俳句講座

 

 さあミナサマ。お勉強しましょう。

 あっそれ。

 

 一.風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。

 というものらしい。

 

 一.切字。

 修辞法の一つ。

 「切れ」の効用を生み出す。

  春寒や ぶつかり歩く 盲犬   村上鬼城

 (しゅんかんや ぶつかりあるく めくらいぬ)

 この一句は、「春寒や」で、まず読者に小休止させ春寒を導きます。その後、ぶつかり歩く盲犬を展開させています。

 仮に、この句が

   春寒に ぶつかり歩く 盲犬

 ですと、春寒が単なる説明になりかねません。というコト。

 代表的な切れ字には 「や」「かな」「けり」 が挙げられ、この他に 「もがな」「し」「ぞ」「か」「よ」「せ」「れ」「つ」「ね」「へ」「ず」「いかに」「じ」「け」「らん」などなど。

 

 一.ウ音便。

  動詞のウ音便が「て」「して」「す」「せよ」などに、連なる場合、例えば、

  おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな   芭蕉

 (おもしろうて やがてかなしき うぶねかな)

 この場合、「おもしろふて」が「おもしろうて」になる。

  黛を 濃うせよ草は 芳しき  松根東洋城

 (まゆずみを こうせよくさは かぐわしき)

 一.一句一章。二句一章。

 

 

 一.またがり。

 

 

 一.モグラさんの ウンチク小屋 。

其の壱

 まず、みんなに言わねばならぬことがある。 俳句とは正岡子規が作ったものである。 その前に、芭蕉がいるだろう?と言われるだろうが、

あれは俳諧なのだそうだ。(某K氏に教えてもらった) 本来 うた というものは5.7.5から始まった後いつまでも続くものなのだ(7.7)で

ね。列席者の全てが読まねばならない。 そのうち最初の、5.7.5を発句といい(ほっく)芭蕉が挨拶代わりに詠んだ発句が傑作になってし

まったのでみんな575で詠み出したわけだ。  子規は、見捨てられていた俳諧を見なおし、俳句を作ったのだ。 何が言いたいかと言うと、

芭蕉の言うことなんざ、聞いちゃ駄目だぞ と言うこと。  次に、季語についてであるが、季語は使わねばならない。 そして季語かさなりは許

さない。(二つ以上季語があること) ただし、ただし、ただし、季語って数が限られてるのよね。おまけに 太陰暦と、今では、季節の読み方が

違うでしょ。そんなわけで、子規は 季語の無いものも認めていたわけよ。漱石なんかひどいよ。 猫も鳴き、杓子も転ぶホニャララ・・・、みたい

の作ってるんだから。 そこで、私が季語と認められる言葉が入っていれば良しとする。 ただし、アイスクリームは季語ではない。あれは一年

中あるし、いつ食っても美味しい。ということで、俺が独断で決めてやる。  最後に芥川の、芭蕉について語った言葉を紹介しよう。(現代風

に直してね。) 芭蕉は、一度も自分の俳句集を作らなかった。それを芭蕉はこう述べている。「俳句と言うものは、季節を読むものである。そ

れをわからずして、句集などと言うものを作ってしまうのは、自分が季節を読めぬということを喧伝しているのと同じである。」こんなものを読

むと、とても微笑ましい。 いや〜芥川天才。なに〜?酔ってるって?そうだよ。最近二日で一瓶空くもんな〜。

 

其の弐

 え〜、前回芭蕉を否定したのだが、今回は芭蕉に習えと言う話。  芭蕉は「とり合わせ」が大事であると言っていました。 別の言い方をす

ると2句1章と言う形です。 つまり、5・7・5の12音で表さねばならない俳句の、組み合わせとして、57・5の形にするか、5・75の形にする

かというものです。 (その他にも色々あるけど省略。) 例えば、 この前の皆既月食について私が読んだ句を一つ紹介します。

  月食夜 月の減る間に 腹ふくれ   

 

この場合(下手でご免)5・75の形になります。 あっもっと上手い句を紹介したほうがいいね。 漱石の句です。

  春寒の 社頭に鶴を夢みけり

これも5・75の形になっています。 分りましたか?ん?よくわからないって? ん〜じゃあ、この前、天野祐吉だったかな。が言っていた話で

すが、写真にキャッチコピーをつけるときに、写真の状況をそのままコピーにしてはいけないと言っていました。  その時のお題が、 「スッパ

マンの様に口をスッパクさせ、頬を膨らませた老人の写真にコ ピーをつける。」  というものでした。  素人作品の中で一番多かったコピー

が、「あっぷっぷ。」でした。 これは、駄目な例です。  天野が誉めていた作品を2つ紹介します。 「そろそろ、入れ歯の貸し借りはやめにし

ませんかね〜。」 「老舗の味」 という2つでした。 つまりどういうことかと言うと、写真の持つ情報量を、横の長さとした時に、コピーの持つ情

報がは、縦の長さになるわけです。そして作品の面積と言うものは「縦×横」であらわすことができます。 そう、そういうことです。「あっぷっ

ぷ」だと横の長さしかないんですね。コピーに。写真と、コピーが直角に交わって、面積を作り出さないと世界が広がらないのです。 俳句も

同じです。 57・5とか5・75などの様に、句の中で、一度大きな休みを作ってあげるのです。それによって、面積が生まれます。 漱石の句

では、「春寒の」と言う言葉がフィールドになっています。 それと直交する様に「社頭に鶴を夢みけり」が重なっています。漱石の句が私の皆

既食の句より優れているのは、「夢みけり」によって、現実の風景の描写から抜け出して、高さ、あるいは深さを与えています。 一つ気をつ

けることは、休みを作っても、余りにも句全体が切れてしまうと、面積ができないということです。 前回タマオ氏の

 織姫の 焼け跡のこす 八王子

はもちろん57・5の形にはなっているんですが、なにも知らない人が見たときに、八王子の必然性がまるで無いのです。織姫という隠語で

誰のことを読んだのかは知りませんが、織姫と言う言葉を使って地名をだすからには、関係ある場所を出さねばなりません。髭の人の句で

は多治見と言う言葉をちゃんとカットしています。必要無いことを知っているんですね。  私がタマオ氏ならこう作ります。

  織姫の 下着がのこる 洗濯機

えっ、ちがうって、あーそう。じゃなんだろうな?まいいや。 俳句は描写です。どんな世界を描くのかは文字が決めてしまいます。 2Dアニメ

にするのか、3Dな映画にするのかは自由ですが、1Dだけはやめましょう。

                                                                          今んトコ以上。