ブサック帝国の没落とその原因


近交配合と蹉跌の関係

 ブサックと言えば、その栄光よりも没落が好んで描かれる感があります。
 行き過ぎた近親交配か、牧場の防疫的失敗か、繁殖牝馬の整理不足か、放漫経営か、米からの輸入種牡馬選定か、戦時下の独による接収か、などなど…ブサック帝国没落の原因が、複合的なものであることは言を待ちません。
 しかし少なくとも、近親交配(インブリード inbreed とも。以下〈近交〉と表記)が失敗のきっかけ、ないし最大の原因だという見方は、いずれも誤りと考えられます。

 別表で拙が〈失速期〉と名づけた1950年代生まれの馬をご覧ください。〈巡航期〉〈滑空期〉の40年代より確かに質量とも減っていますが(理由は後述)、より強烈な近交馬がこの時期の活躍を支えています。
 これは別項で述べたように、ブサックが Coronation の配合をなぞり、展開した手法によるものです。Coronation が不妊だったことで、ブサックの努力はむしろ積極的なものになりました。
 〈失速期〉の典型例が Apollonia。代々ブサックの自家種牡馬が付けられ、血統表の全体が、少々息苦しいほどブサック血脈で埋められていることがわかります。ただこの時点では、リスクは大きくとも、手法による対策が講じられコントロールされています。

 問題は、こうした牝馬に対する次の一手をどうするか、でしょう。Apollonia は11頭の仔を産みましたが、ブサック自慢の自家生産種牡馬たちとは一度も交配されず、多くは二流の外部種牡馬が付けられています。それはなぜか。
 Apollonia の半弟*アーコーは、4代表に3種の近交が表れる、バリバリの〈多重近交配合〉。まして Djebel の入る近交馬 Apollonia に、ブサックの自家種牡馬を付けたらどうなるか。血統表は酸欠状態に達してしまいます。
 そこまで牧場の配合が近交寄りに傾いた例は、19世紀に遡っても見当たらず、あまりにリスクが大きすぎます。それゆえブサックは Apollonia に自家種牡馬を付けることができず、交配相手に窮したわけです。

 別表〈失速期〉における活躍馬の配合だけを見る限り、ブサックはみすみす袋小路に突入したようにも感じられます。いったいどのような経緯を経て、ブサックの牧場は、素人にもわかる危険な状況に至ったのか。それを知るには活躍馬一覧の裏側、書かれなかった歴史を覗かなければなりません。

内憂:自家父系の終焉

 ブサックの生産体制は、自家種牡馬にほとんど完全に依存するという、当時のヨーロッパでは珍しい、いわばアメリカ的なものでした。
 そしてブサックの3大自家種牡馬 TourbillonPharisDjebel は、1954年からの4年間に相次いで世を去ります。ブサック帝国には、代わりの種牡馬がいくらでもいたでしょうか。
 別表を併せてご参照ください。

 Teddy 系 Asterus は父として〈離陸期〉、母父としては〈滑空期〉までブサック帝国を支えましたが、Abjer が早世したため、直系はほぼ途絶えました。
 Pharos 系の名馬 Pharis は、種牡馬入り2年目から5年間ナチスドイツに接収されたこともあって、その影響力を発揮しきれませんでした。後継としては ArdanPriam など初期の産駒が輸出済みで、ブサックの手元には晩年の傑作 Auriban が残っていました。
 Tourbillon 系はブサックの自家父系とさえ言えますが、その分かえって選抜は難しかったでしょう。一定の成功を納めた Goya は、同父 Djebel の大成功に伴い、アメリカへ輸出。Goya の仔、NirgalGoyama の同期生も揃って輸出済み。
 Goya の甥 Coaraze も輸出済み(ブラジルリーディングサイアー。のちに産駒 Emerson がブラジルから帰ってきてフランスでリーディングを取ります)。Coaraze と天秤にかけて残した無敗馬 Caracalla は、しかし不振に喘いでいました。
 一方でダービー卿牝馬の仔 Ambiorix は輸出され、なんとアメリカでリーディングを取っています。Toubillon 直系で当時ブサックの手元にあったのは、Caracalla の半弟で新進気鋭の Arbar くらいのもの。こうして見ると、輸出されたものが非常に多く、Djebel 以降は残した種牡馬があまり成功していないのがわかります。

