『もう一人の彼』
「ラジオ、聞こえませんね……」
「……アンテナの向きがおかしくなったのかもしれませんね」
わたくしとロランは朝早くから、さっきからノイズばかり流している
アンティークなラジオに向かって二人で顔をつき合わせておりました。
毎朝朝食のあとは、先月から始まったノックス・クロニクルの無線ラジオ放送で
その日のニュースを聴くのが最近のわたくしの日課になりつつあったのですが。
「そういえば昨晩は風が強かったですね、そのせいかしら」
「ディアナ様、今から屋根に上ってアンテナの向きを調べてきますね」
「気を付けてね、ロラン」
「ええ」
短い返事を言い終わらない内に、ロランは小走りにわたくしの部屋を出ていきました。
家の外に回ったロランは、わたくしの部屋の窓のあるあたりからハシゴを掛け
特に臆することもなくすたすたと屋根に上っていきます。
女性にとってこういう時、男性の存在がとても頼もしく思えるものです。
そんなささやかな幸せを感じながら、わたくしはラジオのチューニングを続けました。
するとすぐに、スピーカーからニュースを読み上げるアナウンサーの声が。
「あ、ロラン、ラジオが直りま……」
そう言いかけて部屋の窓に向かって振り返った瞬間……。
わたくしの視界の上から下へ、すっと落ちていくロランの姿が目に飛び込んできました。
そしてわたくしの耳に、ドスッ、と鈍い音が。
--------
「ロ、ロラン……!?」
信じられない事態にとまどいを感じるよりも先に、わたくしの体はすでに
ロランの元へと駆けだしていました。
裸足のまま玄関から表に飛び出たわたくしの目に映ったのは、ロランがうつぶせのまま
身動き一つせず、冷たい土の上に横たわっている姿でした。
「……!!」
わたくしは瞬時に、ロランが屋根の発電芝で足を滑らせ、そのまま落ちてしまったのだと
察しました。
すぐさま側に駆け寄りロランの身を抱きかかえました。が、腕の中のロランは
ぐったりとしたままで、額のあたりから血を流しています。
「……ロラン、しっかりして!! ロラァァァン!!」
それから確かわたくしは、あわてて家の中に駆け戻りビシニティーのソシエさんの所に
電話したと思うのですが……。
あまりにも気が動転していて、そのあとの正確なところまでは思い出せません。
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そのあとの事でわたくしが憶えているのは、ソシエさんの家に運び込まれたロランを
医者に診せたあとにわたくしに向かって発せられた、ソシエさんの罵声くらいです。
「あんたが一緒にいながら、どうしてロランがこういうことになっちゃうの!!」
「このままロランの意識が戻らなかったら、あんたどう責任取るつもりなのよ!!」
「あんた月の女王様なんでしょ!月の技術でも何でも使ってロランを助けなさいよ!!」
ソシエさんもかなり動揺したことと思います。本当に返す言葉もありません。
そのあとソシエさんは、お見舞いに来てくれたメシェーさんになだめられながら
自分の部屋に戻っていったようです。
その次にわたくしが記憶しているのは、ロランの眠る側で徹夜で看病しながら迎えた
翌日の朝日の光でした。
ロランの褐色の頭に巻かれた白い包帯が朝日でひときわ強調されるように見え、
痛々しい限りです。
相変わらずロランは目覚めることなく、その姿をベッドに横たえたままででした。
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「このままロランの意識が戻らなかったら、わたくしは一体どうすれば……」
医者には命に別状はないと言われたものの、ずっと変化のない彼の姿を見続けていれば
次々と襲いかかってくる不安をかき消すことも難しくなってきます。
そんなわたくしができることと言えば、意識が回復するのをひたすら願うことしか
ありません。
「ロラン、早く目を覚まして、お願いっ……!」
もう何度となく腫らしてきた両目に再びこみ上げてくるものを感じながら、彼の手を
握りしめ、一晩中続けてきた祈りを再び繰り返しました。
すると、わたくしの祈りがようやく天に届いたのでしょうか。
ずっと握っていたロランの手がかすかに動いて……。
「……う、くううっ……」
