素堂の生涯
一、素堂の生まれたところ
二、住所と住居
三、甲斐府中山口屋と素堂の関係は資料には見えない
三、甲斐府中山口屋と素堂の関係は資料には見えない (2)
四、素堂の家系
五、濁川改浚工事
六、知られていない素堂像 序文・跋文の多さが示すもの
七、素堂の最も有名になった句
八、素堂と京都、京都は素堂にとって故郷だった。
九、甲府尊体寺の「山口家の墓」は素堂や魚町市右衛門家とも関係ない。
十、山口素堂は濁川浚工事に関与していない
十一、素堂と濁川改浚工事
諸説はそのほとんどが「甲斐国志」からの引用に諸氏が着色したもので、史実ではない。
◎ 『甲州風土記』上野晴朗氏著。
山口素堂の家は巨摩郡教来石山口に土着した郷士の 家柄であった。
◎ 『俳文学大辞典』「素堂の項」井上敏幸氏著。
甲斐国北巨摩郡教来石村山口に出生。云々
◎ 『元禄名家句選』昭和二十九年 荻野清氏著。
甲斐国北巨摩郡教来石村山口に於いて出生。云々
以下、素堂の紹介書は数限りなくあるが、その大半は『甲斐国志』の記述影響が強いことが分かる。しかし素堂没後から『甲斐国志』刊行以前の山梨県や他の著作書には素堂が甲斐国の出身とする書は皆無である。
『甲斐国志』「素堂の項」の記述は、濁川工事の責任者とされる時の甲府代官桜井孫兵衛の事蹟を素堂の項を借りて書したもので、その根拠は斎藤正辰之の碑文である。
素堂の住所で最もしっかりした資料は儒家の『人見竹洞全集』(国立国会図書館蔵)と『地子屋敷帳』それに『本所深川抱屋敷寄帳』である。
◎ 『人見竹洞全集』の元禄六年(1693)素堂五十二才の項に次のように記されている。
癸酉季夏初十日二三君乗舟泛浅草川入。
川東之小港訪素堂隠屈竹径門深荷花池凉。
松風繞圃瓜満畦最長広外之趣也。
◎ 『地子屋敷帳』元禄九年(1696)の九冊目、深川の条
四百三十三坪(元禄六年に購入)
この土地は元禄十五年には四百二十九坪と変更されている。
◎ 『本所深川抱屋敷寄帳』宝永元年(1704)
素堂の抱屋敷として
深川六間掘町続、伊那半左衛門御代官所、町人素堂所持仕早老地面四百二十九坪之抱屋敷云々
この紹介文書は森川昭氏の手によるものである。
素堂は葛飾の庵に暮らし、細々と生活していたとされる書もあるが、素堂の家敷地は広大なもので抱屋敷も持っていたのである。
特に深川六間堀に所持する抱屋敷は伊那半左衛門の屋敷跡で松尾芭蕉の草庵と重なる部分があり興味深い。 参考に甲斐国志の素道(堂)の項の記述を紹介すると
◎ 『国志』
其ノ先ハ州(くに)ノ教来石村字山口ニ家ス。因(より)氏ト為ス。後ニ居を府中魚町ニ移ス。家頗ル富ミ時人山口殿ト称ス。(中略)江戸市中 東叡山麓葛飾安宅草庵。
◎ 『連俳睦百韻』「序文」寺町百庵著
抑々素堂の鼻祖を尋ぬるに、河毛(蒲生)氏郷の家臣 山口勘助良佞後に佞翁と呼ぶ 町屋に下る。山口素仙 堂、太郎兵衛、信章、俳名来雪、其の後素仙堂の仙の 字を省き素堂と呼ぶ。云々
素堂の幼少から致任するまでの間の住所と住居の変遷は確かな資料が少ない。『国志』の言を全面的に信用したい所であるが、当時山口家が巨摩郡教来石村字山口に所在したかは疑わしいもので、現在の国道二十号線沿いの旧甲州街道(甲府から諏訪)は段丘の上を通過していて、山口集落の出現も徳川時代に入ってからの口留番所を設けて久しく経過してからの集落であり、徳川以前は国境の地としてまた常に戦争の狭間として人々の住める場所ではなかった。当然素堂の家(祖先を含む)が存在した可能性は少ない。現在の上教来石村字山口集落の段丘上に「海道」の地名が遺り、付近の墓所の墓石刻印も素堂没以後の年代の物が多く、当時『国志』素道の項の記述者が、山口素堂の氏「山口」の出処を甲斐に求めた結果、教来石村山口か該当する地名がなく困惑の結果の所産ではなかろうか。
編纂約百七十五年前の素堂の出生と祖先の住居についての記述は、歴史資料に基づくものではなく、著者の推説と創作記述と断定しても間違いない。『国志』編纂に於ての上教来石村の『書上』にも素堂の記述はなく江戸の素堂の事蹟記述は最初に『国志」の編纂に手を染めた富田武陵の手による可能性も残されている。
資料の入手困難の中での『国志』の編纂の努力は並大抵のものではない。しかし素道の項については史実とかけ離れた記述である。
三、甲斐府中山口屋と素堂の関係は資料には見えない
さて甲斐府中(甲府)の魚町に在った魚町酒造業山口屋市右衛門家は本当に素堂の生家なのであろうか。これも『国志』の記述が現在では通説となっているが、その記述には曖昧さが感じられる。
先にも示した『連俳睦百韻』(佐々木来雪、三世素堂号襲名記念俳諧集)の序文を著した寺町百庵は『俳文学大辞典』によると、素堂の家系にあり、『連俳睦百韻』 には素堂の嫡孫素安より素堂号の継承を許可されたが、断わり佐々木来雪に譲った旨も記されている。この山口素安は素堂が死去した(享保元年…1716)後の享保二十年(1735)に素堂の追善を素堂亭にて実施している。所謂素堂の家系は甲斐府中ではなく、江戸に於て継承されているのである。
◎ 『国志』
其ノ先ハ州ノ教来石村山口ニ家ス因テ氏ト為ス。後 ニ居ヲ府中魚町ニ移ス。家頗ル富ミ、時ノ人ハ山口 殿ト称ス。……長ジテ市右衛門ト更ム。盖シ家名ナ リ。
ここで注意を要するのは魚町の山口屋は酒造業を営むとは記していないことである。当時魚町に住む山口屋市右衛門は確かに酒造業を営んでいた。元禄九年(1696)を示唆する「酒造業書上書」によれば、府中には山口屋を名乗る家が二軒あった。一軒は魚町山口屋市右衛門家で、他の一軒は上一条町の山口屋権右衛門である。 さて『国志』の記述によれば
少々自り四方の志あり。屡【しばしば】江戸に往還して章 句を林春斎に受く、(中略)遂に舎弟某に家産を譲 り、市右衛門を襲称使め、自らは官兵衛を名乗る。 とあり、不自然な記述である。それは素堂家が幼少の頃府中魚町に移住して忽ち富家になった事など当時の酒造業を始め他の産業にしても無理な話である。さらに「山口殿」と時の人々に呼ばれた事も有りえない事である。 もしこれを認めるなら素堂家は教来石村に在住した時から富豪であった事が必要である。しかし素堂が生まれた寛永十九年(1642)当時の甲斐の国は大飢饉に襲われ多くの人々が飢えに苦しみ死んでいったのである。そんな時代背景の中で素堂家が教来石村で富豪で過ごせる条件は皆無であり、集落さえなかった可能性もある。 またそんな中で府中に出ていって、府中山口屋を築く事など不可能に近い。
江戸時代の酒造業は厳しく幕府に管理されていて米一粒でも無駄にできず、勝手酒造は許されない仕組みになっていた。酒造業での一攫千金の業は有り得ない。
確かに山口屋は府中魚町四丁目西角に存在した。ここに山口屋市右衛門に関する確かな資料を提出する。
◎ 寛文十三年(1673)素堂三十三才。
『魚町宿取之覚』二月中…甲州文庫資料第二巻
当月九日に西郷筋上いますわ村拙者母
気色悪□御座候故いしゃにかゝり于今
羅有候
四丁目 市右衛門
◎ 貞享年間(1684〜1687)素堂四十三〜四十六才。
『貞享上下府中細見』…山梨県図書館蔵
一、魚町西側 表九間 裏へ町並
是は先規軒屋敷にて御座候処
四年以前子年隣買受け壱軒に
仕候付弐軒分之御役相勤申候
一、柳町四丁目 表八間 裏へ二拾二軒
北角 魚町市右衛門抱 四郎左衛門
一、川尻町弐丁目 表拾五間 裏へ三拾間
魚町市右衛門抱 家守六兵衛
この記録は素堂の生家としてよく引用される箇所である。しかし素堂と山口屋の関係が定かでない現在これをもって素堂の家が魚町山口屋で富家であったとは断定はできない。
