吉備学園高等学校 非常に新しくきれいな感じがした。寮を完備している。

北住区 まだ分譲地が売れ残っていて、場所によってはガランとしている。

吉備高原学園幼稚園 一般的な幼稚園よりも広く清潔感があった。小学校と一貫教育である。

岡山年金ホーム 一つ一つのホームがきれいで設備が優れている。

吉備高原総合リハビリテーションセンター 中四国でトップクラスの設備を誇る。

吉備高原希望中学校 非常に新しかった。自然豊かな環境の中にある。

吉備高原のびのび小学校 吉備高原都市の学校の中で一番歴史が長い。

円形広場 周辺住民と都市内で暮らす人のふれあいの場である。

コリドール(回廊) 非常に近代的デザインであり、大きい。

業務商業ビル 中にはホテルや食堂、銀行などがあり新都市の中心である。

吉備高原ニューサイエンス館 

福祉のむら(吉備の里) 複合福祉施設という働きだけでなく、農園などを使って身体障害者に都市の住民とのふれあいを与えることができる。

僕のパソコン。」

吉備環状線 都市内の区と区をつなぐ、主要な道路である。

鳴滝ダム 吉備高原都市の住民及び近隣町民の飲み水である。 

巨大モニュメント(吉備高原ニュ−サイエンス館) ステンレス製、高さ18メートル。

吉備高原都市の取材課題

まずはじめに吉備高原都市の基本構想のあらましを述べる。基本構想では、賀陽町東部と加茂川町西部の約1800ヘクタールを計画区域とし、これを取り囲む岡山市を含む賀陽・加茂川の三市町の地区六万二千二百ヘクタールが関連地区とされた。
計画地区には、保険福祉区・自然教育レクリエーション区・研究学園区・センター区・産業区・住区・農用区が設定されていて、各区にふさわしい諸施設を整備して、それぞれの機能が相互により連携し合って総合性が確保できるような計画となっていた。
そしてこの基本構想の策定を受けて、昭和五十年四月、吉備高原都市という新都市の建設が始まった。
今回は私が見てきた施設を中心に吉備高原都市の現状と未来像を考えていきたい。

吉備高原の基盤整備状況

<道路>
                            吉備高原都市には「吉備新線」「吉備環状線」の二つの主要な道路がある。「吉備新線」とは、岡山市街地と吉備高原都市を結ぶ新しい道路として計画された、総延長二十五キロの県道である。吉備環状線とは、吉備高原都市内の幹線道路として整備が進められている、中央分離帯と両側に歩道を備えた幅二十六メートルの四車線道路である。またこの道路は将来、新都市内を一周する予定であり、吉備高原都市の交通の中心である。他にも、北部住区の幹線として岡山県が建設した「住区一号幹線」や、新都市内の十字橋の東北にある歩道者専用の道路である「吉備北歩行者専用道」などがある。
これら吉備高原都市内の道路の特徴は、碁盤目状や放射線状ではなく、各ゾーンを結ぶ幹線道も環状線他の道路も同一区域内では環状とするのを基本として、車の通り抜けを抑え、車椅子でも安心して目的地へ行けるように工夫をこらすなど、全体として新都市づくりの基本理念が反映された設計となっている点である。
<鳴滝ダム>
このダムは、新都市とその周辺地域の水源確保と洪水調節のために造られた多目的ダムであり、吉備高原都市づくりのトップを切って岡山県が建設した。新都市の水がめである。
また水道事業は、加茂川町と賀陽町とで設立した「吉備高原水道企業団」が管理運営を行っている。

保健福祉区

<福祉のむら(吉備の里)>
福祉のむらは、単なる福祉施設の寄せ集めではなく、身体障害者や精神薄弱者が自然の中で生産に従事しながら、生きがいをもって生活し、自立を目指すことを目的につくられたものである。
施設内には授産施設と福祉農園が設けられていて、そこで生産・加工された品は、「ふれあいプラザきびのさと」で展示即されている。
また福祉農園は、入所者の授産の場というだけでなく、地域交流の一環として農園を一般開放するなど、農林公園的に整備されているという特色をもっている。
<吉備高原総合リハビリテーションセンター>
主として労働災害を被った人などを対象に、初期治療から機能の回復訓練・職業訓練・社会復帰までを一貫して行う中国四国地域の中核的な施設である。
<岡山年金ホーム>
この年金ホームは、吉備高原総合リハビリテーションセンターの北東にあり、全国で初めての高齢者向けのリハビリペンションである。また吉備高原総合リハビリテーションセンターへ通院しながら長期滞在できるのが特色である。

中小企業研究研修センター区

<吉備高原ニューサイエンス館>
この施設は、岡山県民の科学技術に関する知識の高揚と中小企業の技術力の向上を目的につくられた。
ここには、先端技術や未来技術を分かりやすく展示する部門をメインに、中小企業の技術力の向上を図るためのコンピュータ研修施設や、バイオテクノロジーに関する研究開発を支援する開放実験室が備えられていて、新しいタイプの多機能複合型施設となっている。また正面のステンレス製の高さ十八メートルのモニュメントが印象的であった。

センター区

<業務商業ビル>
建物の内部には公共スペースが多く確保されており、人間尊重・福祉優先の吉備高原都市の理念からスロープや車椅子用リフトなども完備されている
一階には銀行・農協・スーパーマーケット・理容店などがある。二階には飲食店と多目的ホール、三階には大研修室(体育館)とリゾートホテル、四階にも同ホテルが入っている。
またこのビルは、都市内居住者や施設利用者のほか、周辺地域の人たちのための都市的利便施設となるように設けられたもので、隣接のコリドール(回廊)や円形の広場などと一体になって、潤いと憩いの場を提供している。

