昭和39年頃のボート部の話
横倉先輩ご寄稿
毎日のように別所沼や秋ヶ瀬まで走っていました。
戸田コースから荒川に出て、秋ヶ瀬まで漕いで、秋ヶ瀬近くの家の軒下で着替えて
学校に遅刻しない様に、必死にヒッチハイクをして学校着。帰りは逆コースで戸田まで。
あんまり暑いので秋ヶ瀬付近の川で泳いだり、艇の先に懐中電灯を付けて夜遅くまで
漕いでいて、ダルマ船にぶつかりそうになったり。練習の後、学校の柿畑の柿を盗って
先生に追いかけられたり。学校の柔道場で合宿したときは、工学部志望の部員が、
消燈後も部室の暗い電球の下で夜遅くまで勉強していました。
全国大会の予選のために戸田で1ヵ月合宿をして、あげくその予選の試合に遅刻して
棄権になったり、その後合宿所にこられた野口先生がポカーンとした呆れたような顔を
していたのが印象的でした。でもその後、塚谷たちがインターハイに行ったから、いいか。
ラクビー部の人数が足りないので、ラクビー部の試合にかりだされたこともありました。
埼玉県の他のクルーと1泊で遠漕に行き、河口近くの大波で沈しそうになり、急いで水を
掻い出したり。40年前の話なので、思い違いがあったらゴメン。
最後に当時の大学主将談をそのまま書き写します。
「早稲田に出来る限り大差をつけてゴールする事、又万が一勝ちを譲る時は最後まで
苦しめ僅差でゴールする事が早稲田に対する我々の礼儀であり、昨秋よりの苦しい日々
への義務であると信ずる。」。
「TORU(とおる)」(1975年卒ご同期手記)
…かつて、志木高に「TORU」というシェルフォアがありました。ご存知の諸兄も多いことと存じます。
昭和49年の春でした。
月曜日の2時間目と3時間目の間、いつもの教員室前のミーティングで、野口先生が驚くことをおっしゃいました。
「今年のインタハイから、フィックスが廃止になり、替わってシェルフォアが種目に入ることになりました。」
以後、インタハイに向けての練習。その時の大会は佐賀でした。
その地を目指し、当時志木高の宝物だったシェル艇「志木3号」を漕ぎまくりました。
当時3年、キャプテンは山辺徹(やまべ・とおる)。同期は中野、田中、上原。シェルフォアは早慶戦で漕いでいるから、
こんないい話はありません。
…だいたい、当時シェルフォアなんて普通の高校は持ってないから、乗ったこともなかったはず。
県立高校は、ナックルでさえほとんど「県艇」と呼ばれる県からの借り物でした。
…で「立教が出てくるのかな。でも絶対勝てるよな」なんてことを話していました。
…結局、県予選には、立教はシェルフォアにはエントリーせず。
したがって、シェルフォアの埼玉県代表は志木高に自動的に決まり。
ただし、予選の独漕でゴールに着けば、です。
県予選、「戸田一番の速いフォア」と言われた志木3号で勇ましく出艇し、無事ゴールには着いたのですが、
あまり芳しいタイムではなく表彰式の講評で辛口のご批判をいただいたことが記憶に残っています。
当時は読売新聞がボート競技に関心を持ってくれていました。
早慶レガッタでも、高校のレースまで結果を載せてくれました。
これは、当時の読売の運動部の方が、早稲田のボート部のOBだったからです。
毎年思うのですが、なんで高校野球は全試合NHKで放送するのに、ボートはやってくれないのでしょう。
当時、インタハイに向けての合宿中、すでに「インタハイ」自体は佐賀で始まっており、
