ザッバーン
舞い散る水しぶきを呆然と見つめながら、正はその場に立ちつくしていた。
水面から飛び出た「それ」は、正を横目で見てにやりと笑う。
(まさかこんなのが本当にいたなんて)
赤い鱗、白く透き通った白い肌、青く長い髪。
正の目の前に現れたのは紛れもなく人魚であった。
まるでスローモーションのように、人魚は水の中に落ち、潜ってく。
そして人魚が見えなくなった時、正は、はっと我に返った。
ほんの一瞬の出来事だった。
正は水面をのぞき込む。
水面は正の顔を映しただけで、それ以上の物を映し出すことはない。
「待ってくれ!」
正が叫ぶ。
「待ってくれー!」
正の声がこだまとなって森の中に響き渡った。
山下正(やました ただし)が人魚と出会ったのは小学6年の春休みだった。
正の住んでいる町には龍神山という山がある。
あまりにも険しいため、人陣未踏の地となり、道らしい道もほとんどない。
さらに周りはフェンスでぐるりと囲まれている。
周りの住民でさえほとんど近づかないのだから、誰もその山に登ろうとはしなかった。
その日、正は龍神山に登った。
春休みということもあって、友達はみんな家族で旅行、もしくはどこかに出かけている。
一人取り残されたような感じの正は家で暇を持て余していたのだ。
その時に正の目に入ってきたのが龍神山である。
最初は山をぼーっと眺めていた。そして、散歩のついでにで、正は山に登ったのだった。
はっきり言ってその山は「ついで」で上れるような所ではない。
山は夏でも肌寒く、昼間でも薄暗い。虫の音が途切れなく聞こえ、ときおり聞こえてくる不気味な鳥の巻き声。
そして後悔したのも後の祭り、正は道に迷ってしまった。
しばらくして、さまよっている正の耳に、かすかに聞こえた音があった。
水の音。
正は龍神山に川や池があるなんて聞いたことがなかった。故にその音に興味を持った。
胸ほどの高さの草むらをかき分け、音のする方を目指して歩いていると、視界が急に開けた。
そして見つけたのがその泉だった。
鬱蒼と木が茂って、空が見えない森のはずなのに、その泉の上だけは木が途切れ、青空が 覗いている。
泉に光が射し込み、透き通った水がとても神秘的な雰囲気だった。
正がその光景に見とれていたその時。
水面がはじけ、それが水面から飛び出したのだった。
7月の雨は憂鬱である。
それでもこの教室がにぎやかなのは、きっと夏休みが近いからだろう。
あれからあれから4ヶ月、正は中学に進級した。
人魚のことは結局、誰にも信じてもらえなかった。
自分でさえまだ信じられないのだから当然だろう。
時々、その泉に行ってみたが、あれ以来何も現れることはない。
正は机に突っ伏せ、窓から外の雨を見ていた。
「ねぇ、正」
少女の声が前からした。
見ると、前の席に見知った顔の女子が、後ろ向きに座って正を見ていた。
「何だ、ひかるか・・・」
「何だとは何よ。せっかく声をかけてあげたのに」
彼女の名は黄麻(こうま)ひかる。
正とは腐れ縁で、小学校の時からずっと同じクラスである。
長く伸びた黒い髪、美人とまでは行かないものの、結構かわいい顔をしている。
クラスでよく話す2人は、時々周りの生徒に冷やかされていた。
しかし、2人は別にそんなことは全然気にしてなかったりする。
「正、何かあったの?中学に来て全然元気がないけど・・・」
「ひかるは人魚って本当にいると思うか?」
それを聞いて彼女はあきれた顔をした。
「まだ言ってるの、人魚だなんて」
ひかるも幾度と正の話は聞いていた。
しかし、全く信じていなかった。
「人魚っていうのは、昔の人がジュゴンやマナティーを見て、人魚だと勘違いした、架空の生物よ。
人魚のミイラって言うのもテレビかなんかに出てたけど、あれは猿のミイラと鮭のミイラを組み合わせた偽物。
