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●このページの目次 ・以下未完 |
●初めに日本原産の植物であるアジサイは、日本人の生活の中でどのように生かされてきたのでしょう。アジサイがたどった道を跡づけてみようと思います。 アジサイは、稲や麦のような主要な作物ではないので残されている記録はあまりないようです。できるだけ集めてみましたが、まだ塚本洋太郎氏や山本武臣氏など先達の方々の足もとにもおよびません。 しかし、インターネットというアクセスしやすい場にまとめておけば、アジサイに興味のある方の手がかりくらいにはなるかと思っています。 アジサイはこんなふうに利用されていたという、体験や情報をお持ちでしたらぜひ教えて下さい。日常生活と自然との関わりは薄れるばかりです。古い体験が記憶の彼方に消えていく前に少しでも記録できればと思います。 自分は、アジサイを生活の中でこんなふうに利用した、という実体験に基づく記述はインターネットで探しても全くありません。あるのは伝聞記事ばかりで、それもほんのわずかです。 また、このページを作りながら私は、「アジサイは疎まれ冷遇された花」と言うイメージが、明治以降のマスコミによる風評被害ではないかと考えるようになりました。暗い世相の反映だったのではないでしょうか。 アジサイを取り上げる時に、マイナスイメージを、枕詞のように使うのはもうやめましょう。アジサイがそんな風に扱われた歴史は、ごく最近のほんのわずかな一場面でしかないのですから。 ●アジサイと日本人の生活との関わりや、その記録1.詩歌、物語、絵画・工芸品、辞書など・・・古い時代に記録され今に伝わるもの 残念ながら、このような資料は多くありません。 アジサイは、万葉集に和歌2首、平安時代の辞書に採録、平安時代末期に和歌 急速に人々の記憶から消えつつあります。 3.花の鑑賞・・・庭木、生け花、茶花、鉢花としてのアジサイ鑑賞の記録。 日 本原産で栽培の比較的容易なアジサイは、生活のさまざまな場面で多くの役割を果たしてきたことがわかります。近年アジサイの品種改良も進み、アジサイの歴 史の中でこれほどもてはやされ、注目された時代はないと、高く評価されています。しかし、これは鑑賞の面だけのことです。 鑑賞以外のアジサイの利用は、明治以降の急激な生活の変化により、すでにその大半は正確な記録も残さずに忘れ去られようとしています。特に実生活の中でアジサイを利用した体験を持つ人は、極めて少数になってしまいました。 その記憶を例え1行のメールにしてでもしていただけたらうれしいのですが。 可能な限り、時代を追ってアジサイの歩いた道をたっどってみましょう。 ●アジサイは古来日本人に愛でられ、親しまれてきた。このページでは「アジサイ」という名称をガクアジサイ、ホンアジサイ、ヤマアジサイ、エゾアジサイおよびそれらから派生した品種を含む、やや広い意味で使います。 ◎奈良時代の記録化石を除くと、アジサイの最も古い記録は、万葉集に収録されている2首の和歌と言われています。 万葉集の成立は、8世紀(759年頃)で 奈良時代後期に当たります。 万葉集は、万葉仮名(漢字)で書かれてますが、その中にアジサイを意味すると思われる「安知佐為」、「味狭藍」と書かれている和歌が1首ずつあります。万葉仮名を漢字仮名交じりの文に読みくだしたものを上げてみます。 1首は万葉集巻20にあります。この和歌が詠まれたのは、西暦755年(天平勝宝7年)のことで、次のような詞書きの後に載せられています。アジサイが詠まれているのは、国人、諸兄、諸兄の順に詠んだ3首の最後の和歌です。 『同じ月(五月)の十一日、左大臣橘(諸兄)卿の、右大弁丹比國人真人が宅に宴したまふ歌三首 あぢさゐ(味狭藍)の八重咲くごとく弥(や)つ代にをいませ我が背子見つ 右の一首は、左大臣の、味狭藍(あぢさゐ)の花に寄せて詠みたまへる。』 (意味)アジサイの花が幾重にも重なって咲くように、あなたもいつまでも元気でいて 他の1首は、万葉集巻4 相聞にあり、この和歌が詠まれたのは西暦741〜745年(天平13〜16)の間です。遷都の関係で恭仁京にいた大伴家持から、奈良にいる妻 『大伴宿祢家持従久迩京贈坂上大嬢歌五首 夢にだに見えむと吾は祈(うけ)へども*あひし思はねばうべ見えざらむ 言問はぬ木すらあぢさゐ(安治佐為)諸弟(もろと)らが練りの村戸に詐 百千度(ももちたび)戀ふと云ふとも諸弟らが練りの言葉は吾はたのまじ (意味)この5首は、アジサイの歌を含め難解な歌と言われ、人によりさまざまに言葉を 補って解釈が試みられています。 家持と大嬢の間がしっくりいっていなかった事が前提になっています。この5首は大 嬢への返歌と思われますが、直前の歌のやりとりが万葉集には、載っていないこと、 単語の意味が不明なことなどが解釈を困難にしています。 祈(うけ)へども*=原文は「保杼毛友」。本来『得毛經友』とあったのを写本の時、書き 誤ったのではないか?原文のままでは意味不明。 私は次のような意味に取りたいと思います。アジサイを心変わりの象徴と見る必然性は引用部分にはありません。同時代に詠まれた橘諸兄の歌でアジサイが相手を寿ぎ、繁栄の象徴として、使われている事からも負の印象はそぐわないと思います。 3首の意味を順番に。 あなたの姿を夢に見ようとしているのに、あなたが思ってくれないので夢に現れま ものを言わない木でさえ、アジサイのようにきれいな花で私の心を慰めてくれるの いくら「大嬢様はあなたを恋しく思っています」と言われても、諸弟らの言葉など、 素人の勝手な解釈です。あまり信じませんように。・・・・・・ ◎平安時代の和歌平安時代は和歌や物語など和風の文化が発展した時期ですが、アジサイはそれらにほとんど登場しません。この時代の終わり頃に3首の和歌が知られています。 「古今和歌六帖」という西暦976-982年頃(平安時代後期)成立した類題和歌集の第六巻草の部にアジサイの古い歌があります。 あかねさす昼はこちたしあじさゐの花のよひらに蓬ひ見てしがな (03912) この歌は詠み人知らずといわれます。しかし、穂積皇子(715年没)が詠んだと言う文を見たことがあります。これが正しければ奈良時代の歌と言うことになります。 (意味) 「こちたし」は言痛しとも書き、「噂がうるさくて嫌だ」といった意味。 「昼は人目が多いので人目の少ない宵に会いたいものです」、恋人へ贈った歌 ただ、奈良時代の歌にしては、アジサイ→よひら(ガク片が4枚)→宵(よい)という連想を詠み込むなど、あまりに技巧的?なので、もっと後の時代の歌のような印象を持ちます。それにしても歌集の成立時期から、平安時代に詠まれた数少ないアジサイの和歌の1つです。 しかし、この歌以後アジサイは、宵や夜を引き出すために使われることが多くなり、アジサイそのものを詠うことがなくなっていきます。そのためアジサイが庭に植えられているのか、道ばたなのかなどアジサイの置かれた状況は全く、わからなくなります。 次の2首もアジサイは同じような扱われ方をしています。 源俊頼自選集『散木奇歌集』(1128年頃、平安時代末期)に2首あります。 あぢさゐの花のよひらにもる月を影もさながら折る身ともがな (意味)繁みを洩れた月の光が、池の面にアジサイの四ひらの花のように映じている。その影をさながら折り取ることができたらなあ。 アジサイを詠んだというより、月の光を詠んだ歌のようです。 あぢさゐの花のよひらは おとずれて なぞいなのめの 情ばかりぞ (意味)いなのめ=明け方、夜明け前 ◎鎌倉時代の和歌こ の時代は、平安時代よりずっと多くの歌が詠まれています。しかし、平安時代の終わり頃にあらわれた「アジサイ→よひら→宵、夜」の連想・言葉遊びは、この 時代にも引き継がれました。