崖上の乙女


 山での生活しか知らなかった董彩に、初めて海というものを教えたのはあの男だった。

 あの男は突然に現れた。不覚にも平地に出てきた人食い虎に襲われてしまったときだった。董彩は女ながら猟師として日々生活してきた。しかし、虎に敵うほどの弓術の腕前は持ち合わせてはいなかった。今まさに虎に食われようとしたその時だった。肩の横を風が通り抜けた。自分の肩に視線を移す間も無い間に、董彩は、虎が真眉間を射られて死んでいることを認識した。これほどの腕前を持つ人間を、董彩は今までもう一人しか見たことがなかった。呉の街に住む兄、董襲である。董彩が今呉の街に向かっているのも、その兄に呼ばれたからだった。

 男も呉の街に向かうといったので、董彩は同道することにした。また虎に遭うとも限らないからだ。道中、董彩は男のことを観察した。この辺りを歩いていたところを見ると旅人のようであるが、それにしては威厳がありすぎた。盛り上がった筋肉を見ると、官吏でもないらしい。第一、一介の官吏や農夫が、あれほどの弓を射るはずがない。猟師。そんな考えも浮かんだが、董彩はその考えをすぐに打ち消した。同業者を見れば、必ずその体から出る何かを感じるのだ。この男からは、それも感じられない。この男は何なのだろうか。

 ただ、男からは懐かしい香りがしていた。

 何時しか、二人は街道を外れていた。董彩はそのことには気づいていたが、何も言わなかった。この男について行けば、何かが分かるかもしれないと思ったからだ。

 丘を登りきったところで男は立ち止まった。少し後ろを歩いていた董彩は男の背中を見上げた。男の背中の向こうに見える太陽が目に入って、董彩は思わず目を瞑った。下を向いて、そのまま何歩か進み、董彩は顔を上げ、目を開いた。

 ――――息を呑んだ。

 董彩の目の前には、一面の青が広がっていた。

「海は初めてか?」

男はそう言った。董彩は、首を縦に振ることも忘れていた。

「この先には、蓬莱という国があるという。その先、またその先へこの海はずっと続いている―――」

董彩は、男の話をうわの空で聞いていた。何を言われても、目の前の景色から、目を離す気には到底なれなかった。

 男は、董彩から少しは離れたところに座った。ようやく、董彩も腰を下ろした。

 董彩は、何時しか、海の手前に男の顔を見ていた。この男は、自分に何を伝えたかったのだろうか。この様な所に連れてきてまで。董彩はもう一度、海に視線を戻した。「この海はずっと続いている」うわの空で聞いた男の言葉が蘇る。

「行くぞ」

いつの間にか立ち上がっていた男は、少し丘を降りたところで、董彩を呼んだ。

 丘を降りる男の背中を見ながら、董彩は静かに立ち上がった。

 男と別れ、董彩は、兄の家を訪ねた。

 猟をする傍ら、兄は時々、呉の街に出稼ぎに出ていた。その兄から、急用があるから、呉の街まで来てくれとの書簡を猟師仲間から受け取ったのは、ほんの数日前のことだった。

「董彩。お前、幼い頃の記憶があるか?」

久しぶりに会った兄の口から、最初に出たのはその言葉だった。

董彩は首を横に振った。董彩の記憶は大体、6歳ぐらいからのものだった。董彩は、自分がものごごろをついたのが、その頃だったからだ思っていた。しかし、兄は8歳ぐらいまでの記憶が無いという。

「俺の記憶が戻ってきたのだ」

兄の口から出た言葉の意味が、董彩には理解できなかった。

「記憶が…、戻った?私には、どういうことか…」

「数日前、この町を歩いていたときだった。この街の領主の軍勢を見かけた。なにやら、賊の討伐に行くらしかった。その軍の大将らしき男の顔を見た途端、俺の体に何かが走った。頭が痛くて、立っていられなかった。道端に倒れこんで、痛みが去るのを待った。全ての痛みが去ったとき、俺は全てを思いだした。『俺の親父を殺したのはこいつだ』とな」

「一体、私にはなんのことか…」

「俺達の親父は、呉の近くの街で、領主をしていた。それがある日、ここの領主、厳白虎に攻め殺されたのだ…」

「私には信じられません」

「お前もあいつに会えば分かる。俺は、親父の仇を討つだ」

兄の目は、董彩を直視していた。

 董彩はまだ何か言いかけたが、兄の瞳に押し返されてしまった。

「厳白虎が通るぞ」

董彩は、兄の声に起こされた。

 兄に仇討ちの計画を打ちあけられてから、数日が経っていた。

 着替えて、兄の家の前の道に出た。既に通りは多数の群集で埋められている。

「徳王様じゃ!」

「徳王様のご出陣じゃ!」

「何でもこの度は、西に現れた賊を倒しにいかれるらしいぞ」

「なんとしても勝って頂きたいのぅ」

群衆の顔を見れば、その言葉が本心から出たというのは分かる。また、自分達が賊から助かるから、厳白虎に勝って欲しいというのとも何か違うような気がした。

 民にここまで慕われている男が、自分達の仇…。董彩は複雑な思いがした。どんな男なのだろう。一層歓声の広まる通りに、董彩は顔を向けた。

 ――――心臓が一瞬止まった。

 あの男が、馬上にいた。数日前に一緒にこの街に来た男が。その男に向かって民達は一生懸命、歓声を送っている。

 何故…。そんな思いを心に抱えて、董彩は兄の声を背に兄の家へと戻った。

 頭が、締め付けられるように痛い。

 あの男が厳白虎だったと知ってから、董彩はあまり兄とは話さなくなった。しかし兄は、仇討ちを済ましたような様子をしていた。近頃急速に勢力を伸ばし、小覇王と呼ばれている孫策が呉に侵攻を始めるという情報が流れてきていたからである。