本物なんているわけないじゃない」
「う、うん・・・」
幾度となく聞いた答えである。
高校1年の兄にも同じ事を言われた。
「今日の掃除当番は私達2人だけよ」
唐突にひかるが言った。
「は?他の人は?」
「逃げたのよ」
今日は土曜日で、3時間目までしかない。
周りを見ると、教室で騒いでいた生徒達も半分になっていた。
その生徒達もどんどん教室から出て行き、数分後、教室には正とひかるだけが残された
「さ、ぼつぼつ始めましょうか」
2人は机を寄せ、掃除を始めた。
掃除も終わろうとしてた時、床をほうきで掃いていたひかるがぽつりと呟いた。
「そう言えば今日、龍神山の一部で、土砂崩れがあったんだって」
窓を拭いていた正は、手を止め、ひかるの方を見た。
「えっ・・」
「最近雨ばっかしだったから、地盤がゆるんだだろうって、お母さんが」
正は再び、窓の外に目を向ける。
そこからは龍神山がよく見えた。
外は鬱蒼とした黒い雲が空を覆い、しとしとと冷たい雨が降っている。
雨が次第に激しくなっているのが、正の目からもはっきりわかった。
雨のせいで、龍神山はぼんやりとした輪郭しか見えない。
なぜだろうか。この時、正は言いようのない胸騒ぎを感じた。
「どうしたの?」
「ひかる・・・」
顔をのぞき込もうとしたひかるに、正は持っていた雑巾を押しつける。
「ゴメン、俺ちょっと用事があるんだ」
「ちょ、ちょっと」
正は鞄を手に取り、教室から飛び出していった。
一人取り残されたひかるは、呆然と正が出て行くところを見ていた。
「ちょっと!私一人に掃除させる気!」
叫んだものの、もう遅く、正はすでに視界から消えていた。
正がやって来たのは龍神山。
フェンスをくぐり、中に入る
傘が木にかかって邪魔なので、途中で放り出した。
泉のあるところは覚えている。
胸騒ぎを押さえるために、正は走り出した。
足下が滑りやすくなっているため、何度も足を滑らせる。
どれぐらい走っただろうか。草をかき分けると、視界が急に開けた。
そして正の目の前に現れたのは、無惨に変わり果てた泉の姿だった。
泉の半分が土砂で埋まっていた。澄んだ水は茶色に濁り、泉も周りに生えていた花もなくなっていた。
見てわかるように、ここで土砂崩れがあったのだ。
「ひ、ひどい」
正は泉に向かって歩き出す。
泉の前でかがみ込み、泉の中を覗きこんだ。
濁った水は何も映し出さない。
その時、何か音がした。
今度は水の音ではない。
正は息を潜め耳を澄ます。
何の音かはすぐにわかった。誰かのうめき声だ。
正は声のする方を見る。
少し離れたところに、自分と同じぐらいの大きさの岩があった。
どうやらその声は、その岩の下から聞こえて来るようだ。
正は恐る恐る、その岩に近づく。
岩の下、影になって見えなかったが、そこに何かがいた。
ごくりと唾を飲む。
正は思い切って岩のところをのぞき込んだ。
「・・・・・・・」
赤い鱗をした人魚がそこにいた。
その人魚は前に見た人魚とは明らかに違っていた。
前に見た人魚と比べ、この人魚は小柄だった。
また、この人魚は胸が小さい。前に見た人魚はもっと大きかった・・・
そこまで考え、正は少し恥ずかしさを感じた。
倒れている人魚は、上半身何も着けていないのだ。
人魚の脇腹からは赤い物が流れ出ていた。
それに気づき、正は恥ずかしさを忘れあわてふためく。
人魚はけがをしていた。
血は止まることなく、流れ出ていく。
正はけがを治療するすべを知らない。かと言って、誰かを呼んでくるのもためらわれた。
人魚は弱っていた。この様子では呼んでくる間に死んでしまうかもしれない。
また、人魚を見て素直に治療してくれる医者がいるとも思えなかった。
「くっ・・・・」
なすすべが唇をかむ。
人魚の表情からも、かなり苦しそうだということがうかがえた。