したがって、アジサイがどんな所に植えられ、どんな色や形をしていたかは、ふれられていません。 『千五百番歌合』(1202年9月〜1203年春、鎌倉時代初期) 夏もなほ心はつきぬあぢさゐのよひらの露に月もすみけり 藤原俊成 (意味)この歌は、「古今集」にある次の歌を背景にしているそうです。 木の間よりもりくる月の影みれば心づくしの秋は来にけり 夏もなほ心はつきぬ=古今集の歌から「心づくしの秋」に対して、夏にだってものの哀れを感じ心尽きるときがあるものだと詠う。 夏だって哀れを感じて心尽きるときがあるものだ、あじさいの四ひらの花に置いた露に、澄んだ月の光が宿っているのを見ていると。 『拾遺愚草(しゅういぐそう) 』 (1216年正編三巻成立、1241年員外一巻増補)藤原定家の自撰家集。全四巻。 上巻・皇后宮大輔百首・文治三年春詠送之・詠百首和謌・侍従・夏十首 あぢさゐの下葉にすだく蛍をば四ひらの数の添ふかとぞ見る (意 味)日もとっぷりと暮れてアジサイの花も夕闇に沈んでいく。蛍が飛び始めアジサイの下葉に集りまたたくとアジサイの花が増えたように見えることだ。蛍は暗 くなってから光るが、このころの歌は、情景を詠んでいるのではないので、アジサイの花にアジサイの下葉に群れる蛍の瞬きが加わり花が増えたようだと云って いるのかも知れない。 拾遺愚草員外・一句百首にもう1首 あぢさゐのしほれてのちに咲く花のただ一枝に(よ)秋の風まで 山本武臣氏の調査によると、他に次のような歌があるといいます。 『新撰和歌六帖』(1243年作成) 第六、草 いまもかもきませわがせこ見せもせむ 植ゑしあち゛さゐ花咲きにけり 宵のまの露に咲きそふ紫陽花の よひらに月の影ぞ見えける 花咲きし庭のあち゛さゐあち゛きなく などてよひらに我をすてけむ 紫陽花のよひら少きはつ花を ひらけはてずと思いけるかな しもつけや籬(まがき)にまじる紫陽花の よひらに見れば八重にこそ 『夫木和歌抄ふぼくわかしょう』(1310年頃成立) あぢさゐのよひらの八重に見えつるは 葉ごしの月の影にぞ有りける とぶ蛍ひかり見えゆく夕暮れに なほ色残る庭のあち゛さゐ 『三位中将公衡卿集さんみのちゅうじょうきんひらきょうしゅう』(制作年不明)、藤原公衡(1158-1193) あち゛さゐの花咲きまじる草むらは 立ちもはなれず夕すずみして 『新古今新抄』 あち゛さゐの下葉にすだく蛍をば よひらの花をとふにぞありける 紫陽花の花に心の移るかな 秋の野原を待ちもえ(み)なくに 『壬二集みにしゅう』(1245年成立) あち゛(づ)ま野にあち゛さゐ咲ける夕月夜 露の宿りはあき(あさ) 次の歌は、目の前にあるアジサイを詠んだように私には、思えるのですがどうでしょう。 あぢさゐのしほれてのちに咲く花のただ一枝に(よ)秋の風まで:定家 いまもかもきませわがせこ見せもせむ 植ゑしあち゛さゐ花咲きにけり:藤原知家 あち゛さゐの花咲きまじる草むらは 立ちもはなれず夕すずみして:藤原公衡 これほどと人は思はじ川かみに 咲きつづきたるあち゛さゐの花:権僧正公朝 初めの3首は庭に植えられたアジサイを詠んでいるように感じます。残念ながら額咲きか、テマリ咲きかはわかりません。 最後の歌は人里離れた川上の林の中に自生する、アジサイを詠んだようにとれます。もしこの見方が当たっていれば、ガクサジサイではなく、森林性のヤマアジサイを詠っていることになります。 京都周辺は青い花のヤマアジサイの生育圏です。あまり人の踏み込まない樵道に青いヤマアジサイの花が一面に咲いている情景が思われます。 ・・・・・ 平安時代末の3首の和歌を除いて、平安時代は、なぜか和歌や物語、絵画などにアジサイを取り上げませんでした。鎌倉時代にはいると、アジサイを詠み込んだ歌はずっと多く作られるようになりましたが、アジサイそのものを詠った歌はわずかでした。 アジサイは、庭に植えられていたらしいこと、夏の花と意識されたことがわかる位で具体的な花の姿は浮かび上がってきません。 