まだ11月の半ばだというのに、銀座のRデパートの前には巨大なクリスマスツリーが飾られていた。

 折原香世子が通りかかった時、ツリーの電飾がいっせいに点灯された。うつむいて歩いていた香世子は、

初めてツリーの存在に気づいて、顔を上げた。色鮮やかに輝く
デコレーションを見つめながら、白いため息をひとつ、ついた。

こんな時、誰かがそ
ばにいてくれたらいいのに……。

 朝、会社のトイレで用を足していたら、洗面台のところで同僚たちが自分の悪口を言っていた。出るに出られず、

20分間も便座に座っていた。おかげで部長に頼まれて
いた会議資料のコピーが間に合わず、こっぴどく叱られた。

 社員食堂での昼ご飯は生姜焼きの豚肉が生焼けだったし、ジュースの自動販売機は故障中で千円札を入れたのに

戻ってこなかったし、ぼんやり仕事をしていたら部長の
給与明細書をシュレッダーにかけてしまって、

またぞろ大目玉を食らい……。

 人生、こんな日もあるもんだ……。何をやってもうまくいかない。早く帰って、寝よう。

 香世子は、時計とにらめっこをしながら終業時間を待ちかね、チャイムと同時にタイムカードを押して、

足早に会社を去ったのだった。

 会社を出て地下鉄の日比谷駅まで歩く途中にあるRデパートにひとりで立ち寄るのが、香世子の日課だった。

この日も、一刻も早く家に帰りたかったが、Rデパートに
だけは寄っておきたかった。ここに来ると、香世子は心から

安らぐのである。幼い
頃、母に手を引かれてやって来たときの、あの温かい気持ち……。貧しかった家庭の唯一の

贅沢だった。Rデパートの中を一巡して、何も買わずに帰る。それだけで嬉し
かった。

 優しかった母も、今はもういない。香世子は、言い知れぬ孤独感に襲われた。

 Rデパートの店内をゆっくり1時間かけて巡りって出てくると、外の空気はいちだんと肌寒さを増していた。

駅へ急ごうと足を速めた時、ツリーの下に座っている易者に
気づいた。

 今まで、こんなところに易者などいなかったはずだ……。香世子は、その易者が妙に気になった。マントのような服で

全身を覆い、にこやかな表情でちょこんと座って
いる。頭巾の中からのぞくその顔は、何と5年前に死んだ

香世子の母とうりふたつで
あった。

 道行く人々は、易者の存在などまったく無視するかのように、目もくれず通り過ぎていく。香世子は、その易者が自分だけを

待ってくれているような気がした。おそる
おそる近寄ってみると、易者は、目尻を下げ、顔を皺くちゃにして笑った。

(お母さん……)

 香世子は思わず声に出しそうになった。

「どうぞ、いらっしゃい」声までが母にそっくりであった。

 香世子は、易者の向かいに座り、「お願いします」と頭を下げた。

 26歳、事務職、独身でひとり暮らし……易者は香世子の掌を見ただけで、ぴたりと言い当てた.占いなど、

およそ非科学的なものを信じない香世子だが、これには驚い
て、信じてみようという気になった。

「あの、私……恋人は見つかるでしょうか……」一番知りたいことを率直に訊いてみた。

 

 蒲田の1LDKのアパートに帰ると、部屋の中はしんと冷え切っていた。香世子は素早く着替えて、こたつに潜り込んだ。

7時半に洗濯機を回し、8時からラジオの英会話講
座を聴き、9時を過ぎるとコーヒーを淹れ、図書館で借りてきた本を読む。

香世子は
毎日のスケジュール通りに行動した。この規律が少しでも乱れると、落ち着かないのである。

 それにしても、あの易者、お母さんにそっくりだったわ。まるで、私のことを何でも知っているようだった……。

香世子は、読みかけのルソーの哲学書の内容などまっ
たく頭に入っていなかった。ページをめくる手を止め、

ぼんやりと考えた。

(明日、生涯をともに過ごす男性に巡り逢う)

