瀬田くんへ。
 忙しいのにごめんね。気に入る内容じゃなかったらホントごめん。
 福田的にはどっちもドツボでした☆
 あと、ものすごーーーく気が向いたらでいいので、私のサイトもどうぞ→こちら
 今年はサボっちゃってるけど、'00年〜去年までの試合のレポあるので、
 興味あったら懐かしさに浸ってみて下さい☆。
 (タカバには好評だったけど、死ぬほど主観的&アホ炸裂ですが/笑)
 ではでは、↓、読みづらいと思うけど、頑張って読んで下され m(_ _)m 。
 一応文章の上の番号が読む順番です。
 バンディオンセ神戸 『Jのある場所へ』

 謙虚さを身につけた“11人の山賊”たちが
 アマチュアの最高峰を目指し、再び決戦に挑む

 天皇杯4回戦では、FC東京相手に実力の差をまざまざと見せつけられた。
 だが、本当の戦いはこれからだ。昨年は悔しい思いをした。今度こそ、JFLの舞台へ。
 驕りはない。戦力は確実に上がっている。あとはただ、ひたむきに戦うだけだ。


1.
突きつけられたJの現実
だが決戦はこれからだ

 11月5日、天皇杯4回戦。味の素スタジアムにて、バンディオンセ神戸(以下B神戸)は、J1のFC東京に0−7と一方的な大敗を喫した。3回戦では、J2の首位を走る横浜FC(当時)を相手に、後半途中出場のFW吉沢秀幸のゴールを守りきり、1−0の大金星を挙げた。橋本雄二監督曰く「狙い通り」というこの試合は、NHKのBSで全国にも放送され、一躍脚光を浴びることになった。だが、FC東京を相手に2度目の金星はならなかった。
 「現実を見せつけられた。これを真摯に受け止めたい。言い訳のできない、レベルの差を見せつけられた」(橋本監督)
 たしかに、難しい試合ではあった。なぜなら2週間後には、彼らにとって本当の実力が試される「地域リーグ決勝大会」の1次ラウンドが控えているからだ。この一年間、すべては「地域リーグ決勝大会」で優勝して、JFLに昇格するためだけに戦ってきた。ケガはもちろん、退場など許されない。ましてや、FC東京に飼っても、JFLに昇格させてもらえるわけではない――。
 日本のアマチュアのトップリーグであるJFLの下には、北海道から九州まで9つの地域リーグがある。その優勝チームが集まって、JFL昇格を競うのが「地域リーグ決勝大会」である。11月の最終週に1次ラウンドがある。1次ラウンドは4つのグループに分かれ、その中で1抜けしたチームだけが結晶ラウンドへと進むことができる。10日間で5試合もしくは6試合、チームとして持てる力全てを尽くさなければならない。個人にかかるそのプレッシャーと疲労は、想像を絶する。
2.
 昨年の決勝ラウンドでは、4チーム中3位までが、JFLへと昇格できた。決戦の地となった岡山に集まったのは、FC琉球、ロッソ熊本、ジェフ市原千葉アマチュア(現ジェフクラブ)、そしてB神戸だった。
 その中で、唯一悔しい思いをしたのが、B神戸だった。決勝ラウンドでの成績はPK戦負けを含め、1分2敗。昇格の夢は絶たれてしまった。

