PROFILE






1961.1.13 相模原生まれ
高校卒業後,兄のしょうもない大学生活を垣間見,
活路無しと美容室入店,夜間の美容学校に通う。
『ちょっとカッコよさそうで,給料もよさそう。
自分で美人を創ってみたい』が,動機だった。
このうち,まえ2つは見事に裏切られ,朝8時より,朝の練習,
10〜5時半まで就労,6時半〜9時半まで美容学校,で、、、、
給料は¥75000だった。それで一人暮し。
秋頃からはバンドを始め,週2回は夜10〜12時までバンド練習。
まだ無名であったRCサクセションのコピーバンドで,
日本いち早いコピーバンドでなかったかと自負している。
学校の先生とお付き合いした。短い間。
少しは女の娘達にお誘いを受けていたが,
バンドに夢中でかまってらんないってな,,,
女の娘無しでもぜんぜんOKだったな。今ではとても後悔している,,,,,
学校の授業は80%は無駄なものだった。時間と金のムダ,だッ!
最近はそれが2年制とさらに長くなってしまったようでムダの上塗りかと,,,
















技術で努力や苦労はしたと思ってない。
器用な方だったからなんとなく出来てしまうといったふうだった。
まだ学校に通っている時代に,技術者もインターンも一緒の
ワインディングコンテストに入賞した。その時の審査員たち。
役にも立たない美容師実技試験のときのその審査員たち。
嘘っぽい笑顔と必要以上に着飾ったおじさん,おばさんたちに評価されても
意味はないと思った。高校時代に美術の先生のする評価も
当たり前でつまらないものだと思い出しもする。
美容師試験なんてのはその為に私達は
時間とお金を彼らに搾取されるためのものと思っている。
ともかく,コンテストや試験みたいなものはそれっきりだ。



N
Y


3年半働いて,給料は125000円になった。
カットもほぼ出来るようになり,その間に100万円貯めた。
どうしてその給料で貯められたか,今となっては不思議でしょうがない。
酒,タバコ,夜遊びもしないではいたが,
ニューヨーク。目的はソコだった。高校の時から決めていた。
全てがソコにあると思っていた。英会話にも少しは通ったが,
まるで役に立たず,1ヶ月はヒアリングもままならなかった。
NYイングリッシュは早くてこもった発音で,解らなければ馬鹿扱いされた。
週に3〜4火,5thAV.のBAMBLE BAMBLEという店に
見学というかたちで入店した。今その店は原宿に出店している。
オーナーのヘルプをし、その一流っていう技術を目の当たりにした。
驚きと戸惑いの連続だった。
スタッフの半分はゲイだった。掃除や洗濯は専門にメキシカンの人がいた。
週2日は郊外の美容学校に通い,週1日は別の美容室でバイトをした。
バイトは主にシャンプーだが,あちらのシャンプーは
なでる程度なのでかるーく洗うだけで,
強いという人もいたが多くはアメイジングと喜んでくれた。
チップに10$くれる人もいた。当時1$270円もしてたからえらいことだったが,
ちょっとしたサンドイッチが30$もしたから日々の生活は苦しかった。
その店,Chevas’sStudioはイタリア系の陽気なアンちゃんが
チャイニーズの女の子をヘルプとし,お世辞にも綺麗とは言えない店だったが,
2Fを住まい兼スタジオとし,イカしたおしゃれな造りだった。
そこからToshi’s STUDIOは頂いた。
その後,シェバスは何度か日本に来ていた。
全く違うテクニック,お客さんとの対し方,料金の高さ,
それから,ゲイ,ドラッグ,そしてミュージック。
ともかくNYはエラかった。それらは日本の土壌には
まだ受け入れられないものばかりだった。


                      








1ヶ月ほど友人とアメリカをバス旅行して,帰国する。
美容師をやろうとは思えなかった。あまりに日本のそれは冴えなかった。
ヘアメイクの仕事もしたが,その世界のコネを作るみたいなものになじめず、
続けられなかった。NYへ行く半年前から始めたダンスにしばし,没頭した。
実はNYでもお店の勉強会に出ないでダンスのレッスン(アルビンエイリーの
オフオフの黒人先生)に行ったりもしていた。
黒人にもリズム感の悪い人がいるのを発見し勉強になった。
ダンスはモダンダンスで,ジャズとバレエのレッスンに週4〜6回も通っていた。
小さなジャズバーのライブで即興や実験的なこともやったりしていた。
そのダンスの先生に生き方やその価値を教わった。[photo]
その間の収入はちり紙交換(どうものんびりしてしまい,
いつも気づくと家の建ってないようなところを、、),
焼肉屋ウェイター,飲茶屋キッチン,,,いろいろ。

