イタリアン・ブランドの靴店“バレリ”は、代官山駅近くの裏通りにあった。
 
 同じように横文字を掲げた店が建ち並ぶ。ここの一風景だけを切り取って見ると、とても日本とは思われない。
 
 実際、外国に見せかけて雑誌の撮影などが行われることもあるようだ。
 
 神崎俊介が代官山に来たのは、その日が初めてだった。仕事の用事でもなければ、 一生このような場所に

来ることもなかったであろう。
 
 表通りに車を停め、狭い路地を歩いて入って行く。
 
 俊介は、自分が場違いなところにまぎれ込んでしまったような、通りすがりの人たちすべての冷たい視線を

浴びているような、居心地の悪さを感じていた。
 
 くたびれたスーツのしわを伸ばしながら、地図を頼りに目的の店へと急いだ。
 
 俊介が勤める“M印刷”は荒川区にあるのだが、社長の古い付き合いとかで、渋谷区代官山にある高級靴店の

広告用パンフレットの印刷を依頼されたのだ。
 
 社員数5名の零細企業“M印刷”では、社員全員が製版も営業も、あらゆる仕事をこなす。

 入社2年目で初めてひとりでの担当を任された俊介は、いささか緊張気味に靴店の重厚なドアを押した。
 
“バレリ”の広報担当者は、思いのほか人当たりのいい、陽気な中年男性だった。仕事とは関係のない世間話を

長々とされるのには参ったが、俊介は忍耐強く1時間以上も話を聞き続けた。口下手の俊介にとっては、

相づちを打つことが精一杯であった。
 
 その誠実な態度が気に入られたらしい。先方は、「君と話をしていると、楽しいね」とご満悦だ。話も何も、

向こうが一方的にしゃべっているだけなのだが……。

「お宅の社長に会ったら、君のことを褒めておくよ」とまで言われた。子供の頃から褒められた経験の

あまりない俊介は、単純にそれが嬉しかった。
 
 丁寧に礼を言って、ほっと息をついて店を出た。
 
 外は激しい夕立になっていた。俊介は、かまわず鼻歌を歌いながら、停めてあった車へと急いだ。
 
 表通りの軒下で、雨宿りをしている若い女性が目に入った。霧にかすんだ幻想的なその姿に、俊介は思わず

はっと見とれて立ち止まった。
 
 端正だが、少し幼さの残った面立ち。軽くウェーブのかかった、長い黒髪。派手すぎるくらいの化粧も、

時代遅れのカチューシャも、サイケデリックなピンクのワンピースも、彼女には上品によく似合っていた。
 
視線を感じたらしく、彼女がこちらを振り向いた。俊介はあわてて目をそらし、車に乗り込んだ。

 後部座席にビニール傘が常備してある。上機嫌であったことが、俊介を積極的な行動に駆り立てた。普段なら、

とてもそんな度胸はなかったであろう。傘を取り、車を降りて、女性に駆け寄って行った。
 
 うつむいたまま、「俺、車ですから」と、彼女に傘を押し付けるように手渡し、また車へと戻った。
 
エンジンをかけながらルームミラーに目をやると、きょとんとした表情で頭を下げている彼女の姿が映っていた。
 
 俊介は、気取ってちょいと手をあげて、アクセルを踏んだ。
 
 彼女がミラーの中から消える直前、にっこりと微笑むのが見えた。
 
 これが高級外車ならさまになっであろうが、“M印刷”と書かれた社用のワゴン車である。俊介は冷静さを取り戻し、

恥ずかしさとばかばかしさで、ひとり苦笑した。気障が似合わない男であることは、

自分が一番よく分かっているのに……。

 ぼんやりして、危うく人をはねるところだった。


 仕事を終えてアパートに帰っても、彼女の笑顔がまぶたに焼き付いて離れなかった。

