「系統」を再考する 〜 〈ラメージ〉的血統観のすすめ

あなたに教えてあげよう。私(=アポロ)の答は正しいのだ。
見なさい。母は自分の子供と呼ばれているものの親ではなく
新しく植え付けられて成長する種子を育てるのにすぎない。
親は乗る方の男性である。神が干渉しなければ、彼女は他人
の種子を保存するのだ。 〜 アイスキュロス 『エウメニデス』 より


「系統」はどこまで根拠たりうるか

 血統の見方に根を張る固定観念のひとつに、「〜系」「系統」という言葉の使い方を巡る問題があります。
 巷間にいわく、「Princely Gift 系はスピード豊かだが早熟」「天下の1号族 La Troienne 系だから地力がある」「Hail to Reason 系種牡馬には Nijinsky 系の母父が合う」「Tourbillon 系には他には無いハングリーさがある」…などなど。
 現代でも、血統についての言説は、ほとんど例外なく「〜系」というキーワードを頼りに述べられていると言っていいでしょう。
 そして、このキーワードは多くの場合、根拠として用いられているように見えます。実用書の中には、「〜系は○○である」ことのそのまた理由になるような理屈を一切省いたまま、「〜系」なる言葉をまるで絶対的な概念であるかのように記述しているものさえあります。

 当HPの主眼であるダンテ Dante 系の考察も、やはり「〜系」を柱に構成されています。ただし、父系図の末尾に述べた通り、*ハロウェー Harrowayニホンピロウイナーなどの「厳密には Dante 系ではない、分家のような」血統まで、同様の重要性を持つ子孫として並列してあるので、ピンと来ない方もいらっしゃるかもしれません。
 それは鞘次郎が、「系統」のことを、根拠ではなく経緯であり手段であるもの、絶対的というよりは便宜的な概念だと考えているからです。

 もちろん、ある系統に他とは少し違う固有の性質があり、それが子孫に一定の割合で伝えられる、というのは遺伝学的な事実です。これは、競馬が〈血統のスポーツ〉と呼ばれる所以でもありますね。
 そして、アメリカで育った系統が、小回りの固い土馬場で行われる競馬に適応し、そうした血統の存在がさらにアメリカ競馬のスピード化を推進したように、系統固有の性質(あるいはそれを司る遺伝子)が、系統自身の行く末を決めているように見えることも多々あります。

 ですが現実を踏まえる限り、それを単にDNAの仕業だったと決めつけることはできません。歴史を紐解けば、「if」ひとつで崩壊するような危うい偶然の導きと、時に天才的、時に愚かな人間の営々たる作為が、現在の血統世界を築く上で大きな役割を果たしてきたことは明らかだからです。

 例えば、ドイツには他の欧米諸国よりも「優秀な牝系」があると言われ、先を争って購買された牝馬から、事実スリップアンカー Slip Anchorガリレオ Galileo が出ました。が、その「牝系の優秀さ」を支えていたのは魔法でも何でもなく、一発狙い・結果オーライになりやすい父系よりむしろ牝系を重視する独生産者の血統観であり、その巧妙な配合と厳しい選抜淘汰にかける努力と天運あったればこそ、ドイツ牝系の優位は築かれえたと考えられます。
 さらに言うなら、もともとドイツの生産者が牝系を築くのに用いた血統は、ほとんどが英仏から輸出されたもの。ですから、「本当なら自分たちにも可能だったはずの傑作」を今になって慌てて買い求める一部の人々には、幾分滑稽な趣きがあるとさえ言えるのです。

 同様の例は、父系に関しても見受けられます。*エタン Atan、*ゼダーン Zedaan、*ベリファ Bellypha 〜 *メンデス Mendez といった種牡馬は、海外での成功を受けて日本に輸入されましたが、日本ではそれほどの活躍馬を出せないまま、勢力を衰えさせ、ついにはその価値自体も下落させてしまいました。ところが海外では、それらの限られた子孫からまたシャーペンアップ Sharpen Up、カラムーン Kalamoun、リナミクス Linamix といった名種牡馬を出して、祖先の日本輸出時点にも増して勢いのある「系統」を築き、自らの資産価値を膨らませているのです。
 もしも、すべての「系統(そこに含まれる遺伝子)」に、繁殖としての成否を決定するだけの根拠が含まれているのだとすれば(そしてまた、輸入馬の選定に携わった日本のホースマンの目利きを最低限評価するなら)、あれだけの大金を投じながら、日本が「種牡馬の墓場」呼ばわりされ、20世紀のほとんど最後まで輸入国に留まったはずがありません。

 問題はやはり「系統」という概念の、硬直した捉え方/用い方にあったと考えられます。
 血統に造詣の深い向きが異口同音に指摘されていることですが、特に生産段階で「○○系の肌に△△系の種牡馬でダービー馬が出たから、真似してみよう」というようなやり方をより具体化し、精度を上げてゆかない限り、馬種改良(<この言葉もちょっとねぇ ^^;)は、いつまで経っても資金の投入と偶然の成功に頼る効率の悪い道程から抜け出ることができません。
 そのためには、これまで信じ根拠としてきた「系統」という概念を、捉え直す必要があるでしょう。


リネージ/ラメージな見方

 硬直し淀んだ状態には、新鮮な空気を入れるのが一番。ちょっと他の分野から道具立てを借りて来ようかな。(^^)

