山口素堂総合資料室&山梨県の歴史・文学・文化財・自然・森林なんでも調査総合調査ファイル

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 目には青葉山ほととぎす初鰹

 

 

素堂の俳諧・文人活動

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

山梨県文学界の草分け、清水茂夫先生の遺稿

 

目には青葉山郭公はつ鰹(「江戸新道」延宝六年)

 

 この句には「鎌倉にて」という前書がついている。延宝六年(1678)と言えば、素堂37才であったが、そのころ鎌倉に赴いて吟じたものであろう。一見名詞の羅列に終わっているが、実ぱ最初の「目には」で、以下「耳には」「口には」を類推させたところが、手腕のあるところで、それと軽快なリズムとによって有名な句となった。初鰹をとりあげた点も人気を博する所以であろう。一当時俳壇に談林風が勢をふるっていた時代で、素堂もまた親友芭蕉と共に、談林俳諧諸に熱中していたのである。
  寛文の初年二十才ごろ江戸に出た素堂は、。林春斎について漢学を学び、同門の人見竹洞(貞享三年に木下順庵と共に「武徳大成記」を編述した幕府の儒官)などと親交を持って朱子学を学ぶと共に、当時中流以上の町人の社交的教養であった俳諸や茶の湯にも心を傾けた。
  素堂が最初に学んだのは、貞門俳諾、で、特に北村季吟の影響を強く受けている。延宝二年十一月二十三日江戸から京都に上った素堂を迎えた季吟は、九人で百韻を興行している。その発句と脇は次の句である。
 
 いや見せじ富士を見た目にひへの雪  季吟
 世上は霜枯こや都草         信章(素堂)
 
