年中葛門の法則にもとる事あるを以て白芹より賓発風交を絶す」もその一例である。
 兎にも角にも江戸の俳壇でにあって一大勢力の成っていた葛門が、自派を誇示発展するには、その頭領は理論家で無くてはならないといった傾向に有ったようである。葛門をより深く理解するためには、その事実上の祖である馬光の弟子二世素丸以下の歴代頭領の分析をする事が必要と思われる。概して葛門は一般に解説が為されているように、学者タイプの理論派であった。

20、葛飾派の俳論書

 葛飾派の馬光に伝わる俳諧書には享保十六年(1731)の馬光の門人練水書写による『俳諧大意弁』が有るが、この書が素堂から馬光に伝わったのかは不詳である。この様な俳諧論書は古くは北村季吟か芭蕉の伝授された延宝2年(1673)の『俳諧埋木』がよく知られところであるが、このような「奥伝」とか「秘伝」・「秘書」とも呼ばれる理論書は多く有り、芭蕉も門人に伝授したようにみえる。芭蕉没後に起きた蕉門内部論争はよく知られ、嵐雪と深川衆、支考と其角らの論争が有名である。素堂も仲裁に腐心したようで有る。この論争は其角の病死で一旦収まったかにみえた。これが江戸蕉門と田舎蕉門の論争であるが、江戸で勢力の有った其角系の江戸座内部で起きた点取り俳諧に対する芭蕉の復古運動が『五色墨』であり、これを支援した稲津祇空(敬雨)の没年の『四時観』(祇空門系)、百庵が参加した『今八百韻』(嵐雪・沾徳系青峨門系)と続いた。
 その後葛門を芯とする『続五色墨』(嵐雪門と葛門の提携)が成されたわけである。また、安永七年の『三篇五色墨』(野逸編、竹阿序)は葛門の勢力誇示の動きであろうことは云うまでもない。この件については楠本六男先生の「杉風と白兎園系。流派興亡の一例」に詳しいので参照されたい。
 『葛飾正統系図』によれば、著書は多数に及んでいるようであるが、二世素丸の著した書が最も多く、次いで九世其日庵錦江が多い。延享3年(1746)成立の、二世素丸の『乞食袋』では田舎蕉門系の俳風を指向しているとされる。蕉門初世の馬光は其角・嵐雪及び沾徳の周辺に居た人であるから、当然其角・嵐雪への憧憬は深い。宝暦7年(1757)の馬光追善集『ふるぶすま』に入っている「滄浪亭夜話」(栢舟舎千亮筆)には「馬光の俳諧観を継承」する旨の記述がなされ、まだ俳系統の確立には及んでいまかったようである。『葛飾正統系図』の素丸の項に「六十才にして活道耳と言ひ、蕉翁より五老井(森川許六)に伝ふる処の二巻を得て、法といひ式といひ、此外に求るに及ばずと、天明四年(1784)甲辰の春、始めて葛飾蕉門と号し云々」とある。この二書とは、元禄六年(1693)3月中頃に芭蕉より門人の森川許六に伝授されたと言う「俳諧新式極秘伝集・俳諧新々式・大秘伝白砂人集」伝書を写す。(元禄6年3月相伝の奥)と云う伝書であるらしい。この書は一部では「芭蕉と素堂」の伝書とも云う。
 これらの秘伝書は後に竹阿の門人小林一茶が天明7年、竹阿に伝えられた連俳秘書『白砂人集』を手写(奥に小林己橋)とある。また天明八年法眼苔翁から譲られた『俳諧秘伝一紙本定』(奥今日庵内菊明)や寛政5年(1793)には竹阿に伝わる素堂の歌道伝書『仮名口決』を書写したと云う。
 また識者に偽書か後世の仮託書とされる素堂の俳書『松の奥』がある。今日、天理図書館の和露文庫本と山梨県立図書館の甲州文庫本がある。天理本の巻尾は未詳であるが、甲州本は「文政9年(1826)丙戊初秋中院、かつしか正風、桃暁庵蓁阜写」と明記されている。文脈系図によれば、蓁阜は素仙堂の項に「蓁々翁門下の高弟蓁峨…中略…二世蓁仙堂称す。後蓁峨の俳弟蓁阜三世を称す」とあり、文政8年の事で蓁仙堂は素仙堂の間違いではないかと思われるがどうであろうか。蓁々翁とは葛門八世の事で、九世錦江の父。正統系図に文化14年(1817)桃葉庵蓁々と成った人で、文政9年(1826)其日庵を嗣号した。文政7年には甲州の上野原や逸見筋に検見役として出張している。素堂の『松の奥』については寺町百庵が『華葉集』で触れているが、寛政の三大俳家の夏見成美が著した文政2年(1819)刊の『随斎諧話』の中に甲州で閲覧した『松の奥』の記載がある。また『随斎諧話』には素堂に関する他の著述も見える。『松の奥』は夏目成美の門人坎家久蔵が収集整理した『素堂家集』(文化七年/1810)に『松と梅序』が収められている。奥は「元禄三年十二月廿日」で山口信章来雪とある。素堂49才の折の著である。この外にも大野酒竹校訂俳諧文庫『素堂鬼貫集』があり、『松と梅の序』・『松の奥』が収められていてその外題に「此書頗る疑はし。案に素堂の作にあらざらん云々」とある。この『松の奥』については清水茂夫先生の、「山口素堂の研究(八)松の奥について」に詳しく説明されているので参照されたい。余談ではあるが、芭蕉は俳諧書は著さなかったと云われているが『俳諧新式』を書いたとする書もあり、甲斐の高山麋塒に送った「俳諧心得」的なものがある。芭蕉門弟の俳書を整理してみる。