ともかく血を止めるべきだと考えた正は、制服を脱いで、人魚の腹に巻きつけた。
次に考えたのが、薬である。
家に救急箱があったと考え、正は山を下りる決心をした。
どうせ、ここにいても何もできない。そう考えた結果である。
正は山を下り、走って家へと向かった。
ひかるが学校を出る頃には、すっかり雨が上がっていた。
あの雨雲が嘘のように、今の空は真っ青に染まっている。
「正のやつぅ〜」
ひかるは結局一人で掃除をした。
帰るのが遅くなってしまったのは正のせいだ、とぶつぶつと言いながらひかるは歩いていた。
本来なら4人でやる掃除、恨まれるのが正だけなのはなぜなのだろう。
「今度見かけたらただじゃおかないんだから」
やがて、自分の家が見えてきた。
ひかるの家は、この町の小さな病院である。
そのこともあって、ひかるは保険委員をさせられていた。
ひかるは門の前で立ち止まる。
その時、前の道から誰かが走ってきた。
「正・・・」
ずぶぬれで、泥まみれになった正が前から走ってきた。
「どうしたの、一体」
ひかるは怒るのも忘れて、正を止めた。
「救急箱・・・・あるか?」
息切れしていた正は何とか声をしぼり出す。
「脇腹を怪我してるんだ・・・・」
「何ともないわよ」
「俺じゃない・・・」
ひかるにも、何とか事情が飲み込めた。
「怪我してる人がいるのね?」
正はこくりと頷く。
「待って、父さん呼んでくるから」
家に入ろうとしたひかるの手を、正がつかんで止めた。
この事を大人に話したら、怪我以前に人魚の命が危ない。
「ひかる、おまえ保健委員だったよな・・・だったらおまえでいいから来てくれ」
「ばか言わないでよ。私は簡単のな治療しかできないわ。それに、ひどい怪我ならプロに見せた方が確実でしょ」
「だめなんだ・・・」
正の目はあまりにも真剣だった。さすがのひかるもこれには嫌とは言えなかった。
「待ってて」
ひかるは家の中から救急箱を持って出てきた。
病院ということもあって、薬などの種類は 他のより多い。
「言っとくけど、私もかじる程度だからね」
「ありがと・・・・」
再び、正は龍神山を目指して走り出した。ひかるも少し遅れてそれに続く。
時間の猶予はあまりない。
ひかるも正と同じような反応をした。
「・・・なに・・・これ」
「人魚だ」
ひかるはかがみ込み、鱗の部分を手でなでた。
「本物・・・・」
「ひかる、早く治療を」
「う、うん」
ひかるは恐る恐る、腹に巻いてあった包帯代わりの制服を取った。まだ乾いてない血がべっとりと剥がれる。
「何とかなるか?」
真剣な顔で傷を見ていたひかるは、正の方を見ずに言う。
「何とかしなきゃならないでしょ。とにかく薬出して」
ひかるは手慣れた手つきで、人魚の治療をはじめた。
アルコールを取り出し、人魚の傷口に掛ける。
ビクンと人魚の体がうねる。
「正!押さえて!」
「ひかる!なにしたんだ」
「消毒よ」
ひかるに言われたとおり、正は人魚を押さえ込む。
それでも、人魚は暴れる。
「しみるけど我慢して」
そう言ってひかるは薬を手に取った。
数分後、ひかると正は背中を合わせて座っていた。
二人とも息が荒くなっている。
正は人魚を押さえるのに体力を使い、ひかるは緊張で精神を。
「で、大丈夫なのか?」
正がひかるに尋ねる。
「わかんない、だけどできることはやったわよ」
「そうか・・・・」
正はそばに横たわっている人魚に目を向けた。
もう、うめき声もなく、表情もおだやかになっている。
人魚の体には包帯が巻かれ、その上から、正の制服を掛けてあった。
人魚の表情から、治療はまず成功だろう。
正は安心して目を閉じた。
「で、どうするの?」
「・・・・・・・・」
正は沈黙した。
どうすればいいかなんて、正にはわからない。
とりあえず、傷を治療してからだと思っていたのだが、結局何も良い考えは浮かばなかった。