◎ 宝永元年(1706)素堂六十五才。
◎ 『山田町宗旨改帳』…甲府市史第二巻
代々浄土宗府中尊躰寺旦那 印
市郎左衛門 印
同人 妻 印
是は府中魚町市右衛門娘拾三年以前
市郎左衛門妻ニ成 夫同宗ニ罷成候
◎ 享保九年(1724)
『山梨郡府中町分酒造米高帳』…甲府市史第二巻
元禄丁丑年造高 四拾三石五斗
卯造酒米石 拾四石五斗
魚町 山口屋 市右衛門 印
元禄丁丑年造高 四拾弐石弐斗四升
卯造酒米石 拾四石八斗
西一条町山口屋 権右衛門 印
《丁丑…元禄十年(1697)》
三、甲斐府中山口屋と素堂の関係は資料には見えない (2)
この山口屋市右衛門は素堂が江戸に出るとき家督を譲った舎弟の市右衛門なのだろうか。それを示す資料は存在しない。ここで弟に関する『甲斐国志』と『連俳睦百韻』の記述を比べてみると、
◎ 『甲斐国志』
遂ニ舎弟某ニ家産ヲ譲リ、市右衛門ヲ襲称使メ、自ラ官兵衛ト改ム。時ニ甲府ノ御代官桜井孫兵衛政能ト云フ者能クソノ能ヲ知リ、頻ニ(素堂)ヲ招キテ僚属と為ス。
◎ 『連俳睦百韻』
山口素仙堂 太郎兵衛来雪(中略)其の弟に世を譲家 臣り後の太郎兵衛、後法躰して友哲と云ふ。後桑村三素仙右衛門に売り渡し(素堂の生家を)侘家に及ぶ、(中略)其の三男山口才助訥言林家の門人尾州【尾張】 摂津公の儒臣、其の子清助素安兄弟多くあり皆死す。 其の子幸之助侘名片岡氏を続ぐ。云々
両書で共通なのは弟に家を譲る箇所だけである。素堂の親族には儒学者が多くあり、甲府魚町酒造業山口屋とは関係のないことが分かる。
後世山口姓を名乗る甲府の某家は、『国志』を読んだ関係者に云われて、素堂の家系に繋がるような言動を余儀なくされたと思われる。山口屋市右衛門家の家系は甲府で繋がり、現在も連綿として継続されていると思われるが、残念ながら素堂とは何ら関係のない家系である。明治時代になって関係者が治水碑を甲府や東京に建立したりして、素堂は土木業者の鑑となってしまった。これらは『国志』を盲信して真実の探究を怠った結果である。素堂誤伝は『国志』から出発した言っても過言ではない。それほど山梨県にとって国書の記述の影響は大きいのである。
また素堂が江戸に出たとされる寛文元年(1661)の前年の万治三年には甲府は大火に見舞われている。山口屋も勿論焼失した可能性が高い。復興に明け暮れる中で弟に家産を譲り江戸に出ることなど考えられない。
文学研究者は時によるとその当時の歴史背景や資料を照合せずに記述される場合もある。これは素堂の生家を郷士であったとしたり、踏査をせずに資料を重ね合わせて新歴史として論ずることなどである。
素堂家の家系については前項までにも触れているが、ここで改めて調査の結果から述べてみたい。
素堂の家系は『国志』「素道の項」を中心とするか『連俳睦百韻』を参考にするかで大きな違いを生ずる。 素堂の数ある著書や序文・跋文・詩書などにも「国」に関する記述があるのでそれを紹介してみたい。
◎ 『其袋』 元禄三年六月刊、著元禄二年(1689) 九月十三日夜遊園 素堂十三唱 の十三唱目
国より帰る
われをつれて我影帰る月夜かな
この前書の国は不明であるが、素堂の甲斐入りは元禄八年夏のみ確認され(『甲山記行』)元禄二年は確認できない。 後に触れるが山梨県と素堂を結ぶ元禄九年の「濁川改浚工事」は素堂側の資料からは抽出できない。
さて素堂の家系について『連俳睦百韻』を見てみる事とする。既に前項で触れているが再確認すると
素堂の祖先は織田信長の家臣で次の豊臣秀吉にも仕えて会津百万石を知行して最後は京都で亡くなった蒲生氏郷の家臣山口勘助良佞と云う。荻野清氏はその著『山口素堂の研究』でこの山口勘助が甲斐教来石村山口に住んだとして、その後は『国志』の記述に結びつけている。これは安易な方法であり歴史事実ではない。蒲生氏郷は天正十年(1582)に織田信長か甲斐を壊滅した折に諏訪より台ケ原村(現在の白州町)に布陣し次の日新府城を攻め落とした武将の中に含まれている。素堂の祖先が何時蒲生氏郷の家臣から町屋に下ったかは資料不足で言及できないが、甲斐巨摩郡教来石村山口に郷士として住んだ事は有り得ない事である。山口は当時は人が住むような立地条件には無かったのである。
◎『甲山記行』(元禄八年・1695)著
それの年(元禄八年)の秋甲斐の山ぶみをおもひけ る。そのゆえは予が母君がいまそかりしけるころ身 延詣の願いありつれど、道のほどおぼつかなうて、 といもなはざりしくやしさのまま、その志をつがん ため、また亡妻のふるさとなれば、さすがになつか しくて、葉月(八月)の十日あまりひとつ日(十一 日)、かつしかの草庵を出、むさしの通を過て、( 中略)十三日にのたそがれに甲斐の府中につく。外 舅野田氏をあるじとする。云々
◎『国志』
元禄八年乙亥素堂五十四、帰郷して父母の墓を拝す。 旦つ桜井政能に謁す。前年甲戊政能擢され御代官触 頭の為め府中に在り 政能素堂を見て喜び、抑留して語り濁河の事に及ぶ。 両著の記述の違いは明白である。『甲山記行』は素堂の自著でありその内容は疑う余地はない。
甲斐は亡妻の故郷なのである。そして亡妻は野田氏の家系に在る事である。当時甲府代官には桜井孫兵衛と同年から勤仕している野田勘兵衛が在住していた。勘兵衛の父は野田七郎兵衛であり、素堂の妻の父はこの七郎兵衛の可能性が高い。七郎兵衛は延宝三年(1673)飢饉に際しての不祥事で深谷庄右衛門、水上三郎兵衛、遠藤治郎右衛門、前島佐次右衛門、近山清兵衛等と共に閉門を仰せつけられている。(『天正、宝永年間記』)
『甲斐国歴代譜』によれば、奉行として野田市左衛門の名が見える。野田家の家系については複雑な部分があり現在調査中であり、いずれ明確にするつもりである。
素堂の『甲山記行』には桜井孫兵衛との会談や接見などには一切触れてはいない。この時の甲斐滞在中の日程の中には行動が不明な部分もあるが、だからといって素堂が政能と接見したとするのは推説の域を脱しない論である。素堂の母は元禄八年に急逝したことは資料により明らかであるが、素堂の妻の死去が元禄七年であることは知られていない。素堂の紹介書の中には「素堂は母に至孝で生涯妻を娶らず」のような著書もある。素堂の妻の死は素堂から曾良(芭蕉の門人とされるが、素堂と曾良は特別な関係にあった)宛の書簡により分かる。
◎ 元禄七年(1694)の冬のこと
(妻の死)
素堂、曾良宛書簡
紹介書…『連句俳句研究』森川昭氏 …『俳諧ノ−ト』 星野麦久人氏
…『芭蕉の手紙』 村松友次氏
御無事に御務被成候哉、其後便も不承候、野子儀(素堂)妻に離申候而、当月は忌中に而引籠候。
一、桃青(芭蕉)大阪にて死去の事、定而御聞可被哉、御同然に残念に存事に御座候、嵐雪、 桃 隣 二十五日に上り申され候、尤に奉存候。
一、元来冬至の前の年忘れ素堂より始まると名立 ち候。
一、内々のみのむしも忌明候はゞ其日相したゝめ 可申候其内も人の命ははかりがたく候へ共… 云々
例の年忘れ、去年は嵐雪をかき、今年は翁をかき 申候、明年又たそや。
曾良雅丈 素堂
◎ 元禄五年(1692)のこと
(妹の死)
『芭蕉句選年功』
芭蕉の句 埋火や壁には客の影法師
杉風家蔵真蹟に「素堂が妹の身まかりける時」と前 書あり。
