「五感と勘」(V)

 佐馬はごく普通の人間でしかありません。子供の頃の徒競走ではいつもビリをのんびりと走っていました。学校までは遠かったので、ちょっとばかり走ることよりも歩きつづけることの方が必要だったからでしょう。携帯もラジオもありませんでしたから歩きながらいつも授業の予習復習をしていたのです。だから、田舎道を本を読みながら歩いてくる子に出逢うと、それがマンガ本であっても嬉しくなり声をかけて励ましたくなります。

 山登りでも佐馬はゆっくりと歩きつづけます。しかし、友人に「君、いつも同じモノ食ってると周りが見えなくなるよ」と言われ、時には美味いものを食ったり、走ったり、わめいたりすることも視界に入れるようになりました。

 人間の感覚器はどうしてもパラレル思考には弱いですが、トレーニングすればどのくらいまで上達するものだろうと考えました。読書は速読法を積むことで3−5倍速にはなるというのでトライしたところ、確かに2−3倍には速くなりました。では、聖徳太子のように大勢の会話を聞き取れるのかというと、意識すればかなりの要点が掴めることは確かです。次に二つの本を並行して読めるだろうかというと・・これだけはまだまだ難しいのはなぜでしょう。自動車を運転するときは多方面の異常を感知しなければならないわけですね。聴覚だっておろそかにはできません。常時、五感を働かせているのですが一つに集中し過ぎると他の感覚が薄れてしまいます。であれば訓練を積めばかなりの線までは行けることでしょう。英会話のヒアリングもテープを速く回して練習すれば、日常会話は楽に聞き取れるようになります。イチローもバッティングマシンで、ありえないくらいの速球を前に出て打つ練習を積んだといいます。たとえその時点では打ち返さなくても、いままでの球速が相対的にゆるく見えてくるわけです。生活のリズムに緩急をつけることが感覚の鍛錬の第一歩でしょう。

 佐馬は歩く。大晦日の鐘の音を背に元日にかけて。闇の中を丹沢や高尾の尾根を歩きまわり、遥拝客のざわめきが聞こえる前には山を下る。前年から次年度へかけての2年越しの夜歩きによって、残りの364日は楽勝と感じることができるのです。帰宅して午後からのマージャンにだって負けることはありません、ご利益もバッチリついて来てくれます。丹沢を西の端から東の端まで1日で抜けてみようと歩いたのですが、暑くて飲んだ水がそのままヘソのあたりから噴き出してしまうありさま。これではいくら水を飲んでもきりがありません。やっと3回目のトライで大倉までを完歩できました。そこで、先輩方のレポートを読んで水減らしの人体改造。沙漠のラクダはコブの脂から燃料電池のようにエネルギーと水を得るとか。水が欠乏すると血液の粘度が上がって危険といいますが、それなりに粘度を上げない工夫をしてみたいと・・。

そこで、次のような課題を持って山を歩いてみました。
1夜の闇を歩く 2睡眠をとらないで歩く 3片目で歩く
4目をつぶって歩く 5本を読みながら歩く 6耳をふさいで歩く
7食事を摂らずに歩く 8水を飲まずに歩く


 これらの結果は改めて記載したいと思います。昔は夜道でも自転車で走れたのですが、今日では歳のせいかまったく走れませんでした。闇の中での動体視力が極端に弱くなってしまったようです。指先は手に限らず足の指とその間も毎日マッサージし、1本1本の感覚を大切にしています。靴下は指先が2つに分かれたものを愛用。本当はハダシで大地を踏みしめたいのです。水泳のメリットには全身運動というだけでなく、足の指をハダカにすることにも意義があるのではないかと考えているのです。人間の祖先はサルのように木にぶら下がっていたのですから、ブラサガリと手と足の指(先)を使うことが健康の第一歩ではないかと。



 佐馬は目を閉じてじっと佇んでいる。やかましかったムクドリのねぐら争いも終わり、騒然とした群の姿は薄いとばりの下へと沈んでいった。ひっそりと動きの止まった闇の中に冷気が突然に空から落ちてくる。風は吹いてくるとか流れるとか表現されるが、風は空から落ちてもくる。天空のバーストだ。はてな、と思うかもしれないが海流を考えてみよう。黒潮と親潮が銚子の沖で出会い・・なんて教わった。海流に乗って魚はここに集まるというわけだが、単に流れていたのでは衝突した海流は競り合ったまま横に向きを変えるだけだ。棒押しでも綱引きでもこれらは2次元の世界だ。

 ところが3次元の世界では、押し合いで負けた流れは頭を下げて深くもぐり込むこともある。だから、乗ってきた船が沈んでいくようなもので、逃げ場を失った魚は水面に取り残されてしまう。同じように大気の場合でも、空の上での均衡が破れた重い空気が突如バーストして落ちてくるのだ。佐馬の肌は風の流れをつかみ、嗅覚は透明な風の匂いを知ろうとしていた。明日は、明日の天気は・・とクモや蝶や水鳥や蛙のように全身で感じ取ろうと。

 船乗りは雲の下には島があると読む。では、目に見えるものは信じられるのかというと、蜃気楼や逃げ水といった幻もある。舵を失った壊れた船が雪で覆われた逃げ場のない断崖に向かって流されて行く。「もう駄目だ」と観念しながら夜明けを迎えたところ、近づくにしたがって断崖の下には緑の平地が見えてきた・・というのは「漂流」の一節。地球は丸かったのだ。

