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hisaのバイブルを紹介します。
うつ病が発病するまで、
hisaの「うつ」に対する認識は、
「うつ病」という病名さえも
ろくに知らないといったものでした。

会社内で、精神的な理由で休職している人がいても
「精神的で休むってどういうことだろう?」
などと興味が湧く程度のことでした。

そして、実際発病してみて、
うつ病に対する知識が不足していたのを痛感しました。

敵(うつ病)を知らなければ、対策を立てられません。
O先生に書籍を紹介してもらったり、
自分で探したりしました。
その中で、愛読しているものを紹介したいと思います。

☆「うつ」を治す  大野裕 著
   PHP新書  ¥660円
  これは、手ごろな値段で、
  総合的に「うつ」について迫った
  分かりやすい入門書で
  正に私のバイブルです。

☆「うつ」は心のカゼである 村崎光邦 著
   ダイソー文庫 ¥100円
  ふらりと立ち寄ったダイソーで見つけた本
で、うつ病を心のカゼと捉え、心のウガイ
法などで予防法を紹介している書です。
手軽に持ち歩け、読むたびに絶えず新しい
発見があるお気に入りの手放せない本です。

今度からのコンテンツは、
これらの本で得た知識、
役に立つ方法を少しづつ紹介していく予定です。
2001年09月09日 23時11分10秒

そして「うつ」との限りない戦いへ (9月編)
今まで、こいつ「うつ」と付き合ってきて、
失ったものも、たくさんありましたが、
「うつ」になって見えたもの・得たものも
たくさんありました。

こいつとの付き合いは、当分続くでしょう。
もう半分は、悪友と化しております。
しかし、hisaは、直ることを信じて、いつか
「うつ」を自分の中から「打ち出して」
スッキリと生きていきたいと思います。

同じ病気で苦しんでおられる方々にも
そのような日が訪れることを祈っております。

ここまで、読んでいただいたみなさま、
本当にありがとうございます。

この後のコンテンツは、
hisaが「うつ」について、感じたこと、
勉強したことなどを中心に
いろいろと掲載していく予定でおります。
たまには、この続きも書いていくつもりです。
どうぞ、これからもよろしくお願いいたします。
2001年09月09日 17時40分02秒

全日勤務2ヶ月目突入と「うつ」との戦い (8月編)
結婚休暇の主査が復帰し、私も仕事で体をいたわりつつ、
順調に全てのことが回りだし始めいてるころでした。

8月1日は、久し振りに夏休みをとり、
O先生の診察を受けました。
私は、「体の調子が今ひとつで、
8時間勤務が精一杯だ。
体力が思ったように戻らない。
休日2日休静養して
5日休まずになんとか仕事に行っているという状態だ。
休日にレジャーを楽しむだけの心と体の余裕はない。」
などと言ったように覚えています。

O先生は、「とにかく焦らないで、
疲れたら静養する。できる範囲のことをやる。
できないのなら周りに、このような状態
(うつの症状が出ている)だからできないことを相談する」
といったアドバイスを述べられました。

しかし、いったん出勤してみると、
アドバイスされたことの実行は難しいものです。

8月4日(土)には、別の係の仕事ですが、
課を挙げての大きなイベントが控えていました。
8月2日から大掛かりな準備を、
手伝い始めましたが、肉体労働が主なので、
「うつ」で体が思うように動かない私には、
かなり過酷な作業となりました。
課で一丸となって取り組まなければならないイベントで、
準備と当日と後片付けには、かなりの人手を必要とします。
全員で頑張っているので、体調が良くないとはいえ、
私だけ泣き言を言うわけにはいきませんでした。
動かない体を2日間無理に動かし、
全員の協力でなんとか準備はおわりました。

当日は、朝の8時から夜の1時までの17時間労働です。
復帰後、未だかつて無い激務に、
夜の12時ぐらいには、意識が朦朧とし、
倒れそうになりました。
イベントは、事故も無く無事終了しました。

私はフラフラになりながにも、
やっとの思いで、その場をしのぎきりました。
その後、事務所に全員で戻り、
ようやく帰る時刻となりました。
みんなが帰途に着き始めたときです、
私はあまりの疲れで
事務所の机にうつぶせたまま動くことができませんでした。
少し休憩してから帰りますと
イベント責任者やみんなに告げました。
すると、私の状態を見た責任者の人が、
「準備から今日まで十分に働いてくれたので、
これ以上働いてもらい本当に倒れるといけなので、
明日のかたづけは出てこなくてもよいから。
出てこなくても
君を誰も攻めたりするものはいないから安心して休んでくれ。」
とタオルを投げてくれました。

これには、正直いって本当に救われました。
かたづけは、朝の5時から始まります。
その時の私には、当然不可能でした。

午前2時前まで、事務所で休憩し、
やっとのことで近くの実家までたどりついた私は、
あまりの疲れで入浴することすらできませんでした。
頭の命令を体が全然受け付けず、
ただ倒れて横になっていることしかできませんでした。
いつのまにか、そのまま寝てしまった私は、
僅かの睡眠しかとれず朝を迎えていました。
朝、妻から電話があり、
妻の調子が悪いと聞いた私は、
思い体を引きずって家までたどりつき、
倒れる寸前になりながらも、
妻と子供の面倒を見ました。
この出来事で、
せっかく良くなりかけた私の体調はふたたび最悪の方向へ向かっていました。

翌日の月曜日には、
私にM市への出張が待っていました。
過労で倒れている妻を近所の人に世話を頼み、
重い体を引きずりつつも、
いつもより早く出勤した私は、
社の車を借りM市へと車を走らせていました。
M市での仕事も
イベントの補助員という肉体労働でハードな仕事が待っていました。
体が「限界」と悲鳴を挙げつつも、
淡々とやらねばらならい担当部署の役割をこなしました。
やっとのことで、出張が終わり、
会社に辿り着いた私は、
早く帰って妻と子供の面倒を看なければとあせっていました。