素堂には妻も在り、妹もいたのである。父の存在や死去年は定かではなく、資料も見当たらないし素堂も触れていない。母の死去が元禄八年、母の喜寿の祝い(七十七才)を元禄五年に芭蕉以下で催しているので素堂の母は八十才まで生存したこととなる。元禄五年時、素堂は五十一才、素堂は母二十六才の時の子供となる。この素堂の母を甲斐府中魚町山口屋市右衛門の先妻とする説も在り、それは素堂が母を伴い二十才の頃江戸に出たするものである。この説も何ら資料を持たないものである。 さて素堂の家系について、忘れてはならないのが山梨県立図書館にその多くの著書が蔵書されている山口黒露のことである。山口黒露は素堂の甥と紹介され、素堂の臨終から葬儀は黒露が仕切っている。又一回忌追善俳諧集『通天橋』を刊行している。
『連俳睦百韻』のいう家系は先に紹介したが、ここでもう一度触れて見たい。
山口素仙堂 太郎兵衛来雪(中略)其の弟に世を譲り後の太郎兵衛、後法躰して友哲と云ふ。後桑村三 右衛門に売り渡し(素堂の生家を)侘家に及ぶ、其の三男山口才助訥言林家の門人
尾州(尾張)摂津公の儒臣、其の子清助素安兄弟多くあり皆死す。其の子幸之助侘名片岡氏を続ぐ。云々
これが素堂家の家系である。『国志』の云う甲斐府中の山口屋と結びつけるには余りにも差が在りすぎる。 素堂は江戸で生まれ江戸で死去した。素堂の妻は甲斐府中の野田氏の子で、これが素堂が甲斐の出身と誤解される大きな要因になったのである。
素堂の事蹟を調べているとその評価の低すぎるの事に唖然とする思いである。素堂は俳諧に於て西山宗因の後芭蕉と共に新風を興すべく様々の挑戦を続ける。考えるのは素堂で実際に句作に専念したのが松尾芭蕉である。 それを芭蕉側の資料を中心にした研究者たちは素堂の数多く残された序文や跋文を読むことを怠り、素堂の俳諧は奥行きがなく駄作や愚作が多いなどとの言を吐く。 素堂の序文や跋文の中には素堂の俳諧に取り組む姿勢が垣間見られて芭蕉俳諧の見直しも余儀なくされる程の重みを持つものである。
山梨県でも長い間素堂誤伝を信じて紹介されてきた。「素堂甲斐教来石生誕説」・「素堂と濁川工事関与」・「素堂家、府中山口屋説」などなど新資料を基にした訂正が必要なのである。素堂の俳諧に於ての事蹟も再評価して正しく伝える義務がその道に携わる人の責任である。 山梨県の歴史学は視野が狭く、特に一般県民に伝える努力が不足しているような気がしてならない。
さらに新たな歴史事実を無視した「歴史イベント」は、一般の人の歴史観を大きく誤らせる。
特に御牧については一考を要する又官道についてもしかりである。歴史は正しく伝える事が大切で例えその人物の恥部であっても直視すべきで美化した人物像を作ることは許されない。「武田信玄」についても再評価を求めたい。戦国時代に聖人信玄は有り得ないし、戦争とは殺戮の歴史である事を忘れてはならない。
山梨県で素堂を最も有名になったのは元禄九年の濁川改浚工事である。『甲斐国志』のこの項は他の項と全く違う記述方法となっている。濁川工事に関係する部分を抽出して見ると、(読みやすくした)
元禄八乙亥歳素堂五十四、帰郷して父母の墓を拝す。旦つ桜井孫兵衛に謁す。政能素堂を見て喜び、抑留して濁河の事に及ぶ。嘆息して云ふ。濁河は府下の汚流のる聚【あつま】る所。頻年笛吹河瀬高になり、下の水道の壅がる故を以て、濁河の水山梨中郡に濡滞して行かず。民は溢決に苦しみ、今に至る尚爾り。
国の病と為す。実に甚だ死し。水禍を被る者、十村中に就き、蓬澤・西高橋二村最も卑地にして、田畠多く沼淵となり。(中略)
政能屡々之を上に聞すれども言未だ聴かれず。それ郡の為め民の患いを観、すなわちこれを救うこと能わずや。吾れ辨じて去らんと欲す。然れども閣下(素堂)に謁して、自らの事の由をのべ、可否を決すべし望み、謂ふ足下く此に絆されて補助あらんことを。
素堂答えて云ふ。人者これ天地の役物なり。可を観て則と進む。素より其分のみ。況んや復父母の国なり。友人桃青も前に小石川水道の為に力を尽くせし事ありき。僕慎みて承諾せり。公の令に旃(こ)れ勉て宣しくと。
政能大に喜びて晨【あした】に駕すことを命ず。(中略)吾思ふ所あり、江戸に到りて直ちに訴へんとす。事成らざるときは、汝輩を見ること今日に限るべし。構へて官兵衛(素堂)が指揮に従ひ、相そむくことなかれと。云々
素堂は剃髪のまゝ双刀をたばさみ、再び山口官兵衛を称す。幾程なく政能許状を帯して江戸より還る。村民の歓び知りぬべし。官兵衛又計算に精しければ、是れ自り夙夜に役夫を勒して濁河を濬治す。(中略)是れに於て生祠を蓬沢南庄塚と云ふ所に建て、桜井明神と称へ山口霊神と伴せ歳時の祭祀今に至るまで怠り無く聊でか洪恩に報んと云ふ。云々
国志にこう書かれては一般の人なら信じてしまう。まるで政能と素堂は会話が歴史資料に現存しているような錯覚に陥る。これは濁川の河畔にある桜井孫兵衛の親族斉藤正辰の建立した地鎮碑の刻文を参考にした著者の創作部分である。ここで斉藤正辰の刻文を紹介する。
◎ 濁河地鎮碑
甲州の蓬澤、西高橋両村、濁河の剩水を受けて大半は沼となって数十年、近隣の七邑も亦同じである。ことに両村は甚だしい。雨が降れば即ち舟に非ずば行くべからず。民は荷物を担いて出づ。河魚の疾は但【いたずら】に与にするを焉、禾黍も実らず、飢え死にしたる者野に盈つ。将に不毛の地と為らんとす。
元禄甲戊(七年)桜井孫兵衛政能郡の為に于邑に到る。民庶は涕泣して濬地の計を請う。政能は諾し明くる年乙亥(八年)帰りて老臣に訴へて、其の事に甚勤した。国君(藩主徳川綱豊)はこれを恤し、明くる年丙子(九年)新に政能に命じて検地の功を鳩じ西高橋より落合村に至る堤二千一百余間の泥を開いて塞を决き、濁河の流れを導きて笛吹川に合せ遂ちて止む。是に於て土地は沃乾【こえかわ】き稼穡【かしょ】は蕃蕪す。民は以て居すべく、租を以て入るべしと。 政能死してから久しい。而して両村の民は愈々【いよいよ】その恩を忘れること能はず。乃ち政能を奉じて地の鎮めと為し、祠を建て毎歳これを祀る。鳴乎生きて人を益すれば、即ち死してからこれを祀るは古の展【きま】り也。後来其の所由【よるところ】を失うを恐れ、遂に書を石に勒すと爾【かく】云う。
元文戊牛七月 斉藤六左衛門正辰
(三年、1738)
石碑を建立した斉藤正辰本人が碑文の中で
鳴乎生きて人を益すれば、即ち死してからこれを祀るは古の展【きま】り也。
と云っているのに、後世の研究者は「生祠」と断定して諸書にその論を展開している。江戸時代に於て代官がその業務遂行完成に於て「生祠」を建てることなど厳禁事項である。
この間違いは同じ『甲斐国志』の中の「巻の四十三」に記載されている「庄塚の碑」の記述によるものである。(抜粋)
手代の山口官兵衛〔後に素堂と号す〕其の事を補助し頗る勉るを故を以て、二村の民は喜びて之を利【さいわい】とす。終【つい】に生祠を塚上に建つ。桜井霊神と称し(中略)側らに山口霊神と称する石塔もあり。 しかし『甲斐国志』より三十余年前に刊行された『裏見寒話』(野田市左衛門著)によれば、(抜粋)
湖水の眺望絶景なりしを桜井孫兵衛と云し宰官、明智博学にして、此の湖水を排水し、濁河へ切落とす、今は一村田畑にして、農民業を安んす。農民此の桜井氏を神と仰ぐよし。
として山口霊神や山口素堂の関与には触れてはいない。『裏見寒話』著述の時代には桜井孫兵衛の事蹟は語り継がれていたが、素堂の関与は歴史事実及び言い伝えとして無かった事を示唆している。
桜井孫兵衛は享保十六年(1730)に死去している。「桜井社」の建立は享保十八年(1732)で現在も刻字が明確に読み取れる。側らの石碑の建立は元文三年(1738)である。
当時の甲府の財政は悪化の一途を辿り、幕府よりの借金も増えている時期で、度重なる地域の要請に幕府が答える事ができなかった一つの要因である事には間違いない。代官の職務の一番は年貢の確実な取り立てである。田畑の損失は年貢の納入に大きな影響を与え代官の業績や昇進にも響く。身銭を切っても納入額を完納する義務が在る。農民を救う事は即ち自らの立場を保持する事に繋がることで、桜井孫兵衛の碑文事蹟をそのまま認めるわけにはいかないのである。