 俊介は、勝手に彼女を“麗子さん”と名付けていた。大手銀行の頭取のひとり娘で、世田谷の豪邸に住み、

毎朝犬の散歩をさせるのが日課。趣味はテニスとピアノ。どんどん膨らむ想像を俊介は楽しんだ。

 “麗子さん”の隣に立つ自分の姿を思い描こうとしてみるのだが、それだけはどうしてもできなかった。

平等な社会とはいえ、身分階級は厳存する。
 
 木造アパートの天井のしみを見ていると、ため息がでてきた。
 
4年前に東北地方の高校を出、上京してきた。数々のアルバイトを経験した後、ようやく知り合いの紹介で

“M印刷”に定職を得た。
 
 印刷業界にもデジタル化の波が押し寄せているが、“M印刷”は完全に乗り遅れていた。60歳をこえる社長は、

ワープロさえも使いこなせない。周辺の零細企業から封筒や名刺の印刷の注文を受け、細々と経営を続けている。

旧式の機械がギシギシ音を立て、インクの匂いの充満する、町外れの小さな印刷工場である。
 
新人の俊介にも、“M印刷”の将来は目に見えていた。早いうちに新しい職場を見つけておかなくてはならない。

現在の就職難を考えると、憂鬱になる。

 俺の人生、こんなはずではなかった……。

 本当は漫画家を目指していた。東京に出れば何とかなるという、田舎の青年にありがちな幻想を抱いていた。

 自分と同じ程度に絵のうまい人間は、世の中に掃いて捨てるほどいた。幻想はまたたく間に崩れ、

途方もないみじめさと不安だけが残った。

 巨大都市・東京は、貧乏人には冷たい街であった。俊介は、さげすまれることにも慣れきってしまっていた。

「まじめに生きてさえいれば、きっといいことがある」幼い頃に祖母に聞かされたことだけは、忠実に守ってきた。

しかし、その言葉を純粋に信じきるほど、もう子供でもなかった。

“麗子さん”は別の世界の人……俊介は声に出して、自分に言い聞かせた。しかし、彼女のことを忘れようと

すればするほど、反比例して情熱は高ぶっていった。

 本棚の裏からヌード雑誌を取り出して見たが、気は晴れない。雑誌を引き裂いて、畳の上でのた打ち回った。

 ああ、男として生まれた以上、一生に一度でいいから、あんないい女を抱いてみたい……。いや、ただ食事をしたり、

街を歩くだけでもいい。心から愛してくれなくてもいい。恋人気分だけでも味わえたら……。

 蒸し暑さも手伝って、その夜は眠れなかった。

 俊介は、“バレリ”のはすかいの喫茶店で、15本目の煙草をもみ消した。コーヒーのおかわりも4杯目になる。

 日曜日の昼過ぎで、店内は混んでいた。ウェイトレスが、また注文を訊きに来た。

そろそろ出て行ってくれという、あからさまな催促だった。混雑時にコーヒーだけでねばられては、

迷惑なのももっともだろう。

 俊介は席を立ち、トイレに入った。

 身だしなみを整え、深呼吸をして、鏡の中の“もうひとりの自分”に向かって、大きくうなずいた。

今日は、見事にきまっている。貯金をおろして、DCブランドのスーツを買ったのだ。清水の舞台から飛び降りるとは、

こういうことを言うのだろう。

 しかし、それだけの甲斐はあったと満足している。スーツをパリッと着こなし、髪をオールバックにまとめると、

自分でも驚くくらいに見栄えがする。一流企業のエリートと言っても、疑われはしないであろう。

 馬子にも衣装か……。俊介はひとりごちて、思わず吹き出してしまった。
 構いやしない。外見だって、人間の価値の重要な一部分なのだ。そうそう、いつも会社の同僚に笑われる、

