素堂消息、生誕〜墓所をめぐって諸説展開
寛永 19年 壬午 1642 1才
素堂生まれる
一月四日…『連俳睦百韻』 安永 七年(1778)刊。
五月五日…『甲斐国志』 文化十三年(1816)刊。
『連俳睦百韻』
…寺町百庵序文中 安永七年(1778)十二月刊。
素堂に関する記述箇所
抑々素堂の鼻祖を尋るに、
其の始め河毛(蒲生)氏郷の家臣山口勘助良佞(後呼佞翁)町家に下る。
山口素仙堂太郎兵衛信章、名来雪。其ノ後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。
其の弟に世を譲り、後の後の太郎兵衛、後法躰して友哲と云ふ。
後ち桑村三右衛門に売り渡し侘屋に及ぶ。
其の弟三男山口才助訥言、林家の門人、尾州摂津守侯の儒臣、
其の子清助素安、兄弟数多くあれい皆死す。
其の子幸之助、侘名片岡氏を継ぐ。云々
《筆者註》
序文を書いた寺町百庵は素堂の家系にあるという。(『俳文学大辞典』百庵の項)百庵は素堂の孫素安から「素堂号」の譲渡を持ちかけられたが断わり、佐々木来雪が「素堂号」を継承する。(三世)そのことは百庵の『毫の秋』に詳しく書かれている。 (享保二十年「素堂没・享保元年)」に素堂亭及び山口素安を確認できる。)
『奥の細道通解』
…馬場錦江著 安政五年(1858)刊。
葛飾の隠士素堂は我先師なり。芭蕉翁を友とし善、俗名山口太郎兵衛、名は信章俳号は素仙堂来雪なり。本系割符の町屋にして世々倣富の家なり。常に落葉に往来して、信徳、言水か徒舊識たり。性、詩歌を好み、又琴曲を学ひ又謡舞に長す。一朝世の常なき観相して、家産を投ち第は山口胡庵に譲り、母を供して忍之岡の梺、蓮池の辺りに隠棲をいとなみ、高養を遂けたる事は、其行牌並に発句等にも世の知る所也。老母没して後、芭蕉、其角のすすめに応じて本所今六間掘、鯉屋敷といふに草庵を営み住めり。家集に、忍か岡麓よりかつしかの里へ居を移すとて、 長明が車に梅を上荷哉
素堂是より芭蕉庵と隣也ければ、猶はた芭蕉も心をよせて、草逆の交をなせり。三日月日記、後菊の園、其外人の知る所、風流の交り今将に夕言に及はす。集物にあり。云々。
『甲斐国志』
…「素道」の項(巻之百二 士庶之部 府中)
文化十三年(1813)刊。
山口官兵衛ト云。姓ハ源名ハ信章。字ハ子晋(一云公商)。其先ハ州ノ教来石村山口ニ家ス。因為氏後ニ移居府中魚町。家頗ル富シ。時人山口殿ト称ス。信章ハ寛永十九年壬午五月五日生ル、故ニ重五郎を童名トス。長シテ市右衛門ト更ム。盖シ家名ナリ。云々
《註》…
『国志』には山口家は酒造業を営んでいるとする記載は見えない。山口素堂の家と酒造業を結びつけてのは安政五年(1858)に七十二才で亡くなった、緑亭川柳編の『俳人百家撰』の素堂の項の「甲斐に代々酒造業を営む家に生まれ、二十才頃に江戸に出て儒学を学んだ。云々」に起因する。早いところでは、素堂が健在の宝永三年(1706)頃に森川許六が著した『本朝文選』には「山口氏江戸の産」とある。凉袋が文政年中(1819〜29)著した『蕉門諸生全傳」には、素堂は甲斐の酒折の産」とある。
素堂の出生や生涯の事蹟については、『甲斐国志』発刊前後で大きく食い違うことがわかり、『甲斐国志』以前の甲斐の著書には素堂のことや、「濁川工事」への関与の記載は見えない。
『俳諧奇人談』
…文化十三年(1813)玄々一著、青青編。
山口氏は江戸の人、常に和漢の書を嗜み詩文を善す。老母に仕えて至孝なり。ひとあるひは妻を迎へん事をすすむるに固辞してやみぬ。これ親の心に違はん事を恐るればなり。篤実の君子嘆称すべし。弱冠(二十才)より季吟の門に遊んで俳諧の達者と呼ばる。庵の名を今日といひ、又来雪とも、素堂とも言へるも、その別号なり。後にある主家を辞してより深川の別荘に蓮池を掘り交友を集めて晋の恵運が蓮池に擬せしより、俳家もっぱら社中と称するはこれこれらによってなり。みずからその社に題する句、
