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マンションのごみ集積場の脇に、そのぬいぐるみは、雨に濡れてぽつねんと置き去
うす汚れて、もとの色も判らないくらいの、古びた犬のぬいぐるみである。
野島幸夫は、収集車にごみをすべて積め込んだ後、ぬいぐるみを手に取り、処分す
「おおい、行くぞ」運転席の同僚が声をかけた。
野島は、ぬいぐるみを持ったまま、ごみ収集車のステップの上に乗った。
ごみ収集は、朝が早い代わりに、日が暮れないうちに仕事が終わる。
誰も待つ人のいないワンルームのマンションに帰った後、野島は、犬のぬいぐるみ
少しは汚れも落ちたが、まだらのような黒ずみは、生地自体が変色しているよう
ぬいぐるみを裏返すと、「すずかわ みゆき」と名前が書かれていた。
野島は、捨てられて淋しげな表情のぬいぐるみを見つめながら、持ち主の女の子の
女の子にしては珍しく、ごみの収集車が好きなのだそうだ。チンチロリンという音
ごみの収集をしている時、よく目を輝かせて近寄っ
興味深そうに見
「おいしそうに食べてるね」
みゆきは、無邪気に言った。
「そうだね、ごみを食べる車なんだよ」
野島も笑って答えた。それが初めて交わした会話だった。
「かわいいぬいぐるみ、持ってるね」
みゆきはいつも、犬のぬいぐるみを抱きしめていた。
「幸せを呼ぶぬいぐるみなんだよ。ママにもらったの」
「そう。おじちゃんにも幸せを分けてほしいな」
「おじちゃん、幸せじゃないの?」
みゆきは、子供らしい素直さで尋ねた。
野島は、苦笑してしまった。
みゆきの母親の冬美が来て、野島に一礼し、みゆきの手を取って行った。
「幼稚園、行って来ます。バイバイ」
と、みゆきは手を振った。
野島は、思わず作業の手を止めて見とれた。女の子よりも、母親のせいで印象に
冬美には、“清楚”という言葉がぴったりだった。古くさい表現だが、それ以外に
真夏だというのに、いつも涼しげな顔をしていた。穏やかな性格が
野島は、みゆきと会う度によく話をするようになった。朗らかなみゆきを見ている
みゆきは、人見知りせず、何でもよくしゃべる子だっ
犬のぬいぐるみは、祖母から母に、母からみゆきに受け継がれた大事なものである
母の冬美は小学校の教師をしているということ、そして、みゆきが物心
「いつも娘のお相手をしてくださって、ありがとうございます」
冬美はある日、野島に言った。
「みゆきがおじちゃんと遊んであげてんだよ」みゆきは、あどけない笑顔で言った。
「おじちゃんじゃなくて、お兄ちゃんでしょ」と、冬美は、みゆきをたしなめた。
「いや、おじちゃんで結構ですよ」
野島は、今年で30歳になる。童顔のせいで若く見られることが多いが、幼稚園児か
みゆきももちろん可愛い娘だったが、野島がみゆきと仲良くなった本当の目的は、
野島は、冬美に好意を持たれている自信はあった。しかし、それからもう一歩を踏
野島は、九州の高校を出た後、東京の大学に進学した。銀行員の父親の勧めで経営
仲間と始めたロックバンドに夢中になり、大学は中途で退学して
定職にも就かず、アルバイトで生計を立てながら、ライブハウスでロックの演奏に
大きなコンサートホールで大勢の聴衆を前に演奏することを夢見てい
有名なミュージシャンになれると、本気で信じていた。若さの特権というべきか。
両親は、何とか野島を説得してまっとうな職に就けさせようとしていたが、やがて
輝ける青春時代は過ぎ去った。20代半ばを過ぎて、野島は初めて就職活動を始め
職歴のない履歴書で、雇ってくれる会社はなかった。職業安定所に通いつめ、よう
主に事業系のごみを扱っているが、市の委託を受け
社名は横文字で洒落ているが、労働はきつく、い
しかし、野島に後悔はなかった。もともと楽天家の性質なのである。今でも昔の仲
音楽のない無味乾燥な人生など考えられな
野島は、ぬいぐるみを洗った後、意を決して冬美のマンションにやって来た。郊外
同じような形の巨大なマンションがいくつも立ち並ぶ。
“鈴川”という姓は判っていた。特に珍しくもないが、よくある姓でもないだろう。
集合ポストに“鈴川”という文字を見つけた。C-1棟の407号室、ここに間違いない。
玄関の前まで来ても、野島は、まだためらっていた。大きく深呼吸をしたが、落着
、犬のぬいぐるみがおとなしく座っている。