 ところがその翌年延宝三年(1675)五月には、江戸に下って来た西山宗因を迎え、素堂は桃青(芭蕉)らと新風である談林俳諸を興行して、貞門俳諸から談林俳諸へと転向した。素堂と芭蕉との出会いもこれが最初で、この後終生暖かい友情が二人を支配していた。延宝四年には、酉山宗因に対する熱狂的な讃仰が高まって、二人は「江戸両吟」を興行して、端的に談林風を調歌する叫びを表わしている。梅σ風俳諸国に盛んなり信章(素堂)こちとうずれも此の時の春・桃青(芭蕉)■。「梅の風」で、「梅翁」すたわち宗因を表わし、その俳風が全国に流行する姿を称讃し、それに共鳴する自分等の満足感を力強く歌っている。「江戸両吟」の付句たどには、当時の町人の願うところ欲するところが、極めて大胆に卒直に表わされていて、町人の風俗詩としての談林俳諸の面目が躍如としている。
  山椒つぶや扮淑たるらん       桃青(芭蕉)
 小枕やころころぶしは引たふしは   信章(素堂)
 台所より下女の呼び声        桃青
 通ひ路の二階は少し遠げれど     信章 
  かもじ素堂の付句の小枕は、女髪かもじ(髦 たれがみ)髪の根に用つけいるもので、紙を固く束ね、また黄楊(つげ)などで造り、その上を紙や絹で包んだものである。一句は、髪も乱れて小枕のころころころぶ様に、女がころころころび臥す様をかけ、続いて引たふしはと男の女を引き倒す様を表わしている。女の臥す様、男の引き倒す様は、前句の山淑粒や胡淑粒の散乱した状態にも比すべきであろうと前句に応じている。つづく付句も場面は異っているが、全く町人的な愛欲の様相を露骨に表わしていて、人間自然の愛欲を肯定する姿勢が見られる。肉体を罪悪の府と見る中世的仏教的な人間観からの脱却に文学としての意義が認められよう。.延宝七年(1679)長崎旅行から帰った後、素堂は上野に移居して致仕退隠の生活に入った。
   東叡山のふもとへ市中より家をうつして
  鰹の時宿は雨夜のとおふ哉(武蔵曲天和二年刊)
  池はしらず亀甲や汐ヲ干ス心()
  前の句の鰹は既述のように江戸においても.初とどして人々に賞美されていた。世間て鰹をもてはやす時、自分は草庵に降る夜の雨音を聞きながら豆腐を食べていると言うのであって、裏面には自已の隠者生活を官途にある友入の栄達と対比させている。白氏文集十七の「蘭省ノ花時錦帳ノ下、山叫ノ夜雨草庵ノ中」を踏まえながら、その痕跡を少しも残さず淡々と表現している。後の句では、「汐ヲ干ス」が春の季題で、春暖のころ水際に出て来た亀が、折からの春光を浴びて甲をほしている嘱目の情景であろう。極めて静かなあたたかい満ち足りた世界である。そこには退隠生活の中に生き甲斐を感じ安堵している素堂が、まざまざと象徴されている。
  芭蕉は延宝八年(1680)に門弟杉風の深川の下屋敷にあった生州の番小屋を改造して入居した。芭蕉はこの芭蕉庵入居を機縁として、自己の俳諸を真に文芸的自覚をもって反省するようになり、漢詩文調であるいわゆる天和調を経て、蕉風樹立へと向かうのであるが、その芭蕉庵入りは、前年退隠した親友素堂の隠者生活に動機づげられるところがあったではなかろうか。芭蕉は嵯峨日記卯月廿二日の条に「長嘯(しょう)隠士の日、
 「客半目の閑を得れば、あるじ半旦の閑をうしなふと、素堂此の言
 葉を常にあはれぶ。予も又
  うき我をさびしがらせよかんこどり
 とはある寺に独居して云ひ句たり。」
  と記しているように、閑静を愛好する素堂の生活に、心ひかれていたわげであって、遠く芭蕉庵入りの動機の一つに素堂の退隠生活があったと見てよかろう。天和時代は漢詩文調によって行きつっまった談林俳諸から脱皮しようという時代であった。放埓(ほうらつ)な通俗性にのみ走って文芸性の支柱を喪失した談林俳諸が、漢詩文の文芸性を採取すると共に、漢語や漢詩文調によって調子を強化し、一種の新鮮味を出そうとした。
  この時に漢学に造詣の深い素堂が指導老的手腕を発揮したのは当然である。その詳細を記述する遑(いとま)はないが、三冊子くろぜうし(土芳著)に、
  ある禅僧詩の事をたずねられしに、師の日、詩の事は隠士素堂といふもの、此道にふかき好ものにて、人も名を知れる也。かれつねに云、詩も隠者の詩風雅にて宜と云と也。
  とあるので実証できるであろう。素堂の漢詩文調の代表作としては、天和三年(1683)刊の「虚ぐり栗」(其角編)に見える荷興十唱(中、五句を掲げた)をあげることができる。
  浮葉巻葉此の蓮風情過ぎたらむ
 鳥うたがふ風蓮露を礫てけり
 そよがさす蓮雨に魚の児躍
 荷をうって霞ちる君みずや村雨
 蓬世界翠の不二を沈むらく
  素堂が漢学的なバヅクボーソの所有所であったことは、単に漢学の知識があったξ言うにとどまらず、故郷である甲斐の国に来て濁川の土木工事に従事したことに結実している。
  「甲斐国志」は代官触頭の桜井政能の苦心と素堂の協力とについて、次のように記している。
  元禄八年、素堂年五十四、帰郷ツテ父母ノ墓ヲ拝シ且桜井政能二謁ス。 政能素堂ア見テ喜ビ切留シテ語濁河ノ事二及ブ。歎息シテ云、濁河ハ 府下汚流ノ聚マル所、頻年笛吹河瀬高ニナリ下水道ノ塞ガル故ヲ以テ 濁河ノ水山梨中郡二濡滞シテ行カズ。水禍ヲ被ル者十村、ナカソズグ 蓬沢西高橋二村最モ卑地ニシテ田畑多ク沼淵トナリ、雨降レバ釜ヲ釣 リ床ヲ重ネ、田苗腐敗シテ収稼毎二十ノニ、三二及バズ。前二居ヲ没 スル者数十戸既二新善光寺ノ山下二移レリ。余ノ民今猶堪ヘザラソト ス。政能屡々之ヲ上聞スレド言未ダ聴カレズ。夫レ郡代ト為リ民ノ患 ヲ観テ乃チ之ヲ救フコト能ハザルヤ吾弁テ去ラソト欲ス。然レド一タ ビ閣下二謁シ自ラ事ヲ陳ジ可否ヲ決スベシ。望シパラキズナ、ミ請フ、 足下姑(シバ)ク此二絆サレテ補助アラソコトヲ。 素堂答テ云、人ハコレ天地ノ役物ナリ。可ヲ観レバ則チ進ム。素ヨリ其ノ分ノミ。況ヤ復父母ノ国ナゾ。友人桃青モ前二小石川水道人為メニカヲ尺セシ事アリキ、僕謹テ承諾セリ。令公宜シクコレラ勉ムベシト。
  素堂は元禄八年八月二十三目に母の生前の願いであった身延詣や墓参をすませ、江戸葛飾の草庵に帰る前に桜井政能と会ったところ、濁川工事の協力を乞われたのである。素堂の同意を得た政能は、江戸に赴いて歎願するに当たり、村人に対して、