「!! ロ、ロラン!」
「……ううっ、こ、ここは……」
「ロラン、やっと目を覚ましてくれたのですね……!」
わたくしは嬉しさのあまり、体を起こしかけていたロランに思わず抱きついてしまいました。
「よかった……。ロラン、ロラン……」
「……あ、いやあの、ちょっと、やめてくださいよ、ええっと……」
「なんです、わたくしの名前を忘れてしまったの? ロラン♥」
「……いえ、その……。すみません、ど、どちら様ですか?」
「……ロラン?」
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これが世に言うところの『記憶喪失』というものなのでしょうか。
どうやら本当に、ロランはわたくしの記憶を無くしているようです。
いえ、正確に言うと『ハイム家の長女、キエル・ハイム』の存在を
忘れているようなのです。
当然、わたくしとキエルさんが入れ替わっていることなんて知るよしもないようで。
「……それにしても、僕の知っている人にとてもよく似てるんですよ。びっくりしました」
「(だからその本人なんですけど……)そ、そうなんですか、それならばぜひお会いしたい
ものですわね。おほほほ」
こんなどうにも捕らえどころのない会話をしていると、トントン、とノックの音が。
「どう?ロランの奴、目を覚ま…… あっ、ロラン!?」
「あっ、ソシエお嬢さん!」
「ええっ!?(ソシエさんのことは憶えているの!?)」
そのあとわたくしとソシエさんは、ロランが知っているであろう周りの方達の名前を
それぞれ確認していったのですが…。
やっぱりわたくしの、いやキエルさんの記憶『だけ』が、すっぽりと抜けています。
なんということでしょう……。
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「……本当に、わたくしのこの髪型、この顔に全く見覚えがないと」
「ええ、その……。故郷で僕が知ってる人を連想するばかりで……」
「いい?ロラン、よく聞きなさいよ。あんたは記憶喪失になっちゃったの」
「ええっ、僕が…… 記憶喪失に?」
「そうよ。だから、この人のこと思い出せないのよ。よく知ってるはずなのにね」
と、わたくしの方を指さしながらロランに話すソシエさん。
相変わらず物事をはっきりと言う人ですね……。
「仕方ないから改めて教えるけど、この人はキエル・ハイム。あたしのお姉様。
ルジャーナの大学へ留学してたんだけど、こないだ帰ってきたところなの」
「(ちょ、ちょっとソシエさん!ちゃんと本当のこと言わないと!)」
「(あんたとお姉様が入れ替わってるなんて話したってややこしくなるだけでしょ!?)」
「そうですか、お姉様でいらっしゃったんですか……」
「そ。でね、お姉様ったら体調を崩しちゃって、しばらく大学を休学されてるの」
「……そ、そうなんですよ。ゴホゴホ」
「でさ、ロランはうちの別荘で看病がてらずっとお姉様のお世話をしていたのよ」
「ええっ、僕が?その……キエルさんのお世話を……?」
「そ、そうですよロラン。ロランの作る料理はとてもおいしくて、おかげでだいぶ
病気の方もよくなってきて……。ゴホ」
「おいしいだなんて、そんな……。まぁこちらで十分鍛えさせてもらいましたから」
「……まぁ、その、ナニよ。その料理の腕前と、別荘のいい空気でさ、お姉様の病気を
チャチャっと治しちゃってよ。ロラン」
「わかりました。ではその……改めて、よろしくお願いします。キエルお嬢様」
「えっ、ええ、こちらこそ、よしなにお願いしますね。ロラン」
「よかったわね。キエルお・ね・え・さ・ま!」
バン!とソシエさんに背中を叩かれて、わたくしは本当にゴホゴホとむせ返って
しまいました。
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それから3日後。
ロランの怪我の具合がよくなったのを見計らって、わたくしとロランは再び
本来の住まいであるコテージに戻ることにしました。
今日は珍しくソシエさんがモビールを運転して、家まで送って下さいます。
あれからロランは記憶が戻らないままで、今ここに初めて来るかのようなそぶりで
車の窓から外の景色をきょろきょろと見ています。
