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オートマチックのデビューした1994年は日本の血統地図を塗り替えることになる
サンデーサイレンスの初年度産駒のデビュー年に当たる。オートマチックはその華々しい
活躍をするSS一家の引き立て役であった。弥生賞ではフジキセキ、皐月賞、ダービーでは
ジェニュイン・タヤスツヨシの後塵を拝し春のクラシックはまさにSSの露払いというべき存在だった。
しかしそんな彼も一時は怒涛のSS攻勢を止める一頭として期待を集めた時もあった。
それが1994年のひいらぎ賞。このレースの模様は『優駿』**年**月号**ページに詳しいので
簡単に記すが、好スタートから一旦下げ道中ぐっと脚をため、直線に向くと
あたかも空間を歪めたかのように遠く前を行く素質馬タイキクレセントとの差を詰め
ついにはゴール前差しきるという驚異的な競馬をみせたのである。
勝ち時計は1.34.5。前週フジキセキが朝日杯3歳ステークスで記録した時計が
1.34.7。つまりコンマ2秒も上回っていたのである。6番人気の勝利であったが
一躍関東期待の一頭に祭り上げられたのだった。
しかしゴール前手綱を緩め余力たっぷりでスキーキャプテンの追撃をかわしたフジキセキと
全力を使い果たした追いこみをみせたオートマチック。後から考えればこの両者の差が
たったコンマ2秒しかなかったことは、後天的には変えようもない何か、
すなわちSSの生き写しの風貌を持ちいまだにSSの最高傑作の誉れ高いフジキセキと
結局重賞を獲るどころかひいらぎ賞が生涯最後の勝利に終わったオートマチックとの
スケールの差を如実に物語っていたのかもしれない。
春は無念の涙を流し夏休みを取った後に迎えたセントライト記念。
中央では最初で最後の一番人気になった。当然である、皐月賞・ダービーの
3着馬だ。実績が違う。だが競馬の神様は無情である。当日マイナス10kg
で出走した彼は元気なく馬群にのまれ7着敗退。優勝馬はSS産駒の
サンデーウェル。またしても、だ。賞金的に菊への出走が微妙であり陣営は
いわゆるメイチの仕上げをしたのが裏目にでてしまった。仕方なく予定外だった
京都新聞杯出走にふみきり彼は期待にこたえきっちり3着に入り権利を獲得した。
しかしこの予定外のローテーションが彼の転落の始まりになった。
菊は4角で一杯になり13着大敗。そして右前脚の捻挫をしてしまう。
大きな故障ではなかったが次にターフに現れたのが翌年の5月、オープン特別の
メトロポリタンS。2番人気に押されたものの直線伸びずに掲示板にすら
のれなかった。ブライアンズタイム産駒だしこれから良化していくだろうという
見方もあったがこれが中央最後のレースになってしまった。中央を去るまでの
あいだに管理調教師の藤原英文調教師が亡くなり転厩を経験するなど何かにとりつかれたような
流れの悪さ。
その後北海道、笠松と渡り歩いたが気性難(中央時代も
メンコにシャドーロールのフル装備だった)もひどくなり1勝がはるか遠く
の存在だった。最後は故障し予後不良。 ひいらぎ賞で一世一代の豪脚を
みせたのが人生最高の輝きだった。
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