 自家種牡馬の売却は、買い手の求めに応じたものであると同時に、彼なりに過度の近交を避け、血統が行き詰まることを避けての行為でもあったのでしょう。
 結局ブサックは Tourbillon、Pharis、Djebel に代わる〈計算の利く種牡馬 proven sire〉を生み出すことはできませんでした。当時彼の手元に残っていた馬では、Arbar こそ小規模な成功を収めるものの、本命 Caracalla、Auriban が相次いで失敗に終わり、自家父系は終焉を迎えることになるのです。
 Caracalla や Auriban にも、ブサック没落の責を負わせることはできないでしょう。むしろ、輸出されていればそれなりの成功を収めた可能性は十分あります。そもそも種牡馬入りが遅く、自身がブサック血脈で満ちていた彼らに対して、ブサックの良血牝馬はすでに半ば閉じられており、配合パターンを試す余地はほとんど無かったのですから。
 ちなみに Caracalla は非ブサックの種牡馬 Forum を通じペルーで父系を伝えています。

 結局 Tourbillon 〜 Djebel の系譜を継ぐのは、ウェストミンスター公がブサックの牧場で預託生産した Hugh Lupus(Tourbillon:2x3, Bruleur:4*5x3 の超近交馬。ブサック名義 Marveil の3/4同血甥)になります。この馬はブサック帝国から落ち延びることで、逆に配合の機会を獲得し、近交系の優位性を回復します。Tourbillon だらけの帝国さえ出れば、外にはその血を必要とする世界が待っていたわけです。
 結局 Herod から Ksar を経る父系にとっては、ブサック時代さえ壮大な寄り道に過ぎなかったのかもしれません。
 自家生産種牡馬で同時に3頭も大成功したなら、それは歴史的な僥倖と言うべきでしょう。しかしその3頭にほぼ完全に依存しながら、後継を引き当てられず、3頭が時を同じくして倒れたこと。これがブサックにとって、驀進街道からの曲がり角となります。

外患:輸入種牡馬と牝系汚染

 もちろんブサックも、この事態をただ座して眺めていたわけではありません。彼はアメリカの雄、カルメット牧場 Calumet Farm から、まず三冠馬 Whirlaway を輸入します。ところが Whirlaway は、ブサックが産駒の出来良しと見てリース契約から完全購入に切り替えた途端に、急死。ブサックはこれを惜しみ、さらに続けて3頭の種牡馬を輸入しました。

馬名 生年 母父 近交
Whirlaway 1938 Blenheim Sweep Bend Or=Rose of Lancaster:6*6x5*6*7,
St. Simon=Angelica(f):5*6x6*7, Domino:4*5
60戦32勝、40米2歳王者、41米3歳王者(三冠)、41,42米年度代表馬(連続)、50仏へ輸出、53死亡。
41ケンタッキーダービー/USA、41プリークネスS/USA、41ベルモントS/USA、41トラヴァーズS/USA、
42ジョッキークラブゴールドC/USA、42ブルックリンH/USA、40ホープフルS/USA、40サラトガスペシャルS/USA
Fervent 1944 Blenheim Stimulus Isinglass:5*5x6, Hermit:6*7*7*7x5*6*6*7, Domino:5*5
44戦17勝、53急死した Whirlaway の代用として仏へ輸出、57委へ再輸出。
47ワシントンパークH/USA、47アメリカンダービー/USA、47ピムリコスペシャル/USA、
2nd. 46ピムリコフューチュリティ/USA
Coaltown 1945 Bull Lea Blenheim St. Simon=Angelica(f):5*7x6*7, Hermit:6*6x6*7*8*8*8
39戦23勝、48米最優秀短距離馬、49米年度代表馬(僚馬 Citation は休養中)、55仏へ輸出、65死亡。
48ブルーグラスS/USA、48ジェロームH/USA、49ギャラントフォックスH/USA、49ワイドナーH/USA、
2nd. 48ケンタッキーダービー/USA
*アイアンリージ
Iron Liege
1954 Bull Lea War Admiral Bull Dog=Sir Gallahad:2x3, Spearmint:4x5*6,
St. Simon=Angelica(f):5*6x6*6*7*8*8*9
33戦11勝、59仏へ輸出、67日本へ再輸出、71死亡、ストロングエイトの父。
57ケンタッキーダービー/USA、2nd. 57プリークネスS/USA、57アメリカンダービー/USA