戸田の艇庫でNHKで弓道の中継をしていたのを見ました。
合宿中、新聞に高校総体の記事の中でボートが取り上げられ、
「新設部門のシェルフォアは、早くから大学の艇を借りて練習している関東勢が有利」などと
書かれていました。これも読売新聞だったと思います。
会場となった唐津の松浦川では、結局、川岸にNHKののぼりはあったものの、
テレビカメラなんて、決勝にさえ来ませんでした。
会場での練習の時、初めて触れた「規格艇」を、いつものように
「さそー、1・2・3」、「かえそー、1・2・3」
とやったらえらく重くて大変でした。
周りにいた他校の選手はビックリしていました。他のクルーは、ナックル並みの扱いをしていました。
しかし、レースの結果は、残念ながら予選、敗者復活戦であえなく敗退。
敗復で広島の廿日市高校に負けた時、山辺が「バカヤロー」とつぶやいた。
くやしかった。
インタハイ初のシェルフォア部門、13校出場、
志木高のタイムは全国10位でした。
「速い志木高端艇部」の歴史の中では、情けない時代でしたね。
…柿の実も熟れ、収穫祭も、最後の試験も終わって、そして卒業。
キャプテン山辺は、法学部に進みました。
大学3年の冬でした、突然不幸な連絡が来ました。
「山辺が死んじゃった」
と。
仲間とスキーに行くための夜間のドライブ、その途中で事故に遭い、帰らぬ人となってしまいました。
ご葬儀の時の、ご両親の涙が忘れられません。
その後、山辺さんのご両親のご篤志を賜り、志木高に新艇が誕生しました。
これが「TORU」、インタハイの規格艇です。
以降、インタハイに向けての練習には「TORU」が大活躍し、
歴史に残る優勝クルーも戸田では「TORU」で懸命な練習を重ねられたとうかがっております。
ある日、OB会の会報にて、「TORU」の破損のことを知りました。
台風の時、荒川で橋桁に接触してしまったとか。残念な思いをしましたが、その後の新艇の命名の話もうかがい、
当時の現役諸兄の「TORU」に対する深い思いをたいへん嬉しく感じました。
部員の皆さんが話し合い、「TORU」の名前と志木高への功績を残すべく、その4文字を織り込み、
新艇にフランス語で「復活」「再来」という意味の「RETOUR」という名前をつけてくださったのです。
残念ながら修復不能の「TORU」は廃艇となり、当時のコーチ、鍵山さんからそのご連絡をいただきました。
艇庫にうかがい、「TORU」のバウに書かれたネームの部分をお預かりし、
山辺さんのお宅にお届けさせていただきました。
山辺さんは亡くなられましたが、その名を冠した「TORU」は彼の思いをまさに引き継ぎ、
野口先生の手記にもあるように、その後の志木高端艇部に大いに貢献してくれました。
そしてさらに、彼の思いは、「RETOUR」にも生き続けていたと思います。
現コーチ、水井さんも志木高時代、「TORU」のエピソードは多くの方からうかがった、とおっしゃっています。
当時の方ならご存知の「TORU」のお話、いつまでも後輩に引き継いでいただければと存じます。
なんと言っても、志木高初のインタハイ優勝の守護神だったのですから。
…「初の」と記しました。
2度目、3度目も期待しております。
志木高端艇部のますますのご活躍を、心より応援しています。
山辺、目を細めたあの屈託のない、明るい笑顔が目に浮かびます。いいヤツだったな、ほんとうに。
おおい、山辺、おまえ元気か? 相変わらず野菜ジュース飲んでるか?
