2001 J-League Division 1 , 1st Stage , 15th Match Day
Tokyo Verdy 1969 (0-3) Nagoya Grampus Eight
Scorer : Ueslei (02') , Moriyama (41') , Ueslei (56')
Arigato
and Sayonara !!!
2001/07/21 , Tokyo Stadium , Attendance [43,335]
Verdy
GK : 21.Honnnami
DF : 2.T Yamada , 22.Nakazawa , 5.Yoneyama , 23.Hayama
MF : 4.Hayashi (7.Kobayashi 63') , 8.Kitazawa , 16.Sakurai , 6.A Miura (25.Hiramoto)
FW : 9.Takeda (20.Iio 45') , 11.Maezono
Nagoya
GK : 1.Narazaki
DF : 18.Nishizawa , 2.Kaimoto , 3.Hiraoka
MF : 4.Omori , 6.Yamaguchi
, 7.Oulida , 26.Nakatani
(33.Fujita
65')
1.5 : 10. Stojkovic
FW : 11.Ueslei (9.Fukuda 80') , 15.Moriyama (21.Okayama 78')
セブン・イヤーズ・イン・ジャパン
ストイコヴィッチが来日して早七年、「もう七年も経ったのか」という気がしないでもない。当時、名古屋グランパスは鳴り物入りで入団したギャリー・リネカーがほとんど出場できず、レッズと共にJの底辺をさまよい続ける「超」弱小チームだった。僕自身も今ほどサッカーに関心はなかったし、その関心もほとんどが三浦和良のプレーしていたセリエAに向かっていた。「Jリーグなんかレベルが低いんだから見たって面白くない」。こんな意識が僕の中には確実に存在していた。
だが幾らかの「選ばれし選手達」が見せる一瞬の輝きは、人気低下が叫ばれ続けていたJリーグの舞台でも、全く色あせることなく僕を魅了した。「福西!このバカ!」とチームメイトを常に駆り立てた「鬼軍曹」ドゥンガ、強靱な肉体でボールを跳ね返し、時にはゴールも奪う「不屈のゲルマン魂」ギド・ブッフバルト、当時「アジアの壁」と呼ばれた井原を、いとも簡単にコケにする「浪速の黒彪」パトリック・エムボマ、機を見た攻め上がりとロングパスの妙を表現する「(Jではよくボランチを務めたが)世界最高の右サイドバック」ジョルジーニョ、CKを直接ゴールしたりリフティングで相手をかわしてからのゴールなどで、正にブラジルの神業を見せてくれた「魔術師」レオナルド、飽くなきボールへの執念から怒濤のチェイシングを止めることはなかった「モンテネグロの番犬」ゼリコ・ペトロヴィッチ。日本を舐めきった態度で出ていったブルガリア人もいたが、彼らはそんな輩とは違っていた。勝利への欲求をはるか極東のリーグ戦でも発揮し続け、僕らを魅了した数少ない外国人達。そんな彼らを差し置いてでも、僕や多くのファンが「ナンバー1」の評価を与えるであろう外国人プレーヤー、ドラガン・ストイコヴィッチ。ついに彼が7年間のプレーを終えて日本を去るときがやってきたのである。
異様な雰囲気に包まれる東スタ
僕らはキックオフから3時間も前となる16時過ぎに東スタに到着したのだが、それでもゲートの前には長蛇の列ができあがっていた。特にグランパス側のファンの列はすさまじく、駒場のゲート前にできている列よりも長いものだったような気がする。スタンドの風景も「一体どっちがホームチームだ?」というほど、スタンドの色が別れている。ヴェルディ側は半分も埋まっていない頃、既にグランパス側はほぼ満員、さらにバックスタンド側でもグランパスやユーゴのユニフォームに「STOJKOVIC・10」のプリントをした人を数多く見かけることができた。
17時過ぎだったろうか、ピクシーがスーツ姿のままピッチに現れると、一気にスタジアム全体が拍手に包まれる。その拍手と「ピクシー!オレ!」のコールが、何重にも重なり合ってスタンドに反響し、そして夏の青空へと消えていく。大きな東スタ全体に広がった歓声、しかしその大音量の中には、夏の鬱陶しい湿気には似合わない寂しさが漂っていた。