 孫策は、あの名門出身の袁術の兵を借りて出陣してきている。呉という小さな城市の領主である厳白虎が簡単に防ぎきれるわけは無いのだ。兵力に差がありすぎる。

 兄は、董彩にも仇討ちを協力するように、と言っていた。しかし、董彩はそれが正しいことだとは思わなかった。董彩の瞼には常に、あの日海を見ていた厳白虎の横顔と、出陣する厳白虎を期待の眼差しで見つめる民の姿が映っていた。

 兄はいない。董彩は立ち上がった。

 案外簡単に居室に案内されたことに、董彩は内心驚いていた。

 しかし驚いている間も与えず、厳白虎は現れた。

「思い出したか」

それが最初の言葉だった。

「はい。全て思い出しました。あの時まだ私は6歳でしたから、鮮明な記憶ではないですが」

「お前の父は、黄巾賊と通じておったのだ。黄巾賊初め理想国家を創るために立ち上がったのだが、次第に略奪を繰り返すようになった。お前の父も例外ではなかった。呉の街に軍勢を送っては略奪を繰り返す。私は民を守るためにお前の父を殺した。その時に捕虜になったのがお前達兄妹だったのだ。お前の兄は泣いていたが、お前は涙一つ流さなかった。私はお前達に過去の記憶を背負って生きて欲しくはなかった。だから、于吉という仙人に頼んでお前らの記憶を封じてもらったのだ」

「兄が、仇討ちしようとしていることを知っているのですか?」

「勿論知ってはいる。しかし、それを阻もうとは思わない。お前達の人生に暗い影を落としたのは私だ。その責任は取らなければならない」

「今ならまだ間に合います。私と一緒に逃げませんか?あの海の向こうへ」

自分の口から出た言葉に、董彩は驚いていた。

「私には誇りがある。ここの領主としての、だ。それに私を慕ってこの街にいる民がいる。この民のために、私は戦うのだ」

もう、何も言えなかった。董彩は、席を立った。

 兄にも厳白虎にも、自分の言いたいことが言えない。そんな自分が情け無かった。

 当然の結果に、董彩は驚かなかった。

 厳白虎は敗れた。圧倒的兵力を誇る孫策軍に、何の抵抗も出来ず敗れた。厳白虎は南に逃走した。

 嘘つき。董彩は呟いた。誇りだけのためなら討ち死にすればよかったのに。結局、自分が助かりたかったのだ。あれだけ格好いいことを言っておきながら、晩節を汚してしまうとは。

 兄は、厳白虎敗れるの報を聞くと、すぐに家を飛び出して行った。落ち武者を狩るぐらいのことなら、兄は簡単に成し遂げてしまうだろう。

 仇討ちが成功すればいい。董彩は、そう自分に言い聞かせた。

 帰ってきた兄の顔は、紅潮していた。持って帰った布の袋の中には首が入っているのだろう。そして董彩に紙切れを渡した。

「誇りのためなどと、格好だけはいいことを言ったが、結局死ぬ勇気が無かった。負けた日の野営で、お前の夢を見た。船に乗ってどこまでも進んでいった。二人で。ある朝、行方に白い光が見えた。朝日とも違った。あの光は何だろう、と身を乗り出したときに目が覚めた。二人で本当に、あの光の先が見てみたかった」

紙切れは、血に染まっていた。これを書いているときに、兄に殺されたのだろう。

 何時の間にか、兄はいなくなっていた。董彩は迷わず布の袋を開けて厳白虎の首から、数本の髪を抜いた。

 海は、あの時と何も変わってはいなかった。

 どこまでも、果てなく広がっているように見えた。

 海を見下ろす崖の上で、董彩は自分の髪を数本抜くと、それらを手に握った。その手には既に何本かの髪が握られていた。

 握り締めた手を、董彩は思い切り振り上げた。振り上げると共に、握られていた髪が、宙に舞った。

 追い風に吹かれて、髪はどこまでも飛んでいく。

 董彩は、父が死んだときにも流さなかった涙を流した。

 崖の上に、もう、董彩の影は無かった。




 〜編集後記〜
 頑張って書いてはみたのですが、上手くいきませんね。
 とんでもない駄作のような気がします…。
 一日で書いたのが仇になりましたね。
 出来に納得は出来ません。もうちょっと上手に書けるはずです。
 次回に期待、ということで。