猫背にも気を付けなければ。意識して胸を張って歩こう。

 喫茶店を出るときは、そっくり返って転びそうになってしまった。

 “バレリ”のドアを開けると、「いらっしゃいませ」と“麗子さん”が笑顔で出迎えてくれた。
 
あの日から2週間、また“麗子さん”に会えるかもしれないと、毎日仕事帰りに代官山に寄っては、

“バレリ”の近くをうろうろ歩き回った。

“麗子さん”はなかなか現れず、半ばあきらめていた頃、何気なく“バレリ”の店内を覗いて見ると、

彼女はここの店員として働いているではないか。“灯台もと暗し”であった。

 俊介はその日のうちに貯金をおろし、隣の高級ブランドショップでスーツを見立ててもらったのであった……。

「いらっしゃいませ」

“麗子さん”は繰り返した。俊介は、軽く会釈を返した。

 彼女は俺を凝視しているような気がする。上等な客だと思ってくれているのだろうか。

 この間の傘の件は、まさか覚えていないだろう。何しろ、あのときの俺と今の俺は、まったくの別人なのだから。

 俊介は、店内をぶらぶらと見て回った。どの靴を見ても、値段が書かれていない。

こういうところで買い物をする人は、値段など気にしないのであろう。

 懐には、今しがた銀行でおろしてきた10万円が入っている。俺にとっては、目の玉が飛び出るほどの大金だ。

 まさか、靴1足が10万円を超えることはないだろうが……。高級ブランドの相場というものがまったく分からない。

万一足りなかったら、とんだ赤っ恥だ……。クレジットカードも持っていない。

 俊介は、やはり来るのではなかったと、後悔しはじめていた。汗が脇の下をたらたらと流れ落ちていくのを感じる。

「どういうものをお探しですか」
 
 不意に背後から声をかけられて、俊介は、飛び上がりそうなくらいに驚いた。
 
 振り返ると、“麗子さん”のあの笑顔があった。
 
 俊介は咳払いをして、努めて冷静にふるまった。

「し、仕事で使うのを……シンプルで上品な感じのものを……」
 
東北訛りが出ないよう、細心の注意を払いながら言った。声が裏返りそうになる。彼女の目を見ることができない。

泣きたくなってきた。

 店の奥から、見覚えのある中年の男が出て来た。あの広報担当者だ。

 俊介は、とっさに顔をそむけた。素性がばれてしまっては、せっかくの計画が水の泡だ。

 唇が震え、言葉もしどろもどろになってしまった。まるで半病人だ。

 わざわざ恥をかきに来たのか、俺は!