そんなときに限って、
就業時間を過ぎてから業務命令が来るものです。
帰ってきたら、
年下の主査が前日の疲れからかダウンして休んでいることを聞かされました。
主査の代わりに頼みたいことがあると
補佐から話を切り出されてしまいました。
内心「うわっ」と思いつつも、
妻が過労で倒れていること、
近所の人に頼んであるが、
子供の面倒をみなければならないことを説明し、
残業を断ってしまいました。
補佐が、理解のある方なので、
良かったのですが、補佐には迷惑をかけてしまいました。
明日は、必ず出てきますからと言い残し、
足早に会社を後にしました。

家に帰ってみると、疲れた妻が寝込んでいました。
ご飯の準備、子供のお守りと
私の体を休めている暇もありません。
本当に、妻と2人で限界の生活をしていました。
(妻も私が倒れている時は、これ以上にえらかったのでしょう。)

翌日、フラフラになりながらも出勤した私に、
主査は体調が良くないのでしたら休んでくださいと声をかけてくれました。
私も妻も体調がもう限界にきていましたので、
休んで妻の看病をしようと
始業ペルがなる前に家路を急ぎました。

8月は暑さと完全に体調を崩したせいで、
本当に辛い1ヶ月となりました。
「うつ」は、良くなったかと思うと、
突然足をすくうように、私に襲い掛かってきます。
完全に復職してまだ2ヶ月、
どこまで「うつ」との戦いは続くのでしょうか。
2001年09月09日 17時16分30秒

全日勤務での職場復帰と新しい病院 (7月編)
体の調子は、相変わらず不調でした。

7月からは、診断書の効力も切れ、
全日勤務の重い鎖と錘が足に絡みついて、
無理な体に鞭を打って勤務を続けているようでした。

体の調子が悪いと、朝早く起きて、
普通に勤務することが、これほど苦痛になるとは思いませんでした。

思えば、半日勤務の時は、
全日の疲れを取るために10時くらいに起きて、
それから余裕を持って
身支度をすればよかったのです。
それが、「うつ」に侵された体を
無理やり起こし、
朝の限られた時間で身支度をしなければなりません。
これには本当に疲れましたし、
そのような体の状態では、続けていく自信がありませんでした。

そのような時です。
主査が結婚休暇で10日ほど休むという話を聞いたのは。
その間、課長補佐兼係長は、
ほとんど実務を担当しないので、
新人と2人で
係の仕事をこなしていかなければなりません。
ますます仕事への不安が募ってきました。

有給休暇とは別に、
夏は5日間の夏休みを自由な日に取ることができます。
そこで、私は、主査が休む前に、
1日夏休みを取り、新しい病院で、
O先生の診察を受けることとしました。
早速予約をしたのですが、
総合病院なので、新患は、午前中しか受付しません。

妻と息子も同伴で病院にいったのですが、
待つ時間の長いこと、長いこと。
やはり、ここには重病人もいるらしく、
私が最悪の精神状態だった時のような
精神状態の人も何人か見えました。
普通の人から見れば、五体満足なので、
どこが悪いのか分かりにくいのですが、
私は一度「うつ」の深い闇に落ちた人間です。
見ていればどの程度大変なのか
痛いほどわかりました。

ようやく、名前を呼ばれたかと思うと、
この病院では新患なので、また助手の人が、
一から聴き取り調書の作成です。
結局、診察を受けたのは、12時近い時間でした。
久し振りに会うO先生、
1月からの付き合いなので、私のことをすぐ思い出し、
今までの状態について尋ねられました。
私は、とにかく元のように
体が動かないことを強調して話しました。
頭と体のバランスが取れておらず、
頭で考えるように体が自由に動かないことや、
とにかく疲れやすいこと、
頭の疲れの前に体が信号を出し、
仕事から帰るとすぐ倒れたように寝てしまうことなど
今の状況をひとつづつ話しました。
また、同席した妻からも
現在の状況を傍から見ていてどうか、
話してもらいました。
先生は、懺悔を聞く神父のように
じっと私たちの話に耳を傾け、
「とにかく、体が不調の時は頑張らないでください。
倒れて寝てしまう体からの信号は
素直に受け取りましょう。
今までどおり薬を飲んで、
2週間に一度ほど通院してください。」
とのアドバイスをいただきました。

何か不思議なもので、
O先生に話していると不思議と安心できて、
精神的にも楽になれます。
信頼感も抜群で、何でも相談でき、
無理の無い的確なアドバイスが帰ってきます。
やはり、病院を変えても、この先生でなくては、
という強い思いが込み上げてきました。
前より、遠くなったものの、
この病院に通院することを決心したのでした。

主査の結婚休暇が始まると、
体を休めるといったような余裕はなく、
仕事や、留守中の仕事を担う責任が
ずっしりと肩にのしかかってきました。
やはり、3人で精一杯という仕事を、
半病人の私と新人の2人では無理があります。
しかし、主査が帰ってくるまでは、
なんとか留守を預からなくてはなりません。
動かない体と回らない頭で、
必死に仕事に取り組みました。
(なかなか、O先生の言うように
体の状態に正直に生きるのは難しいです。)
目の回るような忙しさが続いた後、
主査が復帰しました。
問題もほとんど起こることなく、
2人でやりくりしていたので、
このときの安堵感はひとしおでした。

これで、前のように、体を休めつつ仕事ができます。
しかし、留守中うまくやりくりしていたので、
段々と仕事をまかされる内容が
複雑に増えてきたように思われました。

そんな中、パソコンとインターネットは、
楽しみ続け、
このホームページの立ち上げなど
(コンテンツは後で考えよう)
基本的なページの設定を、雑誌を見ながら
みよう見真似で行っていました。
初心者なので、複雑なことはできません。
結局ジオシティーズの作成ウィザードを
利用して作ることにしました。
しかし、仕事や家庭のことに気を取られ、
「仏作って魂入れず」という状態が
長く続いてしましました。

