ほんとに、ちょっとずつ更新するね☆

───見上げた空が、驚く程青く澄んでいたことを覚えている。
バカみたいに大きくて、高く天まで抜けるような空だった。・・・あの日、もし雨だったり、曇っていてハッキリしないような天気だったら、今頃、私はどうなっていただろうか。
今と同じ路をちゃんと歩いていただろうか────
私はこの春から、いわゆる女子大生というやつをやっているはずの人だった──。

名前を高橋彩という。
多くの人と同じように、義務教育を受け、それなりの高校に入り、それなりに、それなりに、過ごしてきた。周りの友達に比べると遊びまわることはしなかった。
本当は、スゴークしたかったんだけどなぁ・・。でも、それを胸の中から出したことはない。
うちは母子家庭だったから、母に、・・・というより母方の祖母に育てられたようなものだった。祖母は、対象のどん詰まりに生まれてから今まで、「真面目」を絵に描いたような人だった。
それはとても、とても厳しい人だった。

一度、中学2年の頃に周りの友達にあこがれて、髪の毛を脱色したことがあった。
オキシドールで。。。
・・・そんな、今時小学生でも使わないような方法で、祖母譲りの黒い髪がいきなり金髪になる訳もない。
が、しかし。
そのときの祖母の反応は、すさまじかった。
まるで、私がアメリカ人にでも生まれ変わったかのようだった。。ほーーんのり、黒が明るめになった程度だったのに──。
茶色ともいえない位だったのに───。
戦争を、当時幼かったにしても、経験していた人だったから、もう”耳たこ”なその話(私からしたらただの昔話)を持ち出して「あの時の米兵のたたりだあ!!」と、近所の皆様に聞こえるような大声で怒り続けた。
3時間も。
正座で足がしびれたことは何度もあったが、感覚がまるでなくなったのは初めてだった。
もちろん、祖母が私に説教をするときは、”仏壇の前”で、”正座”だった。
座布団は、もちろん、なし。
彼女のこういった厳しさが、母にどのように影響していたかはわからないが、影響を及ぼしていないハズがなかった。
ただ、私が深く考えたことがなかったというだけで・・。

とにかく、祖母は厳しい人だった。厳しい人だったが、元気だった。
世の中の筋が通らない全てのことに対して、怒っているような人だった。その怒りをエネルギーに変えて生きているに違いない、と思うことが度々あった・・。
とにかく元気だった祖母は、私の母だと間違えられることも度々あった。それは、仕事ばかりが忙しくて、いつも家を空けている母のせいでもあったが、その間違いを、いつからか訂正しなくなった私がいたために、本気で”彩ちゃんのお母さん”だと思っている近所のおばちゃんも多かった。
私は、祖母の「道理にかなうか、かなわないか」という話が好きだった
偏屈なところのある人だったけれど、祖母の言うことには一理あると思っていたから、私自身、それほど反発することもなく、よく言う、”良い子”として育った。
勉強も、「すごくよくできる」という部類ではなかったが、頭が悪いというのでもなかった。
中学を卒業して、都立の高校に推薦で入学した。
実力で行けば、もっと上の学校に入れたのに──、と先生たちは口をそろえたそんなギャンブルはしたくなかった。

入学してみると、周りは皆「茶髪」だった。
枝毛だらけだろう、と容易に推測できる「金髪」な子もいた。
祖母を入学式に呼ばなくて正解だった。
全く面識のないまだ友達にもなっていない子に対して、あの「たたり」の話をして説教を始めないとも限らない。
ーーーちょっと、ほっとしていた。
まあ、そんな学校だったから、私が大学を受験するに際して「指定校推薦」という形で推薦も出してもらえるということだった。私立の大学にのみの適用なので、それなりにお金がかかってしまうようになるけれどもーー、という担任からの話だった。
母も祖母も、せめて大学くらいは出させたいと思っていたらしく、「何とか、よろしくお願いします」と、先生といってもまだ大学を卒業して3年目とかいう新米の若い教師に向かって頭を下げた。

ゴメン、今日ここまで!!!
4月7日 更新