神童物語
1997年1月。
生後100日を過ぎてローラは、自分の体高よりも深く積もった雪の中で既にディスクを追うようになっていた。
深い雪の中で投げられたディスクは、どんなに必死で追っても追いつくわけは無かったが、それでもローラはいつまでも飽きることなくディスクを追い。
小さな身体で、大きなディスクをリトリーブしてきた。
まさにレトリーバーの本能である。
真っ白な雪原に黒い小さな身体を埋らせながら、まるでバタフライで泳ぐように走る。白い雪にスッポリ隠れては、次の瞬間黒い塊が飛び出してくる。
今になって思えば
なんと無謀なことをしていたことか・・・
まだ骨格も何も成長過程にある子犬に、過激な運動を強いていたことになる。
それまで、スポーツドックなど育てたことのない我が家は、ローラが楽しんでいる姿を見ていつまでもやらせていた。
ローラが短足になったのも、どうやらこのへんの影響が大きいらしいことはずっと後になって想像できることになった。

ローラのしつけも順調であった。
ローラが4ケ月となっていた2月のある日。
母は、ローラと散歩を済ませローラのごはんを用意していつものように彼女の前に置いた。
ローラも、いつものように目の前に置かれたごはんに注目しながらきちんとお座りをして母からの「よし」の指示を待っている。
かなり長い時間でも待てるようになっていたので、母は考えて今日はその場を離れてみることにした。
予想では、母の姿が見えなくなったら彼女は食べ始めるだろうと思ったのである。
母は、「待て」の言葉をかけてその場を離れローラから見えない台所の影に隠れたが、彼女は身動きせずジッとごはんの器を見つめている。
「気配を感じているからかな?」と思った母は、「そういえば」とばっさまに渡す物があった事を思い出し、ローラにもう一度「まだ、待てだよ」と声をかけて部屋を出たのである。
隣の実家に行った母は、ばっさまに渡すべき物を置いてすぐ戻るつもりだった。
しかし、「調度良かった」とばっさまは、母に何か(何であったかはもう憶えていない)を頼んだものだから・・・家に入ることとなり、依頼された事をやるうちに母はローラの事をすっかり忘れてしまったのである。
小一時間も経ってから、自宅に戻った母は玄関でローラの状態を思い出した。
「えらいこっちゃ(汗)」母は、おそらくローラは母の気配が無くなった時点でごはんの誘惑に負けてたいらげ、お腹を満足させたところで好奇心を満足させるために一人探検隊となって部屋中を荒らしているに違いないと想像した。
時間はたっぷりあった。相当のことが出来る時間である。

母はおそるおそる部屋のドアを開けた。
意外にも部屋の中は、特別の変化は無い。
ローラに目をやって母は驚き・・・そして涙が出てきた。
彼女は、母が部屋を出たそのままの状態でごはんの器を見つめ続けていたのである。
一時間前と様子が違うところと言えば、ローラと器の間の床が彼女のヨダレの海になっていたことだ。
その姿はかの有名な音響機器メーカーの蓄音機に耳を傾ける犬のように立派で神々しい姿であった。イヤ!少なくとも母にはそう見えた。
ここまで我慢したローラに感動すると同時に、忘れてしまった申し訳無さで胸が熱くなった。
「すごいねローラ!・・よし!」・・・ローラはスイッチの入ったロボットのように、ごはんの器に顔を突っこんで勢いよくごはんを食べ始めた。
あまりにも慌てて、時折むせながら必死で食べていた。
母は、そのローラの背中を優しく撫でながら「偉いねぇローラ。すごいねぇローラ。ごめんねぇローラ」と声を掛けていた。
いつもより少し早く食べ終わったローラを抱きしめて頬ずりしたのは言うまでもない。