![]()
川野朋子は、駅前のファミリー・レストランで簡単に夕食をすませた。
こんな日に、ひとり分の食事を作る気にはなれなかったのである。夫は急な出張で
帰らない。8歳の息子と5歳の娘は、電車で
クリスマス・イブの夜。父親がいないことを淋しがった子供たちは、祖父母の家に
あるいは、サンタクロースの正体が父親であることを知って
祖父母にプレゼン
朋子は、町内会の大事な連絡があるので、家を空けられないと言って、ひとりで吉
2LDKのマンションにひとりきり。こんな夜は、結婚して10年来、初めてのことであ
朋子は、赤ワインのボトルの栓を開け、グラスに注いて、少し口に含んだ。アル
帰りにスーパーで見かけた安物の赤ワイ
一口だけでアルコールが全身を駆け巡り、頭がふらふらしてきた。ソファーに沈み
顔がほてって、とてもいい気分だった。
10年ぶりの解放感を、朋子は満喫した。一夜だけの自由。これぐらいの贅沢を味
今夜は、何もしない。それが今の自分にとって、最高の贅沢なのだ。
町内会の連絡など、実は大したことではない。家を空けていても、携帯電話ですむ
ひとりになりたいための口実だった。両親は、特に不審にも思っ
ないのであろう、快く子
朋子は、バスタブに湯をため、ハーブの香りのする入浴剤を入れて、ゆったりと1
脱衣所に上がって、替えの下着の用意を忘れていたことに気付き、バスタオルを体
朋子は、思わずひとり苦笑した。バスタオルで体を隠す必要などないのだ。思い
丸裸になってみた。少し勇気がいったが、これも今日を
色っぽいポーズをとって
35歳。まだまだ、男を魅了するには十分な体だと思っている。顔はとても美人とは
シェイプアップには気を遣っている方だ。
もちろん、本気で夫以外の男を誘惑しようなどとは考えていない。ただ、その可能
意味があるのだ。
朋子は、ふと窓の方を見て、はっとした。ブラインドが開いた状態だったのだ。こ
外の通りからは部屋の中がよく見えるのである。
あわててブラインドを閉じようとして、人の気配を感じ、窓の外を見た。
通りの向かいのバス停に、男が座っていた。見られただろうか。いや、男はじっと
こちらの様子など、まったく気にかけていないよ
朋子は、目を凝らして見た。男が不意に顔を上げ、目が合った。
朋子は、とっさにブラインドを閉じた。どきどきした。彼に間違いない。名前も知
毎朝、すれ違ってあいさつをしてくれる男
銀行員か商社マンと
娘が転んだときに、たまたま通りかかって、抱き起こしてくれた。それが出会い
背筋を伸ばして歩く端正な姿に、自信に裏打ちされた優しそうな笑顔に、朋子は惚
毎朝、彼とあいさつを交わす一瞬が、唯一、心ときめく瞬間
彼と出会ってから、朋子は、子供を保育園に送り出す前に、念入りに化粧をするよ
少ないワードローブの中で、苦心してコーディネートを替
夫は、朋子の変化に少しは気付いていたが、別にこだわってもいないようだった。
女だから、お洒落をしたいのは当然だろう、よその奥さんへの対抗心もあるのだろ
朋子は、彼とすれ違う時に、精一杯の笑顔であいさつをした。彼も素敵な笑顔を返
ただそれだけのことである。ドラマチックな展開など期待はしていない。もし彼の
こともないではないが、それはそれで、いろ
悩ま
白馬の王子様を期待するには、大人になりすぎている。ばかばかしいと思いながら
ほんの何パーセントの可能性の夢物語を捨て切れない思いもあっ
彼が、朋子のマンションの目の前のバス停にいる。こんな夜更けに、どこに出掛け
あと2、3本しか残っていないだろう。
彼の行く先に、何があるのだろう……。朋子は、寝室のベッドに座り、激しく胸打
あれは幻ではなかったのだろうか。部屋の明かりを消して、そっとブラインドの隙
彼は確かに座っていた。
ちょうどバスが来た。ほとんど乗客は乗っていない。誰も降ろさず、バスは走り
彼は、まだ残っていた。ベンチに座って、しきりに時計を気にしている。足元に
ノーネクタイのジャケット姿で、これから旅行に
リビングで電話が鳴った。朋子は現実に返った。
電話の相手は、夫であった。明日には帰れそうだという事務的な用件だった。
朋子は、彼のことを考えているときに夫から電話があったことで、少しばかりの罪
いうことはあり得ないだろうが、もしこの世に
朋子は、彼のことは忘れ
テレビをつけて、ぼんやりと眺めた。どこのチャンネルを回しても、ちっとも面白
毎晩の日課のストレッチ体操を終えて、趣味の切り絵細工を始めた。いつもは楽し
制作途中で、くしゃくしゃと丸めて捨ててし
時計を見ると、11時を過ぎていた。最終バスの時刻は過ぎている。彼ももう、バス
朋子は、寝室に行って、窓の外を見た。彼の姿を見たいのではない。彼がいなく
彼は、寒そうに手をこすりながら、ベンチに座っていた。雪がちらつき始めてい
朋子は、コートをはおって、玄関を飛び出していた。ワインの酔いがまだ残ってい
彼に近づき、声をかけた。
「こんばんは」
彼は驚いたように顔を上げ、朋子を認めると、優しい笑顔に変わった。
「ああ、どうも……」そして、気まずそうな、はにかんだ表情になった。
朋子は、黙ってうつむいていた。自分から声をかけておいて黙っているのもおかし
言葉が見付からないのである。
「近くなんですか、お宅」