みんなの青春、楽しかったよな。忘れないよ、ずっと。ありがとう、徹。
志木高端艇部 昭和50年卒 中野 裕至 田中 慎二 上原 啓邦
昭和53年~56年 栗原守之先輩 (聞き手&記 堀越哲(昭和61年志木高卒))
※平成11年4月の志水会報に載せた記事です。
志木高に入学したのは昭和53年。今の高校生はまるで生まれてないからずいぶん昔の話だ。 高校入学当初は柔道かラグビーをやろうと思っていました。中等部でやっていたので。 入部当初は新入生も含めて部員は10名弱。練習は今思うとチンタラしてたような・・・。 当時はインターハイにシェルフォアが登場して4年目か5年目。 そんな志木高ボート部に転機が訪れたのは2年生の時。 コーチになった塚谷さんの最初の言葉は 授業が終わり、武蔵野線と京浜東北線を乗り継いで国鉄蕨駅に。 すさまじい練習メニューだったな、実際。 練習の終わりは合宿している大学生より遅いのが当たり前で、帰りのバスはいつも9時過ぎ。 あれだけの練習をしたんだから、当然といえば当然なんだけど、その年はダントツで予選に勝ち、 翌年はぼくがキャプテンになって新クルーを編成。前年以上の練習量で県内では無敵。 今の職業(弁護士)を遂行するにあたり、ボート部で経験したことが大きな自信と力になっています。 自分にとっては、ボート部時代の経験からその大切さを認識するようになったと思います。 こういったものと「伝統」として現役の諸君にも味わってもらいたいと思います。 1983夏 野口福次先生
※文中の役職や諸々の数値(○年振り・・等)は昭和58年当初のものです。 走れ 跳べ 競え 東海の空-のスローガンのもとに、昭和58年度全国高等学校総合体育大会・夏季大会は8月1日の総合開会式で開幕し、 2日から愛知県を中心に三重、岐阜、静岡の東海4県下で熱戦を繰り広げた。この大会に全国から集う高校生は約2万3千人。競技種目は25 競技28種目。漕艇競技は木曾の清流を湛えた愛知池で、炎天下3日間行われた。距離は1000メートル。本校端艇部からは、男子舵手付 フォアの埼玉県代表として次の7名の選手が参加した これらの選手たちによって、昭和34年創部以来の夢であったインターハイ優勝が出場15回で実現され、 水の王者慶応志木の名は全国に知れわたった。 この快挙は昭和49年種目設定以来、埼玉県クルーとしても記念すべき初優勝であった。 顧みるに、このクルーは1年当時から互いに励ましあってよく走り、特に冬から春に掛けての苦しい練習によく耐えてきた。昨年の鹿児島のインター ハイに4名が参加したが精神面で危惧される点が見受けられた。だが、9つきの埼玉県高校新人大会では3分29秒の好タイムで見事優勝した。 3年になると奥村主将を中心に個性の強い彼らがクルーとしてよくまとまり、見違えるほど引き締まってきた。これらについては志木ボート部OBの 菊池隆三(志水会会長)、塚谷卓郎、栗原守之、岡田英史の諸君の並々ならぬ熱意ある指導を見逃すことはできない。本年度コーチを担当した 岡田君(理工学部2年)は体力測定のデータによって選手1人1人を絶えず綿密に観察し、的確な判断を下してくれた。 その粘り強い指導によりボート部全員の技と力は著しく向上した。 4月からの代表クルーの活躍は目覚しかった。お花見レガッタ準優勝に始まり、 早慶レガッタ(高校対校)、戸田レガッタ、インターハイ県予選、と優勝が矢継ぎ早に続いた。 2.