 易者に言われたことを何度も思い返していた。まさかね……。

(明日は真っ赤な服を着てお出かけなさい。あなたの望みはきっと叶います)

 真っ赤な服だって……。適当なこと、よく言えたもんだわ、バカバカしい。子供だましの占いを真に受けるほど、

私も幼稚じゃないわ。

 それでも、香世子は悪い気はしなかった。明日に希望を持つとは、こんなにも気分のいいことなのか。

珍しく一杯だけ酒を飲み、陶酔の中でまどろんだ。

 

 朝の日比谷駅。通勤客が電車からどっと吐き出され、連行される奴隷のように黙々と改札口へ急ぐ。

灰色のスーツの群れの中で、赤いコートはひときわ目立った。

 これじゃ、赤というより茶色ね……。香世子は、コートの袖のほつれた糸をむしりながら、駅の階段を上がった。

高校生の時に母から買ってもらったが、ほとんど着な
いままタンスの中で眠っていたコートである。

 会社に着くと、同僚たちの視線が香世子に集中した。香世子は普段、黒を基調とした服ばかり着ていた。

誰もが香世子と言えば黒、というイメージをもっていた。それ
が、今日は初めて見る真っ赤なコートでの登場である。

 香世子は恥ずかしくて、うつむいて更衣室に駆け込み、制服に着替えた。

 

 夕方、Rデパートにやって来た。易者は赤いコートの香世子を見て、満面の笑みを浮かべた。香世子は、言われた通りにして

しまった自分が敗けたようで悔しくて、易
者と目を合わせず、黙ってRデパートに入って行った。

 5階の書籍売り場で立ち読みをし、出て行こうとした時、いきなり後ろから強い力で腕をつかまれた。振り返ると、

警備員が立っていた。

「ちょっと、来てください」警備員は静かに、しかし強い口調で言った。

「な、何ですか……」香世子は戸惑った。

 警備員は、問答無用といった調子で、香世子の腕をぐいぐい引いた。香世子は、訳が判らぬまま書籍売り場に連れ戻された。

若い女の店員が来て、香世子の顔を不躾な
くらいにじっと見た。

「違います。この方じゃありません。もっと若い人でした」

「えっ……ち、違うんですか!?」警備員はしどろもどろになって言った。

 どうやら香世子は万引き犯と間違えられたらしい。警備員は、深々と頭を下げて、事情を説明した。

「すみませんでした、赤いコートの女性だと聞いたもので、てっきり……」

 物静かな香世子だが、あまりの怒りと悔しさで顔が真っ赤になった。いい気になって、普段は着たこともない赤いコートなど

着たおかげで、こんな目に遭ってしまった
自分が滑稽だった。おまけに店員の『もっと若い人』という言い方も

気に入らなかっ
た。私だって26歳、充分若いのよ!

「もう、こんなデパート、二度と来ませんからね!」香世子は自分でも驚くくらいの大きな声を出して、憮然と立ち去った。

 アパートに帰ってから、ますます惨めさが込み上げてきて、風呂につかりながら泣いた。

 

 翌日から香世子は、また黒い服を着るようになった。会社からの帰り、Rデパートの前を通ると、

易者は依然としてにこやかに座っていた。

 香世子は、易者に文句を言ってやろうと思って来たのだが、急にその気は萎えてしまった。母に似たあの易者には

、心の中をすべて見透かされているような気がした。

 香世子は判っていた。易者の言う運命の男性とは、あの警備員であることを。間違いと気づいて謝った時の誠実な態度に

、香世子は惹かれていた。あれほど素直に謝罪
している相手を許そうとしなかった自分の方が愚かだった。

謝らなくてはならない。

香世子は、自分の正直な気持ちに従うことにした。

 店内をしばらくうろついてみたが、あの警備員の姿はなかった。香世子は思い切って、書籍売り場の例の店員に尋ねてみた。

 店員は、昨日はすみませんでしたと謝って、警備員はクビになったと言った。香世子ははっとして、自分の件が原因かと

訊いた。店員は歯切れの悪い物言いで、はいと
もいいえとも言わなかった。

 香世子が落胆して店を出ようとした時、店員が追ってきた。

「昨日の警備員さん……立花さんっていうんですけど、警備会社を辞めたわけではなくて、よその現場に移されたんです。

ビルの建築現場にいます」

 そう言って、店員は品川にあるビルの住所を告げた。香世子は礼を言って、Rデパートを後にした。

 易者は香世子を見て、深く、ゆっくりとうなずいた。香世子もうなずき返した。

 