  「大二由暑ビ農二駕ヲ命ズ。十村ノ民庶啼泣シテ其ノ行ヲ送ル。政能之ヲ顧テ云ハク、吾思フ所アリ江戸二到リ直二訴ソス。事ナラザルトキハ汝輩ヲ見ルコト今日限ルベシ。構ヘテ官兵衛(素堂)ガ指揮二従ヒ相乖(ソム)コトナカレ。
  と述べている。政能の生命や地位を懸けて住民を救済せんとする情熱に、強くうたれると共に、それを激励している儒家としての素堂の面貌をまざまざと表象するごとができるであろ.う。特に素堂が「況ヤ復父母ノ国ナリ。と言っていることばの底に深切た郷土愛をくみとることができそれが彼の儒教トいうバックボーソであったことを理解することができよう。.翌元禄九年四月に工事は開始され、約ニケ月で完了したが、素堂は薙髪のまま双刀をさし再び山口官兵衛と称して人夫を指揮した。
  村人の喜びは限りなく、桜井政能ヲ水難除けの生神様として祭った。これが桜井霊神で二月十四日を祭日として祭を続け、その側に山口霊神の塔も安置されたのである。今は濁河の堤の下の藪の中に埋もれて苔むしている。
  ところで素堂の芭蕉の俳諸に与えた影響はどんなであったろうか。その二・三の例を挙.げてみよう。延宝八年高野幽山の「誹枕」に素堂の記した序文は、上野に致仕退隠し.た時、初めて素堂の号を用いて書いたもので、当時の素堂の文芸精神を理解することのできるものであるが、その中に次のように記している。
  つたへ聞、其の代の司馬遷は史記といふもののあらましに、みたび五 岳にわけいりし、と、た久杜氏・李白のたぐひも、とをく廬山に遊び 洞庭にさまよふ。その外ここにも、円位法師のいにしへ、宗砥肖柏・の中ごろ、・あさがおの庵・牡丹園にとどまらずして、野山に暮し鴫 をあはれび、尺八をかなしむ。是皆此の道の情なるをや。
  右の文章の中から重大た二つの点を指摘できる。」その一つは、・杜甫・李白・西行・宗砥・肖柏等の生き方に対する共感であみ。彼はみずから旅することを通して、これらの人々の生き方の価値を見定め得たのであろう。旅することによりて自然に直接にふれて得た感動を表現するところに、漢詩・和歌・連歌など短詩型文学の真髄があると自覚したのであづた。その二は、漢詩も和歌も連歌も、そして俳諸もそれらの文芸性の根抵において一つであるという自覚である。「是皆此の道の情なノるをや。」と述べて、短詩形の諸文芸を此の道と概括しているのである。芭蕉は貞享四年から元禄元年にわたる紀行の後、「笈の小文」を書いたが、その中で、
  西行の和歌における、宗抵の連歌における、雪舟の絵におげる、利休の茶におけみ、その貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの造化にしたがひて四時を友とす。
  と述べている。西行・宗抵・雪舟・利休の四人はいずれも中世的な芸術家で、道の人として尊ぽれる人々である。西行と宗低は漂泊の旅において、自然の生命と融合することによりて、その作品を生んだのであり、雪舟は中国の山水の風景に直接触れることによって、雄渾な画風を完成した人であった。利休が極めて簡素な茶室の中で佗びを味うことを理想としたのも、あらゆる俗世間の虚飾を乗り越えて、自然に融け入ろうとするととろから出発している。芭蕉もこれら四人の芸術家の歩んだ道から、その根低を貫き流れている一なる精神を学び、.「造化にしたがい四時を友とする」態度を自覚したのである。自己の野ざちしを覚悟の漂泊の旅を通過するという体験の上に築かれた自然髄順の態度であった。
  特にここで注意すべきは、素堂の俳枕の序文に、旅することによる自然との融合の第一声が、既に放たれていたということである。蕉風俳諸の特色は匂附にあるのだが、その匂附は天和三年刊行の「虚粟」に至って深められ、、貞享元年の「冬の日」にたるとほぼ確立したと見られている。貞享四年には、芭蕉の高弟其角の撰集である「続虚栗」が出版されたが、これには素堂の序文があり、素堂の俳諸における位置の高かったことを推察せしめる。ところでその序文の中には次のような一節がある。
  ある時人来りて今やうの狂句をかたり出でしに、風雲のかたちあるごとく、水月の又のかげをなすににたり。あるは上代めきてやすくすなほなるもあれど、ただけしきをのみいひなして情なきをや。
 古人いへることあり。景の中に情をふくむと。から歌にていはば、 「穿花嫉蝶深々見、点水蜻艇款々飛」 これこてふとかげろふは所は得たれども、老杜は他の国にありてやすからぬ心と也。まことは景の中に情を含むものかな。やまとうたかくぞあるべき。
  今様め俳諾の中には水に映る月のように、ただ対象を写しているだけで、そこに作者の感情のこめられていないものが多い。景と情との融合こそ望ましいと説くのである。ここで素掌はやまとうたと概括しているが、当然俳諸もその中に位置すべきものであり、漢詩にもやまとうたにも、景情融合の表現にこそ、共通に詩どしての本質があるのだ主張するのである。杜甫の詩を例証として引用しているところに、漢詩人らしい傾向が顕著であるが、更に一歩を進めて詩歌は心の絵であると述べ続けて、
  猶心をゑがくものは、もろこしの地を縮めよし野をこしのしらねにうつして、方寸を。千々にくだくものなり。あるはかたちなき美女を笑はしめ、いろなき花をにほはしむ。
  と説くあたり、漢詩的世界を俳諸の世界に取り入れて句作した漢詩文調(天和調)の体験が物語られているようである。談林俳諾が通俗性の中に埋没してしまったのに対して、漢詩文調という形をとって、漢詩的文芸性を俳諸に生かしたのが天和調であるが、そのことは俳諸を高踏的にし浪漫的にし風狂的にしたのであった。貞享の問に至ると芭蕉は、通俗の現実の中に伝統の文芸理念を生かすことに一切を懸けるようになるのだけれども、素堂の主張の中には、高踏的浪漫的な色彩が濃く残っている。こに俳諸一筋に生きなかった素堂の限界があるというべきであろう。しかしこのような限界があるにも拘らず、素堂-一の俳諸観は徹底している。