そのようなことをしているうちに、
7月は過ぎていったのでありました。
2001年09月09日 02時48分52秒

半日勤務での職場復帰 (6月編)
6月からは、午後からの半日勤務とはいえ、
職場復帰することになりました。

いつもは、無理やり起きることをしませんでしたが、
その日は、就業時間前には起きて、
(やはり、思ったとおり「うつ」でかなり起きるのが辛かったです)
不安に駆られながらも、職場に電話を入れました。
課長と課長補佐に、
長期休職で迷惑をかけましたということわりを述べ、
「今日から出勤しますのでよろしくお願いします。」と、
あいさつをしておきました。

実際、出勤するまでの間は、
どのように振舞おうと不安だらけでしたが、
時は刻々と過ぎていきます。
とにかく、「下手な考え休むに似たりだ」と思い
思い切って何ごともなかったかのように、一歩踏み出し、
出来るだけ普通に振舞おうと決心しました。

抗うつ剤を飲んでいるので、通勤方法には頭を悩ませました。
体調と通勤料金から公共交通機関を使うことはやめました。
今の私には、最寄の駅(徒歩20分)まで歩いていって電車に乗り、
会社近くの駅で下りて会社まで歩くといったことは、
体力・気力共に不可能です。
結局、薬を飲まずに車で実家まで行き、会社近くの実家で薬を飲み、
実家から会社までは、自転車を利用する方法を選びました。

ついに、4ヶ月ぶりの職場復帰の時刻となりました。
なるべく自然に、職場に滑り込みました。
まるで飛行機の車輪が出ず、胴体着陸に成功したかのようでした。
頭で考えていることが、体にうまく伝わらず、
頭と体がチクハグで、
そのことがかえって頭と体の疲れを倍増させるといったような、
変な感覚・状態のまま、仕事を再開することとなったのでした。

久し振りの出勤に、
みんなの興味の目が注がれているのが、
痛いようにわかります。
課内でのあいさつを済ませた後、
人事異動してしまったお世話になった
前の上司たちにあいさつに回りました。
会社内の建物を歩くだけで、
私の噂を聞いている人たちの興味ある視線を感じます。
なかには、かなり私のことを心配してくださって、
暖かい言葉をかけてくださる方も何人か見えました。
「倒れるまで、一生懸命頑張ったことが、
良いイメージに受け取られ、信頼されているんだ。」
と勇気付けられました。

気にせずマイペースで頑張ろうと自分を勇気付け、
自分の席に付き、
新しい上司である課長補佐兼係長と、
倒れる前に一緒に仕事をしていた例の主査(年下で今年東京に帰る)から
仕事の内容の説明を受け、復帰後初めての仕事(軽作業)がスタートしました。

当初与えられた仕事は、
期限があってもないような調査ものでした。
また、最後までできない場合は、
途中まででも良いといったアバウトな内容のものでした。
本当に、「この程度の仕事で良いのか?」といったこととは、ウラハラに、
「やはり、今の私にはこの程度の仕事でないと荷が重過ぎる」
といった考えも頭の中をよぎり、複雑な心境でした。

たぶんもう少ししたら、
前の仕事内容の業務命令が来るはずですが、
思ったより、自分の休職期間中の仕事は進んでいるようです。
これも新しい上司の課長補佐と主査、課員の協力で、仕事を懸命にカバーしていてくれたおかげです。
(休職中は、「うつ」のせいで、
目の前に見えない、たまりにたまった
仕事に心が押しつぶされる悪夢を見ていました。)
でも、「このような現実だったんだ。」
と疑心暗鬼の怖さと、バカバカしさを思い知らされました。

結局、最悪な前係長は、
ほとんど何もすることなく
爆発寸前又は爆発した仕事を残していっただけとのことでした。
あのまま、付き合って仕事を続けていれば、仕事を振られ続け、
この程度の「抑うつ状態」で済まなかったかもしれません。
つくづく、最悪の状況だった時にでも
最後の最後に神様に助けられたような気がしました。
そうして、みんなの好意により、
心理的負担・仕事量の少ない仕事(本当に軽作業)を任され、
定時に帰宅を勧められ、仕事をしながら、体をいたわりつつ、
6月は過ぎていったのでした。

しかし、半日休暇も有給扱いなので、
減っていく有給の日数に、(このまま使いきってしまえば、
肝心の本当に「うつ」で苦しんだ時に休めなくなると悩み)
焦りの色が隠せない日々が続きました。

そんな最中です。あの事件が起こったのは!
〇〇小学校小学生殺傷事件。
この事件には、本当に衝撃を受けました。
容疑者が精神分裂病の精神障害者であるということで、
責任能力と処置方法が問われていました。
新聞などで、現行法規の盲点を突いた犯罪精神障害者の処遇をどうするべきか
などと特集が組まれ、精神障害者の現状が、
いやというほどよく分かりました。
(後に、精神障害者を装ったという報道も行われ、
本当にそうなら他の精神障害者に悪影響を与える最低で卑劣な行為と
腹がたったのを覚えています。)
精神福祉衛生法32条の申請を考えていた私は、
精神障害者をひっくるめて偏見の目で見られないかと、
申請を思いとどまることとしました。

6月は心理療法なしの薬だけで、なんとかしのぎました。
自分でも、仕事に復帰した状態なのに、よくやったと思います。
6月下旬にO先生の勤務先がわかりました。
○○こころの医療センターでした。
最近改築され以前と名前は代わったものの、
閉鎖病棟もある、もろ精神科です。
また、病院の場所も以前よりかなり遠くなっていました。
しかし、今まで信頼を築くいてきた、
O先生の心療を受けたい気持ちも強くありました。
結局、一度新しい病院にいってから、全ての結論をだそうと心に決めました。