 文化人類学の民族研究では、直系子孫のみを親族と認識する場合、その集団を〈単系出自集団:リネージ lineage〉と称します。
 この伝で行くと、普通サラブレッドの血統では血統表の一番下、ボトムライン=〈母系リネージ〉に基づいて「近親カブラヤオー」「スタイルパッチ系」というように言及され、一方でまた血統表の一番上、サイアーライン=〈父系リネージ〉的に「Roberto 系」などという括り方を用いていることがわかります。
 若干異なるニュアンスとして、基幹牝馬や三大始祖に遡る考え方は〈氏族:クラン clan〉的ですね。鞘次郎はあえて採っていませんが。r(^^;
 この〈リネージ lineage〉に対して、父方・母方のいずれの系譜をも辿りうる、選択的な出自に基づいた親族集団を、〈選系出自集団:ラメージ ramage〉と呼びます。
 この集団に所属する個人は、ある時点で自らがどのルートに基づく存在であるかを主体的に認識し、多者に示すことで自分の身を証し立てるわけです。
 家長制度=〈父系リネージ〉が支配的だった近代とは違って、現代の日本社会ではラメージ的な親族観が幾重にも折り重なって「親戚」意識を形作っています。例えば、母方の祖母が亡くなった時は母側の親戚の一人として葬式に参列し、父方の姪が結婚したときは父側の親戚の一人としてそれを祝う、というように。このことに違和感を覚える人は、おそらくほとんどいらっしゃらないことでしょう。
 親戚の他にも人によっては、組織の一員としての会社員、特定の思想を支持する活動家、ある馬に入れ込んだ熱狂的ファン、といった側面を持っています。人々は、様々なネットワークに同時に属し、それらをTPOに応じて組み合わせたり使い分けたりしている。これはほとんど常識ですね。

 そんな人間が、馬の血統に関しては、いまだガチガチのリネージ的親族観(それこそ、冒頭に掲げたアイスキュロスの詩のような考え方)に頼ってばかりいるのは、考えてみれば妙な話です。祖父母8頭のうち父方祖父が特別に重要である、と考える根拠は、遺伝学的にはほとんど無いのですから。
 細胞核のDNAではなくミトコンドリアDNAの影響を考えて、母方直系を重要視するというのなら、まだわからないでもありませんけれど。
 もちろん、「Mr. Prospector 系は一本調子なスピードを伝える」などと命題を単純化することで、判断の簡便化を図ることには、一定のメリットがあります。これに例えば「BMSマルゼンスキーは底力を補う」というようなテーゼを追加し、組み合わせて高度化してゆくことも、多分できるでしょう。しかし、そもそもの目的は簡便化にあったはずなので、これはすぐジレンマに陥ります。
 つまり、リネージ的血統観(例:「金満」系血統論、B-TYPEなど)による分析では、よほど熟練し慎重に判断しない限り、祖先の一部(特に牝馬を経由したもの)が不当に軽視され、場合によってはスッポリ抜け落ちて、判断の正確さを大きく損ないかねないのです。
 それゆえこれらの血統理論には、常に「名馬は例外である」という但し書きが付いて回らざるをえない、とも言えます。

 リネージ的血統観が「悪い」と言いたいのではありません。ただ、それらは簡易で汎用性の高いツールであろうとするあまり、普通は「目の粗い」フィルターになっていますよ、ということを鞘次郎は指摘しておきたいのです。
 フィルターの目の粗さは、理論の目的に比例して決まっているので、目の粗さ/細かさをもって理論の優劣を付ける事はできません。ただし、ザルの一部は目が極端に粗く、別の一部は詰まってしまっている、というような理論は考え物です。見出したいものを失い、邪魔なものが残ってしまうのでは、フィルターとして明らかに使えませんから。
 鞘次郎はちょうど今ウインブルドンを見ていますが、テニス選手は試合中、頻繁に指でラケットのガットを整えたりしますね。同様にあらゆる血統理論は、できるだけ広く新鮮な視点で「現実」を捉え直し、それを理論のアップデートに役立てることで、乱れがちなザルの目を整えてやる必要はあるのでしょう。
 ある意味、広く鋭い視点と目を整えるマメさとを備えさえすれば、過去の血統理論が現代有効性を取り戻す可能性だって、無いとは言えません。
 …理論=フィルター説に関しては、また別に述べる機会もあるでしょうからこの辺で。
 リネージ/ラメージという認識が、血統観や理論、そして実践といかに関わるか、最後にまとめておきましょう。

 特定のサラブレッドを血統から見ようとする時、瞬間的な判断を下すには「〜系だから」というようなリネージ的血統観が有効です。また、集団を大雑把に分類しつつ把握する際にも、(境界部分での危うさを一旦置くなら)ある程度の妥当性があります。
 しかし非常に個性的なサラブレッド(特に名馬と呼ばれるもの)を血統から観察し、その優位の根拠を求めたり、その良さを自身や子孫で引き出したりしようとする時には、リネージ的血統観のフィルターは目が粗すぎます。血統を立体的に捉え、長期的な分析を下すためには、祖先を一旦等価なものと見なすラメージ的血統観と、それに基づく目の細かいフィルター(すなわちドザージュやクロス論)が必要になってくるのです。

2001/07/06 ― ( Revised on 10/15 )


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