もう六十歳に達していようかと思われる福田は、老人に特有の悠長な仕草で湯飲み茶碗を手元に置くと、長いため息をついた。その顔に刻まれた無数のシワが、潮に洗われて痛みきった白髪が、この老人の人生を物語っている。 
福田は、私たち二人から視線をそらし、俯いたまま、ゆっくりと話し始めた……

「かね鐘ワニについて、話を聞きたいんでしたな、先生? ええ、ええ、分かっております。ワシの経験を話す前に、鐘ワニの伝説からお話いたしましょう。
 山陰の影ワニのことは、もうお調べなすったのですな? 『山陰の影ワニ、山陽の鐘ワニ』などと申しまして、瀬戸内には鐘ワニと呼ばれるサメの伝説がございます。
 ほら、よく、無人の船が見つかったが船員の姿はどこにも見あたらない、なんて話を聞くことがございましょう? そんなとき、ワシら瀬戸内の漁師たちは、決まって『鐘ワニの仕業に違いねぇ』と言い合うもんなんですよ。
 鐘ワニってのは、巨大なシュモクザメの形をした物の怪のことでしてな。風の無い、静かな日に限って現れる。例のしゅ鐘もく木みたいなあの頭で、漁船の船底をゴーンと叩くんですわ。ほしたら、まずは舵をやられる。舵をやられて、グルグルその場で回ることしかできなくなった船に、何度も何度も体当たりを食らわすんです。そう、船員が全員海に投げ出されて、この物の怪の腹ん中におさまっちまうまで。

ワシはこんな小さな島の寒村で育ったこともあって、鐘ワニの話は、それこそ耳にタコができるくらいに聞かされておりましたが、自分が経験してみるまでは、単なるホラ話だとしか思っておりませんでした。
あの当時、ワシも倉瀬も二十歳を過ぎたばかりで、漁師として一人前と認められようと必死だった頃でした。
ああ、倉瀬というのはワシの漁師仲間だった男で、いや、親友だったと言っても良いでしょうな。とにかく、あの日の早朝、ワシと一緒に漁船に乗り込み沖に出て行ったのが、その倉瀬という男だったのですわ。
その日は、風の無い静かな日で、ワシらの他に漁船もおらず、ただ波の音だけが聞こえるといったあんばいでした。漁を始めると、それこそ投網を二人では引き上げられないくらいに獲物がかかって、昼過ぎには船底がいっぱいになりました。
なにしろそれまでの数週間はめっきり不漁でしたから、ワシらは大漁を祝って、釣り上げたばかりの魚をさばいて酒のアテにして、上機嫌で飲み始めました。

 と、その時でした。倉瀬が酒の入ったグラスを握りしめたまま、海の一点を見つめ、『鐘ワニじゃ』とつぶやいたのです。
その目は恐怖に凍りついたように見開かれておりました。もし、先生が山を歩いていて急に熊に出くわしたなら、きっとそんな顔をしたことでしょうな。ワシも一気に酔いが醒める思いでした。ワシはつまんでいたチヌの切り身を放りだし、あわてて海面に目を走らせました。
ワシには鐘ワニの姿は見あたりませなんだが、船を走らせようとだ舵りん輪に飛びついた倉瀬の慌てようを見るにつけ、冗談ではないのだと悟りました。
間を置かず、ゴンっと軽い衝撃が小さな漁船を揺さぶりました。『舵をやられたぁ!』と倉瀬が、船尾にしゃがみこんでいたワシに向かって怒鳴りました。それはワシにもはっきりと分かりました。ワシらの乗っていた漁船は、まるで大渦に呑まれた木の葉のように、その場でグルグル回り始めたのです。
船尾には何もつかまる所がなかったので、ワシは舵輪にしがみついている倉瀬の腰に飛びつきました。
すぐにまた、今度はゴーンと激しい衝撃がありました。それは、ワシら二人の体が、浮かび上がったほどの衝撃でした。まぁ、ワシはご覧のように小柄な方ですがね、先生。倉瀬は、ずいぶん大きなヤツだったのですよ。それがまるで、子猫がつまみあげられるように、体を浮かび上がらせていたのですから。
倉瀬の両手が二人分の体重を支え、何とか船から投げ出されないで済んだのですが、鐘ワニは次から次へと体当たりを食らわし、そのたびごとに二人とも体を投げ出されそうになったのですから、倉瀬の両手はすっかり血の気を失っていました。

