File,2;いざ九州へ!!

1998年8月15〜16日(大宮〜富山)
1998年8月16日(富山〜豊岡)
1998年8月17日(豊岡〜小倉)
1998年8月18日(小倉〜長崎)
1998年8月19日(長崎〜熊本)
1998年8月20日(熊本〜阿蘇)
1998年8月21日(阿蘇〜別府)
1998年8月22日(別府〜博多)
1998年8月22〜23日(京都〜東京)
これがホントの網棚!?


1998年8月15&16日(大宮〜富山);なんで日本海なの?
昨年の北海道制覇に味を占めて、私達は今度は西へ向かう事にした。ただ、普通に東海道を通っていくのはつまらない、と考えていた。そこで、『暇な脳細胞の宝庫』とも言われる私の出番となった。「日本海を見ながら行ってみたらいいじゃん。新潟まで夜行で行くってのもアリなんじゃないの?」。この鶴の一声で、九州へ行くのに何故か北上する“???”なコースを採用する事にした。夜行で新潟まで北上し、そこから一気に西へ向かうコースである。日本海をまる2日お供にする壮大なコースともいえる。それまで太平洋はおろか瀬戸内海も見ないのである。

こうして長丁場となる九州旅行がスタートした。北海道旅行に引き続き、またまた大宮駅発23時37分発の夜行快速『ムーンライトえちご』のお世話になった。もはや、御用達列車である(笑)。ただ、今回は終点まで寝ていられない。新潟に到着するのは朝の5時(!)ごろ。普通の人は間違いなく寝ている時間だ。新潟で難なく乗り換えを済ませ、眠りまなこのまま弥彦線という普通のローカル線に乗った。時たま面白い名前の駅があったが、やはり眠気は取れない。終点の柏崎に到着した時には天気も大荒れ、しかも乗り換えた列車は混雑しっぱなし。車窓からは荒れた日本海が間近に見えた。ホームの真下がすぐに海岸という非常にダイナミックな駅「青海川」では、本当に波がホームに飛んできそうな勢いだった。まさしくダイナミック!!

終点の直江津駅に着くと、私は座席をゲットすべくホームを走った。「人込みの中をはちょこちょこ走りぬけるのが得意っぽい」というあまり意味のない理由で抜擢されたが、見事席をゲット。ここから富山まで約2時間。寝台列車を改造した変わり種普通列車に乗れた。元特急仕様の列車だけに揺れがそんなになく、うとうとするにはもってこい。さすが、居眠りの為に作られた列車である。もっと長く揺られていたかったのだったが、ます寿司の富山駅はもうすぐ近くにまで迫っていた!気持ちは正直なもので、ぱっと目が覚めてしまった(笑)。

青海川駅
ホームの向こうはすぐに日本海。通過した時には激しい雨が降っていました。



戻る



1998年8月16日(富山〜豊岡);ます寿司とぶり寿司
富山駅。ここは名だたる駅弁ファンにとって有名すぎる場所。東京ならどこでも売っている(?)「ます寿司」が普通に駅のホームに売っているのだ。当然の如くお客さんはます寿司へ直行。しかし、ひねくれ者の私は、そんなメジャーなものを買わずに、「ぶり寿司」を買った。ます寿司ほど有名ではないものの、隠れた「名物」として有名な弁当なのである。押し寿司の具としての「ぶり」が最高に美味!!ぶり寿司の隠れたうまさに気づかない人たちを尻目に、悠然と買って列車に乗り込んだ(照)。

ここからは、富山から一路、金沢・福井を経て敦賀へ向かった。敦賀では隠れメンバー「M」との合流という大イベントがあった。彼は、滋賀県に住んでいたので、この様な事態となったのである。「M」は連絡に関しては本当におおざっぱなお方なのだ。当時携帯を持っていなかったため連絡手段は何もナシ。しかも、私の携帯の番号まで忘れていたという適当極まりなさ…。こっちから連絡も取れないし、連絡ももらえない状態。本当に旅行に来るかどうかも怪しいものだった(苦笑)。従って、メンバー全員、案外ヒヤヒヤしていた(そんな事も気にせず私は敦賀に着くまで爆睡していたのだが)。ま、無事に逢えて、ここでお土産(車内食)をゲットして次の目的地、舞鶴へ出発した。

