黎明期
終戦−G.H.Q(連合軍総指令部)は,日本でのすべての武道の活動を禁止した。
もちろん柔道も例外ではなかった。
しかし,各地の戦場から復員してくる若者たちには,その日の糧に因っても柔道は魅力だったのである。
村の空き家に誰とはなしに寄り集り畳を敷いて,ヤットー ヤットーと始めたのである。
高井先生が,接骨院を始めたのをきっかけに,近隣の若者達が教えを乞いに集ったのも此の頃である。
月謝らしい月謝はなく芋や,米を持ち寄ったとのことである。
そんな噂を聞いては,ぼつぼっと愛好者が集りはじめ,にぎやかになりだしたのが昭和23年か24年頃のことである。
今は,海部津島地区柔道会の会長であり,国政の重鎮であられる吉川博先生も十四山村から自転車で来られ,稽古にはげまれたとの話もある。
このように戦後の荒廃の中からうぶ声をあげた柔道の復活は昭和25年3月暁柔道会の結成により本格的となった。
この時,中心となって,活躍されたのが故村瀬勇先生であり,津島地区の青年実業家たちである。
当時,稽古場は,津島警察署をはじめ2・3ケ所にわかれていたが,昭和町の織物検定場が空き家であることに注目し,伊藤新左衛門氏,児玉清雄氏等,有志の方々の御寄付によりここを修繕し畳を敷いて道場とした。
検定場時代
検定場には,常時70人から100人程の若者が稽古に集ったということである。
当時の稽古風景は,各人が気に入った相手を見つけてはどちらかが「やめよう」というまで稽古をするという,昔ながらの荒っぽいものであった。
しかし,稽古内容を充実させ,心技ともに高めるためには適切な指導者が必要であった。
昭和28年,村頼会長は,かねてから気にとめておられた,名古屋市警察の大矢喜久雄先生を指導者として招請された。
大矢先生は戦前京都の武道専門学校で柔道を学ばれ,戦後復員され,名古屋市警察に奉職されていた。
大矢先生はこの後、津島高枚・津島商工(現在津島北高校)の講師となられ・現会長の水谷正勝はじめ多くの生徒を育てられている。
昭和29年1月津島警察署長長谷川美代治氏の仲介により、山本三千雄氏の主宰する津島柔道会を解散し、暁柔道会が「新」津島柔道会として、新たに発足した。
この時、新会長には,伊藤新左衛門氏が就任し、津島市長、児玉清雄氏等が役員に名をつらねた。
この頃,今は亡き八木忠雄先生が桐生の病院から津島市民病院長として赴任された。
そして,津島柔道会の副会長に就仕されるとともに熱心に会員の指導にあたり、また、負傷治療にも尽力された。
また,昭和30年より会長に再任された村瀬会長の胃を二庶にわたって手術されている。
以後順調に津島柔道会は活動を続けていくのである。
しかし,昭和34年9月26日東海地方を直撃した伊勢湾台風により検定場道場は浸水し、会員が必死に畳を上げたのもむなしく道場はしばらく使用できなくなってしまった。
そして昭和36年3月検定場道場は,心ない者のタバコの火の不始末から全境してしまったのである。
警察道場時代
昭和34年頃村瀬会長は津島から名古屋へ転居され・検定場道場が焼失してから柔道会
の活動は中断してしまった。
その後津島柔道会の若手有志が集り、津島柔道同好会を発足させ津島警察署の道場を借りて稽古をはじめた。
そして,八木先生を新たに会長として昭和37年名称を再度、津島柔道会と改めたのである。
八木道場時代
長年にわたり,津島警察署のご厚意に助けられ稽古を続けてきたが・緊急捜査や諸々の事情で,しばしば,稽古の出来ない日が生じた。
八木会長は,そんな事態を憂慮し,一念発起・私財を投じて会長の経営する八木外科
医院の東側の倉庫を改造し,道場とされた。
以後,錬成館が開設される昭和55年4月までの問,14年間にわたり,環在活躍している津島柔道会の役員や多くの柔道愛好家を育て,津島柔道会の基盤作りの場となった。
この道場へ移ってからは,会の活動も組織的となり,種々の大会や行事を行うようになった。
会の記録もそれなりにそろっていることでもあり,ここからは,これら大会や行事の解説を中心に我が津島柔道会の歴史をつづってみた。
1道場開き
昭和41年4月3日
八木道場の道場開きの行事は,昭和41年4月3日八木会長をはじめとする津島柔道会の役員,会員をはじめ会員の父母,津島柔道会の発展のためにつくしていただいた方々を御招待して行われた。
会長のあいさつの後,八木会長(取り),水谷理事長(受け)による固めの形,故佐藤好洋先生(取り),藤原勝美先生(受け)による投の形の披露があり、記念の柔道の試合が行われた。