  はなに時の花有り。つゐの花あり。、時の花は一夜妻にたはぶるるに 同じ。終の花ば我が宿の妻となさむの心ならし。人みな時の花にはうつりやすく、終のはなはなをざりに成やすし。人の師たるものも、此の心わきまへながら、他のこのむ所にしたがひて、色をよくし、ことをよくするならん。来る人のいへるは、われも又さる翁のかたりける事あり。鳩の浮巣の時にうき時にしづみて、風波にもまれざるごとく、内にこころざしをたつべしとたり。余笑ひてこれをうけがふ。
  時の花とは一時の興を求めるものであり、その時だけの目新しさ新奇さをもった句である。終の花とは永遠にその生命の変わらないもの、つまり芭蕉の言う風雅の誠をせめて作られた句である。元禄二年以降になって芭蕉の門弟らが、芭蕉の教えとして盛んに論じた不易流行論はどうやら素堂を通じて、右の引用のようた形で最初に提出されたのである。芭蕉と素堂とは、延宝三年東下した宗因を迎えて百韻興行して以来、元禄七年芭蕉が没するまで続いたのである。
(筆註」正確には素堂は自己の末年まで芭蕉への思慕を持ち続けていた)
  特に天和二年十二月江戸の大火で芭薦庵が焼失した際は、同年秋芭庵再建に尽力した中心者は、素堂であって、芭蕉庵再建の勧化文の後には、
  「天和三年秋九月潜汲願主旨磯筆於敗荷下山素堂」
  とあるのによってもうなずけるであろう。芭蕉が野ざらしの旅から帰った程ないころ(貞享二年の四月以降貞享四年霜月までの問)に、素堂は居を葛飾の阿武に移した。この新居は芭蕉庵に近く交情はますます深まったであろう。元禄二年春奥の細道の旅に出ようとする芭蕉に、素堂は松島の詩を贈っているが、芭蕉は旅中の慰みとしてそれを身から離さなかった程である。素堂家集には
  送芭蕉翁西上人のその如月は法けつきたれば、我が願にあらず。ねがはくは花のかげより松のかげ春はいつの春にても我とともなはむ時、 
  松島の松かげにふたり春死なむ
  の句が挙げられている。元禄十七年月十二日に芭礁は大阪の旅寓て不帰の客とたったが,その追善の句に、
  深草のおきな宗抵居士を讃していはずや「友風月家旅泊」と。芭蕉翁のおもむきに似たり。
  旅の旅つゐに宗低の時雨哉
  と吟じ、元禄九年十月十二日芭礁刀第三回忌追善にも
  亡友芭蕉居士近来山家集の風躰をしたはれければ、追悼に此の集を読
 誦するものならし
  あはれさやしぐるる比の山家集
  と詠じた。、元禄十一年夏から秋にかげて京都に上り芭蕉の墓に詣でた句が.「続有磯海」.(元禄十一年刊)に見える。
   秋むかし菊水仙とぢぎりしが
  苔の底泪の露やとどくべし
  素堂は「芭蕉庵六物の記」と書いたが、その「第五画菊」の記には予が家に菊と水仙の画を久しく翫びけるが、ある時ばせををまねき、此ふた草の百草におくれて霜にほこるごとく、友あまたある中に、ひさしくあひかたらはんとたはぶれて菊の絵をはたして贈る時
   菊にはなれかたはら寒し水仙花
  と記載されている。二人の友情を契り合って、菊の絵を贈った折を追憶したがし、感慨無量の思いで墓の前に立ち尽くした素堂の姿が思い浮かぶようである。「苔の底」の句は極め.て淡々とした表現ではあるが、それ故悲蓼沈痛、こみ上げて来る涙に濡れている心の吐露といえよう。元禄十四年春義仲寺の芭蕉の墓に詣でては
   志賀の花湖の水それながら(「そこの花」所収)
 とも吟じた。
  素堂と芭蕉の親密な関係を理解することができるであろう。終わりに素堂について附加しておきたい点は、「蓑虫記」という次の詩である。
   一、みのむしみのむし声のおぽつか雲をあはれむ。
    ちちよちちよ泣くは孝にもっばなるものか。
    いかにつたへて鬼の子なるらん。
    清女が筆のさがなしや。
    よし鬼なりとも、瞽叟を父とLて舜あり。
    汝は虫の舜たらんか。
   二、みのむしみのむし声のおぼつかなくして無能なるをあはれむ。
    松虫は声のうるはしきために籠の中に花野をなき、
    桑子は糸をはぐよりからうじて賎の手に死す。
   三、みのむしみのむし無能にして静かたるをあはれむ。
    胡蝶は花にいそがはしく蜂はみつをいとなむにより往来おだやかたらず。
    誰がために是をあまくするや
   四、蓑虫蓑虫かたちのすこしなるをあはれむ。
    わづかに一滴をうればその身をうるほし
    一葉をうればごかがすみかとなれり。
    竜蛇のいきほひあるも、多くの人のために身をそこなふ。
    しかじ汝のすこしき次るには。
   五、みの虫みのむし漁翁の一糸たづさへたるに同じ。
    漁父は魚をわすれず、風波にたへず、
    幾度か是をときて酒にあてんとする。
    太公すら文王を釣るゆそしりあり。
    子凌も漢王に一味の閑をさまたげらるる。
   六、みのむしみのむし玉むし故に袖ぬらしけん
    田みのの嶋の名にかくれずや。
    いけるもの誰か此まどひたからん。
    鳥は見て高くあがり魚はみてふかくいる。
    遍昭が蓑をしぽりし見古つまを猶わすれざるたり。
   七、みのむしみのむしは柳につきそめしより、
    桜が塵にすがりて定家のこころをおこし、
    秋は荻ふく風にねをそへて寂蓮が感をすすむ。
    こがらしの後は空蝉に身をたらふや。
    からも身もともにすつるや。
  たまたま芭蕉は菱虫跋を書いて
  「偶(たまたま)蓑虫の一句云、我が友素堂翁甚だ哀がりて詩を題し文をつらぬ。
 其の詩や錦をぬひ物にし其文や玉をまろばすごとし。」
  と述べているが、詩は漢詩(省略)をさし、文は引用の記を指して呼んでいる。蓑虫記を掲げてある「風俗文選」.(許六編)なども、これを詩と言わず文と意識していた。恐らく素堂自らも、ジャソルの樹立という意識もなく吟じたものであろう。蓑虫に隠老的立場から洞察した人生の姿や生き方を観取し、深い感動に支えられてこの表現となったであろう。いわば、自然の流露であったにちがいない。ところが近代詩が展開して行くに当たって」上乗なる散文詩と認められ、その源流としての位置を与えられるに至っている。
  すなわち蒲原有明は、春鳥集の序文で、
  「思ふに俳文の上乗なみもののうちには却てこの散文詩に値するものありて、かの素堂の蓑虫の説()の体蓋しこれたるべし」
  と評価している。(徴典会総会における講演を加筆修正したものである。)
 
