東京を発つときはシャツ一枚でもうっすらと汗が滲むくらいだったのに、ニューヨークの街は朝冷えのするほどに

秋が深まっていた。

 大谷初夫と娘のミキにとっては5年ぶりのニューヨークだった。幼いミキには、ニューヨークに住んでいた頃の記憶はない。

 大谷は真っ先に、妻のナンシーが眠る墓地へ向かった。7回目の命日である。十字架の前にひざまずき、

ミキとふたりで仏教式に手を合わせて祈った。

「ママって、どんな人だったの」とミキに訊かれると、大谷はいつも、「お前に似て、美人で優しかったんだよ」

と答えるのだった。

 大谷がわざわざニューヨークにやって来たのは、妻の墓参りのほかにもうひとつの大きな理由があった。

 バスを乗り継いで、ウエスト・ブロードウェイにある小さなブックストアに向かった。以前、奈々子が勤めていた店である。

 奈々子。

 思い出したくもない名前だった。自分の心を踏みにじった女。苦しいほどに愛した女――。

 5年前と変わらぬレンガ作りのブックストアを見上げると、胸の奥に封じ込めていた奈々子の記憶が蘇り、

恨みが再燃してきた。

 

 アパートのベッドで眠っていた大谷は、奈々子に揺り起こされた。

「ねえ、ミキちゃんの様子が変なの!」

 大谷は飛び起きて、ミキが眠る小さなベッドを覗き込んだ。ミキは青白い顔をして、呼吸困難におちいっていた。

「今日はまったく泣かないから、おかしいと思って……」奈々子はうろたえながら言った。

 それ以上にうろたえていたのは、大谷だった。冷静になるよう自分に言い聞かせ、電話を取り、911番を回した。

不得意な英語で必死に状況を説明し、救急車を呼ん
だ。

 ミキはニューヨーク市内の病院に運び込まれ、治療を受けた。医師は、沈痛な面持ちで、大谷と奈々子に病状を説明した。

実母のナンシーからの遺伝らしく、心臓の機
能がだんだん衰えていくという難病だった。

 もって、6ヶ月――。

 医師から告げられた、その冷たい言葉が、大谷の頭の中でガンガンと鳴り響いた。

 大谷はまったく気力を失い、衰弱して寝込んでしまった。奈々子は毎日病院に通い、ミキを見舞った。

 大谷は、娘のために何もしてやれない自分がはがゆかった。目の前にあるものは、ただ絶望のみであった。

 それから3週間が過ぎた頃、奈々子が晴れ晴れとした表情で大谷のアパートに帰って来た。

数々の難病を治療した経験があるボストンの名医に、心臓移植手術を執刀し
てもらう手配ができたと言うのだ。

 ミキはヘリコプターでボストンの病院に搬送され、手術を受けた。大谷と奈々子は、最後の希望に祈った。

 遠い教会の鐘の音が聞こえた。

 

「あなたがミキちゃんね。かわいいお嬢ちゃんね」

 ウィリアムズバーグ橋のたもとの公園。奈々子がベビーカートの中のミキに話しかけてきた。

ミキはまだ言葉を理解できないが、満面の笑みで応えた。

 芝生に寝転がってイースト・リバーをながめていた大谷は、身を起こし、奈々子に会釈した。

 それが大谷と奈々子との始まりだった。

 画学生の大谷がよく美術関係の書籍を買いに行くブックストアの店員。日本人同士、よく話をするようになった。

奈々子とは、ただそれだけの関係だった。奈々子に
は実業家の夫がいて、裕福な暮らしをしているということも聞いていた。

 奈々子の笑顔はどこかぎこちないと、大谷は感じていた。桜色のほおに大きな青いあざがある。

大谷が怪我について尋ねても、奈々子はいつも「転んだ」、「角にぶつ
けた」などと言ってごまかしていた。

大谷もそれ以上深くは訊かなかった。

 大谷は、休日は娘を連れてこの公園に散歩に来るということを奈々子に話してあった。奈々子は偶然を装っていたが、

おそらく大谷に話があってわざわざやって来たの
だろう。今日は、目の上に切り傷までできている。

 大谷は、余っていたホットドッグを奈々子に勧めた。奈々子は、ホットドッグを一口かじり、大谷の前に正座をして、

帰るところがない、と言った。

 