休職中だったため、課の親睦会の積立金が戻ってきました。
それを活用し、CATVインターネットを導入したのも、そんな時期でした。
また、ボーナスで、LAN端子付きのノートパソコン(ノートは2台目)も、
思い切って購入しました。
接続料を気にしない常時接続環境と、
ストレスなく早いCATVインターネットは、まさに天国の使いごこちでした。
早く家に帰っても、またも相変わらずWORD、EXELの勉強そっちのけで、
インターネット、メール、インターネット雑誌にはまっていました。

そのような、状況で復帰1ヶ月目は、「うつ」に苦しめられながらも、
過ぎていったのでした。
2001年09月08日 02時16分01秒

3ヶ月+1ヶ月の休職と「うつ」との戦い (5月編)
今まで自分の中で、5月復帰ということで、
気持ちを張り詰めて過ごしてきました。
記憶も一時喪失し、
3ヶ月間も車を運転していない中で、
抗うつ薬を飲んでいるのに、
通勤はどうするのか。
復帰した際、偏見の目で見られるのでは。
仕事は、前の絶頂期に比較して、どこまでできるのか。
新しい体制の中、このような「うつ状態」で、
仕事は、どのようなことを任されるのか。
あの最悪な係長が異動したことで、
係の仕事が山積みのまま、修復不可能な状態で、
ほったらかしになっているのでは。
係で残された私に、そのとんでもない仕事の処理が待っているのでは。
以上のような、言いしれぬ不安が、私に襲ってきていました。

しかし、休職が1ヶ月延びたことで、心理的余裕が生まれました。
それが、全てにおいて、プラスに転じたようです。
あと、1ヶ月静養できる。
「一ヶ月後には、復帰できるように、一歩、一歩前進して行こう。」と、
自分に言い聞かせて、静養に努めました。
そんな時、気分転換も兼ねて、
ゴールデンウィークに、妻が妻の実家(F1で有名な街)に連れて行ってくれました。

精神安定の為に、インターネットを続けておりましたが、
我が家は、ダイヤルアップ接続でした。
接続料金が気にかかり、
なかなか思うようにゆとりを持って使うことができません。
毎日接続時間とニラメッコで、
まるで、タクシーに乗ってタクシーメーターを見ているようで落ちつけません。
それが、精神的な安定を求めながらも、心の中でブレーキがかかっていました。

ところが、妻の実家はCATV接続で、常時接続でした。
インターネットを使わせていただいて、その速さに驚き、
また時間を気にせず使用できる精神的ゆとりを体感できました。
時間を気にせずに使えるので、
たまたま今まで検索したことがなかった
「うつ病」について検索をかけてみました。
そして、膨大な検索結果にびっくりしながらも、
ネットサーフィンを続け、
(実際、こんなにうつ病サイトがあるとは思えませんでした。びっくりです。)
「喫茶プーさん(うつ病マスターの店)」というサイトに辿り着きました。

「喫茶プーさん」は、サイト管理者がうつ病患者ですが、
かなりうつ病についいて勉強していて、
うつ病についての知識を勉強するのにとても役立ちました。
まさに、知りたかったのは「これだ」ということが掲載されていました。
(今まで、インターネットを、うつ病について、
知識を得るのに使ったことがないのが、不思議なくらいでした。
なぜ、このような使い方をしなかったのでしょうか。
やっぱり接続時間を気にしてかな。)
それに、体験者ならではの生活全般に渡る「うつ病」患者の過ごし方など、
為になる日記を読んで、自分の糧としました。
さらに、このサイトからは、
色々なホムペにリンクが張られていましたので、
リンクのホムペを訪れて知識を増やしていきました。
それが、MY HOMEPAGEのお気に入りのホムペリンク等です。
(マスターは、8月に職場を退職してしまいました。
私を心から支えてくれた、ホームページの管理人が退職したことは、
とても残念でなりません。) リンク先に蜘蛛の糸のようにリンクが張られ、
わざわざ検索サイトで検索しなくてもザクザク知識が入ってくるようでした。

また、O先生に紹介された、
新たな本(うつ病関係)なども、読みふけりました。
自分でも驚くぐらい、
うつ病についての知識が、加速度的に蓄積されていきました。
己を知り、敵(うつ病)を知れば、恐いものはなくなります。
今まで理解しようとしなかった「うつ病」が、
自分なりにどのようものか見えてきたのもこの頃です。

本以外でも、ゆとりのある時間を活かして、
新聞も端から端まで読むようになりました。
ちょうど、政治が大きなうねりを向かえた時期で、
普段ゆっくりと読んだことがないような、
政治欄が特に熱く語られていました。
その他、社説、国際欄、経済欄、
読者の声、特集欄なども楽しみに読みました。
リハビリを兼ねて、
コンビニにいつもと違う新聞を自転車を漕いで買いに行くのです。
その日の気分で読む新聞を変えたりもしました。
新聞をじっくりと読むことで、
社会の様々な動きが手に取るように分かるようになりました。
仕事だけの毎日では、ここまでじっくりと読む機会がなかったので、
自分にとって、社会全般について考える良い機会となりました。
新聞も、いつしかMYプームになっていました。

食器洗い乾燥機を購入したのも、この時期です。
妻の実家にあったものを、すっかり妻が気に入って、
あっと言う間に、我が家のキッチンに鎮座することとなりました。
今の自分たちの負担を軽くするためには、とても必要なものに思われたので、
即座に購入となりました。
これが、2人の食後の片付けという精神的負担をとても軽くしてくれました。
今の私たちには、もう、こんなものにでも頼るしかなくなっていました。
それまで、私と妻の双方が体調がよくないときには、
食器を洗わなくてすむよう、サランラップを巻いたり、
紙皿を使用したりと悲惨な涙ぐましい努力をしていました。


