一輪の花。

 80歳は過ぎているであろうと思われるその男性は、毎日、100円を払って花を一輪だけ買っていく。

よれよれのジャージーのポケットをまさぐり、自由のきかない手で
小銭をゆっくり1枚ずつ数え、

きっちり100円を支払い、花を受け取ると、ところどこ
ろ抜けた歯を見せてにんまりとして帰っていく。

妻への贈り物だと言うのだ。もう20
年も続けているらしい。

 店の主人は、その男性を親愛を込めて“男爵”と呼んでいた。いつも“男爵”が来る午後5時前になると、

特別に花を一輪だけ用意して待っているのである。

 吉永美樹は、花屋のアルバイトの初日にその話を聞いて、甘い心地に浸った。それにくらべて、私の夫ときたら……。

夫もあの老人のような男だったら、私だって別居
などしなかったのだ。

 男は、釣った魚に餌はやらない。すでに結婚を経験した女友達からさんざん言い聞かされていた言葉だ。

私の彼だけは違う、そう信じていた。

『焦って結婚、ゆっくり後悔』。結婚して3ヶ月目にして、そんな冗談も現実のものとなってしまった。

 美樹は、店頭のポインセチアの鉢植えに水をやりながら、「水をやらなければ、お前も枯れてしまうのよねえ」と花に

話しかけてみた。花は、ピクピクと赤い頭を振っ
て、笑っているように見えた。

 ああ、私の心はいま、ひび割れている……。美樹は、ひざを抱えて座り込んだ。

 

 アルバイトは午後6時に終わった。中目黒の駅にほど近い、5坪ほどの小さな小さな花屋である。

店の主人は、のんびりしすぎるくらいの性格が長所とも短所ともいえ
る、40過ぎの男やもめであった。

経営を拡大するなどという野心はまったく持ってい
ないようである。

 美樹は、面接に訪れた時、あまりに風采が上がらない主人を見て、こんな店ではやり甲斐も感じられないだろうと思い、

よっぽどこちらから辞退しようと考えたのだ
が、時給が相場より100円ほども高く、

しかもボーナスつきという条件に釣られて、
雇用契約書に判を押したのだった。

 おそらくこの主人は、経営の知識はまったくないのであろう。その日一日を楽しく過ごせればそれでよしという

考えの持ち主なのだ。商品が売れなくても、客との対話
を楽しむのが目的で商売をしているようなものである。

そして、花を心から愛してい
る。

 美樹は一日働いてみて、この花屋の主人のような生き方もひとつの人生だと、考えを改めた。自分はこれまで、

目に見える損得勘定にだけとらわれていた……。少し視
野が広がったような気がした。

 借り立てのアパートに帰り、ストーブをつけて、畳の上にあぐらをかいた。まだ荷ほどきをしていない

ダンボール箱が部屋の隅に山積みになっている。

 美樹は、大きく伸びをした。仕事自体は楽だったが、初日ということで緊張していたのか、異常に肩が凝っている。

こんなに体の節々が痛むなんて、年を取った証拠か
しら。まだ30になったばかりだっていうのに……。

 ともかく、働いて生きていかなければならないのだ。夫に養われていれば、こんな苦労をすることもなかった。

しかし、自分で下した決断なのだ。もう後へは引けな
い。泣き言を言っては、夫に負けたことになってしまう。

 自分でも気づかぬうちに、下のまぶたが涙でふくらんでいた。美樹は、こぼれ落ちそうになる涙をぐっとこらえた。

負けるもんか……。

 美樹は、「オッス!」と声を出して気合を入れた。そんな自分がおかしくて、苦笑してしまった。

 