ここで、今回の旅行メンバーを紹介。ます寿司を食べたいが故にこのコースを選択した管理人こと「こじこじ」と、Marsメンバーの「K」、それに今後様々なハプニングを醸し出すこととなる「T」、以上3名が北海道組。それに隠れメンバーこと「M」の計4人で今回の旅行メンバー。舞鶴到着後は、兵庫の豊岡というところに向かった。駅までは無事に着いたのですが、宿に行くまでに迷ってしまいまい、一苦労。本屋も閉まっていたため場所も調べられず、宿のおばちゃんに電話をかけて聞く顛末。駅から歩いて2・3分のはずが大回りをしたお陰で15分に…。明日の夜にはやっと九州入り。まだ北陸を通過しただけなのだ。
戻る


1998年8月17日(豊岡〜小倉);九州突入
朝6時30頃、豊岡を出発。何やら、ここはコウノトリが最後までいた場所だとか…。近場には城崎温泉など渋目の観光地も点在していたらしい。1泊で素通りしてしまうのが周遊旅行のキツイところなのである。とりあえず、鳥取へと向かった。皆さんは、朝が早かったせいで鳥取までぐっすりだったのだが、こじこじのみはそうはしてられなかった。日本で一番怖い鉄橋?という噂がある『餘部鉄橋(あまるべ)』というものがあるからだ。吊り橋から手すりを取った様な鉄橋、と考えて下されば判りやすいのではないだろうか?そんな所を列車が通るのだ。当然、風の強い日には列車が運行不可。だが、ファンにはこの危うさが堪らないのである。限界と背中合わせの美しさとでも言えば良いのだろうか。本当なら途中の駅で降りてこの危うさを眺めてみたかったのですが、時間の関係でそうも出来ず、涙を飲んだ。

鳥取到着後は、早速駅弁の購入。かにのシーズンではなかったものの、買った駅弁は『かにめし』。かにをほぐしたものがご飯の上に降りかかっている、普通の駅弁だった。朝からかに(たとえほぐしでも)を食べられるだけで満足、満足!でも、鳥取砂丘は駅から遠いために見れず。ちょっと残念。ここからは、鳥取・島根を横断することに。列車の乗り換え時間も到って少ない(10〜20分ほど)ため、駅の周りもうろうろできないとてもキツイ行程…。だいたい5時間ぐらいこんな状況が続いた。将棋大会は2時間、居眠りは1時間で終わってしまい、ぼんやりと外を眺めるにはもってこいの時間…。視界には、日本一大きい木製ドーム『いずもドーム』や、宍道湖が飛び込んでくるものの、イマイチパワー不足。そして、島根を横断し終わるころ、やっと海が!!日本海の海、しかも荒い(その日は天気が悪かった)!ふと、昨年行った北海道を思い出した。『だいぶ西に来たんだなぁ…』と実感してしまった。同じく昨年北海道に行ったKとTも同じ事を思ったようで、じぃーっと外を眺めていた。北海道には行っていないMはとても気持ちよさそうに寝ていた(笑)

そんなこんなで、山口も通過し、本州最先端の地である下関に到着したのが19時過ぎ。当初予定していた、船による関門海峡通過は決行できなかったものの(船が既に終わっていた!)、関門トンネルで本州に別れを告げ、九州にあいさつ。九州最初の駅「門司」は、駅の隣にビール工場(おそらくサッポロ)があるため、かなりビールの匂いがする駅。ビールが苦手なこじこじには恐ろしくたまらない駅といえる。ここから、ちょっとUターンして、昭和の始め頃まで栄えていた「門司港駅」に表敬訪問。本来ならば、下関からの船がこの駅に着くはずだったのだが…。駅がライトアップされていて、男4人にはもったいない姿を見せていた。。。が、そんなことは気にも留めず、本日のお宿「小倉」に向かった。

列車の真ん中に注目 鳥取駅で
因幡の白兎で有名な鳥取にて。
正面には『うさぎ』のイラストが!