5月の中旬には、職場から連絡が入り、
病気欠勤は3ヶ月までしか扱えないので、
後は残っている有給で私の休暇を消化していくことが告げられました。
これには、結構衝撃を受けたことを覚えています。
「ただでさえ、復帰後休まずに勤務し続けられるか不安なのに、
頼みの綱の有給さえも段々無くなっていくのか。」
まさに、背水の陣という気がしてきました。

5月最後の診察日には、O先生から、
「今の状態では半日勤務が精一杯だろう」という診断を受け、
「1ヶ月間は、軽作業での半日勤務を要する」
という診断書が新たに書かれました。
私は、職場に悪いとは思いつつも、
今自分にできる精一杯のことが、このことなんだと言い聞かせ、
この内容の診断書で6月から自分を受け入れてもらえるかと相談しました。
職場からは、許可はでたものの、再び「半日の休暇は有給消化で」と伝えられ
「7月からフル勤務が始まったら、
年度末まで、残り少ない休暇で、自分が持つのか?」といった
言い知れぬ不安とプレッシャーに悩まされることとなりました。
診断書は、また、妻に職場に届けてもらいました。
(何度も、嫌な神経を使う役を頼んで、本当にゴメン。)

O先生から、「今の〇〇クリニックを5月で退職することとなった。」と
突然告げられたのも、この頃です。
6月は、勤務先が決まっておらず、
6月中旬に勤務先が決まるということでした。
〇〇クリニックの他の先生にかかるか、新しい勤務先に通院を変えるか、
またしても不安材料が増えてしまいました。
調子が悪くなったときの為に、緊急用・代用精神科を教えてもらいました。
(できれは、新しい病院に一からかかることは避けたい気分です。)
とりあえず、6月中は、薬だけをもらい自分の状態を見ることにしました。

とにかく、こうして私の4ヶ月に渡る休職は幕を下ろしたのでした。
明日からは、勇気を出して人生に立ち向かい、
「なるようにしかならないさ」といった気持ちで、
人生に立ち向かうことにしました。
2001年09月05日 20時52分30秒

3ヶ月の休職と「うつ」との戦い (4月編)
休職最後の1ヶ月となりました。
信頼していた3人の上司の人事異動や、
将来への不安から「うつ」はますます私を苦しめました。
「落ち着きたくても、落ち着いていられない、
心が休息できない、静養などとはとても無縁の生活を過ごしている。」
診察を受ける際には、そのようなことを話し、
アドバイスを仰いだように思います。

先生からは、「仕事のことを忘れるのが、
今の君の一番大事な仕事だ。楽しめるものを探して、
それに打ち込み余計なことを考えないこと。
薬をきちんと飲んで静養すること。
とにかく、診断書の残りの期間をカウントダウンしないことだ。」
とアドバイスをいただきました。
また、「これを読んでみては」と、
心の病に関する本を紹介してもらいました。

できるかどうかは分かりませんが、
とにかく、できることから取りかかろうと思いました。
好きなだけ寝たり、家事を手伝ったり、
子供と遊んだり、本を読んだり、
パソコンをいじったりと、
頭の中が空になり余計なことを考えないように努力しました。

また、先生から、
「復帰前には、職場から連絡が入るだろうから、
できれば復帰前の診察に同席してもらうよう頼んでみるように」
とアドバイスされました。

職場からは、1週間ほど前に電話がありました。
現在の状況を説明して、
復帰の方法については、O先生と相談して、
今度の診察で状態を見ながら決定するということも伝えました。
また、長期間休職したことのことわりを述べ、
「5月からはできることから、
やらせていただきます。」と話をしました。
最後に、先生からアドバイスのあった
診察への同席を依頼しました。

結局、4月最後の診察の際には、
肩書きは、換わったものの、
同じ課に在籍することとなった
信頼のおける上司である前副参事が同席していただけることになりました。

久し振りにお会いし、同席していただけることのお礼と
仕事に穴をあけ迷惑をかけたことわりを述べました。
その時、あの最悪な係長の異動を知らされ、
代わりに新採用の若者が係に加わったことを知らされました。
そして、取りとめのない会話が続いた後、
私の名前が呼ばれ、診察室に妻と子供と上司の4人で入りました。

O先生から、上司に対し、
今までの診察の経過の説明が一通りあった後、
O先生は、私に復帰できる状態が尋ねました。
私は、現在の自分の状態をみんなに説明し、
「仕事に穴をあけて申し訳ないと思っている、
5月からは、できることから仕事に復帰したい」と話しました。
O先生は、現在の状態を例えると
100%のうち何%かと、突然聞きただしました。
私は、よく見て40%から50%だと答えました。
同じことを上司に聞くと、
60%ぐらいに見えるという返事が返ってきました。
O先生の出した結論は、「もう少し状態に改善が見られないと復帰は無理」
「復帰して様々問題に巻き込まれてしまっても
今の状態では適切な判断がつかず
良い仕事はできない」という意見でした。
そして、「さらに一ヶ月の加療を必要とする」という診断書が書かれました。

そして、私は、
いつ良くなるともわからぬ「うつ」治療の不安を抱えながら、
もう一ヶ月休職することとなったのでした。
2001年09月05日 18時13分20秒

3ヶ月の休職と「うつ」との戦い (3月編)
インターネットを使っていると、
インターネットを使っている時は、
比較的精神が安定していることに気がつきました。

たぶん、様々なサイトを閲覧することに夢中になって、
画面の中以外の意識が、
飛んでいるからでしょう。
WORDやEXELを覚えるという、当初の目的は、
いつのまにか消えうせていました。