諸文献散見
 
素堂の紹介『國文學』 解釈と鑑賞昭和三十年発行。(松本義一氏著)

  素    堂  

 山口素堂は寛永十九年五月五日(一説に正月四日)甲斐北巨摩郡教來石字山口に、郷士山口市右衛門の長子として生まれた。名は信章、字は子晋また公商、通称は勘(官)兵衛といった。初め來雪と號し(延寶六年初見)、後素堂と改めたが、(同八年)それは堂號素仙堂の略で、隠棲後の呼名素道と音の通ずるところから俳號に用ゐたものといはれてゐる。別に信章斎、松子、蓮池翁とも號し、且つ茶道の庵號として今日庵、其日庵等があつた。享保元年八月十五日、武蔵葛飾に於て病歿。享年七十五歳、法名廣山院秋厳素堂居士、遺骸は上野谷中感応寺中瑞院に葬られたが、別に小石川指ケ谷厳淨院に山口黒露の建立の墓があり、元禄九年故郷甲斐濁河の治水に、代官櫻井孫兵衛政能の懇願によって助力したので、里人その恩に感じ、後年蓬澤に祠を營んで山口靈神と稱してゐるのである。
山口家は彼の少青年の頃、甲府に移り、魚町西側に居を構へ、酒造業を營む富商として、時の人から山口殿と稱せられゐた。
 彼はかゝる境遇に恵まれつつ好學の若き日を送つたが、寛文の初年頃であったらうか、遊學のため江戸へと志した。家督を弟に譲ったいふのもこの頃であったと推定される。
 江戸では林羅山の第三子春斎より經學を授けられ、京へ赴いて和歌を清水谷家に(或は持明院家ともいふ)書道を持明院家に學んだといはれる。かくて延寶年間、何かの公職に就いてゐたらしいが、同七年の頃、職を辞して上野不忍池畔に退隠した。その剃髪も改號(素堂)も、この時にかかはりを持つものであったらしい。
 ともあれ、ここに隠士素堂の生活が開始された。彼は更に閑居を葛飾の阿武(あたけ)に移した。不忍退隠後は、漢詩・和歌・俳諧・書道・茶道(宗旦流)・香道・猿樂(寶生流)・等に瓦つて廣く樂しみ、葛飾へ移住後は、葛飾隠子、又は江上隠士として悠々隠逸の境に徹し、庭池に蓮を植ゑ、菊園を造り、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」といつた、京都東山隠士木下長嘯子の言葉をあはれみ(芭蕉『嵯峨日記』)ひたすら簡素・静閑の世界に端然と起居したのであつた。
 けれど、至孝を捧げた母を失ひ、且つは小名木川を上下して親しく交渉したる芭蕉をも引續いて失つてからは、とかくこの閑居を出ることが多くなつた。即ち、元禄八年には父母の展墓のため甲府に歸り、身延に詣で、その翌年も甲府に赴いて濁河の治水に努め、爾後、東海道を西へ、京都を中心として、山城・近江・伊勢・尾張等への旅を屡々試みてゐるのである。而も千年の古都京の風光を酷愛し、その地に居を移さうとする心持さへ抱いてゐた。
 その老後には、瘧を煩つて危篤に瀕し(寶永七年か)、正徳三年の師走には火災にあつて翌年の新春を他郷で迎へ、また山口本家が零落するなどと、人生の不幸を味つたが、それやこれやでその生活は不如意であつた。だが彼は清貧のうちに身を高く持してゐたもののやうであつた。
 素堂の俳壇への登場は寛文七年(時に廿六歳)、加友撰の『伊勢踊』で「江戸山口信章」として五句入集してゐる。もとよりその句振りは          

   かへすこそ名残おしさは山々田  

 といつて具合に、貞門風そのものであつた。かくて延宝二年十一月には上洛して季吟以下の歓迎百韻の席に臨んでゐる(『廿日會集』)。けれど翌年五月には、大阪より東下して談林風を鼓舞してゐた總師宗因を中心に、桃青(芭蕉)らと百韻興行に参加し、新風への關心と接近を示したのであつた。時に彼の周囲には桃青あり信徳あり幽山ありで、「江戸両吟集」(同四年)・「江戸三吟」(同六年)・「江戸八百韻」(同年)と、談林讃美の心から、談林風の俳諧をものし、甚だ熟情的に活躍した。