愛知池をめざして 今年6月群馬県榛名湖で行われた関東大会では、濃霧のため決勝レースが中止され、優勝杯を持ち帰ることができなかった。本校シェルクルーが 9月に榛名湖で開かれるあかぎ国体夏季大会に挑戦する意欲が湧いた。16年前に埼玉国体に参加した本校ナックルフォアのクルーは5位に入賞して いる。同じ関東地区内の国体であるので7月24日の国体埼玉県予選にはシェルをナックルに切り替えて出場することを決断した。従って7月19日から 23日までの合宿の期間はナックル艇に乗り練習に励んだ。幸い県予選に優勝し、8月の関東地区国体予選への出場権を得た。 その頃既にインターハイ一次予選の対戦校がわかり、栗原君(経済学部3年)に話すとさっそく情報を収集してくれ「一次予選における対戦校に関する 若干の考察」なるレポートが選手に配布された。諏訪湖レガッタに参加した相手校の現況がわかり、 一次予選に対し、必要以上に気をもむこともなくなった。 7月25日以後、再びシェルに切り替えた代表クルーは調整に苦しみながらもいよいよ出発の時を迎えた。 3.優勝までの日録 7月28日 12時30分東京駅17番ホーム集合。菊池先輩見送りにくる。12時48分「ひかり」発車。14時49分名古屋着。伏見より豊田線にて16時前に米野木着。 バスに数分のり、炎熱の田舎道を20分歩く。緑一色の自然が広がっている。宿舎の中部電力能力開発センターの近代的な建物の玄関を入ると 松永安左エ門翁の巨大な胸像あり、親近感を覚える。 全館冷房で設備、環境申し分なし。1時間近く管理者より滞在中の心得をこまかに話される。 出発前に利用施設案内は送られていた。外出禁止、窓を開けぬこと、食事、入浴、消灯22時、特別監視、非常口など懇切に説明される。 廊下に出るとすれちがう研修生(高校)より大きな声であいさつされた。ひとりひとりに挨拶を返す。 中部電力の研修生約200名が全寮制で規制ある生活をしている。 7月29日 11時15分より12時55分まで練習。今日も調子が出ずコーチも不安そう。 7月30日 9時30分より10時30分まで練習。15時愛知池の近くの愛知県教育センター行動で漕艇競技開始式。 16時より監督主将会議あり、おわってからコックスの計量。 8月1日 10時10分より11時10分まで練習。12時にバスに乗り込み、弁当を配る。総合開会式の会場である名古屋市瑞穂公園陸上競技場に向かう。 服装は白シャツ、白スラックス、白運動靴、白帽子、そして胸に埼玉県選手団マークをつける。 ラグビー場に集合。どしゃぶりの雨に見舞われる。入場行進の練習が各県毎に行われる。 あかぎ国体を控えた群馬選手団の意気盛んなのに驚く。 各県選手団入場のころには雨がやみ、青空がみえた。巻き起こる大きな拍手。式が終わってほっとする。 総合開会式の参加は4年前の滋賀大会につぎ2度目。 8月2日 一次予選。11時30分スタート。ピッチ35 風向西北西。風速0.6。選手の調子よく、本校最高記録で1位。ようやく元気が出る。3年の野球部員岸君が応援にきていた。 8月3日 二次予選。12時スタート。ピッチ35 風向北西。風速2.5。今日も選手は好調。豊橋より山本典嗣先輩が応援に着ており、明日の車による選手輸送をお願いする。 夜8時頃塚谷、栗原両先輩が車でセンターに東京から来たが選手に会わず旅館を探しに出かける。岡田コーチと明日の計画を立てる。 8月4日 準決勝。9時50分スタート。ピッチ35 風向北西。風速3.3。うだるような暑さだ。観覧席から歓声が起こる。インターハイ決勝進出は創部以来初めてである。宮島埼玉県選手団副団長と倉持 総監督に激励される。選手は漕手4名を山本先輩の車にのせ、休息のために宿舎に帰し、その間3年部員と2年の補欠が艇の手入れをする。1時間の 休息をしたクルーはただちに監視を通過、先輩現役の拍手を受けてスタートに向かう。 いよいよ決勝。12時30分スタート。ピッチ36。すぐトップに飛び出し、500メートル地点では2位の青森に1艇身の差をつけ、そのままゴール。 