04年から本格的な強化
二人三脚でチームを牽引

 B神戸は元々、兵庫教員チームだった。76年に関西社会人リーグに昇格し、翌年には早くも優勝している。88年からは教員選手が少なくなったこともあってクラブ化し、「セントラル神戸」を経て05年、現在の「バンディオンセ神戸」となった。バンディオンセとは造語で、山賊の“バンディッド”に、スペイン語の11“オンセ”を加えたものだ。
 オーナーであり、GMでもある松本満生が語る。
 「実際に強化を始めたのは04年から。監督に橋本を迎えてからですね。以前から知っていたこともあり、声をかけて来てもらったんです。」
 99年からは、松本が監督としてチームを引っ張ってきた。元々は所属選手のひとりだったが、年々入れ替わる選手たちに刺激され、「もっとうまくなりたい」と精進し続けた。そして、その思いはいつしか「俺をJに連れていってくれ」へと変わり、自らがオーナーとなった。昨年、チーム名で有限会社を立ち上げ、サッカースクールと中古車販売を二本柱にして、運営資金を確保している。選手のほとんどは「社員」であり、やっと今年から、練習時間を午前中にすることができた。
3.
 「それなりの選手を抱えるには、実力だけでなく環境も整えなければならない。やっとここまで来たというころ。その環境を整えるのが自分の仕事ですよ。選手時代はFWで、何も考えていなかった(笑)。だからやる前からあれがダメ、これがダメじゃなくて、やってみてアカンかったら、また考えればいい。そう思ってここまで来たんですよ。JFLに行って、もっと困らせて欲しいですね(笑)」(松本)
 この松本と二人三脚でチームを引っ張っているのが、監督の橋本だ。茨城の日立工業から東海大を経て、93年G大阪に加入。ハードなストッパーとして活躍した。その後は鳥栖を経て、佐川大阪で引退し、そのまま指導者となった。
 「あの人(松本)を男にしてやろうという思いですね。それに僕自身、またJFLでやりたいという思いもあります」(橋本)
 コメントは謙虚だ。ベンチ前からのコーチングに“熱さ”を残すものの、失礼ながらラフプレーが目に付いた現役時代とは打って変わった。「どういう結果になっても、次につながるもの。今やっていることを誰もが信じられるように、言葉一つひとつに理論性はあるか、エゴはないかと考えながら話すようになりましたね」と、橋本は語る。
 試合に出なくても年俸が上がっていJ草創期、「あのことは勘違いをしていた」と振り返る。それは指導者になっても続き、「現役でやっていたのだから」と指導者というものに対して、驕っていたと橋本は認める。
4.
 「僕の師匠は、ガンバ時代にお世話になった美濃部さん(直彦・現京都監督)。佐川印刷(JFL)の監督時代、あの人に『どこ見てんのじゃ、辞めろ』と言われたことがあったんです。監督になって3年目、自身があった時期です。コメント、やり方、見方、それこそ立ち位置……すべてを否定された。それまで指導者とはどうすべきかなんて考えて来なかった。それだけにショックで涙が止まらなかったですね。これがあって、もっと勉強しなければという気になって、こちらに来たんです」
 『このチームに必要とされるプレーヤーになりなさい』
 『試合に出る選手は、いいパフォーマンスをする責任がある』
 橋本自身、中途半端だったと振り返る選手時代があっただけに、選手に投げかける言葉は当たり前のことが多いが、それでも、なかには辛辣になることもあるという。