 夫の純一との喧嘩の直接の原因は、些細なことだった。

 ふたりで近所のスーパーに買い物に出かけた時、トイレットペーパーの特売をやっていたので、美樹は16個入りのパックを

4つも買い込んだ。純一に半分持ってほしい
と頼むと、純一は、大の男がトイレットペーパーなんか恥ずかしくて持てるか、

と拒
否した。純一はひとりで先に帰ってしまい、結局、美樹は、マンションまでの道をトイレットペーパーを俵のように

両肩にかついで帰ってきたのだ。

 純一は悠々として、鼻歌を歌っている。玄関を入ってから、美樹は悔しくなって、トイレットペーパーを純一に

投げつけてやった。純一はプライドの高い男で、亭主に
トイレットペーパーを投げつけるとは何事かと怒鳴った。

 美樹も、結婚して3ヶ月来のたまっていた不満を一気にぶちまけた。恋人時代は、会う度に服のセンスを褒めてくれた。

レストランではさっと椅子を引いてくれ、車に
乗る時はわざわざ降りてドアを開けてくれる、優しい男だった。

 結婚してから、まさに式の当日から、純一の態度は一変した。成田のホテルでの夜、純一は美樹に飲み物を

持って来いだの、着替えの用意をしろだの、命令をするよ
うになった。美樹は、夫婦の決まり事は最初が肝心だと、

これまた友人から聞かされ
ていたことを思い出し、純一には身の回りのことは自分でやるように強く要求した。

純一も美樹も、互いに譲ろうとしなかった。純一は、腹を立てて、そのうち口をきかなくなった。

オーストラリアでの新婚旅行の7日間、ふたりはずっとむくれていたの
だった。

 証券会社の仕事が忙しいのは判るが、家に帰って来てから、家事は一切しない。先が思いやられると、美樹は不安になった。

 こんなはずじゃなかった……。結婚後の生活について、もっと具体的に話し合っておけばよかった。

愛さえあれば、どんな困難も切り抜けていけると思っていた。純一
の表面上の優しさを“愛”だと勘違いしていたのだろうか。

あれほどに燃え上がった
情熱は、錯覚だったのだろうか。私が愛していたのは、一流企業に勤めているという

彼の地位のみだったのだろうか。

 美樹は気がつくと、荷物をまとめてマンションを飛び出していたのだった。

 

 花屋のアルバイトを始めて2週間もたつと、美樹は“男爵”と顔なじみになった。

“男爵”は美樹を気に入ったらしく、独身なのか、恋人はいないのかなどと、あれこれ話しかけてきた。

美樹は曖昧に笑ってごまかした。

“男爵”と話していると、美樹は、心がなごんだ。自然と笑顔になった。その笑顔を“男爵”は褒めてくれた。

(そう言えば私、結婚してから、笑顔というものを忘れていたような気がする……)

 美樹は、そんな反省さえできるほどに心に余裕を持ち始めていた。

 ある日、美樹は、たまたま店の主人が外出していたのをいいことに、“男爵”に花10本差し出した。

100円でいいですから。店長には内緒ですよ」無邪気に言う美樹に、“男爵”は微笑みながら、

しかし頑なにそれを拒否した。

「毎日1本、これは俺が決めたことだから。守っていきたいんだ」

 喜んでもらえると思っていた美樹は、意外な答えに少しがっかりした。“男爵”は続けて言った。

「一度に100本の花を贈るよりも、1日1本ずつ、100日贈り続ける。それが夫婦ってもんじゃないかと思うんだよ」

“男爵”は禿げ上がった自分の頭を撫でながら、照れくさそうに笑った。

 美樹ははっとして、本心から言った。

「素敵ですね……奥様が羨ましい」

「カミさんのやつね、花を渡すと、『ありがとう』って、にっこり笑ってくれるんだよ。それが俺には嬉しくてね。

あの笑顔がなけりゃ、俺も毎日花を贈り続けるなんて
こと、できなかったな」

 その言葉は、美樹の胸に響いて、しばらく離れることはなかった。

 

 美樹がアパートに戻ると、玄関の前で純一が待っていた。

「お母さんに聞いたんだ」純一はタバコの煙を吐きながら、美樹の目を見ずに言った。

(お母さんったら、余計なことを……)美樹は、純一を無視して玄関を入ろうとした。

「家賃、かかるだろ。もったいないよ」純一は、閉まりかけたドアを手で押さえた。

 美樹は、純一を一瞥して、ドアを勢いよく閉めた。しばらくドアの内側に耳を当てていると、

遠ざかる純一の足音が聞こえた。

 美樹は、着替えもせず、しばらく部屋の真ん中で座り込んでいた。純一が自分を連れ戻しにきてくれたことは、

素直に嬉しかった。純一を嫌いになったというわけでは
ない。むしろ、今でも好きなのだ。

しかし、純一が頭を下げて自分の非を認めるまで
はこちらも譲歩すまい、という強い意志もあった。

(俺が悪かった。やっぱりお前が必要なんだ)