研究学園区

<吉備学園高等学校>
この高校は、岡山県が学校施設を整備し、県や民間などで構成する学校法人が運営するという、独自の公私協力方式で設置された共学の全寮制の普通科高校である。学科は体育・福祉・国際情報ビジネス・工芸・陶芸・緑地造園・建築技能・ファッション・クッキングという特色ある八コースがあり、単位制が取られている。
ここでは、これまでの高校では学び難しい技能の習得を望む人や既存の高校になじめず進学していない人、高校を中退した人で勉学意欲がある人などを受け入れて、恵まれた自然の中で、教職員と生徒とが生活を共にしながら、人間的なふれあいをを深めるという、「全人教育」が実践されている。

最後に私が見てきた吉備高原都市の印象を述べると、都市内全体の設計がゆとりがあったと思う。例えば店や施設の廊下などの空間がゆったりしたものであったり、建物と建物の間のスペースが広く開けてあり町全体がギスギスしていなかった。また自然と近代的な新都市の景観が非常に合っていたと思う。私は二度の取材で吉備高原都市の魅力がわかった気がした。
将来像について考察してみると、交通の便が今以上に発達すると推測される点や居住区にまだまだ空きがあるという点、これからの社会は高齢化社会という 点から、吉備高原都市はこれからより発展すると私は考える。

備中松山城についての取材課題

 高梁市の北に標高480メートルを最高に大松山・天神山・小松山・前山の400メートル級の山容がそびえるが、備中松山城は中世から現在まで臥牛山といわれる山の上にある。

 戦国期の城は、山上に設けられる山城がほとんどだが、近世になると、城は平地に築かれる平城、平山城が一般的になる。そんな中でこの城は、江戸時代の築城としては数少ない典型的な山城であり、全国でも最も高所に所在する。天守閣や二重櫓、一部の土塀が現存しており、これらは国の重要文化財に指定されている。高梁市は、城閣などの復元のため、平成7年1月から大規模な工事を行い、本丸の東門や南門、2つの平櫓などを昔通りに再建し、城の威容は一段と増した。

 備中松山城といえば、江戸時代にめまぐるしく城主が交代したことで知られる。これは後継者いないためのお家断絶や転封によるものだが、これ以前の戦国期にも、城主がいくたびも代わっている。

 その理由は、この地、この城が備中制覇のために重要な意味を持っていたからである。山陰と山陽を結ぶ伯備往来の中ほどに位置する高梁は、東西への主要街道も交差する。この要地を抑えるため、備中の有力武将に山陰の尼子氏や安芸の毛利氏、備前の宇喜多氏が絡んで、激しい争奪戦を繰り返した。

 城を最初に築いたのは、秋庭三郎重信とされる。重信は相模の三浦一族だが、後鳥羽上皇が倒幕の挙兵をして幕府側に敗れた「承久の乱」の戦功で、備中有漢郷の地頭職を与えられた。そして仁治元年(1240)に大松山に居館を築き、有漢から高梁に移って以降、秋庭氏は代々ここを本拠とした。

 戦国時代になると、天文年間初めから天正初年まで40余年間に、備中の有力武将が入れ代わり立ち代わりこの城に入った。まず天文2年(1533)に守護代として在城していた上野重孝が、猿掛城(小田郡矢掛町・吉備郡真備町)の庄為資に滅ぼされ、城主は為資に代わった。

 これに対して鶴首城(川上郡成羽町)の三村家親は毛利氏と結んで、尼子・庄方と戦って備中の覇権と松山城を掌中にした。ところが、家親は美作に出陣中、宇喜多直家の刺客に暗殺され、その子の元親が父の弔い合戦で直家の備前勢に敗退した。この三村氏の間隙に乗じ、松山城は庄高資(為資の子)が奪回した。高資は、三村・毛利同盟に対抗するために宇喜多氏と連携したが、元亀2年(1571)に毛利元清の大軍に城を攻められ討ち死にした。元親は松山城に入り、備中における三村氏の勢力を回復した。

 だがこの3年後、三村氏と毛利氏との連携は、宇喜多氏と毛利氏の接近により破綻し、天正2年(1574)、毛利軍は備中へ大攻勢をかけた。松山城は翌年の5月に落ち、元親は自害して果てた。その後は毛利氏の武将が城番を務める。

ついで元和3年(1617)に池田長幸が6万5千石で鳥取から入る。寛永19年(1642)には水谷勝隆が成羽から移封。水谷氏は3代で断絶し、安藤氏、石川氏と交代し、最後に板倉氏が5万石の藩主となる。

板倉氏は8代続いて明治維新後の廃藩置県を迎える。7代目の勝清は文久2年(1862)から老中に就任し、最後の徳川将軍慶喜に仕えたことで知られている。動乱期に幕府の要職に就いて財政面で苦労があったのか、高梁の豪商の家にいた倉氏の借用書が多数残されているという。

藩主はこのように交代しているが、松山城が近世的城郭として整備されたのは水谷氏時代である。2代目勝家が天和元年(1681)から3年がかりで大改修を施したが、現存する天守閣などは、この時期に建てられたとされる。山城を戦時期に強化する一方、臥牛山のふもと、現在の高梁高校所在地に御根小屋を設けた。藩主の居館もここにあって、日常の政務は城ではなくこちらで行われた。