 品川の建築途中の超高層ビルは、工事用車両が巻き上げる粉塵で霧がかかったようにかすんで見えた。

 香世子は、ビルのぐるりを一周して、立花の姿を探した。立花は休憩中で、ちょうどジュースを買って

戻ってきたところだった。香世子を見て、驚いてジュースの缶を
落っことしてしまった。

 香世子は、缶を拾って立花に渡し、頭を下げた。

「昨日は私、大人げなかったと思います。嫌なことがあって、いらいらしていて……すみませんでした」

 立花は、とんでもないと大げさにかぶりを振った。

「自分の方こそ、謝らなくてはなりません。すみませんでした」

「ですから、いいんです、あれは……」

「いえ、違うんです。嘘だったんです」

 立花は、太い眉毛をハの字型に下げて、困ったような顔をして香世子をじっと見つめた。がっしりした体格と柔和な顔つきが

アンバランスで、香世子はますます立花に
興味を持った。

「嘘って……」

「俺、3年前からRデパートで警備をしていましたけど、毎日来られるあなたを見て、ずっと……話しかけるチャンスも

なくて……何か、きっかけがほしくて……」

 立花は早口に言って、大きく深呼吸してから、ゆっくりと続けた。

「あの本屋の店員には、協力してもらったんです。芝居だったんです。俺、あそこを辞める覚悟で……

店には迷惑をかけましたから……」

 香世子は、ぽかんと口を開けていたことに気づき、あわてて口に手をやった。

「あなたをあんなに怒らせてしまって……本当に申し訳なかったと思っています。子供でした、俺……

あなたと話すきっかけがほしかったんです。3年間、ずっとあなた
を想っていました」

 突然の告白に、香世子は何と答えていいか判らなかった。こんなことは初めての経験である。おそらく、

これからの人生にもないことであろう。

 立花は、もう一度謝って、頭を下げた。そして、ぴんと背筋を伸ばして、香世子を見据えた。

「失礼ついでに言います。昨日のお詫びに、食事をごちそうさせてください」

 香世子は、もはや半開きの口を隠すことさえ忘れていた。

 

 香世子はその夜、なかなか眠れず、ベッドに入ったり起きたりを繰り返していた。

 立花は、来週の月曜日、Rデパートのツリーの下で待っていると言った。香世子の答えがイエスなら赤い服を、

ノーなら黒い服を着てきてほしい。映画の台詞のよう
に、そう言ったのだ。

 香世子は戸惑った。自分を必要としてくれる人がいて、自分もその人を必要としている。今すぐにでも立花の胸に飛び込んで

いきたい気分だった。しかし、幸せを願い
つつも、いざそれが手に入りそうになると、なぜか尻込みしてしまうのである。

 難関大学に絶対合格と言われながら、受験当日に高熱を出し、実力が出せなかった。お見合いの日はきまって

腹痛を起こしたし、就職する時だって、第一志望の会社
の面接日に寝坊をしてしまって、

泣く泣く第二志望の現在の会社に決めたのである。

 なぜ幸せを怖れてしまうのか、自分でも判らなかった。自分の心の中をのぞき込むと、そこは果てのない宇宙のようで、

広大なのに窮屈で、永遠であるのに刹那のよう
であった。

 香世子は、文字通り頭を抱えてしまった。

 