「ひかるはどうした方がいいと思う?」
正は逆に問い返した。
「少なくとも、誰かに話す事じゃないわね」
「そうだな・・・」
「あなたが言ってたことは本当だったわけね」
ひかるは横目で人魚を見て、また視線を空へと向けた。
初めて人魚を見て、ひかるも驚いた。
今でも信じられない。
人魚が架空の生き物だと思っていたわけだから当然だ。
「誰にも言わない方がいい」とは言ったものの、心のどこかで、「このことを誰かに伝えたい」という気持ちもある。
しかし、それをやればせっかく助けた人魚の命が保証できなくなってしまう。
殺されはしないだろが、研究の対象になることは確かだ。
「それよりこの子はどうする?1日中つき合うわけにもいかないでしょう?」
ひかるが尋ねた。
それに対しての正の答えはもうすでに決まっていた。
「今日はずっと俺がつき合っている」
「何言ってるのよ、できるわけないじゃない」
もう、空は薄暗くなっていた。
そろそろ帰らないと親が心配する。それ以前に、暗い山道を歩くのは危険である。
「親にはひかるがうまく言っててくれないか?」
「・・・・・」
ひかるはゆっくりと立ち上がった。
「正、もしあなたが帰ってこなかったら、親はどう思う?」
「確かに心配すると思うけど、今はそれより大事なことがある・・・」
「もしあなたが数日して帰ったら、どこに行ってたかを問いつめられるわよ。そんなことになったら、余計にやっかいよ」
「・・・・・」
正は言い返すことができなかった。
ひかるはそのあとのことまで見越していたわけである。
しかし、それでも正はここを離れる気にはなれなかった。それほど人魚のことが心配だった。
「わかった・・・・でも・・・・」
正が口ごもっていると、不意にひかるが口を開いた。
「正、私が言うことを聞いて、私に良い考えがあるわ・・・」
「ただいま」
「お帰り、遅かったわね」
「掃除当番で長引いて、それより晩御飯できてる?」
「ええ、早く手を洗ってきなさい」
ここは正の自宅である。
正が帰ってきた時、時刻は7時半を回っていた。
夏なので、外はまだほんのりと明るい。
母は台所で、正に背中を向けて立っていた。
正は母が振り返るよりも早く、その場を横切り、二階の自分の部屋へと上がった。
びしょぬれの姿を母に見られるとやっかいだ。それに正は右手には自分の靴を持っていた。
部屋に入った正は、さっさと着替え、また下に降りる。
テ−ブルの上にはもうすでに、晩御飯が並べられ、兄の真一も席に着いていた。
正の家の家族構成は、母、兄の真一、正の3人である。
家族の大黒柱である父は、単身赴任で今ここにはいない。
その分母親が必要以上にたくましくなっているのだが、今回は語らないでおく。
兄の真一と正は仲が良い方である。
真一は遠くの私立の中学に通っていたのだが、高校はここの近くの学校に来た。
昔はガリ勉で、神経質だった兄は、高校がここの公立学校に決まってから、性格が一変した。
マイペースで穏やかな人物になっていた。
勉強という束縛から解かれたと言うんだろうか。
最初は違和感を感じていた正だったが、今ではつき合いやすくなって、仲が良くなっている。
真一曰く、「性格が変わったというのではなく、これが自分のもう一つの性格」
正は出された夕食を急いで口にかけ込み、立ち上がる。
「ごちそうさま!今日は疲れたから寝る!」
そう言って部屋へと走っていった。
その間、わずか1分。
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
母と真一はしばし顔を見合わせ沈黙する。
「何かあったの?」
「さあ・・・・」
またしても2人は沈黙した。
部屋に入った正は、まず内側から鍵を掛けた。
その次に押入をあけて、ある物を探す。