ただ、アジサイが負のイメージを持たされている歌は1つもないように思います。 時に「よひら」という言葉をとらえて、「よひら→四→死」という連想があったため嫌われたと云う人がいます。しかし、「よひら」という言葉がそのような発想で使われている歌はなく、現代人のこじつけとしか思われません。 万葉集には詠まれ平安時代の歌に詠まれない花は、アジサイだけでなく他にもいくつかあるようです。また身近にあった花が歌には、全く詠まれないという例もあるようです。 むりやり要約すると、 「歌に詠まれる花、詠まれない花」には、人の意識に関わる深い問題が隠れている。美しいから珍奇だから詠むと云う自由がゆるされたのは、歴史上は特別な一時期だった。
平安時代は400年、この長い間アジサイは歌に詠まれることはなくとも、家々の庭に植え継がれていったことでしょう。また鎌倉は、ガクアジサイの自生地である三浦半島と伊豆半島に挟まれたような土地です。 鎌倉幕府の周辺にアジサイが植えられていたかもしれません。今でも鎌倉は、アジサイの生育には適した環境のようで、半野生のアジサイを見かけます。 源頼朝は、三浦三崎に桜の御所、桃の御所、椿の御所という花の三御所を持ち、たびたび花見に訪れたと云われています。また頼朝は妙子という側室を政子に嫉妬され椿の御所にかくまって、鎌倉から舟で通ったと云われています。 頼朝が野生のガクアジサイを見たかの可能性もありますね。 ちなみに、妙子は、頼朝の死後、尼となり「妙悟尼」と名を改め、頼朝の菩提を弔い、30余年をここで暮らしたと伝えられています。花の三御所の跡は、それぞれ見桃寺、本瑞寺、大椿寺というお寺になっています。 ◎平安時代の辞書ア ジサイは、平安時代の和歌、物語、随筆など文学の世界では、なぜか顧みられなかったようで。しかし平安時代に成立した古い辞書にはアジサイが取り上げられ ています。しかも辞書の1つにアジサイを表す和製漢字(国字ともいう)が載っています*。文学では顧みられなかったアジサイも、平安人の生活とは一定の関 わりを持っていたようです。 1.「新撰字鏡しんせんじきょう」:平安時代初期に成立した漢和辭書。 「草冠(くさかんむり)に便」の字に和訓として「止毛久佐又安知左井」 「安知左井」はアジサイを意味すると考えられていますが、「草冠に便」の字と「止毛久佐」についてはよくわからないようです。 この辞書には萩・榊など多くの和製漢字が含まれるので「草冠に便」の字も和製漢字とする考えもあります。 山本武臣氏は、「草冠に便」の字が和製漢字で、「止毛久佐」とセットだという興味深い考えを述べています(「アジサイの話」山本武臣著:1981年、八坂書房刊)。その一部を引用してみましょう。
つまり、アジサイの葉はトイレットペーパーであったということ。それを表すための漢字をつくった。 こ の辞書は、現存する日本最古の和訓を有する漢和辭書で、892年三卷完成その後900年まで増補。約400字の和製漢字を含む。僧昌住による編纂されまし た。残念なことに古い写本が伝わっていないため、資料としては問題があるようです。一番古い写本でも平安時代の終わりごろ。
「草冠+便」の字を中国では「一種草」としているのに、日本では「安知左井」という特定の植物に当て、しかも「止毛久佐」という訓まで付ける必要があったことが重要だと思います。 平安時代は、アジサイを和歌には詠まなかったけれど、萩や榊と同じようにアジサイを表す漢字を必要としていたようです。 *体験談 「アジサイの葉、トイレットペーパ」
東邦大学理学部生物学科の「生物学の新知識」あじさいのページで次の文を見つけました。短い文なので全文を転載させていただきました。 タイトル:「究極のエコ」 昭和39年(1964)、
筆者は神津島からの帰りに、三宅島に立ち寄ったことがありました。海岸で植物採集の後、畑の中のトイレで用を足しました。その時、目の前にガクアジサイの