 「Jから来た選手は、プライドを持っています。でも、なぜ自分がここ(関西リーグ)にいるのか、もっと謙虚になって考えなければならないんですよ。僕は気付かなかったから、落ちていった。鳥栖に行って、今までどれだけ恵まれていたのかを知ったんです。例えば、和多田(充寿)の言うことは正論なんです。でも言い方がキツい。だから『おまえは完璧なんか?』と。今年は全社(全国社会人大会)で負けましたが、森岡(茂)に『責任はお前にある。ひたむきさが足らんかった』と言ったんですよ。このレベルでも、お互い厳しくやらんと勝てません」
5.
 B神戸には、様々な意識を持った選手たちが集まっている。
 「ずっとJ1で降格争いをしたこともなかったですからね……。最初は『とんでもないところに来た』と思いましたよ」
 そう苦笑いをするのは、96年のアトランタオリンピック代表だったMF森岡茂。33歳ながら、その運動量は衰えず、チーム1と言っても決して過言ではない。
 昨年、G大阪ではケガで試合に出ることができなかった。それでも終盤は試合に出してもらったが、解雇通告を受けた。行き場を失った。
 「ケガがなくて試合に出られなかったということであれば、引退も考えただろうけど、まだできるという思いが強かった。地域リーグに関しては全く知識がなかったけれど、このチームは上を目指しているチーム。夢があるからJとあまり変わらない。ただ、入ってわかったけれど、JFLに上がるって簡単じゃないですよ(笑)」(森岡)
 今年の1月、「弁護士になる勉強をしたい」と徳島を辞めたMF鎌田祥平は、地元神戸に帰ると同時にB神戸の門を叩いた。
 「連絡したのは自分からですよ。去年、練習試合をしたときに『いいチームだな』と思っていたので。それだけです。
 鎌田からの電話を受けた松本は驚くしかなかった。徳島でレギュラーだった男がいきなり自分から「入れてほしい」と来たのだから無理もない。さらに、2月、ヴィッセル神戸のスチュアート・バクスター監督(当時)も「あの6番(鎌田)をくれないか」と言ってきたという。そのセンスは誰もが認めるところだ。
6.
 「筑波を出た後、大塚(製薬/現徳島)で骨を埋めるつもりだった。そのチームのためにプレーするという気持ちが僕自身のモットー。移籍を繰り返すなんて性分に合わない。ましてや自分だけJ1に行こうとは思えなかった。だから選手としては、プロ向きではなかったんですよ(笑)。弁護士になってもサッカーからは離れないでしょう。指導者として、子どもたちを育てたいですね。どの舞台、どんな状況に立っても、穴居さやひたむきさを持って立ち向かえるように」(鎌田)
 Jへの夢をつなぐ者もいる。
 元横浜のFW森陽一は、10月にアルテ高崎から移籍してきた。いわゆる「地域リーグ決勝大会」に向けての補強選手だ。
 「今年のホリコシ(現アルテ高崎)との契約は『前年からいる選手はとりあえず半年』ということだったんです。ですから、契約満了ということです。そこで自分からこのチームにアプローチして、拾ってもらいました。ホリコシには3年半いました。Jに戻りたい、チャレンジしたいという気持ちは、今も変わりません。また僕自身、一度決勝大会を戦っています。あんな厳しいなかでプレーすることは『もういいや』っていうのが本音ですが、高いハードルだからこそやりがいがあるし、自分のためになると思っていますからね。JFL昇格は最低条件であり、クラブにも僕にも、通過点にしか過ぎないんですよ」
7.
去年の悔しさを糧にして
今年こそ「Jのある場所へ」

 同じく補強という形で、FW和多田充寿もB神戸に入ったひとりだ。ヴィッセル神戸を解雇された後、受け入れ先がなく、半年間は“浪人”の身だった。前述のFC東京戦dめお豪快なロングスローは健在で、相手にとっても脅威だった。だが、試合後は自分の抱くイメージと、チームが積み重ねてきたものとのギャップに悩んでもいた。
 「もっとできると思うんですけど、ボールが来ないと……」
 個人的にはもっとできるという自信はあっただろうが、いかんせん、自分ひとりですべてできるものではない。この試合では存在そのものはアピールできたが、決定的な仕事はできないままに終わり、コミュニケーション不足を露呈させた。
 「この2週間で、(ギャップを)埋めなきゃいけない。伝えるべきことは伝えていかないと」(和多田)
 時間はそれほど多くない。そんななか、キャプテンであるMF津山憲毅が試合を振り返ってくれた。
 「ボールを受ける前に首を振って、今野との距離はまだあるなと思ってボールを受けたら、ガツンとやられちゃうんだもの。速い、速い(苦笑)。この2週間で劇的にうまくなるはずはないですよ。だから、一人ひとりが1タッチの精度やキックの精度とか、少しでも上げていこうという意識を持てるか。丁寧にできるか。そのぐらいだと思うんです」
8.
 高校は桐光学園。高校選手権で準優勝した。中村俊輔を生かすために黒子に徹したひとりだ。近畿大学を経て佐川印刷に入社。04年、橋本とともに移籍してきた。
 「佐川印刷時代にも地域リーグ決勝大会は経験しました。あのときは入れ替え戦も戦いましたし、あのときの喜びをこのチームでもう一度味わいたいですね。何でここまでやるかですか? 同級生の中で、俊輔は飛び抜けていて、佐原(秀樹・川崎)も頑張っている。そのふたりには及ばないですけれど、やれるところまでやりたいなと。そんなものプライスレスですよ(笑)。ただ去年、自分たちだけでJFLで行けなかった。あの悔しさがあるから、今年も頑張ろうという気持ちになったんです。とくに琉球との試合は、自分たちのつないで行こうというサッカーができていた。でも勝ちきれなかった。それが実力だったんです。今年はベースが変わらないまま、Jから選手が入ってきて勝負強さとかを与えてくれています。まだ成長課程ですが、いい準備はできつつあると思います。どれだけ主導権を握り、ボランチの僕と元気(川崎)が前を向いてプレーできるか。そして和多田と森を生かせるかどうかですよ」(津山)
9.
 去年の決勝ラウンド、一番いいサッカーをしていたのはジェフアマだった。上に上がるために、トップチームがやっているサッカーをしているからだ。次がB神戸だった。愚直なまでのサイド攻撃。ボールを奪ったら、まずサイド攻撃。ボールを奪ったら、まずサイドに預けて突破を仕掛ける。残念ながらFWの得点力が、他チームと明暗を分けた。
 橋本がしみじみと言う。
 「結局、自分の持っているものの6割を出せるかどうかでしょう。コンディション、メンタリティ、プレーの質……。でも勝ち抜くには、あと2割上乗せしたい。ルーズなミスは許されない。選手には、求めていきたいと思っていますよ」
 今年は優勝すればそのまま昇格だが、2位ならばJFL18位とのホーム&アウェーでの入れ替え戦が待っている。となると、クリスマスまで気が抜けない戦いが続く。とにかくタフでなければ勝ち上がれない。
 いよいよ、11月24日から1次ラウンドが開幕する。「Jのある場所へ」――昨年の悔しさを晴らすべく、B神戸の本当の戦いが始まるのだ。