 倉瀬は…… いや、この話をお話しするとき、何より辛いのはここのとこなのですが…… しがみついているワシに『手を離せ!』と怒鳴ったのです。ワシは耳を疑いました。それまで兄弟同然にこの小さな島で暮らしてきて、今の今まで親友だと信じてきた男が、今ではワシに向かって、死ねと言っているのですから。
『手を離したら、海に落ちて鐘ワニに食われる』と、ワシはよりいっそうの力を込めて、倉瀬にしがみつきました。『手を離せ! 手を離すんじゃ!』
鐘ワニの体当たりに何度も体を放り出されそうになりながら、ワシは信じてきた友情の崩れ落ちるのを悲しく思いました。
『おどれは、サメが好きじゃ言うとったろが! サメに食われて死んでも本望じゃろが!』と、そう言いながら倉瀬がワシの横っ腹を蹴り上げ、そのはずみでワシは海に転げ落ちたのですが、もしもあの時倉瀬がワシを蹴り上げなかったなら、ワシは自分から手を離していたことでしょう。
いえ、先生、これは良い格好をしたいと思って言ってるのではありませんよ。あの時の倉瀬の、自分が生き残りたいがために親友を海に突き落とそうとしたあの醜い姿を目にして、生に対する欲望をその瞬間は失ってしまったのです。こんな醜い様を曝してまで、生きたくはないと思ったんですわ。

だから、倉瀬に海に蹴落とされた時には、正直、死んでも良いと思っていたのですが、冷たい海水に触れたとき、急に、生きたいと思い直したのです。これが、本能というやつなのでしょうか。ワシは、とにかく必死で泳ぎました。泳いで、泳いで、無我夢中で泳ぎ続けたのです。
どれほど長い間泳いでいたのかは、分かりません。私は幸いにも、通りかかった漁船に助けられました」

 福田は、湯飲み茶碗からすっかり冷めてしまった茶をすすると、熱っぽく血走った目で私たちを見渡し、こう付け加えた。
「ワシらの乗っていた漁船は、数日後に見つかりました。瀬戸内の波間に漂っていたのです。しかし、そこには、倉瀬の姿はありませなんだ…… ワシは……」
 私は、海洋民俗学のフィールドワークでここに来ているのだ。老人のしめっぽい感傷に、付き合うつもりはなかった。私は、助手の藤田にテープレコーダーを止めさせると、福田に礼を言い、席を立とうとした。
 しかしその時、私は重要なことを聞き忘れていたことに気づいた。
「すみません。大事なことを聞き忘れていました。漁船に体当たりするという鐘ワニなんですが、船と比べてどれほどの大きさだと思われますか? 当時の漁船というのは、ずいぶん小さかっただろうし、木製だったと思うのですが」
 福田は、私の質問に対し、ただいぶかしむような表情で応えた。
「福田さん。福田さんが二十歳だった当時の船ってのは、今の船よりも、もっとずっと脆弱だったんじゃないか、と思うのですよ」
 老人は身を乗り出すと、私に向かって、その節くれ立ったしわくちゃの両手を差し出し、今まで以上に血走った目つきで私を見据えた。
「今の船となんら変わるハズ無いじゃろが! あれはたった五年前の出来事なんじゃけぇ!」
 老人は…… いや、私が老人だと思っていた人物は……
「ワシは、まだ二十五なんじゃ! あんな経験がなければ…… あんな恐怖と絶望さえ経験しなければ、ワシも…… うう…… うおぅ……」
 私は、胃袋が口から飛び出してくるような感覚に襲われ、泣き崩れるこの奇っ怪な人物から少しでも早く離れようと、福田家から飛び出した。

 この小島にある唯一の桟橋にたどり着き、丘の上に建つ福田家を振り返ったとき、私はようやく我を取り戻した。そして、広島市の宇品港まで私たちを連れて帰ってくれるハズの船長を探した。
「学者さん、調査のあんばいはどうじゃった?」
 と、広島で私たちが雇った若い船長が、くわえタバコのまま話しかけてきた。