元禄時代以前より濁河の氾濫は続き、元禄四年には河除奉行が実地検分して幕府に申し立てをするが不許可となる。同年村役人八名は江戸に出て新堀の落ち口を切り開く訴えをするが、落ち口が上曽根村に当たるえを以て工事はできない旨となる。元禄八年四月三十日桜井孫兵衛外一名で再度実地検分する。工事許可となり同九年三月二十八日に水抜き工事の準備が始まる。四月二日河除奉行戸倉八郎左衛門、熊谷友右衛門面見分として来甲する。千八百間の内千二百間は入札請負として、同五日堀始めて五月十六日水落ちとなる。
このようにして工事は短期間で終了する。『甲斐国志』の云うような孫兵衛は兎も角素堂の関与など無い事が分かる。『甲斐国歴代譜』には、
元禄九年三月、中郡蓬澤溜井、掘抜被仰付、五月成就也。と簡単に記されている。
工事にかかった経費は三百両余である。
桜井孫兵衛は元禄七年から十四年まで甲府代官を務めた後大阪に赴任している。
斉藤正辰は元禄十六年(1703)に養子先斉藤家の遺跡を継ぎ御次番となり、宝永五年(1708)桐門番に転じ、同六年常憲院殿(綱吉)薨御により務めを許され小普請となり、享保十二年(1728)御勘定に列す。十四年(1730)御代官に副て御料所を検し、あるいは甲斐国に赴き、堤河除普請の事を務む。元文四年(1739・碑文を著した次の年)、その務めに応ぜざることあるにより、小普請に貶して(格下げ)出仕をとどめられ十一月に許される。明和二年(1765)に致任して翌三年に没している。《『寛政重修諸家譜』》
正辰は享保十八年と元文三年に甲斐入りしている。現存する石祠「桜井社」の建立年月日は享保十八年である。 私見であるが享保十八年に甲斐入りした正辰は、濁川の見分ををした折に、孫兵衛の事蹟を示す石碑を蓬澤と西高橋の名主に申しつけて、石祠もこの時に両村に建立を申しつけたのである。石祠を生祠とする説が甲斐では確定しているようであるが、一考を要する問題である。 素堂の濁河改浚工事への関与を示す歴史資料は『甲斐国志』のみで、その基の資料は未見である。
素堂死去した後、『甲斐国志』までの期間に素堂及び山梨県の歴史資料には、素堂と甲斐の関係や濁河工事関与を示す書は無い。
一、元禄八年(1695)『甲山記行』 素堂著
◎ 二、享保二年(1717)『通天橋』 山口黒露著
※三、享保十二年(1732)『甲州囃』 村上某著
◎ 四、元文三年(1738)『孫兵衛地鎮碑文』正辰著
◎ 五、宝暦元年(1751)『俳諧家譜』丈石著
※六、宝暦二年(1752)『裏見寒話』野田成方著
◎ 七、明和二年(1765)『摩訶十五夜』山口黒露著
※八、明和六年(1769)『みおつくし』久住他著
◎ 九、明和七年(1770)『俳諧家譜拾遺集』春明著
◎ 十、安永八年(1779)『連俳睦百韻』佐々木来雪著
※十一、 天明三年(1789)『甲斐名勝志』萩原元克著 十二、文化十三年(1816)『甲斐国志』 松平定信編 ※印が甲斐関係の書であるが、残念ながら素堂については触れてはいない。素堂の甲斐入りに関与した記述は『みおつくし』久住句の前書きに見える。
露叟の扉は柳町といふにつゝきし緑町と申す所なり。むかし素堂も此の所に仮居せられしとなん。
黒露は素堂の家系にある人物であり、その黒露が甲斐に居た時は右記の仮居に居たことになる。素堂がこの仮居にいた時期は元禄八年しか考えられない。この久住の前書は黒露に聞いた話であり、これ以上は言及できない。◎
印は素堂について相当詳しく記してあるが、残念ながら素堂と甲斐の関係を導き出すことはできないが、『通天橋』の「草庵六物」の中の灯籠高眠石と手水鉢夢山は甲斐根産とある。 『甲斐国志』のみの素堂の濁河工事関与記述が後世土木技術者としての素堂像ができあがってしまった。
六、知られていない素堂像 序文・跋文の多さが示すもの
素堂の事蹟で全く伝わっていないのが、俳論や序文と跋文である。それは松尾芭蕉をはるかに凌ぐ多さと内容である。俳論については『松の奥』(元禄三年)と『素堂口伝』があり、山梨県立図書館に蔵されている。
『松の奥』は研究者により偽書扱いされていて、『素堂口伝』も殆ど読まれていない。芭蕉と同時代に生きて俳諧の隆盛に尽くした素堂の事蹟は、芭蕉の研究者にと
って迷惑な存在であったに違いない。芭蕉が素堂の事を記した書簡なども偽書扱いされているものが多く、全て認めると芭蕉の事蹟の評価に大きく影響するからである。 素堂の主なものをここに列挙してみる(詩文・前書きを含む。年齢は素堂)
|
1 |
延宝八年(1680)『俳枕』 高野幽山編 三十九才 |
|
2 |
天和二年(1682)『武蔵曲』 四十一才 |
|
3 |
天和三年(1683)『芭蕉庵再建勧化簿』 素堂著 四十二才 |
|
4 |
貞享二年(1685)『野晒紀行』 芭蕉編 四十四才 |
|
5 |
々 『一楼賦』 々 |
|
6 |
々 『伊賀餞別』『句餞別』 |
|
7 |
々 『蓑虫説』 素堂著 |
|
8 |
三年(1686)『芭蕉庵三日月日記』 素堂著 四十五才 |
|
9 |
四年(1687)『続虚栗』 其角編 四十六才 |
|
10 |
々 『柱暦』「芭蕉翁、庵に帰る喜びて寄る詞」 「素堂亭十日菊」「芭蕉庵十三夜」 |
|
11 |
元禄元年(1688)『あら野集』 |
|
12 |
二年(1689)『奥の細道』 芭蕉著 四十八才 |
|
13 |
三年(1690)『酒折宮和漢奉納』自著 四十九才 |
|
14 |
『松の奥」と『梅の奥』 |
|
15 |
四年(1691)『俳諧六歌仙』鋤立編 五十才 |
|
16 |
元禄五年(1692)『一字幽蘭集』沾徳編 五十一才 |
|
17 |
『芭蕉庵三日月日記』 |
|
18 |
八年(1695)『甲山記行』 素堂著 五十四才 |
|
19 |
九年(1696)『浜ゆふの記』沾圃編 五十五才 |
|
20 |
『三畫一軸の跋』 |
|
21 |
十二年(1699)『芭蕉庵六物』素堂著 五十八才 |
|
22 |
十三年(1700)『六玉川序』 百丸編 五十九才 |
|
23 |
『法竹子の父に手向る辞』 |
|
24 |
『冬かつら序』杉風編 |
|
25 |
十四年(1701)『宗長庵記』 素堂著 六十才 |
|
26 |
『長久庵記』 々 |
|
27 |
宝永元年(1704)『千句塚序』 除風編 六十三才 |
|
28 |
二年(1705)『寸の字』 座神編 六十四才 |
|
29 |
四年(1707)『菊の塵跋』 園女編 六十六才 |
|
30 |
『嵐雪を悼む辞』 |
|
31 |
『東海道記行』素堂著 |
|
32 |
五年(1708)『梅の時』 六十七才 |
|
33 |
七年(1709)『葛飾の序』 六十九才 |
|
34 |
『とくとくの句合』素堂著 |
|
35 |
正徳二年(1711)『誰袖集序』 素白編 七十一才 |
|
36 |
二年(1712)『千鳥掛序』 蝶羽編 七十二才 |
|
37 |
『鉢敲序』 花天編 |
|
38 |
五年(1715)『みかへり松』祇空編 七十五才 |
|
|
年不詳 『鳳茗記』『茶入号 朝日山』 『利休茶道具図絵序』山田宗 著 |
|
|
重要なもの 『素堂口伝』 |
(『梅の奥』については伝本は未詳である)
