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634 :コソーリ投稿第二弾 :02/08/20 06:07 ID:QOZgLwXH
【夏雲の空に】

【夏雲の空に】
母親が玄関の開く気配に気づいたときには、
もうすでに階段を駆け上るけたたましい足音がしていた。
ヒカルはノブが外れそうな勢いでドアを開くとそのままベッドに倒れこんだ。
たった今見た光景を否定するように強く顔を枕に押し付ける。
――ひょっとして、見間違えた? いや! あれは大和、絶対大和だ。
駅の裏手の小さな神社。
鎮守の森に囲まれて古びた社(やしろ)がヒッソリと佇んでいる。
この町に生まれた者でさえ、祭りと初詣以外にはめったに訪れない。
ヒカルはニダーの散歩の途中で飲み水ボトルを忘れたことに気づいて
久し振りに境内に足を踏み入れた。
ちょっと気が引けたが、手水舎の柄杓でニダーに水を飲ませたあと
しばらく木陰で休むことにした。
夏の日差しも嘘のように、どこからともなく木々に冷やされた風が流れ、
火照ったヒカルの肌を優しく撫でた。
瞼を閉じると、降り注ぐ蝉時雨に遠い記憶が蘇った。
まだ両親に手を引かれていた頃、この神社の夏祭りに一家で出かけたことがあった。
ヒカルは並ぶ夜店には目もくれず、喧騒に混じって聞こえる蝉の声に
「ねぇねぇ、お父さん、蝉取って、蝉取って」
「エッー、どこにいるか分からないぞ」
「ほらほらヒカル。この金魚、お婆ちゃんの所で見たチマチョゴリ着てるみたいよ」
何とか気を逸らせようとする母の言葉もよそに、いつまでも駄々をこねた。
泣きべそをかき始めたヒカルに、父は諦め顔で応じてくれた。
止める母に“ケンチャナヨ”と笑いながら、
ヒカルを肩車して社の周りの木々を見て回った。
結局、か細い月明かりだけでは木地にまぎれた蝉の姿は見つけられなかったが。

――そうだ、あの時は社の裏の方は見なかったんだよね。
「おいで。ニダー」
ヒカルは社の裏に足を向けた。
裏手に回った瞬間、人影が目に飛び込んできた。
――エッ!? 誰か居るの?
夕刻とはいえ陽が長い夏だから、人が居てもおかしくはなかったが、
こんな場所で何をしているのか怪訝だった。
ヒカルはニダーのリードを引き寄せて柱の陰に隠れた。
それは他人の行為を密かに伺うような不純な動機ではなく、
年頃の少女が抱く過剰な防衛本能に近かった。
しかし、チラリと見た人影には見覚えがあった。
黒い袴と白地の木綿着、弓道着姿だ。
ヒカルの知り合いで弓道を嗜むのは大和だけだった。
――そういえば、大和は大会の前は必ず神社に必勝祈願に行くって言ってた。
なんだかホッとして柱の影から姿を現した途端、ヒカルの目は釘付けになった。
弓道着姿の後ろにはもう一人の人影があった。
そして二人は抱え合うようにして唇を重ねていた。
長い黒髪の中を男の大きな手が這うように動き、白く細い腕は切なげに男の腰を掴んでいる。
頭髪の中から抜け出た手が慈しむように女の頬を撫で、胸元のふくらみに届く。
女は一瞬ピクリとしたが、そのまま素直に男の愛撫を受け入れた。
「クゥーン」
ヒカルの足元にニダーが擦り寄った。サワっとした感触がヒカルを現実に戻す。
弾けるように駆け出すと一気に境内を抜け、
ニダーの鳴き声に追いかけられながら家路をひた走った。
――何? 何? 何? あれは何だったの?
混乱する脳裏に大和の顔が浮かぶ。

「ヒカルもさっさと彼氏を作れよ。一緒に居ると楽しいんだぞ。色々教えてもらえるし」
「大和、今の彼氏って」
「うん。知ってる。彼にはきちんと謝ってもらった。私も彼の良識を信じてる」
「そんなでいいの? 大丈夫?」
「だって・・・ 湧き上がってくる思いは止められないし」
「そっか。大和はすごい強い子だから、きっとうまくいくよ!」
「ヒカルの負けん気も中々のもんだぞ」
二人で笑いあったのは、つい一週間前だった。
枕に顔を埋めたまま気持ちを落ち着かせようと努めるが、
――もう大和には合わない。大和なんか・・・
――やっぱりそんなの変。大和だって彼氏のことが好きだから・・・
――でも不潔だよ。あんなに激しく・・・
考えれば考えるほど想いは千々に乱れ、なぜだか涙までこぼれ始めた。
ヒカルはゆっくり起き上がると、窓辺に腰を下ろした。
沈みかかった太陽は広がる甍の波を茜色に染め上げ、
遠くの景色を黒いシルエットに変えている。
家々には灯りが点り、そこから歓談の声さえ漏れるような気がしてくる。
穏やかな風景に幾分気分を取り戻したヒカルは、
そっと自分の小さな胸のふくらみに手を当てた。
柔らかな感触が掌に伝わる。
突然、悔しさにも似た感情が心の中で翻り、思わず力が入った。
「クッ」
痛みよりもコリっとした肉の感覚に唇をかむ。
――私、私、どうしたらいいんだろ・・・
尽きせぬ疑問がまたヒカルの頬を濡らし始めていた。