鮮烈な感激の一瞬。「やったー」の叫び。 風向北西。風速1.3。気温36度。湿度39%。 志木も日吉もなく、部員と先輩がクルーを拍手で配艇桟橋に迎える。池田義哉先輩がこんなことはめったにないから選手たちを水に投げこん でいいかと問う。遊泳禁止になっているからよせと答える。3位の日吉クルーとともに仲良く記念撮影。主将、コーチ、部長、報道記者の質問をうける。 山岡埼漕理事長や柳漕艇専門部長が喜んでくれる。 午後二時より漕艇場入り口の広場で閉会式。焼けるような暑さなので、消防車が出動し、式場に散水したがすぐ乾く。開式宣告、成績発表後 「勇士は帰りぬ」演奏のうちに賞状、優勝旗、優勝杯、NHK盾を授与されてから優勝金メダルを選手ひとりひとりに首に掛けてもらう。舵手付フォア の優勝旗は昭和50年8月戸田市長が寄贈したもので、初めて埼玉に持ち帰ることになる。 山本、塚谷、栗原の先輩を煩わせて、車で宿舎までおくってもらい、荷物をまとめて米野木の駅に送られる。感謝、感謝。 夜10時東京駅着 4.優勝の言葉 奥村勇治郎 「インターハイ優勝はぼくらの入部以来の夢であり、志木高端艇部24年間の目標でありました。その目標を達成できたことは僕の一生の 思い出になると思います。ぼくは主将という肩書きがついていますが、主将らしいことは何もできず後悔しています。 しかし、ぼくが主将らしくなかったことがクラブの団結力を強めることができたのだと思っています。 勝利の陰には数々の陰の力があると思います。心から陰の力に感謝している今です。」 鍵山武治 「私がこの部に入部してからの目標はインターハイ優勝でした。そしてこの3年間皆が苦しい練習に耐えてきました。 特に私は去年のインターハイで悔しい思いをしたので今年こそは絶対にやってやるという気持ちが人一倍強かったと思います。優勝のゴールをした喜びは一生忘れないでしょう。 ここまで指導して頂いた監督、コーチの皆様方、部員の方々、そして関係者の皆様方に御礼申し上げます」 佐藤久紀 「インターハイで優勝することは、入部したときからの夢でしたが、まさか現実になろうとは思ってもいませんでした。 1位でしかも水をあけてゴールに飛び込む瞬間と、金メダルをかけてもらったあの感激は決して忘れられません 。三年間毎日毎日ボートに明け暮れてきた甲斐がありました。 高校時代にこんなに素晴らしい思い出が作れて本当に幸せです。これからもボートから学んだ多くのことを生かして頑張っていこうと思います」 十河義寛 「自分は1年の冬に足を故障したため、二年の夏インターハイに補欠で連れて行ってもらうまで飯炊きや後輩指導などを適当にしていました。 だから優勝しても信じられません。ここまでになるには感謝せねばならぬ人が山ほどいます。 自分のヘタな漕ぎを我慢してくれたクルー。冬から春の鬼の陸トレをさせた岡田コーチ。毎日のようにきてくださった野口先生。 いろいろとありがとうございました。」 根本秀明 「今年は本当にラッキーな年でした。僕らが優勝しただけでなく、塾高も3位に入り、それだけよろこびも大きくなりました。 優勝してみて感じたことは>陰の力が大きかったということです。 友達や先輩、それになんといってもコーチの力です。この人たちがいたから優勝できたのだと思います。 その意味でこの優勝は"志木高ボート部"がとったものだと思っています」 むすび 尾張というかつで英傑たちをはぐくんだ、このゆかりの地で、炎天下力いっぱい漕いだことが、 選手たちにはきっと素晴らしい青春の思い出になるだろう。 彼らが口をそろえて言っているように、 この度の全国優勝は24年間志木高端艇部に携わった多くの人たちのおかげであり、 その結集された力による勝利と言ってよいだろう。 端艇部の生みの親である羽生秀吉先生 創部当時先生と二人三脚で部のために奔走された佐藤千代三郎氏(元三田漕艇倶楽部会長)の温容。 シェル種目設定第一回の唐津のインターハイには主将として出場し、 大学進学後交通事故で夭折された山辺徹君の笑顔。 