
投稿者: ilkuji_99 愛も名誉も名も残さず一生涯進もうとの熱い誓い。
同志は消え、旗だけ翻って新天地が来るまで動揺するな。
年月は流れても山川は知っている。起きて叫ぶ熱い歓性。
先に立って進むので生者よ、従え。
先に立って進むので生者よ、従え。
シドニーの韓国領事館と米国領事館の前で拳をぐっと握って力一杯歌ったこの歌。白起完先生が作詞したこの歌は本来死んだ人の立場で「先に立って行くので」という歌詞だたが後で「進むので」へ変わった。韓国で拳闘選手として60年代を風靡し、隠退後、拳闘解説家としてTVに週末拳闘番組を定着させたA氏はシドニーへ移民を来た。またB選手のコーチとして韓国拳闘界の巨木だったC氏も豪州に移民を来てシドニーに定着した。今はお二人共古希を眺める歳だがシドニーに韓国拳闘界の二巨木が住んでいるのは偶然だろうか。
当時B選手のコーチとして活躍したC氏はその選手が日本遠征競技中、薬物中毒説を提起し側近としてその事件に連累され韓国の中央情報部に引っ張られものすごい困辱を受けた。競技がはじめるとき、なんとなく力がなくなったと選手がコーチに訴えたがコーチは多分疲れただけだろうと耳を貸さなく競技を続行させ結局負けだのだ。それを後で選手が薬物に中毒されたろうという噂が流れ、そのコーチが相手方に買収され薬物を選手を飲ませたとの疑いを受けたのだ。でも証拠がないので有耶無耶で釈放された。ところが何故情報部がそんなことまで関与するかときくかも知れないが情報部は当時無所不為の権限を持っていてなんでもできだ。スポーツさえ統治手段で利用した朴政権にとってはコーチ一人引っ張って拷問することはなんでもないことだっただろう。
ノテウ執権当時、国内状況は林秀卿の訪北事件や白骨団によるデモ学生殺害、それによった抗議焚身などなど連日、難政局だった。シドニーに住んでいた留学生と血気旺盛な居留民の青年たちが奮起したのは自然的な現状だった。当時タクシ運転をしながら生計を立てていた筆者は偶然に彼らのノテウ政権への反対運動消息を接してカンタベリにある彼らの本部を訪ねた。
みんな学校に通ってて留学生活に経済的に貧乏な彼らが運動をしていることに感銘を受けて参加を決心した。一銭でも稼いでいる筆者が焼酎でも一本持っていて彼らを慰め、助言し、自分自身も知らなかった事実もたくさん学んだことを否認できない。後ろで物心両面で我らを助けてくれた巨木お二人に感謝と敬意を表したいと思う。
当事、林秀卿の
訪北事件に連累し拘束された我らのメンバーのために本団体が情報部の国際課の要注意対象になり、情報部の奴等が直接巨木の一人に自宅に行って数日間いろいろの狼藉を働いた。今振向いても正に情けない国の情けない奴等だった。
そういう渦中に拳闘解説家だった方が生計を立てるために食堂二階にあった倉庫を改造し簡易食堂兼酒場を開いた。天井をきれいに修理し、ゴミが積んでいた倉庫を掃除、ドラム缶を改造し食卓を作り、炭火をつけ、肉を直接焼いて食べるようにした。前代未聞の食堂だけどお肉が美味い。わずかドラム缶3―4個で始めた事業だった。最初は運動メンバーたちの会食で通ってたがその頃コンサルティング業務をはじめた筆者が何回か日本人お客さんを連れていって試食をさせたところ、口コミで伝えられ、もうお客さんの中、日本人が半数を上回るときもある。案外にそういうスタイルの酒場がシドニーの日本人社会でヒットしたのだ。
今は内部を拡張し階段も改築して、ままわるくない食堂になった。筆者は車で40分かかるそこまで日本人お客さんを頻繁に載せてやって、もう常連客も多い。その食堂が開かれて商売がいいといわれ、韓国人社会で同じ業種が続いて立った。しかし元祖には勝てないはずだ。まだ他の店でそんな味を味わったことはない。
(続き)
(INDEX
に戻る)
|