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611 :コソーリ 初投稿 :02/08/19 05:37 ID:qNkzJfWX
「ヒカルの思うとおりしていいのよ」
母は牛蒡を切っていた手を止めてヒカルを見た。
「お父さんまた機嫌が悪いの?」
父の機嫌が悪いときには、母は必ず父の大好物の
チャプチェを作ってもてなしていた。
「商工会の集まりで自民党への寄付金を増やすことにしたそうよ」
「でもお母さんに当たることないじゃない」
このところ父はいつもイライラして、母への受け答えも
乱暴な口調が多かった。
「一人暮らししたいって言ったら、また怒るんだろうな」
今年の春、大学生になったヒカルはずっと自宅通学を
続けていたが、往復で3時間の道程にはいい加減ウンザリ
していたし、そろそろ勉強にも支障が出始めていた。
それについ最近、ヒカルにはどうにも我慢できない事件があった。
いつものように満員電車で身動きもできずに
吊革につかまっていると、明らかに意思を感じる手つきで
お尻の辺りを撫でられたのだ。
「エッ!? ち、痴漢?」
震えが全身を捉え、車内の喧騒もまったく耳に入らない。
「だ、誰か、助けて・・・」
心のつぶやきでは周りの人間に届くはずもなかった。
強張ったヒザを持ち上げるようにして何とか次の駅で降りたが、
とても授業を受けれる気分になれずに、
涙の痕もそのままに、戻り列車で家に帰ってしまった。
家に戻るとすぐにそのことを母に話したが、
「あらあら、大変だったわね。でもきかん坊のヒカルに
しては随分しおらしい話ね」
勢い込むヒカルをたしなめるようにあっさりと受け流された。
「もう、お母さんの馬鹿馬鹿馬鹿」
「ごめんなさい、ごめんなさい。きっとヒカルが可愛すぎたから
悪戯されたのよ」
「そんなんじゃないよ・・・ もう」
すねるヒカルを優しくなだめていた母の目が急に真剣味を帯びた。
「でもね。ヒカルももう大人なんだから、下着くらいはキチンと
着けないと駄目よ」
中学を卒業するときに母がブラジャーを買ってくれたが、
大きく空いた胸とカップの隙間が気になって母に告げると
「あら!? 一番小さなサイズにしたんだけど」
何気ない母のこの一言で、以来タンクトップがヒカルの
ブラジャー代わりになってしまった。
今は母の言いつけどおりブラジャーを着けてはいるが
胸を締め付ける感じには中々馴染めないでいる。
「お母さん本当にちゃんと話してくれたの?」
「ちゃんと話したわよ。それでお父さんはヒカルの好きに
すればいいって言ったのよ」
「本当にぃ?」
母はもう手を休めることなく、盛りつけたチャプチェに
手際よく糸唐辛子を振りかけた。
繰り返し問う娘の言葉の影に“大人への一歩を踏み出す怖れ”が
あることに気づいたからだった。
「そう言えば、大和さんも一人暮らししているんでしょ?
最近遊びに来なくなっちゃったわね」
「彼氏ができたんだって。この前なんか2時間もノロ気られちゃった」
幼馴染で高校まで一緒に通った大和とも大学が違ってからは
連絡も少なくなった。
「でもね。でもね。二股なんだよ。大和の彼氏」
「あら、そうなの」
「本当なんだってば。大和は良識があるなんて言ってたけど
二つ上の柳原先輩と腕組んでたのをサンが見たんだって」
母にはサンが誰かは思い出せなかったが、母親が自分の全てを
知っているつもりで話す娘に敢えて問う気はなかった。
「ヒカルも早く良い人が見つかるといいわね」
「関係ないよ。日本の男は男尊女卑だもん」
「そう、よかった。いきなり同棲なんかされちゃ、お父さんも
卒倒しちゃうもんね」
顔を赤らめてソッポを向く娘のうなじに母の目が止まった。
白い蛍光灯の光を受けて襟足の細い髪がキラキラと輝いている。
それはもう幼さを溜めた産毛ではなく、大人の女性の色香を
漂わせた和毛(にこげ)と呼ぶに相応しい。
−−あなたももうすぐ気づくはず。自分が女性であることに
これから次第に離れていく娘を思うと、瞳が潤みかけた。
「どうしたの? お母さん」
「なんでもないわよ。さぁさぁ、ヒカル。今度は
タットリタンを作るんだから、手伝ってちょうだい!」
「エーッ、お料理苦手なのにぃ」
今し方の疑問も忘れて素直にジャガイモを手に取る娘に
母は、この子の将来が明るいものであること確信していた。