家の中で、ボーとしていると、
「うつ」が襲ってきて、良からぬ考えに捕らえられて、
恐ろしい妄想が頭の中をグルグル回り始めます。
動くことができず、
横になっているのが精一杯といったような状態が続きます。
頭と心の中が悪魔に支配されたかのような、
自分ひとりだけでは、どうしようもなく、
耐えがたい状態といったような感じです。

仕事から離れ、静養生活の日々を続けていると、
記憶の方は、少しづつではありますが、
過去のことを取り戻せてきました。
しかし、思い出したくないことも同時に思い出したりして、
仕事半ばで休職したこと等で、
ますます落ち込み「うつ」がひどくなったりもしました。

しばらく、そのような日々が続き、
インターネット上の便利なサービスも見つけ、
フリーメールや、転送サービス、懸賞サイト等の登録をしたりして過ごしていました。

休職していましたが、
3月末には、人事異動が発表されるので、
自分がどのような扱いになるのか不安でしかたがありませんでした。

発表の一週間前は、かなり心理的に不安定な状態が続きました。
3月末になってからも職場からの連絡はなかったので、
「異動なかった」と本当に落胆してしまいました。
もう一年、いや数年になるかもしれない、
今のハードな職場で、
このような「うつ状態」で仕事を続けていけるのか?
本当に自身がありませんでした。

私に理解のあった職場の上司(課長、副参事、課長補佐)が3人とも異動したことを新聞の記事で知りました。
「みんな異動してしまった、これからどうなるのだろう?」
という不安から逃れられない日々が続きました。
新聞記事には、課長補佐級までの人事異動しか載っていなかったので、
その下の係長などの異動はわからないことが、ますます私の不安をあおっていました。
相変わらず職場からの電話はありません。
これらのことが、ますます私の「うつ状態」に拍車をかけてしまいました。

こうして、一度少し良くなりかけた私の「うつ」は、さらに深い闇の中へと落ちていったのでした。
2001年09月05日 12時01分14秒

3ヶ月の休職と「うつ」との戦い (2月編)
最初の1ヶ月は、何をしていたのでしょう。

記憶喪失で、半分も覚えていません。
頭と体のたまった疲れを取るため、
眠るだけ眠り、眠れなくなれば、
起きて食事をしたり、ボーとして一日を過ごしていました。

仕事の事は、無意識で気になるものの、
頭の中がグルグル回っていて、
何がなんだかわかりません。 「うつ」の症状もひどく、
常に疲れていて、体を動かしたくても、
頭の命令と体の動きが一致しません。
ただ、横になって、
動きたくても動けないといった、
ただ倒れているといった状況が続きました。

「うつ」で朦朧としながら、家族に付き添われて、O先生から心理療法と認知の歪みの考え方を学びました。
(どこまで記憶していたのやら?)

私の誕生日は、2月の祝日です。
私は、「うつ」のせいで、記憶喪失状態のまま、
生まれて初めて、どこに出かけることもなく、
ただ、こたつに寝転がったまま、
このような最悪・最低の誕生日を迎えていました。

ちょうど、このような状態の時に、妻の祖母がなくなりました。
当然、私も手伝いやら葬儀に参列すべきですが、
「記憶喪失」+「うつ状態」がひどく、
とても神戸までいける状態ではありません。
妻が、妻の両親と相談し、妻の親戚には、
私は、高熱で寝込んでいるということになっていました。
妻は、私の介護と、祖母の葬儀のことで、疲れ果ててしまいました。
わけがわからない状態になっていたとはいえ、
妻と妻の実家には、本当に迷惑をかけてしまいました。
今でも、妻の祖母の葬儀に出られなかったことは、
悔やんでも悔やみきれません。
体の弱い妻が体調を崩し、
家での生活のサイクルは危機的な状況になっていました。
私も、フラフラになりながら、
出来る限りの家事を手伝う日々が続きました。

そのような中で、社会復帰のトレーニングも始めることにしました。
指の運動は、頭の運動にもなることから、
リハビリも兼ねて、プレイステーションのグランツーリスモ等をプレイしました。
不思議なもので、記憶がなくても、今まで体で覚えこんだゲームはプレイできるものです。
考えられなくても、
体感でこれだけ見事にゲームができるとは思いませんでした。
人間とは不思議なものです。

また、パソコンを買って間もなかったので、
これも指の運動、リハビリだと思い、
今まで仕事で忙しく、覚えるのをためらっていた
ワード・エクセル等を、練習がてら使ってみました。
しかし、やはり頭が疲れているのか、
思うように使いこなせません。

インターネットなら、
もっと気楽に出来るかと思い、
記憶がないまま、みようみまねで設定し、
ネットサーフィンを始めました。

それが、インターネットへ、はまり込む第一歩となったのでした。
2001年09月03日 22時43分14秒

3ヶ月間の休職と「うつ」との戦い (導入編)
生まれて初めて、3ヶ月の休職をした。
これが、休暇だったらどんなに良かっただろう。
やりたいことは、いっぱいあった。
しかし、現実は、「うつ」との戦いと、
記憶喪失状態からの生還の
辛く長く苦しい時間との戦いとなった。

最初の一週間は、
何をしていたかはっきり覚えていない。
ただ寝て、疲れをとり、
「ゆらぁ」としながら起き上がりご飯を食べて、
薬を飲むことの繰り返しだったような気がする。
抗うつ剤のせいか、自分でも怖いぐらい熟睡した。
昼夜逆転の生活になるのも時間の問題だった。

最初の薬は、体に合わず、
意識が朦朧とした状態が長く続くので、
一日で飲むのをやめてしまった。
無意識の状態でも、
私の薬への拒否反応が強かったので、
妻にはずいぶん迷惑をかけてしまった。
妻が病院に連絡を取り、新しい薬の処方を受けた。
その後、頼りになる相棒とも言える薬は、
自分の体にとてもあったので、
今でも、変わることなく飲み続けている。