21、芭蕉門弟の俳論書

○元禄3年(1690)『聞書七日草』図志呂丸著(呂丸は元禄6年京都で句客死)
○元禄4年(1691)『雑談集』宝井其角著。
●元禄7年(1694)芭蕉没。
○元禄11年(1698)『俳諧問答』森川許六(芳麿編『青根が峰』天明5年刊)
○元禄11年(1698)『続五論』各務支考著。
○元禄12年(1699)『旅寝論』向井去来著。(安永7年刊)
○元禄12年(1699)『西華集』各務支考著。
○元禄13年(1700)『東華集』各務支考著。
○元禄15年(1702)『三冊子』服部土芳著。(元禄15、16年頃)
○元禄15年(1702)『去来抄』向井去来著。(暁台編。安永5年刊)
○元禄15年(1702)『東西夜話』各務支考著。
○元禄17年(1704)『白陀羅尼』各務支考著。
○宝永3年(1706)『本朝文選』森川許六著。(後の『風俗文選』)
○宝永4年(1707)『南無俳諧』各務支考著。
○宝永6年(1709)『蕉翁文集』服部土芳著。(蘭更編。安永5年刊)
○享保3年(1718)『本朝文鑑』各務支考著。
○享保4年(1719)『俳諧十論』各務支考著。
○享保10年(1725)『十論為弁抄』各務支考著。
○享保12年(1727)『和漢文操』各務支考著。
○享保15年(1729)『俳諧古今称』各務支考著。
○享保21年(1736)『芭蕉翁二十五ケ条』各務支考著。

22、江戸俳諧の時代的背景

 江戸時代も太平の世となれば、旗本や御家人ら並びに各藩士らは実務に携わる者以外は余剰人員となってくる。しかし幕府の法令で人員の削減も容易にできない。従って有能な者はす役職につくことができたが、撰二に洩れた者たちは、特別の事が無い限り冷や飯を食う事になる。大身の士はよいが小身の士は就職できないと死活問題になってくる。将軍家直属の旗本や御家人は江戸幕府開府以降、その構成が定められており、代々の将軍により多少の増減が有ったものの、後には旗本御家人株の売買の対象になるほどだった。太の世の中のなると、前出の如く武を以て常時出仕できる者、役職に就ける者は限られて武の鍛練は義務付けられているが、特別な時以外は出仕は叶わない訳で、小身に家の者は俸禄を貰っていても手当がないから生活は厳しい状況であった。また俸禄の額により格式が定められているから大変である。仕事のない武士は年に数回の義務出仕以外は殆ど仕事無い。こうした者達は「小普請組」という職分に入れられて、仕事にありつくためには伝(つて)を頼んで就職運動をする外は、内職に精を出す者、勉学に励む者、諸芸に走る者など生活を営むための生き様は雑多であった。分かり易く云えば、「収入は少なく出費は多い」武家の嗜みとしての余技や対面上の出費は厳しく内情は火の車であった。運良く奉職できた馬光の年齢を例にとれば、40才という当時では初老とされる年齢で、西の丸警護の小十人組という番士に採用された。この様な例は非常に多かったのである。
 ではその勤務状況はと云うと、今日のサラリ−マンの様に毎日出勤するのでなく、一日出勤すれば一日ないしは二日休みとなる。つまり職務らに特別有能な者以外は、比較的に自由な時間が多く持てたのである。多くの自由時間の処理は各自の考え方で色々あり、武士の嗜みとされる武芸や学芸・茶などに、遊芸など余技に励んだのである。この時代は無
骨一辺倒では世を渡れなくなっていた。教養とは書や学問・和歌だけでなくて、遊び芸一般にまで及び、この為に一芸に秀でるために武士達は必死であった。一例を上げれば、幕府方の御茶坊主と云う職分の者は、今日のホスト的なものとするのはそれと異なり、故事来歴から称諸芸一般、行儀作法など全般に亙って身に付けなければ、その職を全うする事ができなかった。この様な背景をよく理解していないと当時の武士が何故勤務の間を縫って諸芸に励んだかが理解できない。中にはその芸に秀でたものが宮仕えから離れて、その芸の師匠になり職業とした者も居た。

