COLUMN
囚われていない生活。
人間は、様々なものにとらわれて生きている。それは何人たりとも反論できぬ真理である。ある人は、『私は何事にもとらわれることはない。自分の好きなように生き、自分の好きなことを行う』という。もし、彼にそれだけの強い意志と強い発言を押し通す力があるならば、その言葉を信じるけれど、その言葉を断言できる人間はこの世のなかにいない。
例えば、我々はまず常識にとらわれている。過去にとらわれている。人間関係とそれが織り成す噂話などにとらわれている。これは、何人たりとも免れ得ないものである。

|
最近は、中国思想に傾倒している。もし韓非子に関係する書物をご存知の方、教えていただけると嬉しいです。。
|
このことに対して、はむかっても無駄である。と思うだろうか・・・。きっと大多数の人は歯向かうべきではないと思うであろう。しかし、それによって自分自身を傷付け心にドロドロとしたものを持ったまま、生活していくことを余儀なくされることを望むであろうか?
私は戦いたい。様々な思惑のなかで支配されることがなく、自分を持ち続け生きていきたいと思う。
中国の「老子」は、『上善は水の如し』といっている。上善とは、もっとよいという意味。水の如しは、そのまま水のようにあることが好ましいということだ。水は、入れ物によって自由に形を変えることができる。その場の雰囲気に合わせて自分を無理なく自然に変えることができる。人間関係にしろ仕事にしろ、その場その場でうまくやれということだ。また、水は堰きとめられると大きな力を溜めて全てを破壊するほどの力を持っている。力を蓄えた水の力ほど恐ろしいものはない。このような側面を含んで「老子」を始めとする中国の思想家は人間の生き方の見本に水を上げている。
同じ東洋人である日本人では、ちょっとこれは難しいことのように思うが(日本人は素直に心情を見せることが得意な反面、隠すのは下手だから)、考えてみれば見るほど深いものだと思わざるを得ない。社会は、言葉で簡単に片付けることができないくらい、いろいろな思惑が渦巻きそれぞれに牽制しあっている。油断もすきもない世界だ。そのなかで、うまく人に合わせ、力を蓄え出すときには出す。こういう生き方はある意味、自分を捨てることではなく囚われずに生きていることにつながるといえる。。
Copyright (C) wasabi.com, All Rights
Reserved.
|