精神安定の為に、何をすべきかは全然わからなかった。
暗く長いトンネルはいつまでも続くように思われた。
記憶喪失のため、
人との会話もまともにできず、しゃべりかけられても、
どのように会話を進めていったらよいのか検討もつかなかった。
そのような時、妻の友人が遊びに来た。
普通に会話しようとするが、
なぜかチクハグな会話になる。
記憶喪失状態で人と話をするのは、凄くストレスがたまりました。
次第に、妻と診察の時以外は、
人を避け、誰ともしゃべりたくもなくなりました。

記憶喪失状態と抑うつ状態がミックスすると、
しゃべれない時の子供に戻った時のようになるようです。
心が白紙で、直接いろいろなことが心に響いた来るといったような感じでした。
心が白紙になると、
世の中の不条理と、「今の社会は何か間違った方向に進んでいる」というようなことが本能的に感じられました。
まだ、全然しゃべれない自分の子供と遊んでいると、
子供が何を求め、何を言わんとしているかも分かる気がしました。

自分の感覚が子供に戻って、普段は見えない「忘れていた世界」が見えた気がしました。
2001年09月03日 20時40分59秒

○○心身クリニックとO先生、そして記憶喪失
家族に支えられて、家の近くの○○心身クリニックに着いた時は、
意識が朦朧としているなかで、仕事に穴をあけてしまった焦りと、
無意識の中でも精神科にかかる極度の不安で心が押しつぶされたような気がしました。

言い知れぬ不安で、診察を待っていると、
診察の前に、看護婦さんによる聞き取りが始まりました。
私は、わけのわからなくなった状態のまま、
一通りのことをしゃべり、問診表が作成されました。

今となっては、その時何をしゃべったのかは、よく覚えておりませんが、
看護婦さんにも精神に異常が起きていることは伝わったと思います。
その後、コンピュータ診断と採血を行いました。

次に何をされるか分からない不安や、
精神科は初めてなので、どうしたらよいのかわからないことばかりでした。

自分がわけがわからなくなっている状態での、
コンピュータ診断は、
普段の自分からは考えられない、かなり否定的な内容ばかりをクリックしていたようです。
本能的に、私が壊れているのを悟っている
もう一人の自分がいたのでしょうか?

どのくらい時間が過ぎていたのでしょう、
ようやく、私の診察となりました。
恐る恐るドアを開くと、
本がうず高く積まれた部屋の中央にO先生が座っていました。
先生を見た瞬間に、
この人なら信じてすがれると無意識に直感が走りました。

O先生は、もの静かな方で、不思議な雰囲気をもっていました。
先生の周りにうっすらとオーラが、
見えたような気がしました。
勉強熱心で、こちらが考えていることが、
手にとるようにわかるといった感じでした。

先生は、私が話し始める前に、問診表と、
現在の私の状態を見て、診断書を書くので、
入院治療か、自宅療養かどちらを選択するかと尋ねました。

私は、朦朧とした意識のなかで、
「入院なんてとても」と思ったのか、自宅療養を本能的に選んでいました。

妻が診察室に呼ばれ、みんなで話あった結果、
私は、朦朧としていても最小限の休みを、
主張していたようですが、
「ここに来たみなさんは、そう主張しますが、
今は休息が必要で、仕事に対し、
白旗を挙げなさい」という先生からのアドバイスに従うこととなり
「反応性抑うつ状態による3ヶ月の加療を要する」診断書が書かれました。
そして、抗うつ薬を処方された後、
家に帰りました。

そして、妻に職場へ診断書を届けてもらいました。
体の弱い妻には、一番嫌で、
神経を使う役を頼んでしまいました。(本当にゴメン)

私は、家に帰っても意識が朦朧としていましたが、
仕事や職場のことが気にかかり、
精神的に落ち着かず、出来もしない仕事の段取りを空想しているといったような、
おかしな行動をしていました。
そして、夕食後、抗うつ剤を飲んで、熟睡しました。

目がさめると、体の感覚が変で、
足元がふらつき、妻のしゃべる日本語がわからない。
テレビが何を言っているのかわからない。
家の中のどこに何があるのか分からない、
と言ったような、ショックによる記憶喪失となっていました。
この時、妻がいなければ、発作的に何をしたか分からない状況でした。
また、あのまま仕事に突っ走っていたら過労死だったかもしれません。
本当に、妻には感謝の気持ちで一杯です。

こうして、私の「うつ」との戦いが始まりました。
2001年09月02日 17時51分51秒

私が、抑うつ状態になったキッカケ 
私の場合、体も丈夫で、精神的にもタフだと自認していました。
まさか、今まで聞いたこともない「抑うつ状態」になるとは、夢にも思っていませんでした。
ところが悪魔の病気は私を選んだのです。

私は、まちづくり関係の仕事で約5年間、猛烈な残業につぐ残業に耐えていました。
そして、配置転換された先は、農業関係の部署でした。

新しい係は3人の内、係長と私の2名が異動で赴任しました。
慣れた仕事から突然何も分からないような部署に変更されましたが、
前任者が比較的早く帰っていたので、やっと一息つける部署に異動されたと内心喜んでいました。

ところが、引継ぎを受けた内容はひどく、
既に終わっていなければならない仕事が、山積みに残ったままとなっていました。
また、文書の管理もむちゃくちゃな状態のままで、ひどいとしかいいようのないものでした。
愚痴っていてもしかたがないので、慣れない仕事を手の付けられるものから進め始めました。
なんでも、きちっとしていなければ気がすまない性格の私は、
できるだけ次の後任者が私のように苦労せずに事務を進められるよう、
残された厄介な仕事に取り組み、文書管理も改善に努めました。
係で行うハードな仕事の合間を見つけては、様々な改善に取り組み続けました。

