「ついてない」
ポートが歩く3月の東京は既に春だった。たとえこの後雪が降ろうとも、今日この日は冬じゃない。
「週末のNYは嵐だってさ。ダウンを持ってきてもおかしくないほど寒いよ、こっちは」
先週夜更けに掛かってきた電話でポートは、少し気がふさいでいた。慌てて詰めたコートで、荷物は一気に膨らんでしまった。雪のNY…。

UAの機内食は相変わらず不味かった。キットにオーダーしたチャイルドミールには、お馴染みの人参スティックが。サービスも変わった。子供の退屈しのぎ玩具セットの配布を廃止して、UA印のトランプは紙製から再生であろうプラスチック製に変えたことは、ある意味で評価できる。
キットのジンラミーに数回付き合っただけで、映画3本もパスして眠った。すべてがおかしい、最近。

NYは冷たい雨が降っていた。
「タクシーが少ないから、近くに行く人同士で相乗りしてほしい」
デンゼル・ワシントンを10歳若くして背丈をもう少し上乗せしたような整理係が、客の列に呼びかけている。

「この住所は間違っている。ここにそんなホテルはない」
イワン・フリンカをもっと頑固ドイツ親爺にしたような運転手が言った。幽霊ホテル。昨年暮れにネットで予約したホテルの宿泊料は既にカードで引き落とされている。恐れていたことが現実に起こったのか。ポートは、初めての夜のNY、それもうらぶれたこの通りでタクシーを手放すつもりはなかった。他のホテルまでいくしかない。
「ホテルがあった。小さくて見過ごしてしまった」
舗道に降りていたフリンカが言った。

ホテルの入り口は一枚のガラスドアだけ。ドアの幅しかない廊下を奥へ進むと、自販機と向かい合わせで左側にレセプションがある。一人で切り盛りしているような黒人の男は202号室の前までスーツケースを階段で運ぶとカードキーを渡した。部屋のドアを20センチほど開いた時点で、ポートはすばやくドアを戻した。部屋の状況を察知するにはそれで十分だった。
「入らないの?」
キットの不審な表情に構う暇はなかった。男はさらに2階上の402号室まで階段でスーツケースを運びあがる羽目になった。なぜなら、202号室のソファには 他の宿泊客の服 が置いてあったからだ。
<鍵の掛かるスーツケースを持ってきて良かった>
そう、明日は我が身だ。

「あ、もうひとつ部屋がある」
「それはバスルーム…」
振り返ったそのドアは裸の ベニヤ でできていた。返事を聞きながら次に確認しなければならないことは、熱いお湯がでるかどうかだった。これはクリアした。
全体の貧相さに比べてバスルームは新しかった。どうやらバスルームなしの部屋は、いまどき流石に商売にならないので改装したようだ。
天井から吊るされているTVはESPNが写らなかった。

ポートは廊下ですれ違った女性客に、近くにまともなカフェかデリはあるかと尋ねた。女はスターバックスを教えた。ポートはスターバックスが嫌いだった。が、行った。ホテルの隣は中華デリのような店だったが、食べたら最後、食中毒になりそうな店構えで流石に入る勇気はなかったからだ。スーターバックスの黒人女性はカウンターの向こうで、間断なく携帯電話で話していて取り付くしまもない。食事になりそうなものはサラダしかないなんとかして話しかけなければ。
「サンドイッチはないのかい?」
「どれでもどうぞ」
「ないよ」
「じゃ、ないです」
さらにスターバックスが嫌いになった。8番街の何でも屋の奥にセルフサービスのデリがあった。マッシュポテトが湯気を立てていて美味しそうだったので、それと、サラダ類をみつくろって入れた。キットが目ざとく牛乳を持ってくる。ポットにコーヒーもあったが、何時間前に淹とした、または溶かしたものか判別がつかないので、これは結局嫌いなスターバックスで買う他になかった。

ホテルの廊下で、今来たばかりといった風情の白人女性に、話し掛けられた。
「ここに滞在していらっしゃるの?」
「ああ」
「ここ、いいホテルだと思われます?」
「そうは思わないね」
答えは判っていても聞かずにはいられないことが、時にはある。

結果からいうと、消化を許されたのは、マッシュポテトとバターコーンとスターバックスのチョコレートケーキだけだった。
近所にライブハウスがあるらしい。いつまでもドラムの響きはやまなかったが、決して不快ではなく二人は眠りに落ちた。

「まずい…」
目覚めてしまったのは深夜2時。今眠らなくては確実に明日からの悪魔の生態調査に支障をきたす。しかし、キットも起きだして、空腹を訴え始めた。
機内のスナックタイムにキットが眠っていて食べなかったきつねらーめんを作ることにした。NY行きだというのに湯沸し器は持参していた。ポートの中で、全て準備は整っていた。
「おいしいね」

キットは何十時間ぶりかにこの台詞を口にした。

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