ある物はすぐに見つかった。それを取り出し、まだ使えるかどうかを確認する。
正が取り出した物、それは縄ばしごだった。
「備えあれば憂いなし」ということで、火事に備え、母が置いておいたものだ。
そしてリュックを用意し、必要な物を詰める。
正はひかるが言ってたことを頭の中で反芻した。
『正、今帰らなかったら、あとでやっかいだわ。
そ・こ・で、いったん家に帰ったあと 親にばれないようにこっそりと家から抜け出すのよ。
それに明日は日曜だから、親は遅くまで寝てるわ。夜の8時に学校前で合流しましょう』
正は窓を開け、縄ばしごを下に降ろした。
先ほど持ってきた靴を履き、正は音を立てないよう、ゆっくりと下に降りた。
門から出ると、音が出るので、家の塀を飛び越え外に出る。
学校までは約15分ほどで着く。
学校前に着き、少ししてから、ひかるが駆けつけて来た。
「私の方が近いに、何であなたの方が早いのよ・・・」
ひかるがぼやく。
やはり、1分の夕飯の成果だろう。
そして2人は龍神山に向かった。
学校から龍神山まではそんなに遠くない。走って5分ほどで、山のふもとに着いた。
ひかるは闇で黒く染まった山を見上げる。
「で、ここからどこ行くかわかる?」
フェンスをくぐり抜けたところで、ひかるは懐中電灯を取り出した。
「こっちだ」
正はひかるから電灯を受け取り、先頭になって歩いた。
はぐれないよう、もう一方の手で、ひかると手をつなぐ。
暗闇にも関わらず、正は迷わずにその泉を見つけだした。
「すごい・・・・」
あきれるのか感動するのか良くわからないまま、ひかるは人魚の方へ歩み寄った。
「明かりをつけて」
言われるまでもなく、正はランプを取り出していた。
リュックからライターを取り出し火をつけ、近くの木につるす。
ぼんやりとした光が辺りを照らしだした。
そんな中、ひかるは人魚のそばにかがみ込み、人魚の顔色を確認する。
人魚は静かな寝息を立てて眠っていた。
「たく、幸せそうな顔してるわね・・・。さっきまで死にかけていたのに」
脈拍は正常だ。顔色も良い。
「今日は野宿ね。私、初めて」
ひかるは人魚を見たあと、少し離れたところに腰を下ろし、そう言った。
正も人魚の顔を見て緊張が解けたのか、ひかるのそばに腰を下ろして笑った。
「俺もだ」
ランプに照らされたれた人魚を見ながら、正は足を組んで座っていた。
ひかるは「5時間交代で見張ろう」と言って、しばらく前から眠っている。
正は時計を見た。
あと3時間たったら、ひかるを起こさなければならない。
人魚は死んだように眠っている。
本当に死んでるのではないかと心配になるが、正にはなにもできなかった。
そして何事もなく3時間が過ぎていった。
正はそばで眠っていたひかるを揺すって起こす。
「ひかる、交代だ」
まもなくしてひかるが目を覚まし、正と並んで座った。
「何か変化はあった?」
正は首を横に振った。
「いや、なにも」
「そう」
寝ている人魚に手を当て、脈などを確かめる。
「異常みたいな物はないわね」
「そうか・・・。良かった」
そして2人は沈黙した。
日頃はよく話す2人なのだが、この時点では何も話せなかった。
やがて、ひかるが口を開く。
「正、寝た方がいいわよ」
「起きれるまでは起きておく。いいだろ?」
「体が持たないわよ、ただでさえ山は寒いのに」
「大丈夫だ」
そうは言ったものの、まぶたが重い。
やがて正は、ひかるのそばで眠ってしまった。
「まったく・・・」
あきれながらも、ひかるは正に持ってきた毛布を掛けてやった。
翌日の朝、正はひかるに激しく揺すられ目を覚ました。
「正、起きて!」
「何かあったのか!」
正は飛び起き、人魚のそばに駆け寄った。
しかし、人魚には何の変わりもなく、相変わらず幸せそうな顔で寝ている。
「これ見て」