素堂の序文、跋文、詩文、漢詩、和歌などは今まで余り紹介されてはいない。先頃お亡くなりになった清水茂夫先生は素堂について研究しておられて、その著「山口素堂の研究」にまとめてあったが、『山梨大学研究紀要』に掲載されている為に世に出る機会に恵まれなかった。 先生も右記の序文や跋文の全容については触れてはいない。この中には「不易流行」などの俳論や多くの俳人に俳諧の方向を示唆する内容を持つものも含まれている。 さらに『松の奥』・『梅の奥』や『素堂口伝』は偽書ではなくこれも多くの俳人たちの参考書として大切に継承されていた。
『素堂口伝』の「仮名口決」は信濃の小林一茶も保持して参考にしていたものである。
『利休茶道具図絵』「序」(山田宗著)などは茶道の指南書で宗 は利休継承千宗旦の一番弟子で長い間小笠原家の茶道頭を務め晩年に江戸に暮らした。有名な「赤穂四十七士」が討ち入りした吉良家にも出入りしていた人物であり、当時の超一流の茶人である。その書の序文を著した素堂の名声と地位の高さが忍ばれるものである。 素堂の地位の高さや忙しさは晩年まで続き、芭蕉も生存中素堂を「先生」と呼び、何かと相談していた。素堂と芭蕉の間柄は親密であり、素堂と芭蕉で詠い上げた幾つかの俳諧集はお互いの良さを更に引き出す結果となった。あの有名な芭蕉は『奥の細道』の紀行中にも素堂の書を保持していた事が記されている。
芭蕉の弟子とされる河合曾良(長野県上諏訪出身)と素堂は芭蕉亡き後も親しく交友があり、芭蕉生前中の書簡は素堂 曾良 芭蕉、芭蕉 曾良、素堂で遣り取りされていたものが多く見られる。芭蕉の弟子とされる多くの俳人は素堂の知識や俳論を慕う者も多く、宝井其角、服部嵐雪、向井去来など枚挙に暇がない。
また時の老中秋元但馬守や風流大名内藤風虎との関係は成年時代からの素堂の地位の高さを示している。
目には青葉 山ほとゝぎす 初鰹
は鎌倉で詠んだものであり、内藤風虎の菩提寺光明寺の裏山から見た鎌倉海岸は絶景であったとされる。
素堂は『国志』では市右衛門や勘兵衛を名乗ったあるが、他の事蹟資料には見ることができないのである。 ここまで『国志』の記載間違いを資料を訂正してきた、これは『国志』全体の記述に対しての訂正では無く、「素道」の項についてだけのことであることを確認したい。「素道」の項の資料は「濁河地鎮碑」であり当時伝えられていた素堂像が中心に展開したものであり、『連俳睦百韻』や『通天橋』さらに『松の奥』『素堂口伝』などは含まれてはいないのである。
『国志』の基本資料で他の資料と合致する部分は「名は信章」「字は子晋(漢学の号か)」「生年(月日は他に異説あり)「章句は林春斎」「宗因、信徳らを友とし」「来雪と号す」「人見友元を学友とし」「葛飾安宅に家を移す」「没年」「江戸の墓所」くらいで残りの部分は『国志』のみの記述である。
潜入観念を捨てて『国志』を再読して、他の資料も熟読してみれば素堂誤伝の箇所が浮き彫りになる。
最近連歌の発祥地とされる酒折宮に於て連歌の試みが報道されているが、素堂が元禄二年に甲斐の人々の要請に応じて作り酒折宮に奉納した連歌はその後どうなってしまったのか。又都留郡谷村に芭蕉が来た折りに仮寓した高山伝右衛門の別荘の再築が物議を醸しているが、歴史資料から一考を促したい。
さてここで余り知られていない素堂の晩年について紹介したい。素堂と芭蕉の関係は兄弟以上のものであった事は一部俳諧研究者により究明されているが、それは延宝年間からのことでそれは他の追随を許さないほど密着していた。芭蕉は元禄七年十月十二日に大阪にて死去する。素堂は妻の死の忌中であり、大阪へは行けなかったがその後京阪に訪れる際や句作の中で芭蕉への思慕があふれている。
八、素堂と京都、京都は素堂にとって故郷だった。
素堂は芭蕉死後頻繁に京都を訪れている。あるときは京都で越年して過ごしている。素堂が京都を訪れた事を資料によって示したい。
一、寛文 五年(1685) 素堂二十四才 《大和》
資料…荻野清氏『山口素堂の研究 上』
二、延宝 二年(1674) 素堂三十三才 《京都》
資料…北村季吟『廿会集』「信章歓迎百韻」
三、元禄 十年(1697) 素堂五十六才
資料…『真木柱』
都ゆかしく いづれゆかむ蓮の實持て広澤へ
資料…『とくとくの句合』
小野川洛陽に住居求むとて登りける頃、予も又其志なきにしもあらず
蓮の實よとても飛なら広澤へ
四、元禄十一年(1698) 素堂五十七才 《京都》
資料…『続有磯海』・『橋南』・『去来抄』
五、元禄十三年(1699) 素堂五十八才 《京都》
資料…『風の上』
六、元禄十四年(1670) 素堂五十九才 《京都》
資料…『元禄俳諧集 年表』
七、元禄十七年(1704) 素堂六十三才 《京都》
資料…『元禄俳諧集 年表』
八、宝永 二年(1705) 素堂六十四才 《京都》
資料…『去来書簡』
九、宝永 四年(1707) 素堂六十六才 《京都》
資料…『白蓮集解説』
十、年不詳 《大阪》
資料…『蟻道が句のこと 素堂序文』
この他にも素堂の京都訪問はあると思われるがここでは省く。『国志』によれば素堂は京都の持明院家や清水谷家での修養が記されているが資料を持たない。素堂の著した『松の奥』に記載中には次の記述がある。
「亦道の邊に清水流るゝ歌は、そゝき上たるゝごとし、 至極きょうなる所と持明院殿は仰せられしなり」
延宝二年の北村季吟訪問も「信章歓迎百韻」である。素堂を季吟門とする書が多いが、そのような資料は見えない。
九、甲府尊体寺の「山口家の墓」は素堂や魚町市右衛門家とも関係ない。
最後に甲府尊体寺に在るとされる『国志』の素堂位牌と戒名であるが、これも疑問である。素堂は享保元年八月十五日に死去して、感應寺(現在の天王寺}の黒露らの手により埋葬されている。この墓所が山口家の墓所が在った所かどうかは定かではないが、甲府尊体寺で無いことだけは明確である。戒名も、
『国志』…… 感應寺、尊体寺…法諱眞誉桂完居士
『素堂句集』…感應寺中瑞院 …廣山院秋厳素堂居士 である。この感應寺の素堂の墓石は黒露により他の寺へ移設されている。
素堂の評価は伯毅の『含英随記』の次の言葉がよく表わしている。
子晋(素堂の号)の才は擒ふ可らず、盖し林門の三才の随一たるべし。
素堂の研究は今後も継続していく。諏訪図書館には曾良の素堂晩年の文書もあると云う。
十、山口素堂は濁川浚工事に関与していない
はじめに
この書は拙著「山口素堂の全貌」の資料をもとにして、真の素堂像を人々に伝えることを目的にしている。
文中に於いて過去の間違いを正す為に、誤記述のある書籍名及び著述者を記す場合もあるが、真実を追求する段階で必要であり、許されることと信じている。
これまでも機会があるごとに山梨県内の歴史認識の曖昧さを訴えてきたが、浅学な一般人の歴史研究などと無視されてきたが、最近になって拙い資料をを求めて来る人が多きなってきたので、これまでの著述を部分的に公開することとした。
しかしそうしたことが、私の調査研究に拍車をかける大きな要因になった。歴史の誤りを修復するには時間がかかる。
『甲斐国志』の誤り
現在伝わる素堂像は真実のものと大きな開きがあり、人々に正しく伝わっていない。
中でも素堂と濁川改浚工事との関連については『甲斐国志』の独壇場で、今では土木の神に祭りあげられてしまった。
『甲斐国志』は素堂が没して百余年経てから甲斐で編纂され幕府に提出された一級の書であると云う。編纂時に参考にした中央の資料も多く、また多くの時間を割いて取材し、村々へも資料の提出を要請し地方もこれに応じた。その収集範囲は山川や神社仏閣などや人物や古蹟に至るまで甲斐の歴史を網羅し、編纂者の労苦が忍ばれる。
私は『甲斐国志』を批判したり、全体の信憑性を疑う者ではない。
宮本武蔵は甲斐の生まれ?