 大谷は、奈々子を自分のアパートに招き入れた。

 狭い部屋の中はカンバスや絵の具が散乱しており、シンナーのにおいが充満していた。大谷は、絵を売ったり似顔絵描きを

したりして得たわずかな収入で、ミキととも
に、つましく暮らしている。

 大谷がコーヒーを淹れて出すと、奈々子は、震える手でカップをつかみ、ゆっくりと味わうように飲んだ。

捨てられた猫のように目は脅えている。

 奈々子の怪我の原因は、やはり夫の暴力だった。日増しに激しくなる暴力に、このままでは殺されるかもしれないと

思い詰め、逃げ出して来たのだ。夫は大富豪だが、
奈々子の自由になる金は1ドルもなかった。日本に帰りたくても、

その渡航費用もな
い。近くに友人も身寄りもないので、しばらくここに居させてほしいと言う。

 大人の女が、たいして親しくもない男の部屋に泊めてほしいと頼んでいるのだ。よほど事態は切迫しているのだろう。

大谷は、奈々子に同情した。

 同情が愛に変わるのに、さほど時間は要しなかった。

 

 奈々子は本当の母親のようにミキの面倒をよくみた。ミキも奈々子によくなついていた。

1ヶ月ほど大谷のアパートで暮らすうち、奈々子の表情はみるみる明るくな
り、生気が戻ってきた。

 大谷が描いてやった奈々子の似顔絵を、奈々子はお守りのように大切に持っていた。満面の笑みを浮かべた顔の絵である。

(もともとは、こんなに可愛くて明るい女だったのだ)

 大谷は、自分のおかげで奈々子が美しくなっていくのが嬉しかった。そして、今となっては自分の方が

奈々子を必要としていることに気づいた。しかし、それをけっし
て態度には表さなかった。

 

 大谷は、優しそうなうわべとは裏腹に、愛情というものが信じられない人間だった。「いい人」を演じながら、

心の中はへとへとに疲れているのだった。

 大谷の顔には、にこやかに笑っているときも、常にどこか暗い陰がつきまとっていた。それは、幼い頃に母親に捨てられた

記憶によるところが大きかった。泣いてすが
りつく自分を振り払って、小さなバッグを手に去って行った母の後ろ姿――。

その記
憶が大谷を苦しめ続けてきた。

 酒乱の父とのふたりでの生活は息苦しかった。高校を卒業すると同時に、アルバイトで貯めた金で逃げるように

アメリカへ渡った。

 イラストレーターを目指して美術学校に通った。そこでナンシーという女学生と知り合い、一緒に暮らし始めた。

子供ができて、ミキと名づけた。大谷が初めて心の底
から実感できた“幸福”は、しかし、すぐにもろくも崩れ去った。

 生まれつき体が弱かったナンシーは、出産により体力が激しく低下し、その1週間後に死んでしまったのだ。

(みんな、自分を置いて去って行ってしまう……)

 大谷は、幸福などという危うい存在を求めることをやめてしまった。

 

 ボストンの病院で10時間を超える手術が終わり、ミキは見事に快復した。激しい運動はできないが、

日常生活に支障はないと言う。大谷と奈々子は、泣いて抱き合っ
た。

 ミキが退院する日、大谷は初めて重要なことに気づいて、奈々子に尋ねた。

「治療費、どれぐらいかかったのかな。莫大だろうな」

70万ドルだって」奈々子は平然と答えた。

70万ドル!?」

 目を丸くする大谷に、奈々子はくすっと笑って言った。

「全額、慈善団体から支給されたのよ。アメリカには、そういう制度があるの。すばらしい国ね」

 大谷は、胸をなでおろした。暗闇にぱっと明かりがさしたような気がした。

 大谷と奈々子とミキはニューヨークのアパートに戻った。すやすやと眠るミキの寝顔を見て、大谷は、生きる希望を

取り戻した。奈々子に改めて礼を言った。

「私を救ってくれたのは、あなただもの。あなたの宝物のミキちゃんを、どうしても助けてあげたかった」

 そう言って肩に手をからませてくる奈々子を、大谷はいとおしいと思った。奈々子なら、ミキのいい母親になってくれる。

ささやかな幸せを夢見た。

 その夜は、奈々子の方から求めてきた。

 