葉に糸を通したものが下がっていました。落とし紙が高価な時代には、アジサイの葉が代わりに用いられていたのですね。パリッとした青い葉ではなく、少し乾
いた葉は、快適なものでした。 新撰字鏡(898)には草冠に便と書いた文字があります。「止毛久佐」、「安知左井」とあり、言塵集には「またぶり草」とあるそうです。かつて、アジサイの葉は、ひろく落とし紙として用いられていたのでしょうね。これこそ、究極のエコではないでしょうか。文末の署名は(自然史研究室 吉崎 誠)。 もう一つ平安時代の辞書 2.「和名類聚抄わみょうるいじゅうしょう」 「紫陽花 白氏文集律詩云紫陽花 和名安豆佐為」とある。 「白氏文集*律詩に云(い)う、紫陽花、和名安豆佐為(あつさい)」 辞書の中で源順は、「紫陽花」に初めて和名安豆佐為(あつさい)とい 「和名類聚抄」が編纂された頃には、アジサイが身近な植物で万葉仮名による不安定な表記でなく、統一した漢字表記が求められるようになっていたのでしょう。 和製漢字の「草冠+便」の字は、結局あまり使われることがなかったようです。 当時、中国には日本と同じ植物があると考えられていたので、源順は中国の文献に当たり「紫陽花」に行き着いたのでしょう。ただ今ではこれは誤用だと云われています。 今から考えれば中国にアジサイは無く、どんなに探してもアジサイの中国名は見つかるはずがなかったのですが。 しかし日本人はアジサイを「紫陽花」と表記することがすっかり気に入ってしまったらしく、しだいに普及し現在に至っています。 江 戸時代にも明治以降にも、白居易(白楽天)の詩の詞書きから、「紫陽花」をアジサイの当てたことは間違いだと主張した人は何人もいます。たびたび誤用であ ると指摘されてきたのに改まらないのは、「紫陽花」があまりにも美しい表記で人気があり、取って代わる表記が難しいためでしょう。 ちなみに現在中国では詩の中の「紫陽花」がどんな植物を意味するか不明とされています。このことも「アジサイ=紫陽花」の定着に幸いしたのかも知れません。 中国でアジサイは全く別な表記がされています。ガクアジサイには綉球、紫綉球、八仙花が、アジサイには綉球花、大八仙花、八仙綉球などが使われているようです。(中国樹木志より) ○アジサイに「紫陽花」をあてるのは誤用とする根拠根拠の1つは、白氏文集「紫陽花詩」詞書きに「花は紫で芳香がある」と書かれていることです。 源順はこれを見落としたのでしょうか、それともアジサイを知らなかったため芳香があると思ったのでしょうか。どちらも考えにくいことです。 白氏文集は比較的平易な内容で、「紫陽花詩」の詞書きも、『白居易があるお寺で紫色の良い香がする花を見つけたが、だれもその名を知らなかったので、「紫陽花」という名をつけた』と書かれているだけです。 ではなぜ、アジサイ=紫陽花なのか これらの辞書がつくられた当時、和歌には詠われないアジサイをわざわざ辞書に入れたのは、身近に見られたからでしょう。 源順は本当に「紫陽花」をアジサイと思ったのでしょうか、どうも私にはそうではなかったような気がします。源順はアジサイをよく知っていた、とても美しい花だと思っていた、だから白氏になったつもりでこの美しいアジサイの花に、美しい漢字の名「紫陽花」を借りて付けた。 私は、このように考えたいのです。源順の「誤用なんかじゃないよ」と言う声が聞こえてきませんか? それにしても源順の「紫陽花」は日本人の強い支持を受けて広くひろがったのに比べ、白氏の「紫陽花」が広がらなかったのは何とも皮肉な結果です。 ◎鎌倉時代までの歌論書など文字資料『古来風体抄』 1197年成立の歌論書、上下2巻、藤原俊成著 下巻の初めの部分にアジサイについて次の記述がある。 「・・・卯月にもなれば、・・・庭のあち゛さゐのよひ々にをける露に、夕月 俊成のアジサイは、「アジサイ・よひら・宵」という連想のように、宵・夜に見るべき花とされている。