その甲斐国志には、宮本武蔵はの祖は甲斐国であるとの記述がある。誤解を招くといけないので関係する箇所の全文を掲載する。
甲斐国志巻之百二 士庶部第一
一、〔宮本武蔵忠躬〕
本州の士宮本源内忠秀と云者の後なりと云。武蔵は剣術を以て栄名を施せり。
嘗て江戸に在りて豊州小倉に招かれ小笠原右近将監忠貞に仕ふ。
武将感状記に云、始め細川越中守忠利に使へたり。小倉に赴く時に於て、長州下関岸柳と云う撃剣堪能の士に出会ひ互いに其術に誇り、仕合して遂に岸柳を打ち殺せし由を載す。武蔵は両刀を用ひ、長二尺五寸、短一尺八寸なり。
世に武蔵流と称す。
この記載事項については、後の書が触れた形跡がない。若しこの記述が真実なら、これまでの武蔵像が見直されることになる。
この記載に気がついてから、武蔵に関する書を読み漁ったが、残念ながらそれを示す著書や伝記物に出会う機会に恵まれない。
濁川工事
素堂は「濁川改浚工事は関与していない」これが私の長年の調査の結果導き出された結論である。
山口家市右衛門
本文では『甲斐国志』(以下』国志』)の記述に沿って真偽を確認してみる。素堂は調査した範囲内の資料では決して「素道」とは号していない。また『国志』での素堂の「公商」号は不詳であるが、「小晋」は資料に見える
(『含英随記』)
素堂の号は信章から来雪そして素堂へと移行している。素堂の本名は『国志』では市右衛門または官兵衛となっていて、市右衛門は甲府市中の魚町山口屋市右衛門の代々の家名であり、だからその山口屋の長男であった素堂も市右衛門を名乗ったと推察している。
後述で詳細に述べるがこの山口屋と素堂の関係は史料には見えない。魚町山口屋は酒造業を営んでいたとする書もあるが、『国志』には山口屋の家業は示されてはいない。山口屋は人々が「山口殿」と羨む富豪家であったと『国志』以来諸書に記されているが、『国志』以前の書や当時の時代背景からは富豪家山口屋の存在を示す資料は無く、編纂者の記憶違いか若しくは創作の疑いもある。
甲斐国志の間違い
こうした適切な資料を欠く記述は『国志』一書の記述であり、後の諸書は『国志』を鵜呑引用し、さらにその事蹟を拡大評価して著す傾向にあり、その結果素堂の多くの事蹟は消失して濁川改浚工事関与が事実の様に人々の記憶に積重なることになった。
『国志』への歴史関係者の盲信や、自らの歴史観を固守など歴史への特別の思い込みは歪んだ歴史を生み、真実から遠ざかることになってしまった。
歴史研究に携わる人々
歴史は常に見直しが必要で、歴史家には自説を問い質す謙虚さが求められるもので、確実な資料の少ない場合は、確定せず後世へ託すべきであり、軽はずみな定説創りを急いではならない。また歴史関係者は自説と違ったり、過去の定説が覆る有効な資料が現われた場合には素直に耳を傾け、訂正する度量の広さが求められる。
中には自己の研究を中心にして著さずに、引用書で覆われた歴史論を展開している書もあるが、こうした行為は間違いを訂正するどころか、間違った説を後押しすることにもなる。引用の繋ぎ会わせや定説擬きを真実のように記述するだけでは史実は解明できない。
また歴史紹介書は一度間違いを史実のように書すと、真説が出ても滅多に訂正されることはなく、訂正されないもので、柳沢吉保、市川団十郎それに山口素堂などがこれにあたるものである。
国書や高名な歴史学者並びに文学者の説は、例え間違っていても訂正されることはなく追認され、引用されて定説になり、史実ようになるものである。
この項で取り上げる素堂と濁川改浚工事はそれの最たるものであると考えられる。
今回は有効な資料を各種提出して、素堂の甲斐との関係の浅さや濁川改浚工事との関与がいかに薄いかを多くの人に認識していただきたい。また『国志』の素堂に関する記述で明らかに間違っている箇所も多い。これは項を変えて述べることとする。
勿論、私の研究もすべて正しいわけではないので、どしどし批判や訂正を加えていただきたい。要は歴史を正しく見直す作業の大切さを今後も訴えていきたい。
幕府直轄の河川事業において、国志のいうような「濁川工事」の形態は有り得ない事であることは明白である。
十一、素堂と濁川改浚工事
素堂像を大きく歪めたのは元禄九年3月の濁川改浚工事への素堂の関与が、『国志』に劇的に記載されたことが起因である。
この項はよく読んで見ると、時の代官触頭桜井孫兵衛政能の事蹟顕彰を「素道」の項を借りて記述している。こうした記述方法は他の人物の項などにはなく独特のものであり、講談調の語りを入れるなど「お涙だ頂戴」の構成になっている。
素堂没後約百年経てから編纂された『国志』「素道」の項は素堂の事蹟、特に「濁川改浚工事」への関与を特書して、命を賭けて国を救った土木技術者として祭り挙げてしまった。後年になり事蹟顕彰の石碑が立ち土木書に引用され、山梨県内外の歴史書には素堂を義民の生神様としてしまった書もあり、素堂は可哀想に俳諧の事績や文人としての活躍など、一部を除いて等閑にされてしまったのである。
桜井孫兵衛と斉藤正辰
素堂は桜井孫兵衛より七歳年下であり、没年は素堂が享保元年、孫兵衛は享保十六年である。孫兵衛は甲府の代官を辞した後は大阪に赴任している。
孫兵衛の石祠と顕彰石碑は濁川のほとりにあり、地域の人々は今でも「桜井しゃん」として祀っている。この石碑は刻字もはっきりしていて正面には「桜井社」裏面には享保十八年建立、西高橋村・蓬澤村と刻字してある。
これは桜井孫兵衛政能の姪斎藤六左衛門正辰(政能孫兵衛と兄政蕃は父定政の子で、政蕃の子政種、その子が政命で、斎藤六左衛門正高の家に婿に入り、斎藤正辰と名乗る…『寛政重修諸家譜』)が享保十八年(1733)甲斐に来た折に地元に建立させたものである。
正辰は元文三年(1738)にも来甲して、その折には地鎮碑を建立している。
石祠は生祠ではない
碑文によれば桜井孫兵衛の生祠に関わる部分として、「政能死してから久しい。而して両村民はその恩を忘れることは能わず。乃ち政能を奉じて地の鎮めと為し、祠を建て毎歳これを祀る。ああ生きて人を益すれば、即ち死してからこれを祀るは古の典也」
とあり、生祠では無い。前述のように孫兵衛の没年は享保十六年であり、石祠の建立は十八年である。この石祠は明らかに生祠ではないことが明白であるが、それ以前のものがあった可能性は否定できない。
山口霊神は存在していなかった
山梨県の歴史書や紹介書は長年この石祠を生祠として記している。また『国志』以来素堂の「山口霊神」も合祀されているとの記述も見られるが、その存在を証する書もなく不詳であり、現在もそれ以前の紹介にも石祠は文書以外に現存しない。傍らにある石碑は孫兵衛の兄の子供が斎藤家に婿に行った斎藤正辰(当時勘定奉行の一員)が甲斐を訪れた時(正治三年)に建立したものである。前述しておいたが、正辰は孫兵衛の兄政蕃の子であり、斎藤家に婿入りしている。この石碑の刻文を後の『国志』が拡大引用したものである。
残念ながら石碑刻文の中には素堂に関与する記述は見えず、孫兵衛の威徳を顕彰しているだけである。何故素堂が孫兵衛の事蹟の中に組み入れられたかは、それを示す史料が無く不明である。
『甲斐国志』
元禄八年(1695)乙亥歳素堂年五十四、帰郷して父母の墓を拝す。且つ桜井政能に謁す。前年甲戊政能擢されて御代官触頭の為め府中に在り。