 ブサックがこれら4頭のアメリカ産一流馬に牧場の未来を託したのは、かつて自分の基礎牝馬 Durban がその米血ゆえに成功し、Tourbillon を産んだからでした。
 4頭がすべて一流種牡馬になるとは、さすがにブサックも考えていなかったでしょう。期待したのはせいぜい、すべてが失敗するなどということはないだろう、1頭くらいは成功するはずで、その1頭さえいれば牝馬たちに〈一時的な外交〉状態をつくり、次代で再び自家種牡馬が使えるようになるはずだ、という程度のことだったと思われます。
 しかしカルメットの4種牡馬は、あろうことかその最低限の期待さえ裏切ります

 ブサックの牧場でこれら4頭が送り出した産駒のうち、一流馬と呼びうる馬はただの1頭もいません。一流半から二流あたりまで広げたとしても、せいぜい Kurun だけです。
 ブサック帝国はフレズネイ=ル=ビュファール牧場、ジャルディ牧場を擁し、テシオやダービー卿の10倍近い生産規模を誇りました。カルメットの4種牡馬は、ブサックの良血牝馬たちの腹を借りて、優に100頭以上の若駒を送り出したはず……信じがたい大失敗です。
 これによってブサックの被った打撃は、単に一流馬が出なかっただけに留まりません。牝馬は残せる子孫の数も、その期間も、牡馬に及ばぬもの。ですから牧場の主力と期待した種牡馬が続けて滑ることは、言葉が悪いですが、ほとんど大規模汚染と言って過言でない事態を引き起こすのです。
 これに比べれば、*グランディや*ラムタラが何でしょう。社台が最近引いた*ウォーエンブレムなんて、可愛いものではないですか。
 このように、自家種牡馬の連続死去輸入種牡馬の大失敗は、同時並行的に起こり、ブサック帝国を激しく揺さぶりました。救命ボートに乗ったら穴が開いていた、あるいは角を曲がったら信号無視の車が突っ込んできた、というくらいの間の悪さが、そこにはあります。栄光の1950年からわずか10年、あれほど優位を誇ったブサックの牝系はその活気を失い、価値を下落させてしまいます。
 種牡馬としてはおそらく Tourbillon 以上のヘリタビリティを持っていた Pharis と Djebel が、母父としてはあまり名を残さなかったのも、この時期の牝系汚染が原因です。血統史的結果論から申せば、Pharis 牝馬や Djebel 牝馬が交配相手に恵まれず、その珠玉の血統をむざむざ枯らせてしまったことこそ、ブサックが後世に対して犯した最も大きな罪だと言うべきかもしれません。

帝国のダッチロール

 カルメットからの輸入種牡馬は、いったいなぜ失敗に終わったのでしょう。それは本項、いやアメリカ競馬史最大の謎のひとつです。
 Whirlaway と Fervent の父 Blenheim は、在英時こそ馬主アガカーン3世自身に Mahmoud、名人テシオに Donatello と、名馬かつ名種牡馬をもたらしました。ところが渡米後の産駒、とくにカルメット産の馬には、活躍しても繁殖成績は振るわないという傾向が目立ちました。父の跡を追って渡米した Mahmoud は成功したというのに、です。
 また Coaltown と*アイアンリージの父 Bull Lea も、牡牝駒ともに走ったくせに、牡駒が種牡馬入りすると不思議なほどコケる、嫌なジンクスの持ち主でした。カルメット2頭目の三冠馬で16連勝した Citation ですら、その宿命を免れていません。