そんなロランの姿をみて、ふぅ、とため息を漏らすわたくし。するとロランが、
「キエルお嬢さん、気分が優れないようですね。大丈夫ですか?」
記憶を無くす前と同じように気を遣ってくれるのですけれど、その気遣いはあくまで
『キエルさん』に向けられたもの。ディアナ・ソレルのわたくしにではありません。
ですからわたくしも、ええ、少し、とか言ってその場をしのぐほか手だてがないのです。
今後わたくしは、愛するロランの前でも『キエル・ハイム』として暮らさなければ
ならないのですね……。
そう思うと、ますます憂鬱な気分になってきます。ふぅ……。
車はやがて、久方ぶりの我が家に到着しました。
3日前に干して出しっぱなしの乾ききった洗濯物が風に揺られています。
車のトランクから少ない荷物を取り出し、家の玄関の方に向かい始めたとき
ソシエさんがぽつりと一言。
「じゃ、あたしもう帰るから」
「えっ、もう帰るんですか?お茶でも出しますよ(ロランが)」
「あたしが家にいないと、お母様がすぐに心配しちゃうから……。
それじゃ、あとはよろしくね。『キエルお姉様』!」
と、挨拶もそこそこに一人ソシエさんは車に乗ってさっさと帰ってしまいました。
いつもならソシエさんが家に来たときはあれやこれやとわたくしとロランの恋路の邪魔をするのに
今日はやけにあっさりと帰りましたね……。
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「キエルお嬢さん」
「……え、は、はい、なんです、ロラン」
「僕、こんな家に住んでたんですか……」
「ええ、そうですよ。……何かご不満でも?」
「あ、いえ、そんなんじゃないんです。その、なんていうか……。
こんないい家で、キエルお嬢様と二人で暮らしていたなんて、なんだかもったいなくて
バチが当たっちゃいそうだなって思って」
「ロラン……うふっ、うふふふ……あはははは」
「え、なんか変なこといいました?僕」
「いえいえ、なんだかロランらしいなぁって……くくくくく」
「? 変なことを言いますね、キエルお嬢様は」
さっきのロランの一言で、それまでわたくしの心に架かっていた暗雲が急に晴れて、
光が差し込んできたように感じました。
記憶を無くしてしまったとはいえ、ロランはやはり、ロランでありました。
「さ、とにかく中に入りましょう。すぐにお茶をお入れしますので」
「ありがとう、ロラン。よしなに」
あの時の会話の成り行きで、わたくしは正真正銘キエルさんになってしまったのですが
それ以外はロランが屋根から落ちる以前の、この家での平和で穏やかな暮らしに戻れるわけですから
それくらいは我慢するしかありません。
むしろこうしてロランが無事元気になってくれただけでもありがたいことなのだから、と
わたくしは自分に言い聞かせました。
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そして、キエル・ハイムのわたくしとロランとの生活が、再開されました。
ロランは毎日、わたくしたち二人のためにおいしい食事を作ってくれます。
ロランは毎日、炊事や洗濯、薪割りや掃除と、てきぱきと家事をこなしてくれます。
ロランは毎日、わたくしの話し相手や、チェスの対戦相手になってくれます。
……ロランは毎日、わたくしのことを『キエルお嬢様』と呼びます。
ロランの記憶は未だ失われたままの状態で、一向に回復する様子はありませんでした。
それでも、わたくしは以前よりもロランにやさしく、時々甘えて見せたりもして
再びこの手に戻ってきた幸せな生活を満喫しようと心がけました。
戻ってきたばかりの時はわたくしとの関係に少々とまどいを感じることが多いようだった
ロランも、最近はすっかりわたくしに親しみを感じてくれているようです。
そんな中、ソシエさんが何度かロランの様子を見に家へ来ることがありました。
「どう?ロランの記憶、元通りになった?」
「それがまだ戻らないみたいで……。相変わらず、ここではわたくしはキエル・ハイムですよ」
「ふうん、そうなんだ……」
なんだかソシエさんは、この現状をただ確認しに来ているだけのように思えるのですが。
話だけ聞いたらまたさっさと帰ってしまいますし。一体彼女は何を考えているのでしょう?