 どうしてそれぐらいのことが言えないのかしら。その言葉さえ聞けば、すぐに戻ってあげるのに……。

でも、もし、もう二度と会いにきてくれなかったら、どうしよ
う。さっきの態度は、ちょっと冷たすぎたかな……。

 考えを巡らせているうちに、すっかり夜は更けていた。

 

 次の日、事件は起こった。花屋の主人にとっても、美樹にとっても、これは大きな事件である。

“男爵”が店に現れなかったのだ。

 主人と美樹は、店を閉めた後、歩いて15分ほどのところにある“男爵”のアパートを訪ねた。

 

 美樹は、“男爵”のアパートの玄関口に菊の花を供え、静かに手を合わせた。

「罪滅ぼしだって……」主人は美樹の肩に手をやって、つぶやいた。

「花を毎日贈るのは、奥さんへの罪滅ぼしだって言ってたね、“男爵”は……。昔は、ずいぶん苦労をかけて

泣かせたそうだよ。それでも、奥さんはずっと堪え忍んで
くれた。結婚して何十年もたって、

やっとそのありがたみが判ったって……」

 美樹は何も言えず、口を固く結んでいた。結婚して3ヶ月で別れるの、別れないのと言っている自分は、

“男爵”から見れば未熟者だろう、そんなことを思った。

「“男爵”の奥さんね、20年前に亡くなっていたんだよ」

 美樹は驚いて、主人の顔を見た。

「それから毎日、奥さんの遺影の前に、花を供えていたんだ。やっと、やっと最愛の奥さんに会えたんだね。

喜んでいるだろうよ、“男爵”のおっさん……」

 美樹は、“男爵”の言葉を思い出し、胸が熱くなった。

(カミさんのやつね、花を渡すと、にっこり笑ってくれるんだよ……)

 何も答えてくれぬ妻に、彼は20年も花を贈り続けたのだ。

 

 美樹は、アパートへの帰るさ、決意を固めていた。純一のところへ戻ろう。

 どちらが先に謝るか、どちらが相手の言うことを聞くか、そんなことはもうどうでもよかった。

ただ、純一に会ったら、最高の笑顔を見せてやろう、それだけでいいと
思った。そして、それを毎日続けてみるのだ。

 雨がぱらぱらと落ち始め、美樹は足を速めた。アパートに着くころには、本降りになっていた。

 アパートの表には、純一が雨に濡れて立っていた。両手に何か大きな袋を抱えている。トイレットペーパーだ。

 美樹は、笑顔も忘れて、きょとんとして純一を見つめた。

「トイレットペーパー、足りてるかなと思って……買ってきた……」

 純一がそう言い終わる前に、美樹は純一に抱きついていた。

 純一はほっとしたような顔で、美樹を抱き返した。

「美樹、ふたりで使おう、このトイレットペーパー、ふたりで一緒に使おう、な」

 美樹は、吹き出してしまった。ムードのない台詞……。もっと気の利いたこと言えないのかしら……。

 笑いながら、美樹は、純一に濡れた頬をすり寄せた。

 

「店長、ブーケの作り方、教えてください。豪華なものじゃなくていいんです。

質素
でも、心のこもったブーケを作りたいんです」

 美樹は、出勤して事務所に入るなり、店の主人に向かって言った。

「えっ、何に使うの」

「私、もう一度結婚式をやり直すことにしたんです。夫とふたりきりで」

 ぽかんとしている主人を横目に、美樹は、はしゃいだ笑い声を上げて、開店の準備を始めた。店のシャッターを開けると、

まばゆい光が差し込んだ。店じゅうの花が風
に揺れて、いっせいに美樹を振り向いたように見えた。

 美樹は、朝の太陽の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、「オッス!」と叫んだ。通り

を行く人たちと、誰かまわず握手をしたい気分だった。

 

                             −終−