鳥取駅でのなつかしいヒトコマ。
行先表示板が手で変えられてました




セピア色の日本海 夜の門司港駅
思わず撮ってしまった風景。のんびりした
列車のなかだから見れる風景なのです!
ちなみに今の列車は窓が開かないのが多いので風も感じられない…
西洋の駅を思わせる門司港駅。
昼見ても夜見てもとてもキレイ。
モデルはローマ駅だそうです

戻る


1998年8月18日(小倉〜長崎);ハウステンボスと稲佐山事件
この日も朝は早かった。小倉で泊まったのは、場所は駅から近いけど道端とかに胡散臭いオジサマが俳諧しているような場所。顔にキリキズがついてしまっているようなオジサマが…。でも、安かったので文句はナシ!とにもかくにも、小倉を6時頃に出発。今日の目的地は長崎。博多を通らずに、長崎へ(帰りに博多を通るため)、というコンセプトのもとで選ばれたのが筑豊本線というローカル線。かつて、九州北部は炭坑の町としても有名だった。そのときに活躍したのが筑豊本線。石炭が出なくなってから、この地域は寂れてしまった。筑豊本線も例外に漏れず寂れた。周りの風景はゴーストタウン一歩手前。寂れ放題…。でも、なんかほっとしてしまう、こういう雰囲気って。。。

列車を乗り継いで、第一の目的地鳥栖へ到着。ここで、不思議な名刺を「K」からもらった。「K」からは「さっきの列車で話し掛けてきたオジサンがくれたんだけど…」との返事が。確かに、筑豊本線の列車に乗っている時にオジサンに話しかけられた。運転席の隣に立って車窓を眺めていたら。「どちらまで行かれるんですか?」と。たしかにそのオジサンは鉄道ファンらしく、太い時刻表を持っていた。こじこじを同類項だと思ったらしい。だが、その時は『オジサン<車窓』だったため話を聞き流していた。名刺には「鉄道なんとか家」と書いてあった。案外その筋では有名なかただったのかもしれない。もしもそのときに仲良くなっていて今も連絡を取っていたら、こじこじの職業がルポライターになっていたかもしれなかったのに…。ちょっともったいない事をしてしまった(照)。

鳥栖に到着した時点(朝の9時ごろ)で、朝から降っていた雨は止み、やっと夏空が戻ってきた。ハウステンボスまではあと2.5時間。佐賀を通過するとき、ちらっと次の日に見る予定の有明海を横手に見つつ、いよいよ到着。駅名は『ハウステンボス』というそのままのもの(笑)。テーマパークには非常に疎いこじこじには混んでいるように思えたのだが、他の人のはなしを総合すると「空いてる」とのこと。海に面していて、潮風が思ったより心地よかった。ここは純粋な遊園地ではないので、(花畑とかもあったりする)楽しみ方の割合をこじこじ流に割り振ると『遊ぶ4、のんびりする5、残りの1』。ただ、園内にあるホテルに泊まることはないかも。1日使って長崎もしくは佐世保あたりから遊びに行く、というスタイルがベストなのでは?ただ、建物そのものは石積みでオシャレでキレイなものが多いので、見る価値は大アリ。あと、『天星館』という占いの館。思ったよりあたる。出生時間と出生地が判れば、更に詳しいデータが!園内を自転車で回るのも悪くはない、といえる。