                               










早番は4時半に終わるという美容室に復帰した。
ダンスレッスンに通える、、からだ。
NYで手にした技術は今でこそ当たり前になったが,
フィンガードライ,髪をねじったり,クシャクシャとしたり,
ドライカット,レザーカット,,まだ受け入れられなかった。20年前のこと、、、、、
美容を初めて半年ほどくらいからアトピーが出始めていたのだが,
顔にひどく出るようになってその為に店を止めることになった。
それはその後も含めて都合3回になる。







アトピーの落ちついた,ある日昔の仕事仲間から,
香港で働かないかと知らせがきた。
日本人経営,客も8割が日本人ということ。
給料はよくないが物価が安いのである程度貯められる。
1年契約。そのあとは中国,チベット,インド旅行を目論んだ。
綺麗とは言えないマンションのワンフロアーがその店で,
住居はその1部屋。朝は飲茶,夜は屋台で中国料理の洗礼を受けた。
それなりに高い店にも行ったが,屋台のうまさに驚かされる方が多かった。
お客さんに香港ロイヤルバレエのプリマドンナがいて,
彼女の口利きでそこのレッスンも受けた。
あの英ロイヤルバレエから先生は来ているのだがレベルは低く,
男にいたっては,自分でもちょっと練習すれば香港政庁よりお給料が頂けそうだった。
仕事に不満はなかったが,その店のスタッフは皆香港人で,
これが働かない,言うことを聞かない,,,ストレスは多かった。
半年もたとうかとする頃,日本を『発つトシ跡を濁して,,』来たので,
そのつけが来て恥ずかしながら帰国するはめになる。
当然中国など行けずじまい。

 












そんなフランスのオヤジの名前を冠した店のオーディションを受ける。
半年間勉強ができるという。実技と筆記。
ずいぶん久しぶりのイヤーな場所。
筆記はいっちょまえに3教科あったが大したものではなかった。
その場の他7〜8人は皆同じ店の人達らしく無為な時間を過ごしたらしい。
後で知るのだがジャック〜はフランチャイズで,
厚木のある店のオーナーが出店するという,彼らとのちに働くはめとなる。
ジャック〜が出来るまでなんと1年半もかかりその間既存の店舗で働いたのだが,
皆美容師にでもなろうかというような人達で,その意識の低さには閉口した。
大学で経営学を学んだその社長の激はいつもから回りしていた。
半年間の勉強というのも月にたったの1〜2回だった。
待ちわびた店舗ができて半年,アトピーが悪化,退店。情けない俺。
愛もなかった。そこにいてもあまり意味はなかった。









美容を少し離れようと思い,気持ちよさそな楽しそな旅行添乗員のバイトをした。
それなりの大変さ(長時間拘束の安ギャラ、、、そんなのには慣れていて)はあったが、
多くはバスのその旅は今にして思えば現実から少し浮遊しているような、
ヘンな時間でもあった。いろんな所に行ったが,
ごっちゃになってどこがどこだかよくわからないでいる。
少ない仲のいいお客さんや友達は自分の部屋でヘアをやらせてもらっていた。
そんな中で親や材料屋さんや友人たちにおしりを押され出店を決意する。
自信のなさには友人の『自信はやりながらつけるのよ』の言葉に勇気付けられ,
先立つ物はほとんど借りるのだが,少しはひねりだそうと昼は宅配,
夜はホテルの掃除に精出したが,血尿も出た。

Toshi’s STUDIO
ほぼ0からの出発。大変ではあったが『あっ』という間に時はすぎて、
11年がすぎました。思い出すことといえば数々のイベント。
・ ケサランパサランメイクアップセミナー
・ カラーコーディネイトセミナー
・ アロマテラピーセミナー等々

いろんなパーティ,路上ライブ(4〜5回、思えば町田初の、
アコースティック,バンドライブは私達ではなかったか),
5周年記念ライブatアンバサドール,10周年記念南條倖司&まあライブパーティ,
クラブなんてのも何度かやった(音が大きくて警察が来た事もあった)。
今はジャンベ(アフリカの太鼓)ワークショップをやっている。
近々,家庭医学勉強会なるものも予定している。
[photo]
紆余曲折,なにやら曲がりっぱなしのようだけど何とかやってこれました。
これも皆様のおかげと,12年目の今,こころあらたに精進するつもりでいます。
一つの節目としてこのHPを作りました。
新たなるステップ,はたまた終末への序奏か,,,,,
今後の私くしをお楽しみに。



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