ひかるは人魚の傷に巻いてあった包帯をゆっくりとはずした。
「!」
傷は完璧に消えていた。
「どういうことなんだ」
「包帯を代えようとしたらこうなってたの。すごいわ、一晩で完治するなんて・・・・」
昨日まであんなに血が出ていた傷口は、代わりに真っ白な皮膚になっていた。
人魚の回復力はそれほど凄まじかったのだろう。
この時点で、何日も付きそうということはなくなったわけだ。
その時だった。
今まで閉じられていた人魚の目がゆっくりと開いたのだ。
「あっ・・・」
先に口を開いたのは人魚の方だった。
「に、人間」
「俺達は・・・」
正が何か言うよりも早く、人魚は正を突き飛ばした。
「さわらないで、お母さんから聞いてる。人間は敵だって」
「お母さん」というのは自分が前に見た人魚だろうか。
正がそんなことを考えた。
しかし、その人魚が生きている確率はかなり低い。
泉の半分は土砂に埋まっている。この人魚の母もおそらくはその中にいるのだろう。
「お母さん、どこ!人間が・・・・」
人魚は口をつぐんだ。
その訳はすぐにわかった。
「おかあさん・・・」
土砂に向かって、人魚が言う。
「あなたは生き残ったの、傷も治ったから大丈夫よ。」
「『あなたは』?じゃあお母さんは?」
ひかるは首を横に振る。
「私も一応探してみたけど、あなた以外の人魚はいなかったわ」
「そんな・・・」
人魚の目がうつろになる。
先ほど突き飛ばされた正も立ち上がり、人魚の方によってきた。
「俺達は敵じゃない、君を助けたのは俺達だ」
人魚の信用を得ようとした正だったが、逆効果だった。
「人間はみんなそう言って近づくのよ、誰がそんなこと信じるの!」
正とひかるは顔を見合わせる。
どうやらこの人魚は治療を受けたことおろか、自分がけがをしたことすら覚えていないらしい。
正がひかるに小声でささやく。
「どうする?」
「私たち、信用されてないみたいね。けがをした事も覚えてないみたいだし」
「・・・・・・・」
「そうね・・・信用されるまで一緒にいるというのは?」
「そうだな・・・・」
作戦は決まった。それぐらいしか思い浮かばない。
正とひかるは並んで腰を下ろした。
こうなっては違う意味で長期戦を覚悟するべきだろう。
同じ頃、正の自宅では・・・
「もぬけの殻か・・・・」
正の部屋に入った兄・真一は、は〜とため息をつく。
「縄ばしごを残していく馬鹿がどこにいるんだ」
鍵のかかっていた正の部屋に真一が入れたのも、縄ばしごがそのまま残っていたからである。
「あいつが行きそうな場所は・・・」
真一は龍神山を窓から見た。
真一には正のことはすべてお見通しだった。
縄ばしごを使っているところから、出かけたのは昨日の夜頃から。
あのあわてようから夕御飯を食べた後すぐにだろう。
真一の部屋は正のすぐ隣にある。
今朝起きて窓を開け、隣部屋の窓を見ると、部屋の窓が開き、そこから縄ばしごが垂れているではないか。
部屋に鍵が掛かっていたので、外に回り、縄ばしごで部屋に入った。
そして部屋はもぬけの殻になっていたというわけだ。
両親はまだ寝てた。今日は日曜日なので当分起きないだろう。
となると、真一のすることは決まっていた。
「ここまでして行くからには何かあるんだろうな」
真一は縄ばしごを引き上げ、窓を閉めた。
正の部屋を出て、階段を駆け下りる。
「正と遊びに行ってくる」と紙にペンを走らせ、書いた紙をテーブルに置いて家を飛び出した。
「正と」と書くあたりが彼の優しさである。
所変わって、龍神山では・・・
鞄の中に詰めてあった缶詰を取り出し、人魚から少し離れたところで2人はそれを食べていた。
これは「腹ごしらえする」という目的の他に、人魚の警戒を解く、要するに「食べ物でつる」という目的も含まれていた。
シンプルである。単純という言葉が当てはまるぐらい。
