雨の大宮駅前で突然声をかけられた時、すぐには美由紀だと気づかなかった。

 長かった髪は肩まで短く切ってあったし、派手に化粧をしていたということもあったし、それに何より、

目尻に少しばかり目立つものができていた。

 14年ぶりなのだ。笠原の記憶の中では、美由紀は高校生の頃のままで止まっている。変わっていて当然だ。

ただ、「ウフッ」と肩をすぼめて笑ったときの独特の可愛
げな表情が、遠い記憶を呼び起こした。

「中西さん?」笠原はそう尋ねてから、「今は宇田川さんだよね」と訂正した。

「やっぱり笠原君でしょう!」美由紀は横断歩道の真ん中で、傘を持った手を大仰に掲げて喜んでみせた。

人と話をするとき、大きく見開いた目で相手をまっすぐに見つ
めて、子供のような無邪気な笑顔になる。

これが、美由紀がかつて学校中の男子生徒
を虜にした理由だ。

「久しぶり……笠原君、全然変わってないね」

「よく言われるよ」笠原は、七三分けのヘアスタイルも、フレームのない眼鏡も、ごま塩のような無精ひげまでもが、

高校生の時からほとんど変わっていなかった。

「あっ、信号が変わる!」美由紀は、笠原の手を取った。

 笠原は胸がドキッとして、手を引っ込めてしまいそうになった。赤面症であることも昔から変わっていない。

不自然な笑みを浮かべてごまかした。

 まったく、美由紀は憎めない……。媚びることなく、自然に親しみを感じさせるのだ。

 車がクラクションを鳴らす。歩行者用信号が赤に変わっていた。笠原と美由紀は、笑いながら走り出した。

 

 夕方から降り始めた冷たい雨は、夜には本降りになっていた。

 笠原と美由紀は、駅ビル内のカフェに入り、向かい合って座った。パラパラと音を立てて雨が窓を叩き付けた。

「今、何やってるの。主婦?」笠原はコーヒーをスプーンでかきまぜながら訊いた。

 美由紀ははっきりと答えず、首をかしげて笑った。

「笠原君は?」

「携帯電話の通信システムの設計をやってるよ」

「何か、すごいね。数学とか理科、得意だったもんね、笠原君」

「今日は、お客さんとの打ち合わせでたまたま大宮に来たんだ。懐かしいね、この街。両親が東京に引っ越してきたから、

もう帰って来ることもないんだ」

 笠原は、当たり障りのない話をしながら、美由紀がふと見せる暗い表情を気にかけていた。

 会話は途切れ途切れで、ぎこちなかった。コーヒーを飲み終えてから、美由紀は、気まずい間を埋めるように、言った。

「笠原君、まだ円周率、百桁まで言える?」

「今は三百桁まで言えるよ。3.1415926535……」笠原は背筋を伸ばし、無表情で口だけを動かした。

これがクラスの友人たちの間でよく受けたのである。

 美由紀は、懐かしがって、手を叩いて喜んだ。

 笠原は本当に三百桁まで暗誦し、息をついて、水を一気に飲んだ。ようやく硬い雰囲気がほぐれてきた。

「あの日も雨だったな」笠原は、しっとりと濡れた窓を見つめながら、つぶやいた。

「えっ」美由紀が訊き返した。

「映画に誘われた時。待ちぼうけ」笠原は、いたずらっぽい表情で言った。

「あの時、本当は待っていたんだ。判っていたと思うけど」

 美由紀は、神妙な顔つきになり、「ごめんなさい」と頭を下げた。

「いや、皮肉で言ってるんじゃない。本当に、いい思い出なんだよ」

 笠原は顔を赤くしながら、早口に言って、「ただ、それは今になって思えることで、あの時は……ショックだったけど」と、

笑いながら付け加えた。

 美由紀はますます小さくなって頭を下げた。

 笠原は、まずいことを言ってしまったかなと後悔した。どうして今さら、こんな話を蒸し返してしまったのだろう。

自分がまだ根に持っている証拠だろうか。いや、恨
みなどすっかり忘れてしまったから、こうして笑いながら話せるのだ。

しかし、美由
紀にとっては、それは厭味としか受け取れなかったかもしれない。

 ふたりはまた黙り込んでしまった。雨の音だけが物悲しく響いた。

 