ともかく、ロランのわたくしに対する呼び方が代わった以外はいつも通りの、
二人の穏やかで平和な日々が数週間ほど続きました。
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それは、ある朝のことでした。
朝食後、いつものように自分の部屋でラジオのニュースを聞いていましたら、
トントン、とドアの向こうでノックの音。
「キエルさん、お茶をお持ちしました」
「鍵ならあいていますよ。どうぞ」
わたくしの意識がラジオのニュースのほうに向いたまま、ロランの持ってきた
紅茶のほうに目をやると……。
なぜか、その紅茶が見あたりません。
その時、ロランはなにも持たず、手ぶらでわたくしの側に立っておりました。
「……ロラン? お茶をどこに置いたのです?」
ラジオのニュースへの意識がとぎれたわたくしは、そう尋ねながら、ロランの顔の方に
目を移しました。
──その時のロランの『眼』は、わたくしの脳裏に焼き付いて未だ忘れることができません。
わたくしに向けられていたロランの視線は、今までに見たことのないような、とても熱く、
ギラギラとしたものでした。
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お茶を持ってきたと言い部屋に入ってきたロランが、なぜ当のお茶を持っていないのか
不思議に思い、椅子から立ち上がりながら再び彼に尋ねました。
「ロラン?お茶を持ってきたのではないので……」
しかしわたくしの質問は、ロランの突然の口づけによって遮られました。
「ん゛─────!!」
重なり合った唇を分け入って、わたくしの口内にロランの舌がぐいぐいと押し寄せ
それを避けようとするわたくしの舌を執拗に追いかけ、絡みつき捕獲しました。
信じられないロランの行為に戸惑うと同時に全身に押し寄せる、電撃のような感覚。
わたくしの思考は瞬時にストップしてしまいました。
やがてわたくしの舌を押さえつけていたロランの舌は離れ、同時にロランの唇は
わたくしの頬へ、そして喉元へと流れるように移動していきます。
「─────!!(ロラン、いったい何をっ……!!)」
全身を駆けめぐる恐怖と動揺で、わたくしの発そうとした拒絶の言葉は喉から出ることなく
ただ口がぱくぱくと、人形のように無音のまま動くだけです。
そしてロランはわたくしの両手首を片手で巧みに押さえつけ、もう一方の片手はわたくしの腰を
抱えるようにまさぐりながら、その体のバランスをわざと崩し、わたくしの体を道連れにして
傍らのベッドに倒れ込みました。
立っていたときには重力に従って真っ直ぐに垂れていたわたくしの髪は、今はベッドの上で
四方八方にだらしなく広がっています。
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そんなことにかまう様子もなく、ロランはわたくしの体をむさぼるように愛撫し続けます。
わたくしが体をくねらせそのロランの行動から逃げようとしても、覆い被さるロランの体が
しっかりと押さえつけて離しません。
腰に回っていたロランの左手はいつの間にかわたくしの胸元に掛かろうとしていました。
その動きにますます危機感が強くなり、声にならない声をなんとか振り絞って、
わたくしは再び拒絶の言葉を発そうと試みました。
「……い、いやっ!! やめてっ!!」
ぴくっ、とその言葉に反応したかと思うと、ロランはその状態のまま動きを止め、
少し息を荒げながらわたくしの方に顔を上げました。
彼の瞳はいつものロランの優しい光ではなく、野獣のような鋭い光を伴っています。
突然のロランの変貌ぶりにかなり臆しながらも、わたくしは続けました。
「な、なにを…… いきなりなにをするのです、ロラン!」
ロランは妙に落ち着き払って、予想しえないような返答をわたくしに突きつけました。
「なにを……? 変なことを言いますね、キエルさんは」
「!?」
--------
「だって、おかしいじゃないですか。これを見てくださいよ」
ロランは右手でわたくしの左手を取り、その薬指にはめてある指輪とロラン自身の着けている
左手の指輪を、わたくしの顔面へぐいと寄せ付けました。
二人の揃いの指輪が、わたくしの視界一杯に飛び込んできます。
「こないだ僕は気付いたんですよ。僕とキエルさんが同じ指輪を付けていることにね。