池に鵝なし仮名かき習ふ柳かな
その作、みな高尚閑雅。云々
『随斎諧話』
…文政二年(1819)夏目成美著。
素堂は甲斐の産なり。酒折の宮の神人真蹟を多く傳へ持り。その中に「松の奥」
「梅の奥」と號たる二冊の草紙は俳諧の教を書るもの也。云々。
《註》
この著の中には素堂関係の著が含まれている。特に「松の奥」「梅の奥」は、多くの識者が偽書としているが、成美はその序に載せている。(元禄三年の項)
『甲州俳人伝』
昭和七年四月、功刀亀内著
(上部に『連俳睦百韻』の抜粋を掲載)
寛永十九年五月五日北巨摩郡蓬莱村(旧上教来石村山口)に生る。幼名重五郎。父を市左衛門と呼び、幼時一家甲府魚町に移転し、酒造業を営む。父死後襲名して市左衛門と改む。
名は信章、字は子晋又公商、幼より風雅を好み、中年家を弟に譲り、母と共に江戸に出て、官兵衛と改称し、東叡山下に寓居す。茶を今日庵宗丹に学び、書を持明院に学び、和歌は清水谷家に受け、俳諧は京都北村季吟に師事し、其蘊奥を極む。風流諸芸に通じ、交遊多く諸藩に出入りす。屡火災に羅り、深川に庵を遷し、後葛飾安武の芭蕉庵の隣に住り。葛飾風の一派を創め門葉多く、馬光今日庵二世を継ぐ。素堂母の心に違はんことを恐れ、終身娶らず。
元禄五年母の七十七秋七月七日賀筵を開く。黒露著『秋の七草』に任し。元禄八年甲府代官桜井政能を援けて、甲府緑町に仮居して濁川を治水す。時人之を徳として蓬沢村に、政能と共に其の生碑を建て山口霊神と称す。(桜井政能享保十八年二月十四日歿、年八十二)素堂弟太郎兵衛後法体して友哲と云ふ。後桑名三右衛門に家を売り侘家に及。其の弟三男山口才助訥言林家の門人、尾州摂津守殿の儒臣、其子清助素安兄弟数多あれど皆死。其子幸之助侘名片岡氏を続。素堂号今日庵、其日庵、信章斎、蓮池翁、来雨、葛飾隠士、江上隠士、武陽山人、素堂亭。
享保元年八月十五日没す。法号直誉桂完居士
辞世句 ズッシリと南瓜落て秋寒し
『素堂の墓』
江戸感応寺
甲斐国志に谷中感應寺(今の天王寺)に葬るとあれど墓現存せず。位牌一基を蔵之。小石川区指ケ谷厳浄院に山口黒露の建し碑あり、明和元年申庚の歳四十九の春秋の成より、小碑を黒露建と刻せり。
小石川厳浄院
碑面に長方形の穴にして、碑銘大□只左黒路建碑を刻せしのみ。現に穴の中に「素堂翁之墓」と刻せし小碑をハメあるは、明治三十年頃宇田川と云ふ人の、ものせしときく。甲府尊躰寺に山口家代々の墓あり、素堂の碑ありと聞くけど不詳。明治三十一年五月、内務省属織田定之金原昭善と謀り、本所区原庭町芭蕉山桃青寺内に、時の農相品川弥二郎撰文「素堂治水碑」を建てしが、震災に羅り現存せず。甲府市寿町金比羅境内に「素堂治水碑」あり。明治三十二年八月、甲府平原豊撰文、山田藍々(弘道)篆額、後裔山口伊兵衛建碑す。
谷中天王寺(元感応寺)に位牌一基在蔵す。
(表)廣山院秋厳素堂居士 (裏)山口今日庵享保元年丙申年八月十五日
六世 今日庵社中再興之。
著書 『とくとくの句合』 自序 自句を自ら評せし句合なり。
享保十二年刊行される。玉苟山人叙、百里跋。
異板延享三年書林浅草辻本刊行、叙跋なし。
『素堂句集』 一冊 未刊 (子光編ものか不詳)
『素堂文集』 一冊 仝 (随斎編ものか不詳)
『俳聯五十韻』一冊 仝 漢語連俳
『松の奥』 二冊 仝 元禄三年編、俳諧之式法。此の書偽書の説もあり。『野のかげ』 一冊 刊行 追善集。〔その影 素丸(馬光)編。享保七年七回忌集〕
『野分集』 一冊 刊行 文久二年。百五十回忌、東都今日庵五世泰登。
『ふた夜の影』一冊 刊行 宝暦二年、黒露編。
『連俳睦百韻』一冊 刊行 安永七年、三代素堂(八年、襲名披露)
糸梅に袖にむさし野鳥のこえ 素堂
(短冊 一行写)
西瓜ひとり野分をしらぬあしたかな 素堂
(百五十周忌追善集『野分集』写)
《註》
功刀氏は名立たる『甲州文庫』の産みの親である。その蔵書の多くは現在山梨県立図書館に在る。記述は『甲斐国志』を基にしている。