 瀬戸内海の島々の間を抜けながら、私も助手の藤田も、ただ黙りこくっていた。そんな二人に気兼ねしてか、船長はその巨体を揺らしながら、へたくそなコミックソングを歌っていた。
「時に、学者さん、あの島にゃあ、何の調査で来なすったんかいね?」
 私は、あの福田の節くれ立った両手や、シワに埋もれた血走った目を思い出し、なかなか答える気にはなれなかった。それでも、船長は盛んに調査のことを聞き続けた。
「ワシらぁ、学はないけど、調査に協力できるんなら嬉しいけぇ、何でも聞いてつかぁさいや」
 船長は、舵輪を握りしめたまま振り返ると、人なつっこい笑顔を見せた。
「鐘ワニの調査なんですよ」
 と、その笑顔に気を許したのか、藤田が答えた。
「へぇ、すると、福田ってヤツに会いに?」
 船長は、また振り返って笑顔を見せた。福田のことは、広島でも有名なのだろうか。
「ええ、そうですよ。私は、鐘ワニに遭遇したという彼にインタビューするために、東京から出てきたんです」
 私は急に興味がわいて、あの奇っ怪な人物について何か情報が得られるかと思い、この船長に話を向けてみた。
「彼について、何か知っていることはありませんか?」
「いやぁ、よく知っとりますわ」
 船長は、考え込んでいるのか何かを思い出そうとしているのか、しばらく何も言わずに船を走らせていた。

「学者さん方。あんたら、福田から何もかんも聞いたんじゃろうな?」
 船長は突然、振り返らずにそう言うと、船のスクリューを停止させ、船を波に任せた。船が止まって初めて気がついたのだが、その日の海は、風の無い静かな海だった。
 私は、冷たい汗が一筋、背中を流れ落ちていくのを感じていた。
「何もかんも聞いたんじゃろ!」
 叫びながら振り返った船長の手には、魚を殺す時に使うハンマーが握られていた。そして、彼が身を翻したはずみに、操船台に書いてある船長の名前が目に入った。
「倉瀬浩一……」
 「山の中で熊と出くわしたら……」と福田は言っていたが、今の私も、恐怖に凍りついた顔で船長を見つめていたに違いない。
「何も知らない!」
「ウソつくなぁ! おどれらぁ、何もかんも知っとるんじゃろ! ワシがあいつを殺そうとしたことぉ! え!」
 倉瀬は、狂気じみた表情を浮かべ、ハンマーを手に船尾の私たちににじり寄ってきた。
「あいつは、死ぬれば良かったんじゃ! あいつはワシのことを親友じゃとかぬかしとったろうが、ワシにとっちゃ、昔からあいつは目障りなヤツでしかなかったんじゃ! 鐘ワニに食われたら良かったんじゃ!」
 福田は、親友だと思っていたのに裏切られたことに傷ついていたが、この倉瀬のセリフを聞いたなら、少しは気が休まったのだろうか?
「私たちは、何も知らない! ただ、鐘ワニの話を……」

 ゴンっという軽い衝撃が船体を揺らしたのは、倉瀬のハンマーが私の頭をたたき割る寸前のことだった。
「鐘ワニだ! 鐘ワニが!」
 よろめいてしゃがみこんだ助手の藤田が、船縁につかまりながら、海面に向かって叫んだ。その声に、倉瀬は戦慄の表情を浮かべ、操船台に飛びついた。
 しかし、すでに舵はやられていた。私たちの乗った船は、ただもう勢いよくその場でグルグル回るのみだった。まるで、「大渦に呑まれた木の葉」のように!
 私は、学者の性か、船縁にしがみつき恐怖に震えながらも、鐘ワニを一目この目で見ようと、海面に目をこらした。確かに、そこには巨大なシュモクザメの魚影が、見えたような気がした。
 鐘ワニは、なかなか次の一撃を食らわせることはなかったが、その沈黙が、逆に私の精神をすり減らした。そして、もしも誰か一人が犠牲になれば鐘ワニが去っていくなら、すぐ目の前で雨に濡れた捨て犬のように弱々しく震えている藤田を…… 海に投げ込んでも良いと思った。
 しかし、幸いにも、私にはそんなことを長く考えている必要はなかった。
「鐘ワニめ! 狙いはワシなんじゃな!」
 倉瀬が、絶望的な声をあげると、舵輪にしがみついたまま、私たちの方へ振り返ったのだ。
「ワシは、五年前、鐘ワニから一度生き延びた。じゃけぇ、ヤツはワシを殺すまでつけ狙うつもりなんじゃ…… ワシは、ただでは死なんぞ!」
 そう言うなり、倉瀬は、操船台にあった出刃包丁を掴み、海へと飛び込んだ。