そして不思議に思ったんです。主人と使用人の関係の僕たちが、どうして同じ指輪を
してるんだろうって」
「そ、それは……」
「だいたい、若い二人がこんな山奥で二人っきりの生活してたんです。こういう関係に
なっていたと考えるのは、当然じゃないですか」
「……ロラン、違う、違うんです!」
「違うって言うんなら、この指輪はいったい何なんですよ!」
「…………」
「キエルさん、僕たちがただならない関係だったと気付いたときには、僕はもう
我慢できなくなってたんですよ。ねぇいいでしょう?キエルさん、僕は、僕は……!!」
--------
わたくしとの関係を激しく誤解しているロランは再びわたくしに覆い被さり
自分の発した言葉を自ら遮るようにして再び唇を重ねてきました。
そしてすぐにわたくしの胸元へ、そして服の上から乳房へとその唇を移してきました。
「キエルさん、キエルさんっ……!!」
<<違う!!わたくしはキエル・ハイムではない!!>>
激しい拒絶反応のような感情が自分の心に出現した瞬間、わたくしはありったけの力を込めて
ロランの肩を突き飛ばしていました。
「いい加減になさい、ロラン!! わたくしはディアナ・ソレルなのですよ!!」
上半身を後ろにのけぞらされたロランは、わたくしの発した言葉にかなり動揺した様子で
ただ唖然として、空虚な瞳でわたくしを見つめていました。
--------
「ど、どうして…… キエルさんがディアナ様の事を……!?」
キエル・ハイムのわたくしからまさかディアナ・ソレルの名を聞く事になるとは
思ってもみなかったのでしょう、その声は明らかに震えていました。
「……あなたは!ディアナ・ソレルの命を受けて、先発環境調査員としてこの地球に
降り立ったのですよ!そしてターンエーを見つけ、ディアナカウンターから地球の人たちを
守り、そしてわたくしと共に月に行き、ギンガナムの暴走を勇敢にも止めたのでは
なかったのですか!!」
わたくしもなぜこんな事を口走ったのかよく憶えていないのですが、ともかくわたくしは
ロランを正気にさせようと、その時思ったことを一生懸命口に出すだけでした。
「……そ、そんな、あなたは一体……!?」
「そしてわたくしとキエルさんが再び入れ替わり、キエルさんが月に女王として戻り
ディアナのわたくしがロランと一緒に余生を過ごすことにしたのです!
ロラン!あなたがその時くれたのがこの指輪なのですよ!まさかこのようなことまで
あなたは忘れてしまったのですかっ……!!」
わたくしの左手の甲をロランに向かってつきだした格好で、両目からは涙がポロポロと
頬をつたいベッドに落ちていきます。
ロランは虚ろな目でわたくしの指輪と自分の左手の指輪を交互に見ながらつぶやきました。
--------
「……そうだ、そしてこの指輪はディアナ様が働いて僕にくれた……あ、頭がっ……!!」
急にロランは苦しそうに頭を抱え、ヨロヨロとベッドから降りて立ち上がりました。
「ぼ、僕はディアナ様になにを…… ま、まさか!」
その時ロランの目には、服を乱されあられもない姿で直前までベッドに組み臥されていた
わたくしの姿が映っていたようでした。
「ああっ、僕はディアナ様になんてことをっ……! う、うわあああああああああ!!」
ロランは大声で叫びながら一目散にわたくしの部屋から飛び出していき、玄関から
目の前に広がる湖の方に向かって駆けていきました。
「ロ、ロラン!!」
わたくしもロランが突然出ていってしまったことに驚き、あわてて彼を追いかけました。
裸足のまま玄関から表に飛び出たわたくしの目に映ったのは、ロランが何か叫びながら
コテージのすぐ前に広がる湖の中に水をかき分け入っていく姿でした。
「や、やめて!!戻ってきて!!ロラアァァァン!!」
水の上でもがいていたロランの姿がその時、急に湖の中に引き込まれるように消えました。
深みにはまってしまったのでしょうか。
わたくしはそのまま無意識の内に湖に飛び込んでいき、ロランを助けようと
彼の姿を見失ったあたりまで進んでいきました。春の水の温度はまだまだ低く
その冷たさに思わず気を失いそうになりながらも、ロランの身を抱え上げ、
岸に向かって来た道を戻りました。
屋根から落ちたときのように気絶してピクリとも動かないロランを岸に残し、
水を吸ってすっかり重くなった服と髪を引きずりながらわたくしは家に戻って、
這々の体で何とかソシエさんに救いの電話を入れて……。