「ねぇ、人魚がこっち見てるわよ」
確かに先ほどから、人魚はこっちをじっと見ていた。
「あれは食べ物につられて見てるわけではないと思うぞ・・・・」
「そうね・・・「にらんでいる」と言った方が良いわよね」
悪意のこもった視線ほど痛い物はない。
それを紛らわすために必死で缶詰を食べる正とひかるであった。
そのうち、意を決したひかるが、ミカンの缶詰を持って人魚に近づいた。
「あなたも食べない」
ひかるは笑顔でいることを努めて、人魚に開けた缶詰を差し出した。
「いらない」
人魚は顔を背け、それを拒否した。
それでもひかるはあきらめない。
「あなただってお腹空いてるでしょう?」
「空いてないわよ」
ひかるはしばし思案したあと言った。
「だったら、何か好きな食べ物ある?」
「好きな物・・・?」
人魚はしばし考えて答える。
「糸ミミズ・・・・」
ひかるの笑みが凍り付く。
迂闊であった。
こんな山奥で暮らしているなら、人間と同じ物を食べているとは考えられない。
ちょっと考えればわかることである。
しかしミミズ・・・・。魚か。
「そう・・・」
ひかるはあきらめて正の所に戻った。
正は今の会話が聞こえていなかったらしく、
「ひかるどうした?顔が引きつってるけど」
「人魚と人間の溝って深いね」
「は?」
「何でもない、何も聞かないで」
二人とも無言になった。
無言になったものの何も考えてないわけではない。
人魚の信用を得る方法をずっと考えていた。
と、その時、ひかるがすっと立ち上がった。
「ひかる?」
「すぐ戻ってくるから」
それだけ言うとひかるは走ってその場から離れた。
「・・・・・・・」
ひかるが先ほどからそわそわしていたので、どこに行ったかは正にも想像がついた。
「いちいちトイレに行くために山降りるのかな・・・。それよりここに来る道のり覚えているのか・・・」
謎である。
「正」
その時、突然後ろから誰かに肩をたたかれた。
(俺とひかる意外知らないはずなのに・・!人魚が・・)
ばっと後ろを振り向く。
そこには見慣れた顔があった。
「兄ちゃん!」
兄、真一がそこにいた。
真一はにやりと笑う。
「縄ばしごぐらいは片づけろ」
正の頭をぽんっとたたき、正の脇を通り抜ける。
そして人魚の方に近づいた。
正には何がなんだかわからなかった。
なぜ兄がここにいるのか?どうしてここがわかったのか?
振り返ると、真一は人魚の前で座り込んでいた。
「本物・・・」
肌と鱗の境目をさわり、真一が呟く。
正が何か言おうとする前に、人魚が動く。
パシッ
人魚のひら手が音を立て真一の頬を打つ。
火照った頬を押さえ、真一は驚いた顔で人魚を見る。
「さわらないで!人間は信用しないわ!」
真一は事情を飲み込んだ。
正はまだこの人魚の信用を得ていないのだと。
そうなると、真一の得意分野だった。
真一は子供好きであった、これは人見知りする子供に似ている。
自分の知ってる人以外には心を開かない子供に。
「正、おまえもここに座れよ」
真一は、後ろで心配そうに見つめている正を呼びつける。
近づいてきた正をそばに座らせ、真一は人魚に視線を移した。
正には兄の考えていることが読めなかった。
正の心配をよそに、真一は人魚に向かって笑顔で口を開いた。
「君、名前は?」
「何で教えなくちゃいけないのよ」
案の定、人魚は真一に向かって噛みつく。
「俺の名前は真一っていうんだ。こっちは弟の正」
手で隣に座る正を示した。
「だから?」
「友達になろう」
「いやよ、人間となんて」
「俺達が信用できないから?」
「ええそうよ、信用できないわ」
「正、おまえはどうしてこの人魚を泉に戻さないんだ?」
会話の矛先が急に正に向けられた。
真一は厳しい目で、正を見る。
正は答えられなかった。
「この人魚が暴れてもその気になれば泉に戻すこともできたはずだ。それをしなかったのはなぜだ?」