夕方にはハウステンボスを出発して、長崎へ向かった。本日のお目当ては夜景。長崎は、日本3大夜景のひとつ(ひとつは昨年行った函館。もう一つは神戸)。ロープエェイの終わるギリギリの時間21時に、市街にある小高い山、稲佐山山頂に到着。風がとても強かったため、キレイな写真は撮れなかった(ToT)。。。だが、ここでこの旅を揺るがしかねない事件が勃発!!こここまでミスらしいミスがなかったメンバー「T」が大ポカをしでかしたのだ。この旅行の命綱ともいえる【青春18きっぷ】を落としてしまったのだ。道端で1万円を落としてしまった(18きっぷは1万円ぐらいする)ようなもん。学生にとっての諭吉さんは神様みたいなものだけに、大ショック!!といえる。本人は、ヘコミながら「胸ポケットに入れといたんだけど…」というのがやっと。いくら周りを探しても見つからなかったため、捜査本部は稲佐山の山中に飛んでいってしまったと判断、捜索を断念。しかも、「T」は、夜景撮影のために持ってきた三脚も、『きっぷ騒ぎ』のために使う事ができなかった。「T」にとっては踏んだり蹴ったりの1日だった。

ハウステンボス
ハウステンボスを一望!左がキレイな建物群です
ハウステンボスのキレイな建物群
キレイな建物群の前でパパラッチされてしまった
写真がコレです(笑)



戻る


1998年8月19日;長崎市内見物(ちょっとクワシイ名所案内)
久し振りにまともな朝食(温かいお味噌汁が付く様な宿の朝食)を、長崎港を眺めながらとった。泊まった宿が港関係の人が泊まるような施設だったのである。『○○員のための施設』というのは公共の宿並にすごしやすい。その上、割合オテゴロ価格で泊まることができるのでオススメである。宿を出て、まず向かった場所が『オランダ坂』。幕末の頃、ここら辺に多くのオランダ人が住んでいたことから、この名が付いたそうである。思ったよりもきつい坂だが、夕方ごろに歩いてみるとなかなか雰囲気のあるスポットなのだろう。行った時は、日がさんさんと照っている日中だった。とても暑かった。坂を登りきってから『大浦天主堂』という所へ。ステンドグラスがとても奇麗だった。ちょうど中に入った時にはミサをしていた。とんがり屋根の古い建物だったが、国宝に指定されてるだけのものだな、と感じた。

大浦天主堂の目と鼻の先にあるのが『グラバー園』。昔長崎の各所にあった古い洋館を集めた場所だ。幕末に活躍したイギリス商人グラバー(その後、日本に帰化して倉場とかいう名字にした)の土地に作られた。山の中腹にあるため長崎市街の眺めも非常に良い。そのうえ、夏場にはライトアップもされる。ちなみに、日本初の洋食屋「自由亭」も移築されている。コーヒーか何かが飲める喫茶店が中にあったように思われる。グラバー園を見終わって、ちょうど小腹が空いた時間になったので、ちゃんぽんのお店を探した。が、お土産を探していて時間がなくなってしまったので、そばにあったちょっと大き目の店に入った。店の名前は確か『四海楼』。ちゃんぽん発祥のお店らしい。店に入るなり2階(3階)のお座敷に通された。「たかがちゃんぽんでそこまでしなくても良いよ〜」と思いつつ、食べた。思ったよりスープが薄かった。こればかりは個人の好みも入ってくるので判らないのだが。そうこうしているうちにまたもや時間がなくなってきた。列車が発車するのが16時30分ぐらい。その間に、眼鏡橋と長崎原爆関係の建物を見る目標を立てていたからだ。『眼鏡橋』をちゃちゃっと見て、近くにあったカステラ屋『福佐屋』でお土産を購入。福佐屋はカステラの老舗。文明堂みたいに全国展開していないところがこじこじのお眼鏡にかなった