倉瀬が船縁を飛び越えて海に落ちる時、私にはなぜか、倉瀬が微笑んでいたように見えた。それは、生き延びるために親友を犠牲にしようとしてしまった過去に対して、贖罪する機会を得たことに心の平安を見いだしたからだったのかもしれない。倉瀬は、やはり福田の親友だったのだ。鐘ワニに、二人の友情を試されるまでは……

「教授…… 鐘ワニは居なくなりましたよ」
「ああ。おそらく、倉瀬がひとみごくう人身御供となったのだろう。長年、海洋民俗学者として各地の伝説を調査してきたが、こんな不思議なことが自分の身に起こったのは初めてだ。これは、学者と喜ぶべきことだよ、藤田くん」
 私は、まだ小刻みに震えている藤田の肩に手を当て、慰めようとした。しかし、差し伸べた自分の手もまた、震えていた。
 藤田が船の無線で救助を要請する間、私は黙って海面を眺めていた。地球の大半を覆う海は、尽きることのない謎で満ちあふれている。そして、その謎と対面したときに、人は自らの内面世界とも対面するのだ。
ある生物学者は言った。「地球の海と陸地の割合は、人体の水分と他の構成物質との割合とほぼ合致している。これはつまり、我々一人一人が『母なる地球の縮図』とは言えないだろうか?」
私は、そんなことを思い出しながら、藤田が見つけてきた日本酒のビンを開け、恐怖に冷え切った体を温めた。

「教授! 助けが来ました!」
 いつしか眠りこけてしまっていたようだ。それだけ、私の神経はすり減っていたのだろう。藤田の声に目を覚ますと、すぐ近くに漁船の姿が見えた。

 東京に帰ってきてからも、私はしばらくの間、心の整理がつかず、今回の調査の報告書をまとめることができなかった。新聞などを開くたびに、瀬戸内海で起きた海難事故のニュースが載っていないか、気になった。あるいは、サメに食いちぎられた男性の上半身だけが漂着した、などといったニュースが。
「こんなこと、信じられないのですが……」
 助手の藤田が、何日も寝てなさそうな赤く腫れ上がった目をして私の研究室に現れたのは、広島から帰ってきてちょうど一週間後のことだった。
「なんだね?」
 その、一見してただごとではないと分かる表情に、私は不安にかられながらも、藤田の差し出したカセットテープを受取った。
「これは?」
「福田氏にインタビューをした時のテープです……」
 私はちゅうちょ躊躇したが、藤田に促されるままにラジカセにテープを入れ、再生した。
 ……しかし、そこには、一言も人間の言葉は入っていなかった。ただ、波の音が、波の音だけが、延々と流れてくるのだ!
「どういうことだ? どういうことだ?」
 私は、半狂乱になって、ラジカセに向かって叫んだ。その私の背中に、藤田は暗い声を投げつけた。
「あたしたち、踏み込んじゃいけない世界に…… 入ってしまったみたいですね……」

 その瞬間、私は海の底にいた。
私は、海にまつわる伝説に興味を持ち、追い求めてきたが、所詮は第三者として、客観的に、いやもっと正直に言えば、ただの興味本位で伝説に接してきた。まるで、赤ん坊がガラガラの中身を知りたがるように。
しかし、伝説の世界には、生身の人間がいて、生があり、死があったのだ。
そして、唐突に私は、その深淵に突き落とされた。そこは、暗く寒かった。私は上を見上げたが、そこには光は見えなかった。
息苦しさのあまり私の胸は焼けるように熱く、私は着ていた服を引き裂き、胸をかきむしった。
「藤田くん! 藤田くん! 水をくれ! 胸が焼ける!」
「教授…… 水なら、いくらでもあるじゃないですか、ここに」
 遠くから、嘲笑うような藤田の声が響いてきた……