 これらの不可思議な出来事は、たった一つの牧場、カルメットで起こっていました。ベンジャミン・ジョーンズが専属調教師を務めた期間、22年間に14回首位生産者に輝いたこの牧場は、しかし一流牡馬すべてが種牡馬としては二流以下に終わるという、およそありえない現象に悩まされていたのです。
 Blenheim と Bull Lea の息子たちに何が起こっていたのでしょう。
 伴性遺伝? 性別刷り込み? まさか……薬?
 ブサックがこの現象に気づいていなかったとは考えにくい所。仮に Whirlaway 輸入当初は気づいていなかったとしても、50年代後半には疑念がつのり、遅くとも60年代には確信に変わっていたでしょう。
 Fervent はヴェネズエラ、*アイアンリージは日本へと放逐され、それぞれフランス時代よりはずっとマシな成績を残しています。まったく見所のなかった Coaltown は買い手もつかず、晩年は乗馬として使われました。
 拙など、ブサックが輸入すべきは*ヒッティングアウェーのような血統の種牡馬ではなかったかと考えたりもしますが、いずれにせよ60年代以降、新たに種牡馬を輸入する余裕は、ブサックにはありませんでした。

 ブサック帝国は、カルメットの4種牡馬によって受けた打撃からついに回復することができぬまま、いよいよ本当にリスクの高い近親交配か、でなければ一般の生産者と同じ、外部に種付けに行く生産形式を取らざるをえなくなってゆきます。
 ブサックの場合、牧場が抱える繁殖牝馬が非常に多かったため、外部種牡馬を使うといっても簡単ではありませんでした。種付け料と輸送のコストが、また牧場の経営を圧迫。もはやブサックの牧場は、自分自身の規模を支えきれなくなっていました。それはまた、寄生虫が増えるという防疫的失敗、生産馬のさらなる成績不振、ブサック本業の繊維業まで傾く、という悪循環を招きます。

 60年代以降、拙が〈墜落期〉と題したこの時期の成績は、惨憺たるものです。数少ない活躍馬は、自家製牝系のうちカルメットの4種牡馬によって「汚され」ていないものに、外部の種牡馬をつけることで産み出されています。
 とくに最後の傑作というべき*アカマスの配合は、輝かしくも皮肉な彩りに満ちています。
 牝系はブサックの原点である Frizette 系で、生産馬 Djezima から数えて5代目。父である欧州近代三冠馬 Mill Reef は、ブサック自身がかつてアメリカへ輸出した La Troinne や Djeddah(Djezima の息子)の血を引いています。つまりこれは、黄金時代の近交系を再現する〈戻し交配〉なのです。

 *アカマスが仏ダービーを勝った時、ブサックはこの現役ダービー馬を2700万フラン、残りの所有馬143頭すべてを1400万フラン、合計4100万フランで、アガカーン4世に売却します。*アカマスが出なかったら、全部で1000万フラン付いたかどうか…その意味で、ブサックは最後の賭けに大きく勝ちました。しかしそれは彼の没落を帳消しにし、かつての栄光を取り戻すものではありませんでした。
 翌年ブサックは破産し、さらに翌1980年、悲嘆の中に没しました。

 個人として神に対峙し、頭を垂れるよりもそれを睨みすえた人物。あまりに早く駆け上がり、一度は神の領域に近づきながら、両の翼を奪われるや、あまりに早く転落した人物。その生き様は波乱万丈の一言では表せません。
 長く生きすぎたという言い方もあるでしょうが、それも含めて、最期まで近代人たるを体現したような、そんな偉大な生産者でした。