彼の方から話を切り出してきた。
「ええ、このマンションです。窓から見えたもので……何をしてらっしゃるのかと
雪降ってきましたし。最終バス、もう終わってますよ」
「ああ、怪しい者だと思われたでしょうね」
「いえ、そういうわけじゃ……」
「もう帰ります」彼は、スーツケースを持って立ち上がった。
「お出掛けですか。ご旅行か何か……」
朋子は、彼を引き止めるように話をつないだ。
「はい、転勤なんです」
「転勤……」
「それも海外へ。明日、シアトルに発ちます」
「シアトル……」
朋子は、ただ彼の言葉を繰り返した。
「毎朝、すれ違うだけでしたが、お世話になりました。最後にごあいさつできて、よ
と言って、彼は深く頭を下げた。
朋子も礼を返した。もう明日からは、彼に会えないのだ。首筋に当たる雪が冷た
「それじゃ」と、彼は行きかけた。
朋子は、その背中に声をかけた。
「あの、お名前もうかがいませんでしたが……」
彼は、振り返って、にっこり笑って、言った。
「山野です」
「私、川野といいます。川野朋子です」朋子も自己紹介をした。
山野は突然、特徴のある低い声で笑い出した。朋子には、その意味が判らず戸惑っ
言ってしまったのだろうか。
「山野、川野。山と川。何かご縁があるのかもしれませんね」
と、山野は楽しそうに言った。
朋子もようやく気付いて、一緒になって笑った。子供のように無邪気に笑ったの
「実は……」山野は、急に神妙になって、語り始めた。
「待ちぼうけを食らわされたんですよ」
朋子は、山野の目をじっと見据えた。
「一緒にシアトルに行く約束をしていた人がいたんですけどね。彼女はついに来な
「ここで待ち合わせをしていたんですか」
「はい、このバス停、彼女と知り合った、想い出の場所なんですよ……すみません、
山野は、誰かに話を聞いてほしかったのだろう。朋子は、山野が自分に個人的な事
むしろ、「見ず知らずの方」と言われたこ
「向こうの親から反対されてまして……駆け落ちのようなものだったんです。彼女
悩んだ末の選択が、これだった。あきらめます。ま
「いえ、そんな……」朋子は大げさに首を横に振った。
山野は、もう一度深く頭を下げて、背を向けた。
「私、テレビドラマ大好きなんですよ。安っぽいなんて言わないでください」
朋子は、そう言って、苦笑してしまった。自分でも、おかしなことを言ってしまっ
山野は、「失礼」と笑って、行ってしまった。
朋子は、雪の中を立ち尽くしていた。山野の後ろ姿は遠ざかっていく。これで本当
自分でも不思議なくらいに、涙が溢れてきた。
まさか、そんなばかなこと……。分別のある大人がすることではない。笑われるに
つもりが、感情が反乱を起こしてしまった。人間
朋子は、山野を追って駆け出していた。
山野が足音に気付いて振り返った。
「私を、シアトルに連れて行ってくれませんか!」朋子は叫んでいた。
信用金庫に勤めていたころ、周りの同僚が次々に結婚して退社していくのを見て、
取引先の会社の男に交際を求められ、その1年後に結婚した。どうしてもこの人で
ない。結婚なんて、勢いでするものだと友人
家族を愛していないわけではない。むしろ、自分にとって、なくてはならない存在
夫はよく気が利く優しい男だし、子供たちも今までのところ、素直
言ってもいいくらいだ。
しかし、たまに衝動的に鬱を感じることがある。毎朝、弁当を作って、子供たちを
惣菜工場で6時間のパート労働。買い物をして急い
1日は終わっ
人間の営みとは、そういうものであるということは判っている。世界中には、今日
大勢いるのだ。これで不平を言っていては、罰
それでも、何もかも捨て去りたいという激しい思いにとらわれることもある。それ
「私を、シアトルに連れて行ってくれませんか!」
朋子は、そう言ってしまった自分に驚き、顔を真っ赤にして、唇を噛んでいた。
山野は、呆然として朋子を見ていたが、低い声で笑いだした。
「それも、テレビドラマの真似ですか」
朋子も照れくさそうに笑い返した。
「ちょっと、芝居くさかったですか」
山野は、さらに大声で笑った。
朋子は、これまでで最高の笑顔を見せて、言った。
「お元気で、山野さん」
「そちらも、お元気で」
山野は手を挙げ、去って行った。
朋子も大きく手を振った。
彼は、わざと冗談でごまかしてくれたのだろうか。もし、彼がうなずいてくれてい
言ってくれていたら、私はどうしたのだろう。
雪は知らぬ間に激しくなっていた。
「ただいま」
朋子の夫が帰ってきた。子供たちが飛んできて、まとわりつく。
「いい子にしてたか、お前たち。ほら、おみやげだ」
と、夫は子供たちにクリスマス・プレゼントを手渡した。子供たちは、飛び上がっ
「お帰りなさい。疲れた?」朋子は、夫のコートを脱がしながら、言った。
「いや。朋子、お前にもプレゼントがあるよ」
夫は、きれいに包装された小さな箱を差し出した。朋子が丁寧に包みを開けると、
「結婚10年目だから」
朋子は、思わず夫の肩に手をからめ、抱きついた。
子供たちが、冷やかすように、にやにやしながら見ていた。
夫は、ネクタイをほどき、缶ビールを一気に飲んだ。
「俺の留守中、何か変わったことはあった?」
「ううん、何にも」
朋子は、肴にサバの缶詰を出しながら、答えた。
−終−