政能素堂を見て喜び、抑留して語り濁河の事に及ぶ。嘆息して云う。「濁河は府中の汚流のあつまる所、頻年笛吹河背高になり、下の水道 みずみち のふさがる故を以て、濁河の水山梨中郡に濡滞して行かず。云々然れども閣下(素堂)に一謁して、自ら事の由を陳べ、可否を決すべし望み、謂う足下に此に絆されて補助をらんことを」
「素堂答えて云う。人は是天地の役物なり。可を観て則ち進む。素より其分のみ。況んや復父母の国なり。友人桃青(芭蕉)も前に小石川水道の為に力を尽せし事ありき。僕あ謹みて承諾せり。公のおうせにこれ勉めて宜しくと」云々
素堂は薙髪のまま双刀を挟み再び山口官兵衛を称す。幾程なく政能許状を帯して江戸より還る。村民の歓び知りぬべし。官兵衛又計算に精しければ、是より早朝より夜遅くまで役夫をおさめて濁河を濬治【水底を深くすることす。云々
是に於て生祠を蓬澤村南庄塚と云う所に建て、桜井明神と称え山口霊神と併せ歳時の祭祀今に至るまで怠り無く聊か洪恩に報いんと云う。
だそうである。ここで他の資料を見てみる。
『甲斐国歴代譜』
元禄九年丙子三月、中郡蓬澤溜井掘抜仰付、五月成就也。
これが幕府の正式な書類である。河川工事は幕府直轄事業であり。当時国志のいうような工事形態は有り得ない事は後述する工事内容で明白となる。。
素堂は江戸に於いて草庵にいたわけではない。元禄六年、時の幕府儒官人見竹洞が素堂の家を高官と訪れているが、その記載によれば、素堂の家の広さを相当なものである。この項ではこうしたことは深く記さないが、その竹洞は素堂の母の死去についても記述している。
『竹洞全集』
幕府儒管人見竹洞著
元禄八年夏、素堂の母
素堂山子八旬老萱堂 至乙刻夏忽然遭喪
素堂は元禄六年に林家に入門。七年の冬に妻の忌中に盟友芭蕉を亡くし、八年夏には母を亡くしている。素堂の母の没年を元禄三年としたり、甲府尊体寺の「山口市右衛門建立」の墓石は素堂の母とはなんら関係ないものである。
山口家の墓所の墓石には中央に山口藤左衛門とあり、定かではないが、代々市右衛門を名乗ったとする甲斐国志の記述との相違が認められる。
『甲山記行』素堂著
それの年の秋甲斐の山ぶみをおもひける。そのゆえは予が母君がいまそかりけるころ身延詣の願ありつれど、道のほどおぼつかなうて、ともなはざりしくやしさのまま、その志をつがんため、また亡妻のふるさとなれば、さすがになつかしくて葉月の十日あまりひとつ日かつしかの草庵を出、云々
十三日のたそがれに甲斐の府中につく。外舅野田氏をあるじとする。云々
重九の前一日かつしかの庵に帰りて(九月八日)
旅ごろも馬蹄のちりや菊かさね
素堂は元禄八年八月十一日に甲府にきて、九月八日に江戸葛飾に帰っている。素堂が元禄九年に甲斐に居て、三月から五月まで孫兵衛の手代として濁川改浚工事を指揮した事を示す史料は見えず、また『甲山記行』には孫兵衛と会ったことや濁川改浚工事への関与を窺わせる記述は無く、『甲斐国歴代譜』は淡々と工事の開始と終了を告げている。
(空白の日時はある)
素堂の府中の宿は外舅野田氏宅である。外舅野田氏とは素堂の妻の父親ではないだろうか。
『裏見寒話』
元禄七年〜十四年
御代官触頭 桜井孫兵衛
〃 野田市右衛門
御入用奉行 野田官兵衛
素堂は実家山口屋を訪れたのであろうか。当時も素堂没後も魚町山口屋市右衛門は居た。素堂の弟が家督を継いだという山口家と府中魚町山口屋市右衛門家は同一なのだろうか。これも明確な資料が不足で言及できない。それより、素堂が甲府に居た実績などを示す資料は全く見当たらないのでる
『国志』素道の項
舎弟某に家産を譲り、市右衛門を襲称せしめ、自らは名を官兵衛と改むる。時に甲府殿の御代官桜井孫兵衛政能と云ふ者、能く其の能を知り頻に招きて僚属となす。居る事数年、致任して東叡山下に寓し、云々
素堂が江戸に出たとされるのは二十歳の頃とされているが、孫兵衛は素堂より八歳年下である。従ってこの時点で孫兵衛の僚属となることや、孫兵衛が甲府代官になっていることも有り得ない。
『山梨県史』「資料編九」
元禄八年 覚 金割付御奉行所より被遺候文
小判十両 うを町 市右衛門
『山梨県史』「資料編九」近世2 甲府町方
享保二年(1715)
御用留口上書
御巡見様御泊之節御役人衆留書
町役人詰所 魚町 市右衛門
『甲府市史』「資料編 第二巻」近世1
享保八年(1723)山梨郡府中分酒造米高帳
魚町 山口屋市右衛門
元禄十年(1697)造高四十三石五斗
享保八年(1723)造高 十四石五斗
当時山口屋は西一条町にも存在した.
西一条町 山口屋権右衛門
元禄十年(1697)造高四十二石二斗八升
享保八年(1723)造高 十四石八斗
山口屋は酒造業とすれば決して大きいほうではない。伝えられる説では素堂家は素堂が幼少の頃現在の北巨摩郡白州町下教来石字山口を出て府中魚町に移り住み、忽ち財を成したと云う。
「山口殿」といわれた豪商の家にしては酒造石高が少なすぎる。
そして生地とされる下教来石字山口地区には素堂ことを示す資料や史実は見えず、地域に伝わる話は、『国志』以後の「戻り歴史」で、中央で記述された書を見てそこに記されている事象を地域に当てはめる歴史、それが「戻り歴史」である。
『甲山記行』の「また亡妻のふるさとなれば、さすがになつかしくて」の「ふるさと」を身延とする説もあるが、「甲斐の山ぶみをおもひける」を踏んで、甲斐が亡妻のふるさととも解釈できる。むしろこの方が自然である。
素堂の妻は元禄七年に没している。盟友芭蕉が大阪で十月十二日に没したとき素堂は妻の喪に服していた。
「素堂、曾良宛て書簡」抜粋
野子儀妻に離れ申し候而、当月は忌中に而引籠罷有候。
桃青(芭蕉)大阪にて死去の事、定而御聞可被成候。云々
これは素堂の妻の存在は河合曾良に宛てた書簡により明確である。素堂の母も人見竹洞の事を伝える『竹洞全集』により元禄八年夏に急逝したことがわかる。素堂の母の没年には元禄三年説があるが、元禄八年逝去が正しい。また府中山口屋市右衛門の母の墓石が甲府尊躰寺にあるが、これが素堂の母の墓石である可能性は極めて低く、側面の「市右衛門 老母」の刻字は不自然である。また尊躰寺にあったと『国志』が記す素堂の法名「眞誉桂完居士」も同様である。素堂の法名は現在も谷中の天王寺(当時は感應寺)の位牌堂に安置されていて、法名は、「廣山院秋厳素堂居士」である。
従って『国志』の「元禄八年乙亥歳素堂年五十四、帰郷して父母の墓を拝す」は史実ではなく創作話である。
素堂の父の存在は資料が無く明確に出来ない。父は素堂が何歳まで生存していたかもわからないが、何れにしても素堂家の墓は江戸に在ったとするほうが自然である。先代の山口屋市右衛門の墓は尊躰寺の墓所内には見えず、山口屋及び「山口殿」代々の墓所は何処に存在したのであろうか。
善光寺の墓所にも「山口」の立派な墓所もあるが不詳である。
『甲斐国志』巻之四十三 「庄塚の碑」
文化十一年(1814)刊行
(前文略)
代官桜井孫兵衛政能は功を興して民の患を救う。濁
川を浚い剰水を導き去らしむ。手代の山口官兵衛(
後に素堂と号す)其の事を補助し、頗る勉るを故を
以て、二村の民は喜びて之を利とす。
終に生祠を塚上に建つ。桜井霊神と称し正月十四日
忌日なれども今は二月十四日にこれを祀る。
側らに山口霊神と称する石塔もあり。云々
後の斎藤六左衛門なる者。地鎮の名を作り、以て石
に勒して祠前に建つ。
とあるが、はるか以前の『裏見寒話』にも同様な記述があるが、素堂の関与は示されてはいない。
『裏見寒話』巻之三 宝暦二年(1752)
『国志』より六十年前の書(野田成方著)