 藤田俊哉フィールド・オブ・ドリームス
 今週の話題  普遍的な存在
「時代の流れを感じながらも ずっと変わらないものがある」

あそうか〜。自分で悩んで決断したんだから思い切り挑戦しろよ!」
 長年、いろいろとお世話にになった友人である、アディダスの担当者の方から転職する話を聞いた。そしてこれまでのいろんな話をしていたら、ものすごく月日の流れを感じたんだ。
 プロになって13年間で、いろんなことが起きている。僕はジュビロからグランパスに移籍したり、名波(浩)もこの夏にセレッソへ移った。他にもいろんな選手がチームを変えた。Jの勢力図もこの10年で様変わり。最初のヴェルディとマリノスから、ジュビロとアントラーズの時代がきて、それからガンバ、ジェフ、レッズが台頭してきた。こうして日本サッカーを取り巻く環境がいろんな顔を見せるなか、17歳の時に出会ってからずっと変わらないものがあることを思い出した。それは、ずっと愛用しているコパ・ムンディアルへの愛着なんだ。
 サッカー選手なら知っていると思うけど、コパ・ムンディアルは82年に発売された、ロングセラーモデルのスパイク(ちなみにコパ・ムンディアルとはポルトガル語で『ワールドカップ』の意味なんだよ!)。その当時、僕は11歳だった。2万円以上する高級スパイクでずっと憧れていたスパイクだった。
それを高校選手権のために初めて買ってもらって興奮したのを覚えているな〜!! カンガルー皮革だから、とっても軽くてボールタッチ感覚に優れていた。履きこむほどに足にすごく馴染んでくる。もう素足でボールを蹴っているような感じなんだ。アディダスからいろんな新商品が出るたび、担当の方から「そろそろ違うもの……」みたいな感じで薦められてきたけど、無理を聞いてもらい、一度もコパ・ムンディアル以外のスパイクは履いていない。スタイルもデザインも昔のまま。当初は西ドイツで勢さんされていて、一度インドで作られた。それを履いてみたんだけど、ちょっと違和感があったから、その間、ドイツ製のものを送ってもらっていたほど、お気に入りのスパイクなんだ。
 サッカーへの情熱と同じように、コパ・ムンディアルへの愛情もずっと変わらない。時代は流れている。でもそのなかで、こうした古き良きものとは、普遍的な評価があるからこそ、みんなから愛され続けているんだよね。
 だからいつの時代でもみんなから愛される選手になりたい。それは、僕にとってずっと変わらない最高の目標でもあるんだ。そして、僕にとって普遍的な存在はずっと応援してくれるファンの人たち。心からありがとうって言いたいし、時の流れを感じながら、みんなから愛される選手、みんなから愛される人間になれるよう、これからも頑張っていきたい。同じように、いままでお世話になったアディダススタッフの新たな挑戦へエールを送りたい。サッカーの世界は狭いからまたどこかで会えるよな、きっと……。