 翌日、土曜日で会社は休みだったが、香世子は電車に乗って銀座まで出かけた。

 Rデパートの婦人服売り場に来た。店員は、香世子が何も買ったことがないのを知っていたので、声をかけてこなかった。

香世子は、コートがほしいと自分から店員
を呼んだ。

 店員は驚いて寄ってきた。「どういう感じのものをお探しですか」

 香世子は、迷った。冷や汗が流れて、口の中が乾いた。

(食事に付き合っていただけるのなら、次の月曜日、赤い服を着てきてください。黒い服なら、あきらめて黙って帰ります)

 立花の言葉が、香世子の頭の中で駆け巡った。のぼせ上がっている自分と、それを冷静に見ている自分とがないまぜに

なっていた。

 店員はいぶかしげな顔で、香世子の返答を待っていた。

「く、黒っぽいものを……」香世子は小さくつぶやいた。

 デパートを出ると、ツリーの下に易者が座っていた。香世子は、易者にことの顛末を話した。話しているうちに、

感情が込み上げて、涙が溢れそうになった。

 易者は、香世子の手を優しく握って、自分の心と正直に向き合いなさいと、諭すように言った。

「その、自分の心が判らないんです」

「人生なんて、ルーレット・ゲームのようなもので、どんな目が出るかまったく判らない。でも、あなたはまだ、

ルーレットを廻してさえいません。怖れを捨てなさい」

 易者は香世子の両のほおに手をやり、顔を上げさせた。

「私は結婚した時、とても幸せでした。かわいい娘もできて、自分の人生はバラ色だと思いました。でも、

あなたも知っているように、家が火事になって、私と夫は死ん
でしまった。人の一生なんて、虚しいもんです

無情です。だからこそ、精一杯楽し
まなきゃ、損だと思うのよ。生きてるうちに、後悔のないように、楽しまなきゃ。

んだ人間が言うんだから、間違いないわ」

 香世子は、目の前の現実を疑いもなく受け入れていた。

「お母さん……」母のひざに顔をうずめた。

「あなたには、人生を精一杯楽しんでほしいの」母は、香世子の頭を優しく撫でて、

「楽しみなさい、楽しんでいいのよ」と繰り返した。

 

 香世子は、アパートまでの道を歩きながら、「人生は遊びじゃないんだわ」と、自分に言い聞かせるように声に出した。

 大学在学中に両親を亡くし、苦労して生きてきた。

 廻りの同年代の女性たちは、旅行やカラオケや、おいしいレストランの話ばかりしている。腹立たしかった。

自分はこんなに辛い思いをしているのに……。人生は遊び
じゃない、もっと厳粛に受け止めるべきものなのだ。

他人を軽蔑し、ストイックに自
分を律してきた。

 しかし、その厳しさから、いったい何を得たのだろう。誰かの役に立ち、誰かを幸せにし、

そして何より自分を幸せにしただろうか。

 私は、幸せを怖れている。自分は幸せになる資格などないのだと決めつけ、殻に閉じこもって生きている。

 心の宇宙は、入り込めば入り込むほど、ますます広がりを見せ、つかみどころがなかった。

ルーレットを廻すことさえしなかった、この26年間。今からでも、私は変わ
れるのだろうか。

泣きたいくらいの幸せというものを、一度でいいから感じてみた
い……。

 赤か、黒か。まさにルーレット・ゲームだ。

 

 いよいよ月曜日の会社帰り、香世子は喫茶店で時間を潰し、心を落ち着けてから、Rデパートに向かった。

伏せていた目を思い切って上げると、クリスマスツリーの下
には、スーツ姿の立花がかしこまって立っていた。

香世子を見ると、飛び上がって大
きく手を振った。

 香世子は、恥ずかしさのあまりまたうつむいて、一歩一歩、ゆっくり歩み寄っていった。

(赤というより、茶色ね。でも、これしかなかったんだから、仕方ないか……)

 香世子は、コートの袖のほつれた糸をむしりながら、顔まで真っ赤にして、微笑んだ。

 

 易者の姿はその日以来、見かけることはなかった。

 

                             −終−