 エヴェレストが一番高いというが、高いとはどういうことだろう。ジオイドと呼ばれる平均海水面を、陸地まで延長させた時にできる仮の面からの高さということにしている。ところが地球の内部は均質とはいえないし、その他の事象からもジオイドの面は不規則でもある。そして、回転する地球の形は地軸の直径より赤道部分の方がおおよそ20kmほど長い。地球楕円体などと教科書には載っている。ということは・・地球の外から高くみえる山、地球の中心から一番遠い山っていうのはどこだろう。ケニヤ山かキリマンジェロかな・・と見ていたらエクアドルのコトハクシ山やチンボラソ山の方が高くなりそう。どなたか、こういった遠地点についての資料をお持ちでしたらお教え願いたい。

 物事の視点をどこにとるかということはさておいて、感覚の話に戻ろう。先日、面白い番組を観た。五感の働きで事象を捉えると女性は総括的、男性は理詰めの分類的という。総合的に把握している女性は、服装やお化粧など昨日と違うところはすぐ見破る。浮気の匂いを察知する観察眼はここにあるという。男性は項目ごとに分類し記憶していくから、細目を指摘されないとなかなか変化には気がつきにくいという。女性が文学的といわれる所以らしい。だから、一つ一つ足場を組んで構築していくのは男性の分野となるそうだ。

 佐馬はインスピレーションとは偶然に湧くものではなく、鍛えぬかれた感覚の蓄積の中から生まれるものと思う。今の世は「視聴覚」という表現に見られるように視覚と聴覚とにたよりすぎて味覚、嗅覚、触覚といった感覚をおろそかにしているのではないだろうか。味覚、嗅覚、触覚などが加味されてこそ人間性が豊かになれる。では、こういった面を鍛えるにはどうすればよいかというと、無にする・空白にすることも一つの手立てだと思う。

 目を覆い、耳をふさぎ、味覚、嗅覚、触覚と一つずつ消去して他の感覚器の情報から推察してみること。暗闇の中では失われた視力を他の感覚が補佐してくれる。耳を覆えば他の器官が生きることへの働きを強めてくる。味覚、嗅覚、触覚も同じように互いに補い合っているはずだ。最近の医療技術では、耳や目の感覚器官が機能しないときにも神経系に直接働きかけることで、音や光を知覚させることができるという。ともかく、教育などの分野でも無理やりに教え込むのではなく「教えない」ことで欲求を募らせ、空白を埋めるべく自発的に行動を起こさせることが肝要だと思う。

 座禅とか断食などはこういったことを追求しているのだろう。心を無にするからこそ超越した世界まで観えてくる。飢えと乾きがあってこそ生への意欲(執念)が湧いてくる。人間には生への限りない力が備わっているのに、安易に他力本願で逃げ回ってばかりいる。風邪をひいて熱が出るのは、身体自体がヴィールスや病原菌を抑え込む環境を作ろうとしているため。脳のタンパクが熱変性に耐えられるところまでは、身体をできるだけ高熱にさらすことで、より免疫性が高められ病に打ち勝つ力が生まれてくる。解熱剤で熱を下げるのはやむを得ぬ場合であって、体力の回復までのタイムラグをとるだけ。安易に薬剤におぼれていると取り返しのつかないことになってしまう。本人の免疫性の低下だけでなく、薬剤の多用が新しい耐性菌を生み出し、本来は治癒できたはずの人々まで渦中に巻き込んでいくのだから。

 佐馬は手当てという加療行為に興味を持っている。新興宗教ではないが傷病部に掌を向け気を集中することには大きな力があると思いたい。手先足先は単に神経が細やかであるというだけではなく、総合的な勘の領域にまでつながる何かが・・。サーモグラフィイーによる病人や体の温度分布などからも思念波の力が追求されてきた。群れを動かし群れを守る力とは。動物に限らず植物だって群れと縄張りを守る力が潜在的に働いているのだから、人間の中にもそういったものがあると思う。ヒーローは群れの支えの中から生まれる。群れは力であり存在の証でもある。群れることは一体となりより大きなものに変身すること。鰯の群れが、ムクドリの群れが・・。弱者は外敵と戦うときには群れる。より弱いものは囮となり群れを出て個を犠牲にして群れを助ける。群れることで個の気は力を形に表してくる。仏前や神前で手を合わせることはこの力を増幅すること。握手は手を介して気を交えること。だから握手も合掌もおろそかにせず、掌に四次元の気を込めてしっかりとしたいものである。

 佐馬は「生まれつき運の悪い人など滅多にいるものではない。ただ、感の鍛え方が足りずに勘が悪いだけなのだ」と思う。



「樅」

独り尾根にあり 往く雲に背を向ける

北辰より降る風はどよめき 明けやらぬ山はゆらぐ

幹から枝 枝から梢へと駆け抜け 枯葉は冬へと旅立つ

しなやかなふりを装い 樹はトキの流れに胸を張る

愚直なまでに 堅く冷たき岩を抱き

乾いたあらわなその足根は 残りしものの誇り

孤独のつぶやきが ただ赤く染まる


−「五感と勘」(V)完−


※オカルト的な話になってしまいましたが、座禅・断食・千日回峰行・山伏の加持祈祷など、こういった中にも21世紀へ向けてのヒントがあるのではないでしょうか。五感と勘の話はあくまで独善と偏見の立場で書かれたもの、筋の通らない点などはご容赦下さい。