文中の「市左衛門』は「市右衛門」。蓬莱村は鳳来村。『連俳睦百韻』の引用文の「山
口才助調言」は「訥」。
『山口素堂の研究』 荻野清氏著。『国語・国文学』 昭和七年一月号。
山口素堂、名は信章、字は子晋又公商、通称勘(官)兵衛(太郎兵衛・松兵衛・佐兵衛 太郎兵衛 等の異説あり、今一般の呼称に従ふ)素堂は素仙堂の略と云ふ
(連俳睦百韵)。
別號として来雪、松子等を稱した。尚来雨の號があったと『連俳睦百韵』はいってゐるが、之は明かではない。彼は、又茶道に於ける號として今日庵・其日庵を稱している。
一、生涯
山口家はその祖山口勘助良侫(蒲生家の家臣)以来、甲斐国北巨摩郡教来石山口に土着した郷士であった素堂は、その家の長子として寛永十九年五月五日(一説に正月四日)に生まれたのである。即ち、芭蕉に先んずる事二年であった。かれは幼名を、『甲斐国誌』(志)に依れば、重五郎といひ、長じて家名市右衛門を継いでゐる。暫くして、家 督を弟に譲り、勘兵衛と改名して上京した。
山口家は後年甲府に移住したのであるが、それは恐らく、素堂の少年時代であったらう と思われる。山口家は、甲府に於て魚町西側に本宅を構え、酒造業を営み巨富を擁し、(功刀亀内氏蔵 『写本酒之書付』及び『貞享上下府中甲府細見』に依る)『甲斐国誌』(志)にも「家頗る富み時の人山口殿と稱せり」と記すが如く、時人の尊敬を亭けたので あった。かゝる正しき家柄と、巨富ある家に、幼少年期を過ごした素堂は、必ずや端厳且つおっとりした気風を持って長じた事と思はれる。
とかくして、彼は、江戸に遊学のために出づる事になった。その時期は、勿論明確な事は云へないが、先づ寛文初年廿歳頃と推測される。(以下略)
『甲斐俳諧年代記』 小澤柳涯氏著
寛永十九年壬午、五月五日山口素堂生。甲府魚町、童名重五郎、長して市右衛門と更 む、後又官兵衛と改む。寛文十二年、此頃素堂季吟の門に入る。 元禄八年、素堂帰郷して父母の墓を拜し、代官桜井政能に謁す。政能素堂を抑留して共 に濁川の水を治む。蓬澤(西山梨郡玉諸村)に政能及び素堂の生祠あり。云々
『白州町誌』清水茂夫氏著
寛永十九年五月五日、当町字山口の郷士山口市右衛門の長子として生まれた。名は信章、字は小晋、通称官兵衛、素堂と号した。
『山口素堂』小高敏郎氏著
素堂は寛永十九年五月五日、甲斐国(山梨県)北巨摩郡教来石山口の郷士、山口市右衛門の長男として生まれた。山口家は、蒲生氏郷の家臣が仕官を廃し、この地に土着したという。地方の一名家であった。しかも素堂の少年の頃、山口家は甲府魚町西側に移住し、酒造業を営んで巨富を積み、「家頗ル富ミ時ノ人山口殿ト称」したという。素堂は、こういう地方の素封家の長子として、何の苦労もなく、大事に育てられ、幸福な幼少時代を送ったと思われる。これは、いわゆる立志伝中の人物に見るがごとき、激しい気魂をそだてなかったであろうが、苦労した人にありがちな暗さや片意地のゆがみを与えなかったはずである。たくましさや覇気にはとぼしいが、執着の少ない人生態度や温雅円満な性格は、既にしてこの時代に形づくられたといえよう。素堂は幼名を重五郎といった。長じて家名市右衛門を嗣いだという。こういう家の長男だから、素読や手習をはじめ、然るべき基礎的な教養万般を学んでいたと思われる。後年の博学多趣味の萌芽をここに認めてもよかろう。だが、しばらくして家督を弟に譲り、名も勘兵衛と改めて江戸へ遊学した。寛文初年二十歳ごろと推定される。遊学の目的は奈辺にあったか。長子でありながら遊学の折に富裕な家督を譲ったという以上、儒学を学んだ学者として立つか、あるいは幕府・大名に儒官として仕官するつもりであったのであろう。 (略)素堂は商売の家に生まれても、町人として一生を終わることに満足できず、富商の嗣子の地位を捨てて、あえて新しい人生コ−スをえらんだわけであろう。(以下略)