「トップガンとキングコング2、どっちがいいかな」

 掃除当番で校庭を掃いていた笠原に、美由紀が話しかけてきた。

 笠原は、ずり落ちそうな眼鏡を指で上げ、「はっ?」と間抜けな声を出した。

「やっぱり、トップガンの方がお洒落かな」

 ほとんど会話を交わしたこともない美由紀が、何故そんなことを訊いてくるのか、笠原にはまったく見当がつかなかった。

共に掃除をしていた宇田川に目をやると、宇
田川は何も聞いていないといった素振りで黙々とほうきを動かしていた。

 宇田川と美由紀が交際していることはクラス中が公認している事実だった。宇田川はインターハイに出場した

バスケットボール部のエースで、勉強の成績もトップクラ
ス。誰もがうらやむ美男美女のカップルだった。

 笠原は戸惑いながら、「う、うん……」と声をしぼり出した。美由紀は明らかに、

宇田川にではなく自分に話しかけている。口紅を塗っているわけでもないのに真っ赤に燃えるような彼女の唇が、

色白の顔に映えて艶やかだった。

 笠原は、顔がカーッと熱くなるのを感じた。女の子に話しかけられただけで、こんなに真っ赤になってしまうなんて……。

恥ずかしさのあまり、顔を隠すために、ごみ
を拾うふりをしてしゃがみ込んだ。

 美由紀は、なおも笠原の顔をのぞき込んで、言った。

「笠原君、今度の日曜日、一緒に行かない?」

 笠原は、何がなんだか判らなくなってしまった。憧れのマドンナが、自分をデートに誘っている。

こんなことは、ニュートンの法則がくつがえされても起こり得ないこ
とだ。

 宇田川は、プイと立ち去ってしまった。

「何か用事ある?」美由紀は罪のない爛漫な笑顔で尋ねた。

 笠原は大きくかぶりを振った。

「よかった。じゃあ日曜日。トップガンでいいよね」

 笠原は、真冬だというのに額に汗を滲ませて、ひとこと言うのがやっとだった。

「その店、何屋さん?」

 

 日曜日はあいにくの雨だった。笠原は、約束の時間の2時間も前に大宮駅に着いて、映画館の場所を確認し、

チケットを2枚買っておいた。

 ガイドブックを手に辺りを散策した。子供のころから家でひとりで遊ぶことが多かった笠原は、普段、街を出歩くことなど

ほとんどなかった。洒落たレストランのひ
とつも知らなければ、恥をかくだろう。ガイドブックに載っている店の位置を

ひとつ
ひとつ確認して、丸印をつけていった。やり始めたことは徹底するのが笠原の性格である。

 あまりに夢中になってしまい、気づいた時には待ちあわせの時間を5分も過ぎていた。

「しまった……」笠原は舌打ちして、駆け出した。うかつな自分に腹が立った。

 待ち合わせ場所のバス停に着いてみると、美由紀の姿はなかった。確かに彼女はこのバス停に到着するはずである。

雨でバスが遅れているのかもしれない。ともかく、
自分が彼女を待たせたのではなかったことにほっとした。

 笠原は雨の中を4時間、待ち続けた。美由紀は来なかった。

 

 翌日、教室で美由紀はこともなげに話しかけてきた。

「ごめんなさい、笠原君。昨日、急用ができて行けなかったの」

 笠原は、くしゃみをしながら答えた。

「何だ、そうだったの。実は僕も行けなかったんだ。ちょうどよかった」

 その声は震えていた。美由紀に嘘を見抜かれていることは、笠原にもはっきりと悟ってとれた。

 美由紀は「ふうん」と面白くなさそうに言って、宇田川と話し始めた。

 後で友人から聞いた話だが、数日前、美由紀は、宇田川とケンカをしていたらしい。宇田川がほかの女の子とデートをした

ことが原因だという。

 笠原は、合点がいった。だから美由紀は、宇田川の前でこれ見よがしに自分をデートに誘ったのだ。

 仲直りをした宇田川と美由紀は、以前よりいっそう親しそうに見えた。その幸せぶりを他人に見せ付けているようだった。

 笠原は、学校では平静を装っていたものの、家に帰ってから、部屋に閉じこもって悔し涙を流した。

 翌日から3日間、学校を休んだ。自分が情けなく、惨めだった。噂が広まって、皆が自分を笑い者にしているような

気がした。

 美由紀が気まぐれで言ったことを真に受けて……。この世から消えてしまいたいと思った。

 他人の身体を傷つければ傷害罪が成立するのに、精神を傷つけた者が罰せられないのは、理屈に合わない。

肉体的な傷よりも、心の痛みの方が人間の一生を大きくゆが
めることもあるのに。

 美由紀を憎んでいる自分にも嫌気がさした。憎んでいながらも、もし今、万がひとつにでも美由紀が交際してほしいと

言ってくれれば、自分は喜んで受け入れるに違い
ないのだ。そんな自分が弱く、愚かで、醜く思えた。

 美由紀のことは忘れることだ。忘れろ、忘れるんだ……。

 笠原は、卒業まで美由紀の顔を見ることさえしなかった。卒業して、もう美由紀と二度と顔を合わせることもないのだと

思うと、複雑な心境だった。

 数年後、同窓会名簿の美由紀の苗字は宇田川に変わっていた。

 