ボート部に尽くされたオアズマンたちのなつかしい顔が走馬灯のようにいま私の脳裡を駆け巡っている。 そう、山辺徹君記念シェル艇「とおる」号が優勝までの練習とレースにどんなに役にたったことか。 このたび学校とOBの好意により、念願の新艇、シェルとダブルスカルが購入された。 それぞれ「志野」「志水」と命名され、去る11月14日戸田にて進水式が行われた。 後輩の諸君はすでに次の優勝を目指して練習に打ち込んでおり、余念がないようである。 昭和58年~61年 三原修治先輩 ※平成10年3月の志水会報に載せた記事です。 当時、志木高端艇部には毎年冬になると、元旦から伊豆の小室山にこもって ランニングとウェイトトレーニング中心の合宿)を行っていた。 今にして思うと、それらがすべて合理的なトレーニングであったか、些かの疑問も残らないわけではないのだが、 当時はコーチに言われたとおり、無心で日の昇る前から走っていたものだ。 よくあれだけ頑張れたものだと懐かしい限りだが、その頃は 「とにかく自分たちは誰よりも努力した」 と、ただそういった強烈な自負を持っていたかったのだと思う。 冬と春の長い乗艇合宿は、いつも国立共同艇庫で行っていた。戸田のコースが凍る朝が続くほど寒い冬もあった。 その上、その頃の共同艇庫の合宿所は改築前ですきま風だらけの恐ろしい代物だった。 早朝トレーニングのために寒い布団から起きて、外はもっと寒いのだろうと震えながら緊張して建物の外に出ると、 外気の温度は室内とまったく変わらなかったという笑い話があるくらいだ。 戸田から離れて生活するようになって、もう何年にもなるが、ボート部に対する思い出は尽きることがない。 試合の数日前になっても、漕ぎのイメージが掴めず、思うように艇が走らなくて苦しんだこともあった。 ただ、そういったときは(いつの時代でもボートを漕いでいた者なら、理解してもらえるのではないかと僕は少し思っているのだが) 明日は今日よりもきっと良くなると信じていれば乗り切れたものだ。 幸いにして、僕たちが最上級生になった年には、インターハイ)でも満足する成績)を残すことができた。 またお世話になった野口先生がご勇退される日)に関東選抜大会)においてフォアで初優勝を遂げることができたのも、 特に印象深い想い出だ。それは僕たちにできるせめてものご恩返しであったと思っている。 )昭和57年から昭和59年まで実施。クリスマスも正月も犠牲にした「伝説の合宿」 )昭和60年石川インターハイ(於:津幡漕艇場) )シェルフォアとナックルフォアの二種目が出場。シェルは6位、ナックルは準々決勝進出。史上初の複数種目参加。 )昭和61年3月31日 )戸田で開催。この年から始まった大会のため初代優勝クルーとなった。
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ボート部に入部したのは早慶レガッタがきっかけ。
僕が高校に入学した年は早慶レガッタが隅田川に復活した最初の年でテレビや新聞にも大々的に取り上げていたなぁ。
もちろんボートを漕いだことはなかったけど、久米正雄の「競漕」を読んでいたこともありまして
「苦しいけれど勝つと面白いスポーツ」という印象は持っていました。
それでも夏合宿の時は練習がきつくて、ボートを続けようかどうか迷ったこともあります。
志木高が埼玉の代表だったのは最初の2年くらいで、そのあとは立教や戸田高の後塵を拝しているような状況でした。
僕が1年生の時も3年生は県予選で敗退しました。
1学年上の大月主将を中心にフォアを組んで、年明けからお花見&早慶レガッタを目指して練習開始。
そこにコーチとして登場したのが志木高ボート部OBの塚谷大先輩(昭和41年志木高卒。現在米国でご活躍中)。
この塚谷さんの登場で、それまで途絶えていた志木高伝説の"猛練習"が復活し、
強豪校としての新たな歴史が始まったといってもいいくらい。
塚谷さんの出現は、志木ボート部の歴史において、塚谷"前"と塚谷"後"に分ける必要があるんじゃないか?