「お客様、どうかなさいましたか」

「いえ、あの……」

 完全に舞い上がってしまって、それから後のことはよく覚えていない。何度か会話を交わした後、適当に靴を選んで、

代金を払った。10万円で足りたのだと思う。店を出るときに、肝心の靴を置き忘れて来てしまい、

“麗子さん”があわてて追いかけて来たのだけは覚えている。

「今夜、一緒に食事でもどう?」何百回も練習してきたその台詞は、ついに言えなかった。


 俊介は、喫茶店で7杯目のコーヒーを口にしながら、20本目の煙草をもみ消した。

 翌週の日曜日、再び挑戦のためにやってきたのだ。

 自分の臆病さに嫌気がさし、一度は完全にあきらめようと思った。しかし、考えてみると、これまでの人生、

同じようなことの繰り返しだったのだ。

 先のことをあれこれ案じて、悪い方へ悪い方へと考え、結局、怖じ気づいて何も行動できなくなってしまう。

 俊介は、生まれ変わりたいと心の底から思った。結果がどうなろうと、どうでもいいと開き直っていた。

ともかく行動に移したという事実が、自分に自信を与えてくれるような気がした。自分が一回り大きくなるために、

“麗子さん”を利用させてもらうのだ、という意気込みでいた。

 ウェイトレスが露骨に不快な態度を示し、空のコーヒーカップを奪っていった。

 俊介は喫茶店を出て、“バレリ”の前に仁王立ちした。

 今週中には、あの広報担当者とまた店で会う約束になっている。おそらくその時、

彼女にも顔を見られてしまうだろう。それまでの勝負だ。

 第一、もう貯金が底をついてしまった。今、手元にある10万円が全財産だ。二度と失敗は許されない。

最後のチャンスなのだ。金持ちに成りすまして彼女に近づき、あわよくば……。ほんのひととき、

夢を見させてくれるだけでいいのだ。

 俊介は、3回大きく深呼吸をして、“バレリ”のドアを押した……。


 午後5時の終業時刻を過ぎ、1時間のサービス残業も終えて、更衣室で帰り支度をしている俊介を、

社長が呼び戻しに来た。

 得意客からの急な注文があり、フル稼動で対応しないと間に合わないというのだ。

 社員全員が残るというのに、俊介ひとりだけが“デートがありますので”と帰らせてもらうわけにはいかなかった。
 
俊介はインクにまみれて印刷機械の操作をしながら、何度も時計に目をやっていた。7時を過ぎている。

“麗子さん”と8時に南青山のレストランで会う約束になっているのだ。彼女が来てくれればの話だが。

 俊介は靴店ではついに面と向かって告白できず、用意してあった手紙を差し出したのだった。

 指定したレストランに今晩、彼女が来てくれれば、今度こそ必ず告白するつもりでいた。彼女はきっと来てくれる、

俊介は根拠のない確信を抱いていた。

 7時半過ぎに仕事は終わり、俊介は駅のコインロッカーで“一流企業のエリート”に着替え、

地下鉄を乗り継いで南青山へと急行した。

 雑誌で見て予約してあったレストランに到着し、席に案内されると、果たして、

“麗子さん”の姿はあった。

 俊介が遅れたことを詫びると、彼女は恐縮して、立ち上がって頭を下げた。

「本当にいい人だ」俊介は、彼女をだましていることに一瞬、罪悪感を感じた。しかし、今さら後へは引けない。

今日だけは、役者になったつもりで演技するのだ。

 俊介は、席について、ハンカチで額の汗を拭った。走って来たので、体じゅうがほてっている。

「あら……」“麗子さん”が俊介を指差して、言った。

「“M印刷”の方じゃありません?」

 俊介は、写真のネガのように、目の前が暗転するのを感じた。ますます汗が噴き出してきた。

「雨の日に傘を貸していただいた……そうでしょう?」

「はい……」

 正直に答えるしかなかった。

「手の爪が、黒くなっているので。あの時もそうでした」

 急いで駆けつけたので、服だけは立派なものに着替えたが、手を洗うのを忘れていたのだ。

爪がインクで真っ黒に汚れている。こんなエリートもいないだろう。

「傘を貸していただいた時、手がすごく汚れていたので、どうしてかなって思ったんですけど、

車に印刷会社の名前が書いてあったので、ああなるほど、と思いまして……」

 俊介は何も言えなかった。うかつだった。すべては終わったのだ。

「あの時は、本当にありがとうございました。やっぱりそうだったんですね。似ている方だな、

とは思っていたんですけど」

 と、彼女は、口に手をあてて笑った。

「はい……お世話になっております。“M印刷”の神崎と申します……」

 腹を決めて、本来の神崎俊介に戻った。例によって、その後のことは、よく覚えていない。


 アパートに帰って、俊介は、コンビニエンス・ストアで買ってきた幕の内弁当を一気に平らげた。

レストランの食事は、まったく喉を通らなかったのだ。

 土間に並んだ2足の黒光りする高級革靴を見て、俊介はひとりで大笑いした。

 高くついた作戦は大失敗に終わったが、俊介は今、むしろすがすがしい気分でいた。

 背伸びした自分を気取るよりも、本当の自分自身をさらけ出したことで、かえって自信がついたような気がした。

初めて、自分が好きになれた。自分が自分を受け入れられずに、誰が受け入れてくれようか。

“麗子さん”は、ほんのつかの間の出会いだったが、自分を成長させてくれた、貴重な存在だった。

 子供の頃に漫画を描いてばかりいたことなど、俊介のつまらない話を、彼女は熱心に聞いてくれた。

俊介は、彼女に心から感謝した。その想い出だけで十分だと思った。だましていれば、後悔が残っただろう。

 ひとりで乾杯しようと冷蔵庫から缶ビールを取り出した時、電話が鳴った。

 俊介は、ビールを一口飲んで、電話に出た。思わずビールを吹き出してしまいそうになった。

「今日はどうも、ありがとうございました」と、電話の向こうから“麗子さん”の声が聞こえた。

「こ、こちらこそ、すみませんでした……」

 俊介は、舌を噛みそうになりながら、答えた。

「実は、お誘いを受けた時……正直言って、ごめんなさいね、気取った感じの方で、

最初は嫌な印象しかなかったんです……はっきりお断りしようと思ってたんですけど……」

「は、はい……」俊介は、気絶しそうになるのを必死で持ちこたえていた。

「でも、今日お会いして、お話ししてみて……とても楽しかったので……」

 と、言って、彼女は、照れくさそうに笑った。

 俊介は、次の言葉を聞く前に、卒倒していた。

                             −終−