 當時の彼の俳句、「江戸新道」(同六年)所収。

 かまくらにて    目には青葉郭公はつ鰹   

 は諸書にも採録されて、彼の作品中最も有名であるが、古歌以来の初夏の風物として青葉と郭公に更に鎌倉名物の初鰹を添へたものである。

 最初の「目には」・で、以下「耳には」・「口には」を類推させるあたり、談林作家としての彼の得意の程が思はれる。その軽快の調べと、江戸っ子の愛好した初鰹のあしらひとが、初夏の清新さを表現して、大衆の人気を獲得したのであつた。延宝に於て芭蕉と交渉を持った素堂は、天和に入ると愈々その親交の度を加へて行つた。當時は所謂虚栗(みなしぐり)調流行時代で、それは芭蕉の新風開發の劃期的まものであつたが、その漢詩や和歌を取り入れた佶屈な句作りは、漢學や古典の教養深き素堂の得意とするところで、ここに再び彼の制作熱が燃え上り、新調のよき支持者となつたのである。

荷興十唱(中一句)    浮葉巻葉此蓮風情過たらん (虚 栗)

 この句の「蓮」はレンと音讀せねば一句の趣きがないと芭蕉は評したが(『草刈笛』)、それはこの句全體の格調が破れてしまふからである。一句としてよりも生硬を免れ得ぬものの、彼一流の高致の気概が内在する。 貞享から元禄にかけて、その閑居葛飾が深川の芭蕉庵に程近い關係からか、芭蕉一門との交渉が益々繁くなつた。
 貞享度はもとより『冬の日』・『春の日』が公にされて蕉風の確立を見たが、これに續く其角編の『續虚栗』(同四年)の序に於て、素堂は、景情の融合を望み、更に『時の花』・『終の花』の論に及び、時の花は一時的興味的美であり、終の花は永遠的生命的詩情であると、蕉門の不易流行説の先驅説を述べてゐるが、當時の彼は自然を凝視し静観する制度に立って氣高き幾つかの作品をうたひ上げた。      

雨の蛙聲高になるも哀也 (貞享三年・『蛙合』)   

春もはや山吹しろく苣苦し (同四年・『續虚栗』)   

 かくて世の聲望を得つつ元禄期に入り、その三四年に至るまで、相當數の作品を制作したものの同五年の沾徳撰の『一字幽蘭集』の序文に於て、彼は、自己を絶對視して他の排撃することを避け、是非・新古は畢意鑑別しがたく、俳諧の風體は推移に任すべきであると、主義主張にかかはらぬ自由の態度を示すに至つた。これは、一門の總師として、この一筋に繁がり、ひたぶるに新味を追求し、新風を宣揚したやまぬ芭蕉の生命を賭しての俳諧態度とは全く對蹠的で、清閑の世界にその多趣味を樂しみつつある隠逸者の性格と生活の自づからなる歸結であつたのであらう。この態度はその命終に至るまで變る事が無かつたが(『とくとくの句會』自跋参照)、かくて彼自身の制作熱が微温的となり、而も俳諧の良友たる芭蕉を失つてからは、愈々それが低下の一路を辿つて行くのであつた。
 だが彼は寛文以来長きに瓦る作家であり、且つは高潔の人格と和漢の深き學識の故に、人々の尊信を得つつ、依然として俳壇の高き位置を占めてゐたのであつた。
 彼と芭蕉との交渉に就いては記すべき多くの事柄もあるであらうが、ともあれ彼は芭蕉より二歳の年長とはいへ、彼の及び難い芭蕉の俳諧的力倆を畏敬したことであつたし、芭蕉も素堂の學識と人格を尊重しつつ、彼の俳諧を推進するに當り、素堂の心からなる支持に多分の喜び力と得たことであつたに相違ない。
 真実二人はこよなき俳友であり心友であった。
 素堂の俳系は門下の長谷川馬光(素丸)に継承され、彼は葛飾正風の開祖と稱された。もとより彼はさうした意識はなかつたのだが、かく開祖と仰がれるところに彼の徳望の自づかからなる現はれであり、のみならず、葛飾蕉門がその後長く栄えて行つたことはまことに慶祝であつた。彼の句集には、

 荻野清氏の好著「元禄名家句集」中の素堂篇がある。    (大分大学教授)

 

素堂掲載書『枇杷園句集』士朗編。文化十三年(1810)刊。  『枇杷園句集』びわえんくしゅう。日本俳書大系 巻十四 巻之四  冬

 

時 雨

はつ時雨野守が宵のことばかな   素堂

鳴海にてしぐれそめけり草鞋の緒  素堂

竹葉軒

さゝ竹にさやさやと降すぐれ哉   素堂

獨居や古人がやうの小夜しぐれ   素堂

芭蕉忌

世にふるはさらにはせをのしぐれ哉 素堂

 素堂は芭蕉の善友なり。一日風のばせをの破れやすく、霜の荷葉のかゝるを悲しみ、世の形見草にもとて甲子吟行を評して曰、静なるおもむきは秋しべの花に似たり。その牡丹ならざるは隠士の句なればなりと。けふまた其静なる趣を弄して手向草とす。  

