プロローグ

 

1994年、山岡グループ会長、山岡功は「全ての格闘技の融合」を掲げ、東士郎、高橋勇、青山浩一郎を中心とする「Total Fighting Creations」通称「TFCS」、後のファイテスト、CFAの原点ともなる格闘技団体を設立する。

が1997年1月、当時TFCSヘビー級チャンピオンであった東士郎の足の怪我による引退によって、盛り上がりを見せていたTFCSは次第に衰退していき、8月、ついに山岡功がTFCS解散を発表。

そのころTFCSの練習生だった曜真人は単身ブラジルに渡り、日本でも知名度を増してきたバーリ・トゥードを学ぶ。彼は2年後の1999年、ケン木下の誘いを受けファイテストに参戦することになる。 

ファイテストは1999年3月、山岡功とケン木下によって「戦いの最上級」を目指し設立され、格闘技の限界に挑戦している。
曜真人は6月より参戦。11月には、2度目の挑戦でそれまでファイテスト戦績無敗を誇ったケン木下を3ラウンドの末、撃破。一躍ファイテストのトップに躍り出る。
2000年1月には初代ファイテスト無差別級王者を決めるべく「エンパイヤー・ファイテスト」が開催されたが曜真人は予選リーグ開幕戦のニコルセン戦で足を負傷。その後の戦いを辞退した。

復帰戦は3月、東海ドーム。E・ファイテスト決勝戦も行われたこの大会のセミファイナル。相手はあの東士郎。

東士郎は1997年引退後、東ジムを設立。若手の育成に務めていた。しかし、ある日訪れたTFCSの後輩にもあたる伊藤啓吾にうながされ格闘界復帰を決意。それと同時に復帰戦に曜真人を指名。山岡功との交渉により東士郎VS曜真人が実現することになる。

試合は20歳にしてすでにファイテストの看板選手にもなっていた曜真人を相手に21分の激闘の末、見事に勝利し、完全復活をとげる。
そしてまだ歓喜の収まらない試合終了後のリング上で新団体CFAの設立を発表した。

2週間後、「東さんの力になりたい。」と周囲の声を押し切り、曜真人がCFAへの移籍を決意。

5月3日、東ジムで行われた会見によって東士郎が6・4東海ドームでのCFA旗揚げ大会の開催決定を発表した。


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