そして、一路浦上に向かった。ここからは原爆の凄まじさを思い知らされることとなった。原爆で鳥居の片方が倒れてしまった『片足鳥居』。今も立っている鳥居の片方の片隅に折れた鳥居が保存されている。そして、原爆資料館へ。予想はしていたのだが、「…」という感じで声がなくなった。特別展示として、『インドの子供が書いた平和への想い』というようなテーマの絵画展があった。そこには兵器がごく自然に出てきていた。良い悪いはとにかく、日本とインドの子供の違いを漠然とながら感じた。そのあと、『平和公園』へ。昼下がりにサッカーに興じている子供を見掛けた。のどかな風景だった。「昼下がりに子供が遊べるような環境をずっと保っていかなくてはな」と思ってしまった。原爆資料館に行く前に『浦上天主堂』へも行った。中は本当に荘厳だった。ちょっと躓いても音が響いてしまいそうな雰囲気だった。サンダルで行って悪い事はないのだが、サンダルで行く事を遠慮してしまう風に感じるほどの雰囲気だった。周りには、原爆で吹っ飛ばされた銅像の残骸も展示してあった。とにかく浦上地区は原爆オンパレードだった。

それから、長崎駅へ直行。ここから熊本までは6時間ほど列車に乗りっぱなし。車窓の友は、干拓で問題となっている有明海。諫早の水門もちらっと見えた。平和もそうだが、自然も何らかのかたちで未来に残していかなければならないものである、と電車の中から思った。暗くなってからは、長崎の原爆がらみの話で、世界の政治についての話に。この日は、政治の面や環境の面でいろいろと考えさせられた1日だった。

長崎の人力車
街角の交差点にありました。長崎みたいな町にはとても良く似合う風景です
片足鳥居
原爆で半分が吹っ飛びました。半分でも鳥居は残るものなんですね
サッカーin平和公園
サッカーin平和公園。こんな生活がずっと続くとヨイですね
眼鏡橋
時間の関係でちゃちゃっと見られてしまった眼鏡橋…



戻る


1998年8月20日;熊本城と阿蘇山と坂上次郎似の管理人の相関性
この日は熊本県内のみの移動。熊本城と阿蘇山をみればそれでオワリという一見楽なスケジュール。だが、それが違うのだ!阿蘇山へ行くにはバスを使うのだが(その当時はレンタカーを借りる、という思想がメンバー内になかった)、そのバスが昼下がりの2時とか3時ぐらいが最後なのである。というわけで、午前中、しかも2時間で熊本城を見なければならなくなった。熊本城、そこは日本でも有数の名城と言われている。石垣がとても高い。そのうえ、城というものは元来坂が多いのだが、ここも例外に漏れない。名城ということで更に坂が多いのだ!悲しいかな、朝飯もまだ食べていない。メンバーの中でこじこじのみが何故か元気があった。というわけで、他のメンバーが休んでいるうちに一人で駆け回って城を見て来てしまった。「何を熊本にまで来てクロスカントリーをしてるんだろう?」とも思ったが、熊本城が有数の名城であることが手にとって判った。

そして、熊本城を後にして阿蘇山へ向かった。バス、列車の乗り換え全てが鼻の差だった。従って、食料などを補給している暇はなかった。そんなこんなで、やっとこ阿蘇山に到着したのが午後2時半ごろ。ここでのリミットは2時間という少ないものだった。まず、始めに見学したのが『草千里』と呼ばれるところ。大昔の火口のひとつで、現在では牛や馬の放牧地になっている。ポニーなんかを使った乗馬教室も行われていた。思わず寝転びたくなってしまうのだが、実際そうもいかない。フンがとても均等に落ちているのである。何度踏みそうになったことか…。あと、とにかく広い草原なので人を見つけるにも一苦労。双眼鏡がなかったらとてもとても苦労したことであろう。ただ、何時間でものーんびりとしていられる、こじこじ好みの場所といえる。

それから、バス停3個ほど奥にある『中岳火口』を訪れた。バス停を降りてそこからロープウェイに乗って頂上まで行ったのだが、「風向きと噴煙の強さ」によって見学できる火口が決まる。さらに、周囲にはシェルターも設置されていた。溶岩が降ってきたら間違いなく吹き飛ばされるように感じてしまったのも事実なのだが。そして、火口の周りに広がる『砂千里』。ちっちゃな砂漠、という雰囲気すらした。とにかく、ここで「自然は生きている」ということを再認識させられた。