Jリーグで最後の90分
キックオフ後、わずが2分でウェズレイが右足で先制弾を叩き込んだ。得点したウェズレイだけでなく、ピクシー、チームメイトら全員が興奮を隠そうとしない。観客も一部の緑の集団以外は、立ち上がって大きな拍手をフィールドのイレブンに送っている。「ピクシーの最後は絶対に負けられない」。グランパスの選手達からは、そんな闘志がスタンドまで十分に伝わってきた。右ウィングバックを務めた大森はとりわけそれが目立っていた。キレのあるタックルとオーバーラップ。それが実ったのが41分の追加点であった。暑さのせいか、ややスローペースとなったゲームにあって、選手達の目を覚ますかのようなカミソリ・クロスを突然、大森が放つ。そこに飛び込んだのが森山泰行だった。ヴェルディのDF二人よりも高く、正に「点で合わせる」ヘッドを決めたのだ。一瞬のキレでゴールを陥れる森山の真骨頂。セルビアと同じ旧ユーゴに属したスロヴェニアでプレーし、一時はツルベナ・ズヴェズダ(レッドスター)への移籍も決まりかけたという日本の枠を飛び出した森山のゴール。彼もまた人一倍強い思いでこの試合に臨んでいたのだろう。
後半に入ると、前半にも増してスタンド全体が、ピクシーのプレーを脳裏に焼き付けようとしているかのように感じた。CKの度に焚かれる眩いばかりのフラッシュ、ボールをトラップすると同時に沸き起こる大歓声、その全てがフィールド上で舞う#10に注がれていた。56分、ヒールキックでウェズレイの二点目をお膳立てした後の約35分の間、僕は何度時計で残り時間を確認したことか!ロスタイムを一分間含んで試合終了のホイッスルが吹かれると、日本でプレーした七年の労をねぎらうかのように、スタンドからは#10を着けたセルビア人に対して、惜しみないスタンディング・オベーションが送られた。
ARIGATO and SAYONARA!
北沢や小倉から花束が贈られ、ピッチサイドでのインタビューを行い、そして場内一周となった。スタンドに舞うユーゴの国旗を見て、自然と彼の母国へと思いは至る。90年イタリアWCでの輝き、そしてEURO92での屈辱とその後の制裁。ユーゴが国際試合に復帰すると、代表選手達は世界中から自費でベオグラードへと集結したという。実家の顔写真をクロアチア人達にピストルで撃ち抜かれたという悲しみを背負うミハイロヴィッチ、ディナモ・ザグレブでプレーしていたが為に脅迫にあったこともあるというペトロヴィッチ、結果として独裁政権を追い落とすことになった学生運動に、ミニゲームで参加をするというパフォーマンスを演じたミロシェヴィッチ、NATO空爆後まず真っ先に試合をボイコットし罰金を喰らったミヤトヴィッチ、そんな彼らをチームとしてまとめ上げ、求心力となっていたのは紛れもなくJリーグでプレーするストイコヴィッチだったのである。
ストイコヴィッチは「短気な男」というイメージを多くのファンに抱かせてきた。またNATO空爆後に見せた「NATO STOP STRIKES!」のアンダーウェアと、ペトロヴィッチやマスロバルらと共にユーゴ大使館に集結して行った空爆に対するアピールも、そういったイメージに一役買っていたのかもしれない。だが、実際の「人間」ストイコヴィッチは、そんなイメージとは全く裏腹だという。セルビア民族主義が世界的に非難の的となり、その代表チームのキャプテンを務めた彼が、ナショナリズムとは対局のコスモポリタンであるということは象徴的ですらある。
イギリスのジャーナリスト、サイモン・クーパーは「世界中のスタジアムを見渡しても、サッカーが政治と無縁なのはアメリカと日本くらいなものだ」と述べている。そんな日本のフィールドで、「政治に翻弄され続けた」国のキャプテンが引退の時を迎える。七年間も彼ほどの世界的プレーヤーが「政治とは無縁の」日本でプレーを続けたというのは偶然的だが、ひょっとすると不思議な必然なのかもしれない。センターサークルで額を深々とピッチに付けた後、稀代のセルビア人は観衆に余韻を残したまま、静かにロッカールームへと消えていった。
2001/07/22