月時雨さりとては古きけしきかな  素堂

一雲に夜はしぐれけり須磨明石   素堂

山茶花の手をかけたれば時雨けり  素堂

茶室迎友

窓ぶたになるやしぐれの松のかげ  素堂

夜しぐれに小鮑焼なる匂ひかな   素堂


 『素堂句集』子光編 享保六年(1721)刊 小川健三氏 文稿。

 

 夫れ人に生有れば必ず・落する也。唯だ言語ありてここに文辞を紙上に載す。而して千歳之れ久し難し。猶、面に接するに於てその人奥ある也。隠逸山口素堂信章は、江城の北東浅草川両国橋の傍ら、下総の国葛飾の郡の内に於て廬を結び、歳月を経て久し。
 禀性野の志多く、固より貸財を以て世事を経ず。心偏らず雪月花の風流を弄ぶ。若冠より四方にあそび、名山勝水、或いは絶神社、或いは古跡の仏閣とあますことなく歴覧す、亦た數うるにかのうの師なり。
  詩歌を好み猿楽を嗜み、和文俳句および茶道に長けたるなり。その作『蓑虫記』は風俗文選に載す。俳句を載せここに俳諧糸屑して行く世なり。天質疎通彊記

 往く所の詩歌和文等の作は皆胸中に於て暗し、人が紙硯を具へて之を請へば則書き、而してここにその筆書を与へる也

 左の如き草稿は寫してここに貴顕これを召し、好事者は最も鐘愛す。招きに依り人の寓にとどまること或いは三、五日或いは十日、然れども阿邑諂諛の意も無く与人に非ず、対話し、則ち黙しては泥塑の如し。人に説く話は、固より言多からず也。
 その庵中に蔵する所の書は数巻、及び茶器に爨炊の鍋竈。而して己れ又一力助あり、薪水の労なり。予は幸い新灸の即に十有余年を得る。其の和文・詩歌・俳句等数十帋悉く匣底に蔵す。然るに其れ蠧害を患ふ。旦に好欲の者頗つた蒐輯は冤にして、以て冩し別け猪を積みて一帙を成す也。惜しむらくはその他の文詞は人の手に在りて得ず、矚者に亦た多くの許しをえん。
 害嗟嘆。此の人これ謂ゆる善き隠逸者なるべし。享年七十余にして嬰病享保元年丙申歳八月十五夜、遂に世を謝す也。武江城の北東の隅、谷中感応寺中瑞院内に於てず。 −エイ

  號して廣山院秋厳素堂居士と爲す。

享保六年辛巳年氷壮中旬  子光 誌


資料 『俳諧茶話』雇言編。嘉永七年(1854)

 

 一 門云、曠野集(ひろのしゅう)に、

  蓮の實の抜け盡したか蓮の實か 越人

 此句、ある人の説に、越人、素堂亭へ行に、例の蓮池より蓮の實を取りてもてなすに、皆くひ盡して、ぬけ盡したる蓮の實がもうないかと、馳走を忝くするの挨拶也。物を残すは不敬にあたれば、かくは興ぜし句作也といへり。いかゞ。
 一荅、さにはあらざるべし。越人が素堂の所へ行て蓮の實の馳走にあひたるにもせよ、皆喰ひ盡して、ぬけ盡したる蓮の實がもうないかと、馳走を忝くするの挨拶也とはおかしからず。愚案にては蓮は花の清香なるもの也とも云て、佛家その清香を愛して、専ら蓮花を玩びて佛座とも成し、又浄土の池中、其花の大サ車輪の如し とも説り。唐土には美人の顔(かんばせ)にもたとへたり。芙蓉モ不及美人ノ粧といふも、其蓮花の清香の、かたちよりはまたまさりて美人なりといふ事也。芙蓉といふは即ち蓮花の事也。今いふ芙蓉は木芙蓉といふもの也。
 素堂は山口氏の隠遁したる也。かの謝靈運か癖を傳へて蓮を愛せり。蓮庵と云、素堂といふ。
 尤白蓮を愛せしと見えたり。其氣性清潔たる、推して見るべし。
 その素堂に對して、越人亦其向上の趣意を句作れり。其ゆへは、此清香淨潔の蓮に實の多くみのる事こそ本意なけれ。されば蓮の實の本意であるかといふ句作にして、尤蓮の實情えお尋出し見附出したる向上の趣向也。唯ひと通りの挨拶・洒落の句にてはあるまじ。

  朝顔や此花にして實の多き

 といふ句をもつて解すべし。此句、作者忘れたり。おのづから句意明か也。


素堂と濁川工事について考える

 