そして、本日のお宿に到着したのが夕方。駅前の国民宿舎に泊まった。坂上次郎似の宿の人が色々世話をしてくれた。その度に、「ぷぷっ」と吹き出しそうになってしまった。部屋の鍵がかかりにくいことを抜かせば過ごしやすい宿だった。ここでは、早くも廊下に鈴虫が飼われていて、「♪リ〜ン、リ〜ン」と心地よい声を響かせていた。これで、この旅行の観光スポットは7割を消化したことになる。なお、冒頭に掲げた3つの共通性を敢えて挙げるならば、『スケールの大きさ』だろうか。上手いことは言えないのだが、坂上次郎似の管理人からは訳のわからないオーラを感じた。熊本には、『醸し出す』という言葉がピッタリなのかもしれない、とこじこじは勝手に思った。

熊本城 草千里から眺める眺望
熊本城は広かった!!
クロスカントリーにはもってこい?!

草千里はのんびりするにはもってこい。
心も晴れ晴れします

草千里にくつろぐ牛たち ぽっかり口を開けてます
牛もくつろいでいます。昼寝中だったのかな?

これが本当に爆発しちゃったら…、
って思ってしまいました

まるで砂漠のようvol.1 まるで砂漠のようvol.2
阿蘇山中岳付近に広がる砂千里
火山灰の砂場なのです
人が一人もいないと
他の惑星にいるみたいな感じにも…


戻る


1998年8月21日(阿蘇〜別府);滝廉太郎のふるさと
この日の日程は、大分入り。ということで時間に追われることもそんなになかった。阿蘇駅から列車の終点の宮地駅に到着。ここで3時間ほど時間が空いた。ぼーっとしてるのも難なので、駅から徒歩20分くらいの阿蘇神社へと向かった。ちなみに、南北朝時代にはこの神社を中心に一大勢力を築き、足利尊氏に対抗した地元豪族菊地氏のサポートを行った。が、結局は敗れて以後神社の勢力は小さくなった。その時代からある神社ということもあり、辺りは落ち着いた雰囲気が漂っていた。

無事、阿蘇神社を参拝してから、列車は大分県の竹田市へ向かった。途中、県境で一時期オウム真理教のアジトがある事で有名になってしまった波野村を通過し、無事竹田に到着。すぐに列車はあったのだが、時間にだいぶ余裕があることが判明したため、何本か乗り過ごすことにした。竹田市は、滝廉太郎のふるさと。他に、ごまうどんなるものも有名なことを食料担当「K」がかぎつけ、早速店へと向かった。城下町ということもあり道は割と入り組んでいたが何とかたどり着いた。店は「まつや」といった(はず)。形どおりメンバーはごまうどんを注文すると思いきや、「T」はオムライスと頼んだ。「ったく、オムライスなんていつでも食べれるのに…」とこじこじは思った。意外とさっぱりとしたごまうどんを食べ終わってのことだが(笑)。

昼食後、廉太郎トンネルなる場所に向かった。12メートルほどの小さいトンネルなのだが、中に入ると廉太郎ソングが3曲ほど流れるしくみになっているのだ。ここで、無駄に出入りを繰り返し(3曲全部聞くため)、全曲聞き終わったあとに滝廉太郎の生家を訪れた。時間の関係上、ささっと流して出ようと思ったのだが、案内のおばちゃんが列車の時間に合わせた見学コースを設定してくれた。15分のビデオをみて、廉太郎家のその後について駆け足で聞いて、筑紫哲也が滝家の後継ぎ件を持っていることを説明してくれた。このような客はよくいるのだろうか?それにしても恐ろしいほど手際がよかった。このおばちゃんのおかげで、竹田市がとても身近になったのだ。感謝、感謝。

それからは、もはや楽な移動。大分に出てから別府へ移動。本日のお宿は別府なのである。メンバーの会社の保養所ということもあり、食べ物も部屋も最高!!大分名物の団子汁はでる、温泉には入れる…。あと、旅行も2日しかない。たまにはこんな贅沢も良いでしょ。