またアジサイは、蛍の飛びかう夏の花ではなく、卯月・旧暦5月つまり初夏の花としていることは現在の季節感に近い。 俊成には先にあげた次の歌が『千五百番歌合』ある。 夏もなほ心はつきぬあぢさゐのよひらの露に月もすみけり 藤原俊成 『八雲御抄やくもみしょう』 1234年頃成立の歌論集、平安歌学の集大成とされる。 草部にアジサイについて次の記述がある。 なぜアジサイは、歌に詠みがたいのかは述べていない。 また、同じ草の部にキキョウ、リンドウについて次の記述がある。 しかし、アジサイに関しては、万葉集を引き合いに出し注意を喚起した上で詠みがたいとしている。アジサイを知らなかったとするのは当たらないと思う。 万葉集以後永く詠まれなかったアジサイが、平安末に再び詠まれ始めたが、この本が書かれた頃にアジサイは、歌の中で「アジサイ→よひら→宵、夜」という連想から宵・夜を引き出す役割が定着しつつあった。 順徳院は、「万葉集でアジサイは、八重咲くもの、にぎやかに咲き誇り繁栄の象徴とされている」ことを云い、これが歌の中でのアジサイの役割としてふさわしいと考えたのだと思う。しかし時代は、アジサイにそのような役割を与えなかった。 順 徳院は、アジサイを知っていたからこそ時代の与えた、アジサイの宵を引き出す役割に納得できなかった。かといって、万葉集にある繁栄の象徴とする役割を歌 論書の中で主張するには、あまりにも永い空白があり無理があるため、順徳院はアジサイを「詠み難き物」としたのだと思う。 当 時の和歌は、自己表現のためにあったのではなく、コミュニケーションの手段として機能していた。したがって、詠み込まれる個々の物に与えられる意味や役割 の共通認識が必要だった。個人の独創性や個性を主張しても、それでは、コミュニケーションは成り立たなくなりあまり意味を持たない。 現代のメールや掲示板・チャットなどにも顔文字など普通の文にはない、自然発生的に約束された特有の表現があることに似ていますね。 『拾玉集しゅぎょくしゅう』 全七巻、鎌倉末期から南北朝までの間に成立の歌集。 巻第二、夏二十(季節の歌語)に次の記述がある。 「あち゛さゐの 池のはちすに ひむろやま むすぶ泉に 夏はらいかな」 季節の歌語を並べているが、アジサイは俊成の記述とは異なり盛夏の花となってい る。 この時代までアジサイについて、ここに上げた二つの辞書、和歌、その他の文字資料を越える具体的内容の記述はないようです。「アジサイの話」山本武臣著、八坂書房刊に詳しい。 ◎鎌倉時代までの絵画、文様などの資料鎌倉時代まで、アジサイの絵画や文様は1つも発見されていません。 ・・・・・ ○「白氏文集(はくしもんじゅう)」 白居易(楽天)の詩文を集めたもの。平安時代の教養書の1つ。 現存する71巻の内容は時の政治を詠んだ「風諭詩」と日常の生活を詠んだ「閑適詩・感傷詩」に分けることができますが、当時の日本では「長恨歌」「琵琶行」など「閑適詩・感傷詩」の方が好まれたようです。 白 氏文集は当時大変人気があり、ある程度教養ある人はその内容に精通していることが当然とされていたようです。清少納言は白氏文集を暗記していたといわれて いますし、枕草子にも「文(書)は、(白氏)文集、・・・」と高く評価しています。紫式部も愛読していたらしく、源氏物語も白氏文集の影響を相当受けてい るといわれています。 「白氏文集 巻第二十」 「紫陽花詩」とその詞書き (この項は多少編集した以外は「話しことばの通い路、ポカポカ春庭の人生いろいろ」からの引用です。) 「紫陽花詩」の詞書き 招賢寺有山花一樹、無人知名 色紫気香、芳麗可愛、頗類仙物 因以紫陽花名之 (意味)(招賢寺に山花一樹あり、名を知る人無し)(色紫にして気香しく、芳麗にして
