だいちん作


「塩見君、BOM-BA-YE」

 ャボン玉を想像してほしい。シャボンのあの玉は、一度姿を現すと空に舞い上がり、どこまでもどこまでも飛んでいく・・・。山を越え、河を越え、国境を越え・・・。嗚呼、ファンタジ〜。
冗談じゃない!現実はシャボン玉は必ず姿を消す。しかも短時間で姿を消す。パンッとね。

 つまり屁も、シャボン玉と同じ理論で、必ず、パンッとではないがプゥーという普遍的な音を奏で、そして消失する。しかも異臭を残し。
シャボン玉は必ず、弾けて無くなる。それと一緒で、屁もこきそうになると必ず弾ける。
屁は意識的であれ無意識的であれこいてしまうものなのだ。従って、本来、良い屁のこき方など無い。

 シャボン玉は私達の目の届かない所まで飛んで行くことがあるが、あれは、結局は弾ける場所を変えているだけで、どこかで弾けて無くなっているはずだ。
このシャボン玉必弾論にのっとると、人間もまた、我々の見えない所で、屁が出そうな人は必ずこいている。何も言わず席を立ち、数分して帰って来る人など、特に怪しむべきだ。その人が行ってきた場所に1分以内に行ってみるが良い。毒ガス充満間違いなし。
しかし、このようなどこか場所を変えて、放屁する人は良心的で非常にモラルのある人だと思うので、追及する必要は無い。それでは、人前で放屁する人はどうであろうか。屁はこいてしまうのが道理であるが、そのこきざまが重要であろう。相手が不快感を示すような屁は避けたい。

 本来良い屁のこきかたなど無いと上述したが、それは”本来”であり、その方法が皆無であるわけでは決してない。私が思うに「良い」の判断基準が曖昧なため、画一的な「良い屁」の基準が存在しないのではないだろうか。そこで私見だが、「良い屁をこく」ということは、つまり「歴史的屁をこく」ということではないかと考える。どういうことかというと、「歴史的屁をこく」ということは、後々人々の記憶に残るような屁をこくということである。「伝説的屁」とも置き換えられようか。
人に「あの時の屁はすごかった。感動した。」と言われるような屁、それが歴史的屁である。
私の経験上、歴史的屁をこいた人間は、塩見君(仮名)と西河君(仮名)しか存在しない。特に、塩見君には本当に感動した。すばらしい屁のこきざまだった。詳細は、スペースの都合上書ききれないが、いくつか塩見君屁のポイントを挙げる。@小学校での授業中、消しゴムを落とし、それを拾い上げようとした、そのシチュエーション。Aその見事なまでに研ぎ澄まされた轟音。B一瞬、桃源郷に舞い降りたかと錯覚するようなこおばしい香りC事後、0.3秒後に発した率直な謝罪の言葉。彼を屁強く支えつづけた親の愛情が並々ならぬものであったことを私は即座に理解した。放屁し、彼の育ってきた生きざまや、周りの人々の笑顔、笑顔、の数々までをも、こちら側に明確な意思をもったガスメッセージとして突きつけてきたのは彼が初めてであった。私の中でベストオブ屁である。おかげで、私は小学校時代、そんなに親しくなかった塩見君を今だに覚えている。
私は思う。屁のパワーはすごいと。

 良い屁とはつまり私にとっての塩見君のような屁ではないだろうか。人前で屁をこくのはなるべく避けたいものである。しかし、サッカーにおいてシュートの意識を常に持つことが重要なように、どうせこくのなら、放屁時は、歴史的屁を出すぞ!という意識を常時持つことが大事である。歴史的屁というのは、いつ、どこで放たれるのか分からない。だから、突発的放屁にも対処できるように我々は日頃の訓練を怠ってはならない。

 私は死ぬまでに、あと二人ほど歴史的人物に出会いたい。もちろん、私が誰かにとっての歴史的人物
になれたらこんなに幸せなことはない。

塩見君、どうしてるかなぁ。太ってたなぁ。あの子。


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