出過ぎた真似だろうか。他人の家のごみについて詮索するのは、プライバシーに踏
ごみ収集員という職業上、許されないことかもしれない。しか
みゆきがあんなにも大切にしていたぬいぐるみを、捨ててしまうとは考えられな
返してあげた方が親切だろう。
感謝されるか、責められるか、ふたつにひとつである。
雨は上がっていた。遠い高層ビル群に、虹がかかって見えた。野島は、あの美しい
チャイムを鳴らそうと手を伸ばした時、ドアが開いて、みゆきが出てきた。
「おじちゃん!」
と、みゆきは野島に飛びついてきた。
「ど、どうして判ったの」
「窓からずっと見てたんだよ、おじちゃん、来てくれないかなあって」
野島は、ぬいぐるみを差し出した。
「あっ、ワンちゃんが帰ってきた! ママ、おじちゃん、やっぱり持ってきてくれた
エプロン姿の冬美が出てきて、恐縮して頭を下げた。
「どうもすみません、わざわざ」
ぬいぐるみは、やはり間違って捨てられたものだった。ごみと一緒に処分されたも
あきらめさせようとした。しかし、みゆきは、野島がきっと届
「本当にありがとうございました」
と、冬美は、もう一度頭を下げた。
「いえ、よかった。余計なお世話かとも思って、迷ったんですよ。でも、みゆきちゃ
、捨てるわけないと思って」
「ねえおじちゃん、ご飯、一緒に食べよ。いいでしょ、ママ」
野島は面食らった。
冬美は、照れくさそうに、言った。
「もしよろしかったら、ちょうど夕食の支度ができましたので。おそまつですが、ほ
野島が答える前に、みゆきは野島を引っ張り込んでいた。
野島は、押し入れから埃だらけのスーツケースを取り出している時、ふと手を止め
「よかったね、仕事もらえて」
冬美がお茶をいれて持ってきた。
「地方の営業だよ、たいしたお金にはならない」
「ひさしぶりに人前で演奏できるのが、嬉しくてたまらないんでしょう」
野島は、冬美と目を合わせ、微笑んだ。
「なあ冬美、これ」
野島は、犬のぬいぐるみを手にしていた。
「あら、懐かしい」
「このぬいぐるみには、感謝しなきゃな」
感慨深げに、野島はつぶやいた。
「そうね」
冬美も、あの日のことを思い出しながら、ぬいぐるみの頭をやさしく撫でた。
「みゆきももう小学生だから、ぬいぐるみを抱いたりはしなくなったけど。これ、本
「幸せを呼ぶぬいぐるみだって、みゆき、言ってたよ」
「あのとき、私、何ていうか、運命みたいなものを感じたもの」
野島と冬美は、微笑み合った。
宿題を終えたみゆきが、野島に飛びついてきた。
「お父さん、来週の日曜日には帰って来るんでしょう」
「ああ、お母さんの言うこと聞いて、いい子にしてるんだぞ」
「もう、子供扱いして」
少し大人ぶったみゆきは、頬をふくらませてすねて見せた。
野島は笑って、みゆきの頬にキスをした。
「みゆき、幼稚園遅れるわよ。今日は雨が降ってるから、早目に出ましょうね」
冬美は、素早く化粧の仕上げをしながら言った。
みゆきは、ようやくひとりで着替えられるようになった。袖のボタンに悪戦苦闘し
、玄関へと急いだ。
「あら、ぬいぐるみは?」
冬美が尋ねた。
「今日は、いいの」
みゆきは、気にもとめない風に答えた。
冬美とみゆきは、傘をさしてマンションを出た。
「ねえママ、みゆきね、あのおじちゃんがパパだったら、いいな」
「どのおじちゃん?」
判っていながら、冬美は訊き返した。
「もう、判ってるくせに。ごみの車のおじちゃんだよ」
みゆきは、冬美の心を見透かして、いたずらっぽく言った。
「ねえ、みゆき。あのおじちゃん、好き?」
「うん。ママは、おじちゃんのこと、好き?」
「え……まあ、いい人ね、優しそうで」
「おじちゃんは、絶対ママのこと好きだよ。みゆき、判るもん」
と、みゆきは、腕組みをして断言した。
子供でも、意外と深いことを考えているものだ。冬美は、思わず吹き出してしまっ
なかなか勇気が出せない野島と冬美を見て、は
いや、幼い娘がそこまで
「でも、あのおじちゃん、結婚してるかもしれないわよ」
「お嫁さん、いないって言ってたもん」
「そんなことまで聞いたの、みゆき」
ごみ集積場の側を通りすぎる時、みゆきは、昨晩こっそり置いておいたぬいぐるみ
を確認した。大事なぬいぐるみが、もう二度と返ってこないかもしれない。みゆきに
野島を信じた。
「雨がやんだら、虹が見えるかなあ」
みゆきは、空を見上げて、言った。
「見えるといいね」
冬美は、微笑んで、みゆきと歌を歌いながら歩いた。
−終−