「・・・・・・」
「逃がしたくなかったのか?それじゃあおまえもこの人魚のことを考えていたとは言えない。
結局おまえも興味本位で人魚を見ていたんだろ?」
正に否定できなかった。
心のどこかでそう思ってたのは事実。言われなければ自分でも気づかなかった。
向きを変えた真一と、人魚の二人は無言で見つめ合った。
真一がすっと立ち上がり人魚を抱え上げる。
突然のこの行動に正は全く反応できなかった。
人魚の方も、突然のことで抵抗きなかった。
真一は人魚を泉の方まで運ぶと、水面にゆっくりと降ろした。
「・・・・・・」
再び見つめ合う二人。
しばらくして、人魚が視線を逸らした。
「わかった、私の負けよ。あなた達を信じるわ」
「じゃあ、名前を教えて」
真一の顔が優しい顔に変わる。
「メイ」
「じゃあ、メイ。これから俺達は友達だ」
真一はメイの手を取り、ぎゅっと握った。
一連のことをそばで見ていた正は兄に舌を巻いた。
自分とひかるがどんなに考えてもできなかったことを、この兄はあっさりやってのけたのだから。
しかし、今の対応の半分が、人見知りの子供に対する対応だと知ったら、2人はどう思うだろうか?
しばらくして、ひかるが帰ってきた。
「・・・・・・・・」
手に持っていたジュースの入った袋が、ぼたっと地面に落ちる。
自分がいない間に何があったのだろう?
目の前の光景はそんな疑問が浮かぶには十分な物だった。
さっきも言ったように泉の半分は土砂で埋まっている。
その土砂の上に、正と人魚と見知らぬ少年がいた。
何をしているのだろうと近づき、ひかるは茂みの中から3人の様子をうかがった。
土砂の上で正達は木の枝を組み合わせて作った十字架を、石で地面に食い込ませていた。
それが何を意味するのか、ひかるには容易に想像がついた。
墓標だ、たぶんあの人魚の母親の。
その作業が一段落着いたのを見計らい、ひかるは茂みの中から出てきた。
正達はひかるが出てきたのに気づかず、墓標に向かって手を合わせ黙祷を捧げていた。
ひかるは正のそばにかがむと、先ほど摘んだ花を墓標の前に置いた。
「花でもないと寂しいわよ」
「ひかる・・・いつ・・」
ひかるも手を合わせ黙祷を捧げる。
黙祷を終えると、4人は改めて顔を見合わせた。
「え〜と・・・・」
正は今までの経緯を手短に説明した。
メイはひかるに手を差し出す。
ひかるも信用の対象になっていたのだろう。
「メイよ、よろしく。それから傷を治療してくれてありがとね」
「気にしないで。私は黄麻ひかるよ」
出された手をひかるは握った。
次に正は、兄の真一をひかるに紹介する。
「正にお兄さん、いたんだ」
「前の学校が私立だったから、朝早く出かけて夜遅く帰ってきてで、ほとんど家にいなかったんだ。
今は近くの高校に通ってる」
何となくどぎまぎしながら、ひかるは手を差し出した。
「俺は正の兄の真一。いつもこの馬鹿弟のお世話してて大変だろう?」
「そんな、こちらこそお世話に」
真一がひかるの手を握る。
(知らなかった。正にこんなかっこいいお兄さんがいたなんて)
そう思うと同時に、真一と正の性格の違いというのも感じていた。
2人は全く正反対の性格である。少し会話しただけでわかるほど。
「そうだ、ジュース持ってきたからみんなで飲もう」
メイはジュースという物がわからず、眉を寄せる。
ひかるは持ってきたジュースを全員に配り、正に言った。
「乾杯しましょう」
「乾杯?何に」
「今日の出会いに」
ひかるが何か言う前に真一が答えた。
「うん!」
「それでは、乾杯!」
メイも3人に合わせて、缶をぶつけた。
そしてこれが彼らの物語の始まりであった。
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