試合は瀬戸柔道会を招待し,津島柔道会との紅白点取りの親善試合であり,結果は我が会が勝利した。
2 津島・瀬戸親善柔道大会
昭和41年 瀬戸柔道会の発足を記念し瀬戸警察署の道場で第1回の津島・瀬戸親善柔道大会が開催された。
以後両市柔道会の持ち回りで,毎年親善大会が健され現在も続けられている。
このような親善大会が20数年にわたり継続しているのは県内では類をみないものである。
試合は,当初,小学生から大人までの紅白点取り方式で行われ,両市の選手の数の都合で毎年試合数が変るという,いかにも,親善試合らしい方法である。
試合後,勝チームに優勝旗を授与し,合同稽古等の親善行事を行っている。
3 八木旗争奪戦
昭和41年10月より
昭和41年頃.津島高校と津島商工(現 津島北高校)との定期対抗試合に八木会長が優勝旗を寄贈されたのがはじまりである。
試合は,両校の柔道部員の勝ち抜き戦により行われた。
大会は春秋と年に2度づつで,途中,蟹江高校はじめ,参加校も増加したが,高校の公式試合の増加等もあり,現在は休止となっている。
4 柔道教室
昭和47年8月より
初心者の指導と,広く地域の武道振興のため津島市の協賛を得て夏休みの早朝6時より柔道教室を始めた。
期間は15日間で、最終日には終了証を授与し,一日も休まなかった生徒には,皆勤賞も渡される。
この教室は,地域の好評を博し,小学生会員の拡大につながった。
現在は,時期を5〜6月に変更し・夜間,一般練習日に行っている。
5 津島市民武道大会(現津島市錬成大会)
昭和45年6月より
津島市民福祉会館の開館を記念して(現津島市民会館),市内の武道愛好家が集い、柔道,剣道,弓道の三道の武道大会が行われた。
試合当日,試合場の設営のため役員,選手が一丸となって畳を運び試合の運営を行った。
自分の試合のために試合場を作り,大会を運営し,後かたづけをするまさに手作りの大会となった。
これは現在,場所を錬成館に移し錬成大会として増々盛大に行われている。
6 津島神社神前武道大会
昭和47年10月より
津島神社秋まつりの当日,祭を祝って柔道,剣道、弓道、相撲の各大会が津島神社境内で行われた。
試合場については,津島神社が50畳の畳を用意し,当日全員で早朝より準備した。
秋とはいえ日差しはまだかなりのもので,日にやけた畳で足の裏をこすると簡単に皮がむけるほどであった。
試合は,この大会のはじまった頃は、団体戦が中心で海部津島地区の高校と我が津島柔道会が参加して行われた。
現在は,小中学生の個人戦となっている。
7 合 宿
昭和53年8月より
子供達を日々,稽古指導することが体系化され,十分に定着したことを受けて,集中的に集団生活の中で平素と違った体験をすることも大切であると考え,合宿がはじまった。
第1回,第2回は天王川公園内の中央公民館に宿泊し,津島高校の道場を借りて行われた。
宿舎と道場をランニングで往復し,夜,銭湯へ入浴しに行く体験は,子供達にとっては,新鮮なことのようであった。
第3回以降は錬成館で行われるようになった。
日中の厳しい稽古の後,夜は,映画を鑑賞したり,花火大会を楽しむようになり,父母の皆さんの心づくしの食事や,さし入れのスイカをいただいたりする楽しみも合宿ならではの事である。
8 先進地派遣手業
昭和52年夏より
柔道の先進地である東京,とりわけ柔道の総本山ともいうべき講道館で稽古することは,柔道を愛好するものにとっては誰もが憧れることである。
これまでの柔道会の活動は,会内部だけの稽古や,周辺道場との交流程度であり,いわば「井の中の蛙」であった。
そこで,この憧れを実現させたいと考え,津島市の後援を得て,先進地派遣事業を始めた。
派遣されたのは,小学生高学年と,指導員数人であった。講道館の道場で実際に講道館の先生の御指導を戴いた。
昭和55年からは,日本武道館で行われている,全日本少年武道錬成大会に参加し,全国の柔道少年と試合を通じ,先進地の柔道の空気に触れ,いい刺激を受けている。
また,この日本武道館は全日本選手権の開催される道場でもあり,参加した生徒には一生の思い出ともなっている。
9 昇級試験
八木道場へ移転した頃から,指導員の判断で不定期的に昇級設定が行われていたが,昭和50年頃,子供達の練習の励みと,熟達度の確認のために,夏と冬の2回,定期的な,級審査制度を発足させた。
不定期の頃は,試合形式が中心の審査であったが,とかく勝負にこだわることが多いため,基本の熟達度の確認がしにくいことから,試合形式をやめ,礼法,受身,寝技,立技等の異体的審査基準を確立し,現在は春と秋に行っている。