この中を入ると鳩ぽっぽが♪
このトンネルを潜ると滝廉太郎の曲がエンドレス(?)で流れます
豊後竹田駅
現在と過去がうまく調和した街でした
ごまうどんも美味です

戻る


1998年8月22日(別府〜博多);歴戦の勇者に別れを告げる…
叶姉妹もびっくりする(ホントかよ、オイッ)、ゴージャスな一夜が明けて、今朝は別府の地獄巡りからスタート。7つぐらいある地獄の大体を制覇するにはした。が、苦労したのが間欠泉の竜巻地獄。時間がスレスレのだ。本当にジョワっと吹き出てきた。小さい穴なのにあんなによく…。思わず地獄に感心してしまった。こじこじが印象に残ったのが血の池地獄。絵の具の赤のように真っ赤なのだ。ロケでよく使われるのも判る気がする。

地獄巡りでこの旅行の観光はおわり。あとはひたすら帰るだけである。博多からの夜行に乗るため、夜までには博多についていなければいけない。鈍行列車で博多まで、というのもなかなか骨の折れることなのだが、ちょうどいい列車があった。大分から福岡県の久留米までを走破する客車列車がそれ。2001年現在はもう走っていないのだが、この当時の鈍行客車列車のエースだった。歴戦の勇者、っていうわけである。なにしろ6時間をかけて九州を横断するのだ。昨日、西から東に横断したにも関わらず…。こんな無駄な行程を組んだのは、こじこじだった。この九州横断は『こじこじ・トラップ』だったのである。

いざ、客車に乗り込んでみると、シートはボロボロ、年季が入りすぎている。残りわずかな車両へのメンテナンスを省いている感もあり、いささかがっかり。だが、向かい合わせのボックスではなくリクライニングできるのは嬉しいところ。ここでメンバーは思い思いの時間を過ごした。途中、河童伝説で有名(らしい)な田主丸(たぬしまる)を通過。ここは駅の壁が河童の顔の形をしているのだ!列車内からも容易にみえる。そして、列車は19時ごろに無事久留米に到着。歴戦の勇者ともここでお別れ。2・3ヵ月後の鉄道雑誌ではお別れ特集が満載だった。博多に到着後は、わずかな時間を使って駅構内で博多ラーメンを食べるも、チェーン店らしく味はイマイチ。不満足なままで京都行きの夜光快速『ムーンライト九州』に乗り込み、九州に別れを告げた。

竜巻地獄 一面真っ赤…
別府の地獄のひとつ、竜巻地獄 地獄のひとつ、血の池地獄。絵の具の赤色を敷き詰めたみたい…
大分駅にて 河童の顔をした駅
大分駅での客車列車連結風景
30年くらい走ったベテランも今は引退
河童伝説で有名な田主丸駅
ホームからも河童の顔が見えます!!
戻る


1998年8月22〜23日(京都〜東京);あぁ、長かった…
山陽路を一晩で走りぬけた『ムーンライト九州』。前評判では、とても寝心地の良い列車として知られていた。が、この旅行メンバーの中では評判はよろしくなかった。リクライニングをする度に音が『ぎゅ〜』とする。それがまた響き渡るのだ。しかも、冷房が寒すぎる…。「風邪ひいちまうよー」と文句をつけてる間に京都に到着。ここで、「M」は滋賀に帰るためお別れとなった。残りは奈良経由で名古屋に向かった。だが、この時点でメンバーは疲れ果てていた。奈良駅で有名駅弁『柿の葉ずし』を買い、それを食べるとひたすら睡眠…。そりゃ、一週間列車に乗りつづけてきたんだから疲れもするはずだ。東海道は特に何もなかったため割愛。東京駅に到着したのが夜。山手線に乗っていると、一日前にはオンボロ客車に乗っていたとはどうにも信じ難いのである。とにもかくにも8泊9日の長い九州旅行は幕を無事に下ろした。

戻る


A Book of Travel のトップに戻る