                                          ※

 面会を謝絶された藤田と倉瀬は、半笑いを浮かべながら病院を後にした。
「まさか、入院しちゃうだなんて……」
「いやぁ、入院したってことは、うちの爺ちゃんには黙っておくよ。あと、協力してくれた漁業組合の人たちにも。罪悪感を感じさせたくないからなぁ。俺らはちょっと、やりすぎた」
 倉瀬は、言葉とは裏腹に、ニヤニヤ笑いをやめようとはしなかった。
「でも、倉瀬さん、いい気味だと思ってるでしょ? 嫌なヤツ!」
「ひっひっ…… まぁね。でも、こっちは寒い海の中に隠れてたんだぜ、藤田の飲ませた睡眠薬入りの酒で、あの教授が寝入るまで。あれだけ体を張ったからには、これくらいのリアクションは欲しいわな」
「でも、あん時、教授が船縁を覗かなくて良かったですよね。見つかったかもしれないじゃん、倉瀬さん」
「ま、サメが居ると思ってたから、船縁から身を乗り出して覗き込んだりしなかったろ。それよか、俺は、藤田が船を揺らした時にバレるかと思った」
 藤田は、右手の人差し指を突き出すと、倉瀬の鼻先でそれを左右に振った。
「まっさか! 倉瀬さんがあんな怖い顔で迫ってきてりゃ、誰だって他のことに気が回ったりしませんよ」
 倉瀬は、複雑な表情を浮かべた。
「ふぅむ。……しかし、『鐘ワニ』だなんて、うまい伝説をデッチ上げたよな、おまえ」
 藤田は、いたずらっぽくペロッと舌を出して笑った。
「だって、教授には日頃さんざんくだらない話聞かされてるからさ、こっちはもっとマシな話を考えなきゃって思うじゃない?」
「なるほどね。ま、『これでおアイコ』ってこったな!」
 二人は、楽しげに笑いながら、都会の人波の中に消えていった。


書評(『月刊B級小説』1981年12月号より抜粋)
 純愛と狂気との間の綱渡りを描き続けてきた神木守寛の新作は、意外にも作者の故郷・瀬戸内海が舞台の怪奇小説であった。
冒頭の「福田」の一人語りが、作者が尊敬するエドガー・アラン・ポーに捧げられたオマージュであることは明白であるが、物語が終盤にさしかかるにつれて、怪奇な出来事そのものではなく、それに接する人間心理のグロテスクさに主眼が移っていく様は、自らの作品を「ロールシャッハ・テスト被験者の描写」と言い切る神木守の真骨頂であろう。
そして、病院に入院した「教授」に対して、なぜこうした手の込んだ復讐がなされなければならなかったのかという読者の疑問を置き去りにして、この作品は、「倉瀬」と「藤田」という何の関係性も作中からは見いだせない二人の若者の無邪気な笑い声と、都会の雑踏の中に着地地点を見いだす。それは、作者の言葉を借りるならば「読者を非当事者という理解のもとに作品に参加させるための試み」なのである。
畢竟ずるに、この作品そのものが「不自然な日常の説明書きの無い切り抜き」であり、この作品を読む我々、価値観の多様性と個人の匿名性にみちた現代に生きる我々読者に対して向けられた「ロールシャッハ・テスト」なのであろう。


 ちなみに作中では、一度も「教授」の名前は出てきませんので、もしもある特定の人物がモデルなのではないかと思ったのなら、それは、「誤解」です。


(作者プロフィール)
「神木守寛(かみきもりひろし又はジンギス・カン):80年代から90年代初頭にかけて、大衆誌誌上に数多くの短編小説を発表。現在は、本業である塾講師に専念している。小説の題材は、ベタな純愛ものからポーを彷彿とさせる怪奇ものまで多々」


(『廃人と海』を読んで)
 この物語を読むと、だれでも自分を”教授”だと誤解する。そして何故教授がこんなにも憎まれなければならないのか? と言う素朴な疑問にぶち当たるが・・・、答えは簡単、この物語は純粋な”復讐劇”で、それは作者の目的であり意思でもあるからだ。
 この物語の真意を知りたい方は、サメの海に掲載されている『スネークジョーズパニック』と、鮫ザメと鳴く掲載の『深海鮫は深海羊の夢を見るか?』を読んで欲しい。そう、この3つの物語は相互に関係しているのだ!。3人の作者、3つの物語、3つの目的・・・
そして浮かび上がる”第4の存在”・・・!
気がついたときには、あなたはもう我々の罠の中・・・・籠の中の小鳥、金魚ばちの金魚、水槽のメダカ、まな板の鯉
めくるめく、狂気の世界へようこそ・・・(御民)






『廃人と海』
ジンギス   カン
神木守 寛