「ねえ笠原君、お酒飲むの?」

 カフェを出る時に、美由紀が訊いた。

「まあ、少しは……」笠原は戸惑いながら答えた。

「お酒飲めるとこ、行こう」美由紀は勝手に先を行ってしまった。

 ふたりは大通りを脇にそれて、ビルの地下にあるバーに入った。ほの暗いカウンター席でカクテルグラスを合わせると、

美由紀は笠原の肩にもたれかかってきた。

「また宇田川君とケンカでもしたの?」

 笠原はそう言ってしまって、はっと口をつぐんだ。

「いや、ごめん……どうしても厭味っぽい言い方になってしまう。本当に、あの時のことは何とも思っていないんだ……」

 美由紀は、カクテルを一気に飲んで、ぽつりとつぶやいた。

「彼とケンカするほど会話があればね……」

 その一言で美由紀と宇田川の現在の状態が呑み込めた。

 美由紀は強いカクテルのお代わりを何杯も注文し、浴びるように飲んだ。

「飲みすぎだよ。そろそろ帰ろう」笠原は美由紀の腕を取った。

 美由紀はその手をぐいと引き寄せ、潤んだ瞳で笠原を見つめた。

「私、笠原君と結婚すればよかったかなぁ」

 笠原はただ苦笑するしかなかった。「帰ろう」と繰り返した。

「奥さんが心配してる?」

「いや……僕はまだ結婚はしていない」

「独身なの? 笠原君、こうして間近で見ると結構いい男なのに。もったいないな」

 美由紀は声を荒げた。「もし今、笠原君に口説かれたら、私、ついて行っちゃう!」

「帰ろう」笠原は、今度はいくぶん強い口調で言った。

 バーを出て、大宮駅までの道を傘をさして歩きながら、美由紀は酔いが覚めて、冷静になって言った。

「カッコ悪いとこ見せちゃったね。ごめんなさい。忘れてちょうだい」

「一生忘れない」笠原は冗談めかして言ってやった。

 美由紀はおかしそうに笑いながらも、空を仰いで言葉を吐いた。

「今、娘をどちらが引き取るかでもめてるの。それで、いろいろあって……ちょっとムシャクシャしてて……

今日は付き合ってくれてありがとう」

 笠原は何も答えられなかった。高嶺の花だった美由紀が、今はとても小さく見えた。いい気味だ、などという野卑な情動では

ない。ただ、美由紀にふられて死にたい
とまで思い悩んだ高校生の自分が、懐かしく、ほろ苦く、愛しく思い出された。

 駅の改札で手を振る美由紀に、笠原は精一杯の笑顔を見せた。美由紀に幸せになってほしい、心からそう願いながら。

 駅の構内の柱の陰で、若い男女が寄り添い合っている。髪を金色に染め、悪趣味な化粧をしているその少女も、

男の腕の中で、母に抱かれた赤ん坊のように安らかな顔
をしている。

 灰色の大都会の中で、誰もが人のぬくもりを求めて生きている。

21世紀まであと13日”と表示された電光板が感傷をそそった。

「さあ、うちに帰ろう」笠原は、手をこすり合わせて、つぶやいた。

 

 亀戸のマンションに帰ると、笠原の妻は起きたまま待っていた。

「ごめん、遅くなって」

「どこで寄り道してたの」と、妻は笠原の鼻をつまんだ。

「ちょっと……ひとりで飲みたくなって」

 笠原が口ごもりながら答えると、妻はそれ以上のことは尋ねなかった。

 風呂を出て妻が待つベッドに入り、笠原は妻の髪を撫でながら囁いた。

「僕はね……君と結婚できてよかったと思うよ」

「えっ、どうしたの、急にそんなこと」

「はっきり言ったことなかったから。おかしいかな」

 妻ははにかんで笠原の胸を指で突いていたが、やがて真顔になって、笠原の肩に腕を回し、言った。

「ありがとう……」

 決して器量がよいとは言えない妻の顔が、今夜は妙になまめかしく、美しく見えた。妻の首筋からはほのかにローズの香気が

漂う。夜、香水をつけているということ
が、暗黙のサインである。

 笠原は照れくさそうに笑いながら、妻の胸に顔を押し付けた。

 

                             −終−