ブサック以後/蛇足:Teddy の嫉妬深い遺伝子

 ブサックの死から2年も経たないうちに、父も母もブサック生産馬という Akarad(*アカマスの半弟)がサンクルー大賞を、その全妹 Akiyda が凱旋門賞を勝ちます。生産馬主はアガカーン4世
 *アカマスこそ購入後の競走・繁殖成績は振るいませんでしたが、その半額あまりで購入した牝馬群の方に、アガカーン4世はより大きな価値を見出したのです。ブサックがこだわり、それゆえに苦しんだ牝系。それを丁寧に磨き直したことは、4世の生産者として最大の功績に数えられていいでしょう。
 彼は四半世紀後の今も、ブサック牝系から DaylamiDalakhani など幾多の名馬を送り出しています。

 もっともそのアガカーン4世でさえ、カルメットの4種牡馬には手こずっています。彼が生産したG1勝馬の中で、4種牡馬いずれかの血を引いているのは Sinndar、あとは Erdelistan ぐらいです。それらの中でカルメット種牡馬の血が相当に薄まっていることを考えあわせれば、当時ブサックが舐めた苦労がいかほどであったか、改めて察されようというもの。


 ちなみに BlenheimBull Lea は、結局当のカルメットにも後継を残しませんでした。Blenheim の直系を継いだのは欧州産の Donatello と Mahmoud、そしてクレイボーン牧場の Jet Pilot です。
 Bull Lea の直系はそれ以上に急速に衰退し、カナダの Bull Page、大西洋を渡ったカルメット産Kダービー馬 Hill Gail(母父 Blenheim で Coaltown と3/4同血)らがその血をわずかに伝えました。
 ただし Bull Lea 牝馬は見事な成績をおさめ、やがてカルメットに久々の王者 Alydar をもたらしています(その後の Alydar の死は、あらゆる意味でカルメットの歴史に幕を引きました)
 カルメットの遺跡とも言える牝馬経由の Bull Lea は、身近な所では*サンデーサイレンス*ブライアンズタイムの血統表にも認めることができます。

 また Bull Lea と同じ Teddy 父系について言えば、Fervent の半兄 Sun Again は、カルメット産馬として例外的に父系を伸ばし、後代に Damascus、さらには Skip Away という実を結びます。
 偏屈爺師は Teddy について、父系としては悉く突然伸び止まり、母系に入っては国際的名馬を出した、カルメットはその例のひとつである、という風に述べられています。
 ただし、そうした性質があったとしても、そこから個々の生産者が受けた影響、そして現代への系譜は、もちろんそれぞれ異なります。

 たとえば17代ダービー卿が生産した Borealis は、牡駒が走らず次の18代を苦しめますが、まだフィリーサイアーとしての才能に恵まれていたため、幾ばくかの配当と金脈を残し、それが現当主19代に2004年、久方ぶりのクラシック馬、そして初のブリーダーズC勝馬 Ouija Board をもたらします。

 一方フランスでは、デュプレが Teddy 直系の Tantieme を出し、没落したブサックに代わって生産者部門の首位を占めるようになりました。テシオの成功とブサックの失敗に学んで、デュプレは自家生産馬のほとんどを売却しながら活動を続けましたが、Tantieme だけは手元に置いて多くの一流馬を生み出しています。デュプレはしばしばブサックの種牡馬も用いましたが、ブサックの方は、親独的立場への反発からかデュプレの種牡馬を用いようとしませんでした。

 イタリアでは、デ・モンテルの Ortello が、父としてあるいは母父として実に優秀で、テシオもこれを存分に活用しました。もし Antonio Canale が Golfo に半馬身負けていなかったなら、不敗馬 Braque まで伊ダービー馬が4代連なっていたところです。Braque の夭折とイタリア馬産の衰退にしたがい、歴史の幕間に退場したこの血統ですが、現在でもエレナ王妃賞の Bugia など、まれに母系に姿を見せることがあります。

 彼らと比べると、ブサックが直面した悲運は際立ち、ほとんど不条理なほどです。もし La Troeinne を残すか、Abjer を失っていなければ、もしくは Pharis 不在の5年がなければ、あるいはまたカルメットではなくクレイボーンから種牡馬を輸入していたならば、ブサックの後半生はいかなるものであったのでしょうか。

2004/11/20


マルセル・ブサックの名馬たち配合資源と革命的手法
帝国の没落とその原因 | 日本における受容と展開
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