「紫陽花詩」 何年植向仙壇上 早晩移栽到楚家 雖在人間人不識 与君名作紫陽花 (意味)(いづれの年か植えて仙壇の上に向かう) (いつしか、移栽して梵家(てら)にい たる)(じんかんに在りといえども人識らず) (君に名づけて紫陽花となさむ)
●万葉〜鎌倉まとめ万葉集の「味狭藍」、「安知佐為」、平安時代の辞書にある「安知左井」、「安豆佐為」などの表記は、アジサイを指すと考えられています。 鎌倉時代までの資料を見てきましたが絵画や文様が未発見なこと、和歌にも花の姿を描写したものがないことから、当時のアジサイは、ガク咲きかテマリ咲きかという基本的なこともはっきりしません。 しかし、アジサイを「よひらの花」と表現しているので、私は、当時のアジサイがガク咲きだったと考えています。ガク咲きでは装飾花のガク片が4枚と強く意識されますが、テマリ咲きではガク片の数は意識されにくいからです。 和歌の中に、庭のアジサイを詠んだと思われるものがいくつかありました。挿し木や栽培の容易なアジサイは便利な庭木だったと思いますが、座敷の前よりも池の向こう側や塀際に植えられたような気がします。 飛鳥、奈良、京都には、ヤマアジサイは自生していますが、ガクアジサイは自生しません。ヤマアジサイは橘諸兄の歌にあるような、繁栄の象徴とし詠われるアジサイとしては適していないように思います。 もし、奈良平安の頃のアジサイがガクアジサイだとすると、どこから運ばれてきたのでしょう。ガクアジサイは海岸の植物で、主な自生地は三浦半島、伊豆半島、伊豆七島などの海岸です。 都 には、東国との間に庸(京で労役)や調(布、産品を京へ運んで納める)で人の往来があったので、それにつれて、アジサイも移動した可能性があります。ま た、紀伊半島先端の海岸の一部に自生のガクアジサイがあるとする説もあります。それに従えば熊野路などを通して都に運ばれた可能性もあります。 寝殿造りの庭には、三宅島や八丈島の白いガクアジサイではなく三浦半島や伊豆半島、あるいは紀伊半島の青い装飾花のガクアジサイがひっそりと咲いていたように思います。 ガクアジサイの葉をトイレットペーパーにする習慣が都にあったなら、陰干しの葉を毎日必要とするので都の近くで栽培されていたことが考えられます。 万 葉集のアジサイの歌は、東歌や防人歌でなく都の比較的高い身分の人によって詠われています。また、1首は友に他の1首は妻に贈るために詠まれています。ア ジサイは自生地に近い関東では身近な花ではなく、都では贈答歌に詠まれるほどよく知られた花だったと言えるのではないでしょうか。もしそうなら、アジサイ は庶民の家ではなく貴族などの屋敷にあったことになります。 その後アジサイは、定型化した歌の中では役割が与えられず、歌に詠まれることはなくなりました。しかし都の暮らしの中で、アジサイは何らかの役割を果たしていたので、安定した漢字表記が求められ、「草冠に便」の字や「紫陽花」が提示されたのではないでしょうか。 時代が下って、アジサイは「よひらの花」という新たな名前を得ることによって、その音の連想で宵や夜を引き出す新たな役割が与えられ、平安末期に再び歌に詠まれることとなりました。 和歌の中に役割を与えられたアジサイは、時に役割を離れ今から見ても意外なほど新鮮な歌を誘発することになったように、私には思えるのです。もう一度その歌を上げてみましょう。 あぢさゐのしほれてのちに咲く花のただ一枝に(よ)秋の風まで:定家 いまもかもきませわがせこ見せもせむ 植ゑしあち゛さゐ花咲きにけり:藤原知家 あち゛さゐの花咲きまじる草むらは 立ちもはなれず夕すずみして:藤原公衡 これほどと人は思はじ川かみに 咲きつづきたるあち゛さゐの花:権僧正公朝 これらの歌を通してみても、貴族が実権を握っていた奈良・平安時代から武士の世となった鎌倉時代までアジサイは、好ましく、愛でるべき花であって、忌むべき花でなかったことがわかります。 *一部補充:「鎌倉時代の歌論書など」 2004.12.1. 未完 ◎室町時代 |