23、素堂と芭蕉の俳諧

 この項とは直接の関係はないが、素堂のように多種多芸でその一つ一つの達成度の高い人物はそう居る訳ではなく、かの芭蕉も及びもつかなかった。素堂と芭蕉の並列する時代から素堂の生き方に憧憬の念を持つ俳人は多く見られ芭蕉没後はどっと素堂の周辺に集まって来た。素堂の俳諧姿勢を目標とした雁山や馬光、それに晩年の嵐雪や桃隣、杉風や洒堂までも生き方は素堂を求め、俳諧は時代の要請から芭蕉を目指すようになり、芭蕉の俳諧の底流である素堂の俳論は見過ごされて時代と共に薄れていったのである。しかしその時代を代表する与謝蕪村や小林一茶も素堂の発句を手本にしていた節があり、与謝蕪村の句集にはそれが如実に表れている。また素堂の『仮名口決』を大切に保持していた小林一茶は晩年の素堂像に重なる部分も見られるのである。
 素堂没後の俳諧の流れを掻い摘んで述べてみた。まだこの項で書きたいことが山ほどあるが、今回はこの位で筆を休め、次回にはもう少し素堂俳論と人物像について言及してみるつもりである。

平成17年12月1日。清水記。

山梨文学講座 山口素堂       新資料  素堂母の喜寿の宴
 
 素堂の動向
 
元禄    5年 壬申  1692  51才
七月七日、素堂の母、喜寿の宴。
(『韻塞』入集。李由編。序奥は元禄九年冬、刊行は元禄十年)
               
      
素堂の母、七十あまり七としの秋、七月七日にことぶきする。
万葉七種をもて題とす。
これにつらなる者七人、
此結縁にふれて、各また七叟のよはひにならはむ。
 萩
七株の萩の手本や星の秋              芭蕉
尾花
織女に老の花ある尾花かな               嵐蘭
葛花
布に煮て余りをさかふ葛の花             沾徳
なでしこ
動きなき岩撫子や星の床              曾良
女郎花
けふ星の賀にあふ花や女郎花             杉風
ふぢばかま
蘭の香にはなひ侍らん星の妻             其角
 
むかし此日家隆卿、七そじなゝのと詠じ給ふは、みずからを祝ふなるべし。
今我母のよはのあひにあふ事をことぶきて、
猶九そじあまり九つの重陽をも、かさねまほしく、おもふ事しかなり。
あさがほ
めでたさや星の一夜もあさがほも  素堂
 
李由
 寛文二年(1662)生、〜宝永二年(1705)歿。
年四十四才。本名河野通賢。近江国平田村の真宗光明遍照寺第十四世住職。蕉門。
許六の盟友として、この書等を共著。
海棠や初瀬の千部の真盛り       〈『篇突』〉
 
《註》
 この喜寿の宴には、菊本直次郎氏所蔵芭蕉真蹟の一幅(阿部正美氏著『芭蕉伝記考説、行実編』紹介)や、今栄蔵氏の『芭蕉年譜大成』にも記載があるが一部異なる箇所がある。
 今回は『日本俳書大系』所収『韻塞』と芭蕉真蹟一幅による。
 《註》
素堂の母は元禄八年夏に突然死去する。素堂の家系で、母の没年については元禄三年説があるが、母の死は元禄八年であり、素堂の妻の死は元禄七年の事である。素堂は妻を娶らずとの説もあるが、一考を要する。又素堂の家系と甲斐府中山口屋市右衛門の家系を直接結ぶ資料は見えない。