シドニーブルース―13―カウラ脱走―II
 2003/12/ 6 19:11
メッセージ: 1630 / 1630   投稿者:  ilkuji_99
一方、脱走を主張した大尉はどうなっただろうか。みんなが飛び出たその夜、彼は空いている幕舎の中で一人立って日本軍歌を力強く唄っていた。脱走騒ぎの渦中に鉄条網を越えた一部の捕虜のなかには勿論天皇の親族もいた。彼は外で待っていた道案内の保護の中、無事に日本に帰ったという。   脱出した捕虜たちは2―3名づつ組みを形成して歩きながら形勢を調べたが果てしない大平原には何もない。日本軍捕虜脱走の報告を受けた豪州軍司令部は兵力を増員、捕虜刈りに出たし捕虜をみつけたら射殺するように命令した。2―3日を何も食べずに迷っていた捕虜たちは諦めて木の枝に首を一列で吊って死んだり豪州兵に射殺されたり、もしくは一部は自ら収容所へ戻ってきた。結局1千名が脱走して、その中350名が射殺された。天皇の親族一名を脱走させるため350名の無実な生命が理由も知らずに犠牲されたのだ。   自首したり捕まって収容所に戻って来た捕虜たちは大尉が未だ生きているので不思議に想って事由を聞いたところ、大尉曰く「実際脱走しようとしたら恐くて動けなかったんです」だった。彼一人の扇動で数百名が死んだり怪我したのにそれが彼の答えだった。憤慨した捕虜たちが見守っている中で大尉は剃刀で頭毛をはげのように切ってから正座して日本刀の代わりに野球バットを後ろに立っている捕虜に渡した。そして前もって包帯を巻いた腹を持っていた短刀で刺したあと、そのまま横へ一字で切った。そしたら後ろでバットを持って待機していた捕虜が大尉の頭を力一杯で打ち下ろした。血が四方へ飛び脳味噌が流れ出た。大尉はそうやって死んだ。   終戦後、生残った捕虜はみんな日本へ送還され、各自の所へ痕跡も残らずに消えた。以降その事件を口にする人もいなく、いや自分が捕虜だったことさえいう人はいなかったそうだ。そして死ぬまで緘口して語らなかったそうだ。その理由はなんだろう。筆者が調べた原因は「戦陳訓」だった。即ち「帝国軍人は敵に捕虜されるより玉砕する」との軍命のせいなのだ。だから収容所に入所するときも本名より仮名で申告したケースが多かったそうだ。恥辱的な捕虜状態を後世に残したくなかったのだ。その「戦陳訓」を今度は天皇の親戚を救出するのに再び利用したのだ。それなら脱走当時、死亡した捕虜の墓地の前に付いている氏名はなんだろう?その氏名で死んでその氏名で参拝されてることか。   数十年が経った今、カウラには日本人捕虜じゃない日本人観光客で混んでいる。豪州が日本人に人気のある観光地に浮かんでから戦争の傷を持っているこの小さな村が日本観光客たちの名所として固まりはじまった。日本にあるカウラ記念事業会ではカウラ地域の土地を買受し当時の犠牲者たちの墓地を造成し日本の庭園を作りナシ農場を建ててナシを日本に輸出する。季節が北半球と正反対なので日本にナシが生産されない時期にここで生産したナシを輸入して売出す。また日本でカウラに関心のある人々を後援会会員として募集して寄付金を払えばカウラではユーカリッフ木に寄付者の名前が書いている名刹をつけて公園に植える。その寄付者があとでカウラを訪ねて自分の名刹のついている木を確認しながら歴史的な意味を反芻する時間を持つとか。   さて朝鮮人ではあるが日本軍として参戦し、捕虜になった犠牲者はどうだろうか。死ぬとき日本人として犬死にをして、創氏改名により日本人の名で埋められた人はいないか。いるなら彼らはいつまでここで埋められたままにいるべきか。日本がここを観光名所へ開発し、墓地を造成している間、韓国政府や有関団体は何をしていたのか。「我々はお金もないし、とにかく知らない」との一言で済むことか。 収容所はもうないが今でも建物の残骸は少し残っているのにその壁には今でも韓国語で「家に帰りたい」と書かれた落書が残っている。      

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