そこでわたくしも気絶してしまったのでしょうか。あとのことが記憶にありません。
--------
ふと目を覚ますと、わたくしは暖かいベッドの中で横になっているのに気付きました。
ロランが屋根から落ちたときと同じように、またソシエさんの家に担ぎ込まれたようです。
今度はロランに加えてわたくしも、ということなんでしょうけど。
「よかった……。気が付いたのね」
わたくしの目の前には、安堵しきった様子のソシエさんの姿がありました。
しかしソシエさんの表情はすぐに険しいものへと変化しました。
「全く、今度は一体なんだってのよ!ロランが湖で倒れてると思えばあんたまでびしょ濡れで
家の中で倒れてるんだもん。無理心中でもしたっていうわけ?ほんとにもう……!」
「ごめんなさい、ソシエさん。実は……」
わたくしは先ほど起こっていたロランとの出来事を、包み隠さずソシエさんに伝えました。
「……そ、そう、ロランがあんたにそんなことを……はは、ははははは」
ソシエさんはその時、なぜか乾いた笑いを浮かべるのでした。
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「そっか、あたしのカンは的はずれだったんだ……。バカね、あたしって」
「……どういうことですの?」
「屋根から落ちたロランが目を覚ましたあと、あたし、本当のこと言わなかったでしょ。
あれね、半分は話をややこしくならないようにするためだったんだけど、もう半分は
『キエルお姉様』が相手ならロランはなにもしてこないだろうって思ったのよ」
「…………」
「ロランは『ディアナ様』が好きなんだから、そのディアナ様の存在がなくなれば
あんたとは結ばれることはないだろうって。瞬間的にだったけど、そう思いついたの」
「そう、それでわたくしのことを……」
「でも、まさかその『キエルお姉様』をむりやり襲っちゃうなんて、想像もしてなかったわよ。
……全くかわいい顔しちゃってさ。やるときはやるんだ、こいつ」
ソシエさんはひとりごちて、傍らでわたくしと同じく横のベッドで静かに眠っている
ロランの鼻先をびん、と指で弾きました。ロランは相変わらず深い眠りについています。
「……ロランは大丈夫なんでしょうか?」
「さぁ? 医者にはちゃんと診せてあるし、大丈夫だって聞いてるけどね」
ソシエさんは椅子から立ち上がり、部屋のドアに手をかけました。
「でもあんたさ、もうちょっとロランのこと大事にしてあげなよ。このままじゃロランが
かわいそうだよ」
「わたくしが至らないばかりに……どうもすみません」
「あたしに謝っても仕方ないじゃない……。 こっちこそ、辛い思いさせてごめんね。『ディアナ様』」
そういって、静かにソシエさんは部屋を出ていきました。
--------
わたくしは傍らで眠るロランの顔を見ながら、混乱していた自分の気持ちを整理しました。
──ロランはわたくしとの生活の中で、あれほどまでの欲望を一人で抱え込んでいたのですね。
そしてその対象が地球の一市民であるキエルさんであったために暴走してしまったと。
それにしても、ロランにあんな一面があったなんて……。
もし、ディアナとしてのわたくしが対象であったならば、その欲望はここまで大きく
なっていたのだろうか、それとも押さえつけられたままだったのか……。
ロランが記憶を無くす以前の二人の生活を考えると、やはり『月の女王ディアナ・ソレル』
の存在が大きく二人の間に割って入っている、ということなのでしょうか。
なにせ、わたくしがロランに指輪をプレゼントしたときも、かなりいい感じになったとはいえ
結局その後も『何もなかった』のだから……
考えれば考えるほどどんどんわからなくなっていく気がして、わたくしは再びロランの顔を
じっと見つめました。
「ロラン、本当はわたくしのことをどう思っているの……?」
--------
そんなわたくしの問いかけが耳に届いたのでしょうか、ロランが低いうめき声を上げました。
「……う、くううっ……」
「ロ、ロラン!」
「……ううっ、こ、ここは……。あれっ、ディアナ様?」
「ロラン…… 気が付いたのですね……」
「そうだ、僕は屋根から落ちて…… ディアナ様、ラジオは直りましたか?」
今度は、ロランはちょうど屋根から落ちたあとの記憶を無くしているようでした。
ということは、わたくしに襲いかかってきたことも……?