「このクルーには練習量が不足している」。
なにしろ、
「とにかく、ひたすら、どこまでもこぐ。そうすれば体の力が抜けて自然にリラックスできるようになる。
そうなってはじめて無駄のない理想の漕ぎが身につく」
という独自の漕艇理論を展開していたくらいだから。
そこからバスで戸田に着くと、平日なのに塚谷さんが着ている。
僕らは少々疲れ気味なのに、塚谷さんだけは何がうれしいのか、ニコニコと
「さー、今日も元気で行こうかー!!」。
これが毎日。
それまでの2倍,3倍とかじゃなくて、そもそも練習量の次元が違うんだな。
僕らの常識では考えられないような、とてつもないというか、途方もないメニューをやらされた。
今でも覚えているのが、コースで1500メートル×8発。艇を上げてからコース一周走とジャンプ。
コースの上で泣きたくなったり、「死ぬかもしれない」と考えたことも。
陸トレの途中で「もういやだ~」と泣き叫んで逃げ出したやつもいました。冗談抜きで本当の話です。
あのころは競艇場の手前の浮橋が閉じているだけでうれしかったなぁ。それだけ、片道の距離が少なくて済むでしょ。
もっともその分セット数が増えるけど。
家に帰って食事しながら寝たなんてこともありました。
そんな調子だから勉強は試験の時に集中してやってました。
何年かぶりでインターハイに出場できました。
一度だけ浦高に負けた記憶がありますが、インターハイには2年連続の出場となりました(愛媛インターハイ(於:鹿野川ダム)。
そのころの僕らにとってインターハイ優勝はまさに「夢」。正直なところ、目標は準決勝、決勝進出でした。
たとえば法廷での勝ち負けの99%は理論で決まりますが最後のところはそれ以外のプラスアルファ、
迫力や気合というか、肝の据わり方というか「人間力」とても言ったらいいのか、
そういった論理では割り切れない何かが大切だと感じています。
土壇場で勝負強い人間は必ずそういった部分を持っているのではないでょうか。
今にして思えば「自力」でなく塚谷さんによる「他力」ではありましたが、
あの時に精神的/肉体的に追い詰められ、それに耐えたという自信。
それまでの殻を破り、自分だけで到達できるレベルを超越して、仲間と共に更なる高みに到達したときの達成感。
全国高校総体優勝雑記
はじめに
1.今年のクルーについて
C
佐藤久紀
3A
164センチ
50キロ
S
奥村勇治郎
3F
173
66
3
鍵山武治
3D
183
70
2
十河義寛
3A
177
75
B
根本秀明
3F
173
75
補
佐野圭
2C
177
70
補
山下慎一郎
2E
170
70
1着
慶応志木
埼玉
3分21秒81
ラッフ゜
1分40秒13
2着
岡谷南
長野
3分26秒66
1分42秒78
3着
本荘
秋田
3分29秒52
1分46秒61
4着
加茂
岐阜
3分29秒76
1分44秒36
5着
伏見工
京都
3分35秒15
1分47秒95
6着
延岡西
宮崎
3分40秒97
1分47秒24
1着
慶応志木
埼玉
3分32秒07
ラッフ゜
1分43秒19
2着
慶応
神奈川
3分38秒22
1分45秒95
3着
岡谷南
長野
3分39秒27
1分47秒66
4着
学習院
東京
3分42秒11
1分49秒58
5着
東洋大牛久
茨城
3分43秒69
1分47秒92
6着
今治南
愛媛
3分48秒98
1分50秒92
1着
慶応志木
埼玉
3分37秒44
ラッフ゜
1分44秒30
2着
浜松北
静岡
3分39秒71
1分49秒35
3着
瀬田工業
滋賀
3分41秒90
1分47秒96
4着
東北
宮城
3分45秒51
1分50秒12
5着
黒沢尻工
岩手
3分45秒54
1分50秒59
6着
八尾
富山
3分48秒87
1分54秒18
1着
慶応志木
埼玉
3分21秒88
ラッフ゜
1分38秒95
2着
青森
青森
3分25秒27
1分40秒80
3着
慶応
神奈川
3分26秒64
1分41秒50
4着
浜松北
静岡
3分29秒20
1分46秒39
5着
岡谷南
長野
3分29秒23
1分43秒76
6着
瀬田工業
滋賀
3分31秒12
1分44秒75
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