昔は大なる湖水ありて、村民耕作は為さず、漁師の
み活計をなす。其の頃は蓬澤鮒とて江戸まで聞こえ
よし。夏秋漁師の舟を借りて出れば、その眺望絶景
なりしを、桜井孫兵衛と云し宰臣、明智高才にして、
此の湖水を排水し、濁川へ切落し、其の跡田畑とな
す。農民業を安んす、一村挙げて比の桜井氏を神に
祭りて、今以て信仰す。蓬澤湖水の跡とて纔の池あ
り。鮒も居れども小魚にして釣る人も無し。
『甲斐叢記』(国志を引用)
嘉永元年(1848) 大森快庵著
(前文略)
元禄中桜田公の県令桜井政能孫兵衛功役を興め二千
四間余の堤を築き濁川を浚い剰水を導き去りて民庶
の患を救へり。
属吏山口官兵衛(後素堂と号し俳諧を以て聞ゆ)其
事を奉りて力を尽せり。因て堤を山口堤又素堂堤と
も云と称ふ。
諸村の民喜ひて生祠を塚上に建て、桜井霊神、山口
霊神と崇祀れり。云々
濁川工事の概要
さてここで、濁川改浚工事の概要が詳しく著されている資料があるのでここに提出する。
『山梨県水害史』
古老手記(未見、不詳)元禄九年の条に三月二十八日、蓬澤村の水貫被仰付(中略)五月十六日八つ時分に掘落申候へば、川瀬早河杯の様に水足早く落申候。(中略)
桜井孫兵衛政能なる人、此苦難を救わんとして来り、堤を築き、河を浚い、以て湖水を変じて良田に復す。而して此工事には山口官兵衛なる人補助役として努力し、其土工の俊成を迅速且つ完全にならしめたりと云ふ。(中略)また桜井孫兵衛等によりて、中郡一帯安全の土と為りたる効を沒す可かならず、地方土民等其遺績に感激し桜井孫兵衛を祭りて桜井霊神とし今日至る迄に崇敬を厚うする亦宜なる哉(後略)
『元禄年間濁河改修事蹟』
武井左京氏著
『甲斐』第二號P31〜36《》印筆者
濁河は、甲斐国志に「高倉川・藤川・立沼川・深町川等城屋町の南板垣村の境にて相會する虞に水門あり、是より下を濁河と名つく。東南へ湾曲して板垣界より中郡筋の里吉・國玉両村の間を南流す」とあり。改修以前は現今の玉諸村の内里吉・國玉の界を南流し、同村の内蓬澤を経て住吉村の内増坪の北横手堤(信玄堤)に抵り、一曲して東に向ひ玉諸村の南にて笛吹川(明治四十年の大水害にて改修せられ今は平等川となれり)に合流したるものなりしが、延宝年度頻年の大出水にて笛吹川瀬高になり、川尻壅塞して平常水患を被るもの沿岸村九ケ村即ち現在の里垣村の内坂折・板垣、王諸村の内里吉・國玉・西高橋・蓬澤・七澤・上阿原、往吉村の内畔村にして就中西高橋・蓬澤、最も甚敷田園過半沼地となり鮒魚多く生産す。其頃物産の一なりしと云ふが如き状態に陥りたるを以て排水の為當時の合流地點より約十四五町の下流西油川(往吉村の内)附近に於て濁河を笛吹川に合流せしむべく計画したるに、対岸東油川村(富士見村の内)に於て故障を中立たるを以て遂に工事に着手すること能はさりしを以て
延宝三年(二百五十六年前)《1675》正月西高橋、蓬澤村の名主長百姓連書し、
延宝二年《1674》八月度々出水にて田畑は勿論住宅迄浸水し、居住困難に陥りたるを以て何れにか移轉を被命度且つ東油川村の意向を取糺したるに、既定計画の合流口を多少の変更を為すに於ては異議なき旨に付、
同春《延宝二年》中に工事を遂行せられ度旨奉行所に訴へ出たり。
其の後十一年貞亨年丙寅年(二百四十五年前)《1686》六月十二日出水浸水床上四寸に至り畑作物皆無となれり。
同四丁卯年《1687》八月二十七日出水あり。
越へて元禄元戊辰年《1688》七月二十日・二十一日に亘り大出水家屋内浸水五六尺に達し溺死者を出し、田畑共作物皆無となり示後八月十日及九月の両度出水あり。
同二年巳年《1689》四月九日・五月二十九日・六月十八日・十九日同二十四日の数度出水あり。
同《元禄二年》七月六・七日に旦る大出水は元禄元年七月の出水より三寸の増水にて浸水十日の久しきに旦り。田畑の作物皆無は勿論床上浸水一尺三寸に至りたるを以て沿河九ケ村の名主長百姓連署を以て、「本年七月の出水は前舌未曾有の人出水にて田畑は勿論、西高橋・蓬澤の両村は住家の軒端迄浸水したるが如き惨状を呈したるを以て、先年目論見の排水工事に付ては対岸東油川村に於て合流點を少々下げらるゝに於ては支障なき旨に付変更の上工事遂行」方奉行所に訴へたり。
翌三庚千年《1690》六月六日及九月六、七日数度の出水ありたるを以て十月中前年八月同様沿河九ケ村名主長百姓より前願趣旨を継承し「排水口に落合村(山城村の内)用水先年落来りし。蛭澤堰落口又は荒川へなり何れへなり共決定、工事遂行せられ度旨」前同断訴へ出たり。
同四辛来年《元禄四年》二月三日川除奉行臨検實地に就き排水路の測量をなしたり、
同四月中「水路工事の義、着手に全らず荏再経過せられ数度の出水にて村民困難に陥りたるを以て工事遂行の件、轄地に於て難決幕府に上議せらるゝ」とせば村役人幕府に出頭すべきに付添翰を下付せられ度申立
同《元禄四年》五月中「當春、川除奉行實地臨検の結果落合村(山城村の内)用水落口に九ケ村出願の排水路落口に見立られ右は何れも故障を生ぜざものに付右目論見の通工事遂行方」訴の上、
同月十一日西甘高橋・蓬澤村の村役人八名江戸に出立排水路堀塞之義を幕府に申立たるも右落口は上曾根村の対岸に當れるを以て同村の意嚮を慮り差控られ詮議の運に至らざりしに、
同年《元禄四年》六月四日又々出水あり。同間八月引績き落合村蛭澤堰落口に堀鑿すべく目論見たる排水工事遂行に至らざるを以て西高橋、蓬澤両村は排水の為困難を極め居住に難堪、他に移轄の己を行ざる場合に立至りたるに付荒川に排水せられ度旨訴べたり。
翌五壬申年《1692》は五月三、四日及七月二十一日両度、 同六癸酉年《1693》は四月二十五日、七月二一・四・五日、九月十二一日、十八日数度の出水を重ね、
翌七甲戊年《1694》富時櫻田殿甲府宰相松平綱豊(後の徳川家宣文明公)の領地たりしとき櫻井政能代官として任に むや同年も五月閏五月十九日、七月三日、八月二日数度の出水あり西高橋、蓬澤は最も卑地なるを以て田畑多く沼淵となり(此時に當り村民魚を捕へ四方に鬻き食に換へ蓬澤の鮒魚本州の名産たりし)降雨毎に釜を吊し床を重ね稲田は腐敗し収獲毎に十の二、三に及ばず前に水中に没したる者数十九戸、既に善光寺〈里垣村の内)の山下に移轉し、残余の者も居住に堪へさらむとするに至り、政能憂慮し屡々上聞に達したるも聴されず、
同八乙亥年《1695》四月三十日實地踏査の上意を決し之を幕府の老臣に訴へ遂に許を得、
同九丙千年《1696》(二百三十五年前)三月二十八日濁川の流域を西高橋より落合村に至り笛吹川に合流変更するの計画を致表し
四月二日より川除奉行をして實地を調査せしめ増坪より落合迄延長二千六間(甲斐団志には二千一百有余間とあり)廣き四、五問より六、七間外に附工事たる蛭澤堰附替千四百五十七間にして千二百を請負に付し其の他は關係村に夫役を賦課し
四月十五日より工事に着手し西油川村に於て民家拾軒の移轉を要し
五月十六日悉皆竣工、其の夜の中に排水を了し田圃悉く舊に復し沼淵枯れ稼穡蕃茂し民窮患を免かるヽに至れり。
村民其の洪恩を感載し政能の生祀を建て(蓬澤庄塚)之を祀る爾来祭祀を懈ることなく元文三戊午年《1738》(百九十三年前)孟夏従子斎藤六左衛門正辰祇役して此に至り石を司に樹て地鎮の銘を勒せり《地鎮銘略》
此役に要したる人夫一萬三千五百三十四人《延べ人数》
内夫役 三千百四十九人
請負金 二百二十両
其の他 六一十両差分
民家移轉 十七両貳分五百文
総計 三百両三分銭五百文