「ここ、ソシエさんの家ですよね。どうしてディアナ様まで横になっているんです?」
「えっ、あ、あの、あなたを助け起こそうとしたときにわたくしも倒れてしまって、
頭を打って気絶してしまったみたいで…… なんとも恥ずかしい限りです」
「ええっ、そうだったんですか? どうもご迷惑をおかけしてすみません。ディアナ様」
「いえいえ、いいんですよ、ロラン……」
今度はソシエさんに代わって、わたくしが真実を伝えない羽目になりました。
--------
翌日。
一晩ソシエさんの家にそのまま泊めてもらって、すっかり回復したわたくしとロランは
再びソシエさんの車の運転で、我が家のコテージに戻りました。
ソシエさんは昨晩から何度も昨日あったことをロランに伝えようとしたのですが
その度にわたくしは止めていました。たとえ伝えたところで、わたくしとロランの関係が
気まずいものになってしまうのが明白だったからです。
「(ねえディアナ様、ほんとに何も言わないでいいの?)」
「(ええ、その方がわたくしとロランのためになると思いますから)」
「あれっ、二人で何ひそひそ話してるんです?気になるなぁ」
「「な、なんでもないわよ、ロラン」」
家で3人囲んで休憩のお茶をいただいたあと、ソシエさんは自宅の方に戻られました。
その車を玄関で見送るわたくしとロラン。車が見えなくなってから、わたくしはふと
横に立っているロランに尋ねました。
「……ねぇ、ロラン。あなた、男の子ですわよね」
「? ええ、そうですけど……それが何か?」
「男の人は、一つ屋根の下で一緒に暮らしている女の人がいれば、やはりその人と
仲良くなろうと思うものなのかしら」
ロランは急に顔を赤くして、頬をぽりぽりと照れくさそうに掻きながら答えました。
「そ、そりゃあ…… た、たぶん、そう思うと思います」
「そうですか…… ごめんなさい、変なことを聞いてしまって。少し部屋で一人にさせて
下さい」
そう言って、わたくしはロランを残し自室の方に戻りました。
--------
部屋に一人入ったわたくしはおもむろにデスクの上に置いてあるラジオのスイッチを入れ、
しばし午後のニュースを聞いていました。
しかしいつの間にか、わたくしの意識はニュースの内容とは別のところに行っていました。
──もしロランがあの時のように、己の欲望に任せて再びわたくしを襲ってくるような
ことがあれば、それがディアナ・ソレルであるわたくしに向けられたものであるのなら、
そのまま受け入れてあげよう。
わたくしにはなにも拒む理由などないのだから。
それがたとえ、わたくしにとって非常に暴力的なものであったとしても。
ラジオから流れるニュースの声は、もはやわたくしの耳には届いていませんでした。
ロラン、『その時』はどうか、よしなに。
--------
<あとがき>
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