 翌朝、大谷が目覚めると、奈々子の姿はなかった。残されていた置き手紙には、ただ「さよなら」とだけ書かれていた。

 大谷は、悲しくも悔しくもなかった。おそらく奈々子は、日本に渡ったのだろう。

自分は、一時的な避難の場として利用されただけなのだ。

 大笑いして、ベッドの上でのた打ち回った。こんな貧しい絵描きなど、本気で相手にする女がいるわけがないではないか。

結局、みんな自分から去って行く。判ってい
たことなのに。幸せなんて求めないと決めたのに……。

 大谷は、被害者意識を持つことによって自分の劣等感をごまかす癖がついていた。

 女なんて二度と信用しないと、このとき誓った。奈々子の尽力のおかげでミキが救われたことも忘れて、奈々子を恨んだ。

 もうニューヨークにはいたくなかった。イラストレーターはあきらめ、東京に戻って、普通の会社に就職した。

大谷にとって、ミキの成長だけが唯一の心の支えだっ
た。

 それから5年ほどして、大谷は、ニューヨークの美術学校時代の友人からのエアメールで、信じられないような事実を

知らされた。

 奈々子は、夫と復縁していたのだ。そして、暴力的な夫に無残に殺害されていた。

 アメリカでは、珍しくもない事件である。ニューヨークの地方紙に、奈々子の死亡は小さく報じられていた。

 

 ブックストアの店主である割腹のいい黒人女性は、5年ぶりに会った大谷の顔を覚えていた。大谷を見ると、

大げさに喜んで抱きついてきた。

 大谷は、奈々子について知っていることを何でも教えてほしいと頼んだ。自分を裏切った奈々子が、どんな不幸な目に

遭ったかを知ることによって、奈々子への恨みを
忘れられるような気がした。

「そう、これ、ナナコが最期まで大事に持っていた……あなたが描いたものでしょう」

 と、女主人は1枚の絵を差し出した。そこには奈々子の笑顔があった。

 それを受け取った大谷の手は震えていた。

「どうしてあんなひどい男のところに戻ってしまったのか……。あんたと別れた後、

ナナコはここにきて、さんざ泣いてたのよ」

 女主人は、今度はハンカチを取り出して泣き始めた。

 英語の会話が理解できないミキは、絵本を見てひとりで遊んでいた。

「何か理由を話しませんでしたか」大谷は食らいつくように尋ねた。

「訊いても、答えてくれなかったわ。その後、あの男が奈々子を迎えにきて、乱暴に引っ張って行った。

『もう逃げるんじゃないぞ。お前は、俺が70万ドルで買った女な
んだからな』なんて言いながら。本当に憎らしい男……」

70万ドル? ……70万ドルと言ったんですか!」大谷は青ざめた。

「ナナコ、何だかお金に困っていた様子で……私が何とかしてあげられればよかったんだけどね……」

 大谷の耳には、もう女主人の言葉は聞こえていなかった。

 

 大谷は、ミキの手を引いて、イースト・リバー沿いの公園にやってきた。ミキは、この場所に何となく見覚えがあると言った。

 西に傾いた太陽がマンハッタンの町並みを赤く染めていた。

 大谷は、呆然と川の流れを見ていた。奈々子の白く細い指先が、いつも濡れているような色っぽい瞳が、

少し鼻にかかった甘え声が思い出された。

 目まいがした。もう何も考えられなかった。血が出るほどに唇を噛んだ。

 奈々子は、ミキの治療費を用立ててもらうことを条件に、夫と復縁したのだ。そして、夫の暴力に苦しめられ、

挙げ句に殺されてしまった。そんな奈々子を、自分は今
まで恨み続けてきたのだ。

 大谷は、頭をかかえてしゃがみ込んでしまった。ミキが心配そうに大谷の顔を覗き込んだ。

「奈々子!」

 大谷は割れんばかりの声で叫んだが、それもウィリアムズバーグ橋をくぐって吹き抜ける風にかき消されてしまった。

 大谷は、ミキの細い体を、強く、強く抱きしめた。

 

                             −終−