  『甲斐国志』を何回読み直して見ても不思議なのは、元禄九年の濁川改修工事に於て時の代官桜井孫兵衛政能が、山口素堂に依頼してようやく実現した事と、孫兵衛の「手代」として改修工事を指揮したとされる事である。
 此工事は幕府の資金で実施された事業である。三百五十両弱の多額の出費を伴い当時多額の財政赤字があった甲斐は更に財政の悪化が予想され、幕府としてもおいそれと手を出す事は出来なかったと思われる。そうした事情が此工事を遅らせた大きな原因の一つである。当時は将軍綱吉の時代でかの柳沢吉保も元禄元年則用人に当用され、元禄七年には川越藩主となり、綱吉の絶対の信任を受け、その後も比例なき大出世をする。又甲斐に所縁ある荻原重秀も勘定奉行に元禄九年に登用されている。代官桜井孫兵衛は度重なる洪水と排水のままならぬ状況、地元民の困窮と田畑の不作に思い余って工事の至急着工を幕府に促した。そんな行き詰まりの中、素堂に懇願し素堂の助言に依り幕府も着工を決める。こうした事は孫兵衛より素堂が幕府に於ける位置も地位も上位だった事になる。
 その素堂が孫兵衛の「手代」になって工事の指揮に当ると云うのは考えられない。孫兵衛の親族とされる、斎藤正辰の「碑文」にも「老臣歸愁」とあり、素堂翁の名は見えない。
 又、地元の人々が建てたとされる 桜井靈神・山口靈臣の生碑も、桜井靈神は有った事は実証されているが、山口靈神 については後世の物とする先生も居る。とにかく『甲斐国志』以前の書物には「濁川改修工事と素堂」を結びつかる記述のあるものは未だに目にすることは出来ない。
 『甲斐国志』の素堂の項は他の項とは突出して記述内容が異なっている。これは『甲斐国志の編纂者の中に桜井孫兵衛の関係者、もしくは家系に含まれる人物が居たと思われる、桜井孫兵衛をの業績を際立たせるために記述したものと推察される。『甲斐国志』の編纂者の江戸担当の中に「斎藤」姓が二名見える。素堂に就いて出生や甲斐甲府在住を書した歴史書や文献はなく、『甲斐国志』刊行の後に於いてそれを引用した書物のみが散見出来る。それに私見を挟み現在の素堂像を創り挙げてきたと推察できる。『甲斐国志』の編纂は、甲斐と江戸で行はれて、甲斐の編纂者の知る事のない記載内容もあった事も窺われる『甲斐国志』は編纂完了後は幕府に納められた。何時の時代から一般の者が見る事が出来たのだろうか。
 真の歴史はその時代の資料の積み重ねである。山梨の歴史はその為政者の変遷に伴い主体性の無いものが多い感がする。素堂が甲斐の出身が『甲斐国志』を見て知りその後に於て歴史を確認し、祖先の出身が北巨摩郡上教来石村山口とあるのを、素堂が出生したとして、当時の甲斐の状況を鑑みても可能性のない甲府酒造業山口屋市右衛門をその生家と定めてしまったのである。そして「史実」でない「紙実」がまるで真実のように独り歩きしてしまったのである。
 確かに素堂は甲斐に来ている。素堂の側の書物か実証出来るのは元禄八年の、亡き母(八月に死去)の願いを果たす為に身延詣でと、黒露追善集『みをつくし』(久住・秦娥編。)に見られる久住の句文である。句文には「露叟(黒露)の扉は府(甲斐府中)の柳町といふにつゝきし緑町と申所なり、町つつきのおもしろきにや、《むかし素堂も此所にしはし仮居せられしとなん》 柳には緑の名あり庵の琴 久住 とある。これは年代が明確には出来ないが、元禄八年の「身延詣で」の際か、元禄九年の濁川工事の時(事実とすれば)なのかは資料不足で断定できない。
 元禄八年は素堂の『甲山記行』によれば外舅野田氏宅を宿にするとあり、これに依り素堂の在府中の宿は「外舅野田氏宅」であり、「緑町の仮居」は元禄八年ではないと云う事になる。この野田氏は素堂の妻の父親の可能性であると思われる。『甲山記行』に《甲斐は妻の故郷云々》の記述がある。では元禄九年の「濁川改修工事」の時であろうか。これも史実を示す資料は無く言及できない。又、元禄八年素堂が墓参とあるがこれも史実とは違う。素堂の『甲山記行』にはこの事実を示す記述はなく、又府中山口市右衛門の母の墓(甲府尊躰寺)もその没年の違いが明確であり、(素堂の母は没年は元禄八年夏)、元禄七年九月中には妻の死去により親友芭蕉の死にも忌中で立ち会えなかった。(素堂曾良宛書簡による)素堂の父親については資料がなくその没年については解からないが、この時代父・母・妻は素堂翁の墓所である谷中感応寺に埋葬されたとする方が自然である。
 未だ推察の域を脱しないが、素堂の親族の墓所は府中には無く、尊躰寺の墓所は素堂とは関係のない、後世の山口氏ものと考えられる。尚、尊躰寺の山口家の墓所は二箇所にあり、山口屋市右衛門の墓石もなく、甲府勤番士の名もあり、時代の変遷が窺われると共に、 山口殿 と云われた富家の墓とすれば余りにも淋しい。(この項別述)
 拝読した諸文献・資料によれば現在の段階では素堂は甲斐の出身を示す史実はなく、教来石山口で生まれたという事実はない事しか浮かんで来ない。 『甲斐国志』の記述で確証がなく、定かでないものに就いては諸説又は後世の課題としている箇所が見える。それは、甲斐側の編纂者の誠実さの現れであり、編纂も当時、既に歴史の史実資料も少なく後世に伝えるものの少ない事を憂いた、松平定信の発案により事業が開始されたと云う。素堂死去より約百年弱経ての編纂である。その間の素堂に関する俳書や解説書にも素堂翁と甲斐を結びつける文献は少なく、『国志』の孫兵衛と素堂との出会いは講談調で他の項と比べて異質であり、もし事実であるならどんな資料や文献から引用されたのであろうか。時代差がありすぎて今では如何ともし難い事である。しかし、歴史は創られた部分と事実の部分が混同されて成り立つものであるが、その時代の創作歴史を信じて疑わない事の方が情けない気がする。