矢口真理
中澤が抜けたことで、中澤がそれまでかぶっていた泥を全てかぶる羽目になってしまった飯田。さらに中澤が抜けたことで、飯田の「非アイドル性」が白日の下に晒されてしまい、飯田にとっては中澤の卒業は踏んだり蹴ったりです。保田が「非アイドル」を受け入れているのに対して、中澤の卒業により、突然その境遇に追いやられてしまった飯田はまだそれを受け入れられないようです。世間と自分の認識のギャップに戸惑っている印象を受けます。その証拠に、ミュージックスで、「若い子(新メンバー)が入ってきたから、私ももっと頑張んなきゃと思って、こんな格好をしているの(ハートマーク)」と、キャピキャピしてミニスカートを穿いて、そう語っていた彼女は、実に痛々しかったです。年を取る事を恐れているようですが、受け入れていかないと、山本リンダみたいな気持ち悪い年の取り方をしていまう恐れがありますので、今からでも遅くはありません、方向を修正して欲しいものです。
保田圭は、加護からは「オバちゃん」とアイ ドルには屈辱的な呼ばれ方をされているほど、「非アイドル性」を撒き散らしています。うたばんでも石橋が、散々保田をお地蔵さんキャラで、からかっているので、本人もその辺はちゃんと自覚しているようです。保田の容姿は以前はモーニング娘における「傷」に見えましたが、保田が「非アイドル性」を受け入れてからは、もう「傷」が治って「カサブタ」になって、いまや新組織の細胞になってしまいました。吉澤も羨むほど、もう完全にキャラ立ちしています。最近はうたばんでのみ発揮されていた露骨な「非アイドル性」が、他の番組にも飛び火しています。「モーたいへんでした」において藤井隆には「圭ちゃん、野球観戦に来たお母さんみたいだね」と老けを強調され、めちゃいけSPでも岡村が加護の「オバちゃん」呼ばわりを受け入れてしまいました。うたばん以外で非アイドル性を語られることを、保田本人はどう思っているのか知りませんが、アイドル性を否定されている中が、華です。というよりそれがアイデンティティです。あとアイドル性を否定すること=バラドルではありません。バラドルはアイドルの一つの形態ですから。アイドル性そのものを否定されている保田はその辺の事を勘違いしないように。ってここ見てるわけないか。
番組では率先して、突っ込んだり、笑ったり、盛り上げ役に終始徹していて、一番画面から声が聞えて来ます。世間はそれをでしゃばりと取っているようですが、矢口は人一倍気を遣っているのでしょう。ところで自分は金髪にした矢口を咀嚼できずにここまで来てしまいました。この際いい機会なので、矢口金髪考について考えてみました。人が茶パツにするのは「今までの自分のイメージを変えたい」という程度です。学生であれば夏休みをきっかけにそういう変化をする人もいるでしょう。では金髪は?自分が思うに「破壊」です。ロックバンドが赤にするのも青にするのも同じです。矢口は加入当時の自分の姿を見るのを極端に嫌がります。その辺からも察することができるように、今までの「自分を破壊したい」という願望が形したものが「金髪」だと思います。茶パツは変化ですから、元に戻すのは容易です。「金髪」も若いうちの戻しは比較的簡単です。しかしこのまま行き、金髪のイメージが固定してしまうと、普通に戻した時世間はそれを受け入れられるか疑問です。下手すると、X-JPANのトシみたいになります。爽やかで健全な若者に戻したのに、世間はそれを受け入れられませんでした。あまりの変わりように「洗脳」と解釈。矢口も金髪は若いうちと割り切っていればいのですが。あと矢口って、自分の年齢を頻繁に口にします。「18歳」を。これについてはいつかエッセイで書きたいです。
人間の中に「可愛い」を注ぐためのコップがあるとします。石川の容姿の可愛さがコップに注がれると、ほとんどの人は容姿の要素だけで「可愛い」の基準を満たしてしまうでしょう。しかしそのあとに、「声の可愛さ」が注がれるとコップからこぼれそうになる人が続出ではないでしょうか。そんな中でも石川のファンになる人は、コップの大きさを大きくして、「可愛い」という要素で収めてしまうかもしれません。でも自分を含め、こぼれそうになった多くの人は、その「可愛さ」という要素を、「アニメ声」といういじりキャラの器に無意識的に移し変えて石川を受け入れているのではないでしょうか。その人々の思いが形したものが、「チャーミー石川」。「容姿の可愛さ」と「声の可愛さ」という+と+というのは必ずしもいいとは限らない。不完全が完璧ではないのと同様、過剰もまた完璧ではないという良い典型例が石川なのです。逆に賀来ちか子って声で随分損してますよね。石川の声があれですから、石川って地に足がついていない印象を受けます。なんか空中2ミリぐらい浮いていそうな。
1987.6.17/O型/東京都出身
エッセイで書きますが辻ちゃんは「快不快」で動いています。人間は普通「快不快」より「損得」で動きます。これは人間は欲深く卑しい生き物ですから当然です。でも辻ちゃんの一連の行動を見ていると、「得」で動いていない場面が多々見られます。大人の行動基準の「損得」ではなく、子供に多く見られる「快不快」を基準に動いているので、多くの人は辻ちゃんを「子供」と感じてしまうのです。例えば、泥んこ遊びって、子供は「服が汚れる」という「損」を取らずに、「泥が気持ちいい」という「快」で行動します。辻ちゃんも、こんな行動パターンに似ているシーンをよくテレビで見かけます。例えば、最近では、めちゃいけで顕著にこの法則が発揮されました。岡村が「修学旅行に連れて行ってやる」と娘たちに伝えた時、他のメンバーは「でも仕事があるので・・・・・」と「損得」の受け答えをしていたのに対して、辻ちゃんの反応は「きゃー!」と間髪入れずに喜んで、はしゃぎました。「修学旅行」という「快」の言葉だけで、反応してしまう、まさに子供です。言っておきますが、これが辻ちゃんの本来の姿とか演じているとか興味はありません。そういう行動を、そういう稚気の心を持ち続けられるのって一種の才能です。人間って、成長ともに、そういう心を忘れてしまいますからね。自分が忘れてしまった心を持ちつづけている辻ちゃんに惹かれるのは、人間として自然だと思います。これからも、「快不快」行動で、私たちを楽しませて欲しいです。