そのような時に、会計検査が行われるという情報が入り、
前にも増して関係書類の確認と調書の作成に係が一丸となって取り組まねばならなくなりました。
午前3時、4時まで働き、昼間は通常事務をこなすという、今までになくハードな日々が続きました。
このとき同僚は、非常に頼りになりましたが、
係長は、何も指示せず、
担当が歯を食いしばって期限に書類を間に合わせようと努力しているのに、
夜中も作業中に居眠りするようなひどい方でした。
その時は、この程度の人か、ぐらいしか思っておりませんでしたが、
後に、この係長の本当の正体【怖さ】を知るのです。

同僚の協力で会計検査は乗り切ったものの、係長の仕事に対する取り組みかたは、ひどくなる一方でした。

本当に何もせず、隣に居てもどんな仕事をしているのか全くわからない。
ただ、ワープロを打つ音【何を打っているの?】とタバコを吸っているために席にいるような方でした。
電話が鳴っても出ない、たまに電話に出て、ややこしく、こじれた案件だとすぐ担当の私たちに仕事を振る。
大事な会議の準備はしない。
打ち合わせもなく、会議の場で、聞いていないのに、突然、私たちを進行役、質疑応答役にする。
自分は私たちの影に隠れてとことん楽をする。
とにかく自分が主役で肝心の時にはよく休む。
私たちがカバーすると、私たちの仕事ができないので、私たちは、疲れていようが仕事に追われて休めない。
大切な仕事の決裁は、長期間止められる。
係で年間に段取りよく進めていかねばならない仕事に一切手をつけない。
仕事が進まないので、上の上司に相談すると、仕事上、自分を飛ばしたといってキレル。
私たちが真剣に仕事が進まないと話を持ち出しても逆ギレする。
対外的な交渉ごとには、私たちのどちらかを連れて行き、
ついて行くつもりが、肝心の話を切り出さず、突然、「担当の○○が説明します。」
と私たちを主役にし、仕事がほってあった分、訪問先から私たちがひどく怒られるというようなこともありました。
保存するべき大切な書類をなくす。
これらの行為には、担当の私たちも本当に気がまいってきました。
同僚も体の調子が悪くなり、私も首の付け根に激痛が走り、筋弛緩剤を打ちながら仕事を続けていました。
思えば、このとき仮面うつ病の症状が出ていたのかもしれません。
元気が取り柄の私は、「うつ」という言葉と状態をしらなかったので、
単なる疲労による筋肉痛だと思っていました。

やがて、2000年4月になり、同僚が異動となり
係は、係長と私、上位機関から出向してきた年下の上司(主査)の、また、3人体制となりました。
頼りにしていた同僚が異動し、年下の上司も1年目なので、
仕事の内容は分からないことが多く、
序々に私にかかる仕事の負担が大きく・重くのしかかってきました。

主査は、仕事熱心な方で、同僚の仕事を引き継ぎ、
一生懸命に仕事を進めていました。
しかし、1年目では、複雑な仕事内容を把握するのに限界があり、
私も主査を出来る限りフォローしていかねばと思い。
ほとんど休まず、ますます体の疲れをためていくこととなりました。

係長は、相変わらず仕事もせず、肝心の時に休み、
私たちに仕事を振り、仕事に対するひどさが加速していくようでした。
係長の上司の忠告も無視し、「だだ気ままに、ただ存在している」だけでした。
これでは、3人で仕事をしているというより、
足をひっぱられ、係長の仕事のツケを処理する時間に追われ、
1.5人で、膨大な仕事をすすめているといった状況でした。

主査と二人で、頑張ってハードな仕事を続けていましたが、
8月に私の祖父が脳梗塞で倒れ、植物人間状態となりました。
私の父も脳梗塞で半身不随で、母が面倒を見ています。
私も出来るだけ家庭の方も支えていかなければ、という想いが強くなっていきました。
体の弱い妻と2歳の息子も養っていかなければならず、
家庭においても、不安と体の負担がますます重くのしかかってきました。

仕事で時間的余裕もないものの、その合間を縫って家庭のことをこなし、
肉体的にも精神的にも限界が近づいたようでした。
疲れやすく、楽しんでいた趣味が楽しめなくなり、
頭の回転も鈍り、慢性的な疲れが取れず、何もする気が起こらず、
休日や、たまたま早く帰った日でも家の中で倒れているという状態が続きました。
もう、ほとんど「気力だけで体を動かしている」といったような日々が続きました。

年が明けて2001年になり、また、会計検査の情報が流れたり、
仕事量も加速度的に増加する一方でした。
頼みの主査も体の調子を壊し、休んだり、
早退するようなことが起きるようになりました。
係長は相変わらずの状態で、肝心な時に休み、全然頼りになりません。
もう、一人でいろいろな仕事をこなすのは、限界でした。

仕事を家に持ち帰り、ほとんど徹夜で書類を作成し、通勤し続けました。
どのような状況でも仕事をやりとげなければならないというプレッシャーと、
仕事、家庭を含めた様々な不安から眠れないようになりました。
私は、職場で頭が朦朧とし、体の平行感覚がなくなり、
ついに、来客者、電話などの対応もまともにできなくなりました。
休めない状態の中で、罪悪感を感じながらも、ついに早退を申し出ました。

一日だけ、休むつもりでしたが、心は焦り、
精神的にもまともな状態でいられなくなりました。
翌日は、体力と気力が尽きた状態で、
頭は朦朧とし、「うつ」の症状が悪化し、起き上がることもまともに出来なくなりました。
そして、生まれて初めて家族に付き添われながら、
心身クリニックの門を叩いたのです。
2001年09月02日 01時09分20秒

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本来は、日記スペースですが、三日坊主になる可能性があるため、
hisaが「うつ」について勉強したことや、感じていることを表現していくコンテンツのようなものにしていくつもりです。 このコンテンツを読まれて何か感じたことがありましたら、ぜひゲストブックにカキコをお願いいたします。
2001年07月20日 00時01分41秒

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