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失敗したせいで、元の出来と比べると60点っす (TT) 2001年9月30日(日) 不幸と第三者 想像の域では完全に理解する事ができず、経験や体験によってのみ 知りうる事の出来るもの、 その多くは良きにせよ、悪きにせよ 人の感情を大きく揺さぶるものであるのでしょう。 しかし悪きは良きもの以上に心を揺さぶる筈、そう思います。 中でも直接的な不幸の享受は享受した人の感情を大きく揺さぶり、 第三者による理解を許さぬものであると思うのです。 思うのです、と書きましたが確信があります。 幸福が不幸を超えると言うのは矛盾めいていると考えるからです。 それは盛者必衰、世の流れで幸は必ず不幸に流れる、 死が最大の不幸という価値観があるためです。 話は戻りますが、勿論その不幸に対する享受者の心境を 想像は出来ると思います。しかし 同一の感受性を持ち同一の不幸を享受しない限り、 ある程度の想像が出来ても理解する事は出来ないでしょう。それは不幸 とは、人の感受性をも考慮しなければいけないため、 「こういう事象が不幸」という具体的な定義づけが 不可能であるからだと言えます。故に「想像で知りうる事が出来ない」 不幸という事象を私はひどく恐れているのです。当たり前です。 一部を除き皆そうだと思います。 またひとたび不幸を享受した場合 、同一の不幸を享受した人、同じ価値観を持つ人 がいない限り、大きな孤独感にも苛まされるでしょう。少なくとも私は。 その場合、第三者に 念頭に置いて頂きたいのは「不幸を享受した人の不幸を、 自分の立場に置き換え、ある程度自分の 物差しで想像し、またその人の価値観、感受性を考慮する」という事で、 私がここで活字にして書かなくとも、多くの皆様が何も言わず、実践している 事であるようで、それが人の温かみ、それが道義的モラリストだと思うのです。 しかし、少し眠くなってきたので、 野蛮かつ 乱雑に書き殴りますが、糞野郎が いるのも事実のようなのです。 「痛みを知らない子供(大人)は嫌い 頭を ぶつけるまで傷つけるから」と、ラルク はROUND AND ROUNDで歌っている訳ですが、子供はまだ良いです。 ものの良し悪しがわかっていない場合が多く、育つ環境もありますし、 法で罰する事は出来ないですしね。問題は大人の方で、 私からすれば、感性の麻痺としか思えないのです。 確かに感性の麻痺は言い過ぎと思われるかもしれませんし、 私の価値観だけで語るのは間違いかもしれません。 しかし我儘な人に建設的かつ理論的な意見を述べても その人は我儘を押し通し続ける、それと同様に、 糞野郎 にどれだけ論じても糞野郎は 糞野郎である。そしてまた人の心を 踏み躙る。自分の意見に皆が協調する事が当然と思い込んでいる。 確かに彼等にもそこに至る事情や背景があったのだろうが 人の不幸を不幸と思わない人間を私は認める訳にはいかない。 そもそも感受性が強い=心が弱い、と判断されがち ですけど感受性の強さは財産でしょう、 踏み躙る人もいる中、私はそう確信してます。 この際言わせて貰うが、俺はこれでも先入観は 持たず、人の良い所良い所を出来るだけ みつける努力はしているつもりだ。 (それを努力というつもりもないが、他に適当な言葉もない) しかし許す事の出来ない人間は存在する。 例えおのれの面上に汚き石を投じられ、恥辱に満ち、苦汁の辛酸を嘗める 事であっても、敢えて耐え忍び、滑稽の笑みすら浮かべよう。しかし、 自分の大切な人に、かつ生涯の重大な刹那に、同じ石を投げられて それを許す事が出来る程俺は人間が出来ちゃいない。 その人の前で平伏し、心から過ちを悔いるまで。 |