12月号

ある産業医のつぶやき                                                                           

 


不気味に増加するエイズ

見つからないワクチン、治療法
1981年に米国で最初に報告されて以来、不気味に増え続けているエイズ。83年にHIV(エイズウイルス)が見つかり、その正体が突き止められたものの、予防ワクチンや決め手となるような治療法はまだ見つかっていないのが実情だ。この間エイズは世界中に広がり、世界保健機関(WHO)によると、2000年には感染者が4千万人に達するという驚くような予測もある。日本では外国に比べて、感染者、患者とも少ないが、厚生省のエイズサーベイランス委員会の発表では、感染者と患者が急速に増えており、身近な病気になりつつあることを示している。「このままでは日本もエイズ大国になってしまう」と厚生省や研究者は危機感をつのらせている。
増加著しい東南アジア
世界のエイズ事情を見てみよう。WHOによると、95年12月15日現在でエイズ患者は129万1800人余り。その半年前の発表に比べると、12万人以上増えており、毎月2万人以上が新たなエイズ患者になっている計算だ。しかし、この数字はWHOに報告のあった患者数なので、実際にはこの数倍以上に達するとみられている。
HIV感染者となると、これよりぐんと多い。WHOの推定によると、世界のHIV感染者は昨年半ばの段階で1400万〜1500万人、2000年には最大で4000万人に達する見通しだ。地域的に最も感染者が多いのはケニアやタンザニアなどサハラ以南のアフリカで850万人。続いて東南アジア地域の300万人だが、この地域での感染者は急速に増加しており、将来アフリカを大幅に上回る可能性もあるという。東南アジアなどでのエイズの感染拡大の原因は「売買春」である。さらに麻薬用の注射器でも感染が広がっており、特に麻薬の密造で知られるタイ、ミャンマー、ラオス国境の「黄金の三角地帯」周辺で感染が急速に進んでいる。
増加著しい異性間の性的接触による感染

日本はどうか。厚生省のエイズサーベイランス委員会の2月の発表によれば、95年12月末現在、日本の累計患者数は1154人、感染者数は3524人で世界的にみるとまだ少数にとどまっているものの、感染は確実に全国に広がっている。感染者の内訳は、血液凝固因子製剤による感染者が1806人、異性間の性的接触が866人、同性間の性的接触が350人、静注薬乱用11人、母子感染9人、その他37人、不明445人となっている。
患者・感染者を性別でみると男性では90年から増加傾向を示し、95年は94年の290人から335人と大幅に増加。逆に女性は92年の291人を頂点として減少し昨年は111人になっている。
国籍別では、92年に日本人男性の2倍近く報告のあった外国人女性は年々減少し、95年は日本人男性の3分の1を下回わり、外国人男性とほぼ並んでいる。日本人男性は増加し続け、95年は255人になり全報告例の6割近くに達している。感染原因で注目されるのは異性間の性的接触によるものの増加。特に日本人男性については95年は対前年比50%増の123人が報告されている。異性間の性的接触による増加が今後大きな問題になってきそうだ。一方、89年2月に施工されたエイズ予防法以降のデータでは、患者・感染者の年齢構成は、20代と30代が全体の69%を占めており、エイズが性的活動の活発な若い人の病気であることが分かる。性別では、男性は30代が32%と最も多く、20代と40代がそれぞれ約26%を占めている。これに対して、女性は20代が72%を占め、より若い世代に感染が集中している。気になる事実がある。異性間の性的接触について感染地域をみると、日本人では男女とも国内での感染例が多い。特に男性の感染増が著しいのだ。この事実はエイズが外国の病気で、日本にいる限り安全だという「神話」は通用しなくなってきているのだ。こうした中で厚生省の中に懸念が広がっている。エイズ検査や相談が、92年をピークに減少し、検査数が92年には13万件以上あったのが昨年は約5万8千件と半分以下になっており、相談件数も92年の半分になっているのだ。「エイズに対する関心が薄れ、それが件数の減少につながっているのではないか。そのうちにエイズが広がってしまっては
」と厚生省エイズ結核感染症課の心配は尽きない。
数年間の無症状期間、やがて発病
エイズ発症の過程をもう一度見てみよう。HIVに感染すると、まずHIVの抗原が血液中にでき、風邪に似た症状が出現することがある。この後、無症状の状態が数年間続く。この状態の人が無症候性キャリアである。この時期も他人への感染に注意しなければならないが、数年の無症状期の後、無症候性キャリアの数パーセントから数十パーセントにエイズの前段階の症状(エイズ関連症候群)が出現する。
最初はリンパ腺(せん)がはれて、発熱や下痢、体重の減少などといった全身症状が現れる。さらに進むと、痴ほうや知能低下などの神経症障害、トキソプラズマ症やサイトメガロウイルス脳炎、カリニ肺炎などの日和見感染、そして悪性腫瘍(しゅよう)、全身の衰弱といった重い症状が見られるようになる。本物のエイズの発病である。
鹿児島大医学部の納(おさめ)光弘教授のグループが実施した全国の疫学調査によると、エイズ患者の30%に神経障害が見られている。納教授は「エイズが重症化すれば神経障害が起こりやすくなるのではないか。HIV感染者がここ2、3年急速に重症化しているようだ」と現在のエイズ事情を説明している。

逃げ回るウイルスしかも5種の亜種
普通、ウイルス感染症を予防するにはワクチンが一番効果的だ。世界中でHIVの構造を解明して、その弱点を攻撃するワクチンを開発しようと懸命の努力が続けられているが、エイズを予防するワクチンはまだないのが実情だ。HIVはウイルスの表面タンパクの構造を変えながら逃げ回るため、今世紀中のワクチン開発はとても無理との見方が強い。
国立予防衛生研究所がBCG菌を使ったワクチンなどを研究しているが、実際に効果を確かめるのに時間がかかるなど実用化までの道のりはまだ遠いようだ。現在HIVは遺伝子構造が少しずつ違った5つのサブタイプが知られており、それもワクチンの開発を難しくしている大きな理由になっている。 治療薬についても実情は同じ。現在日本で治療薬として認められているのは、AZTとDDIの2種。どちらもウイルス増加を抑えて発病を遅らせるだけで、根本治療には程遠いのが実情だ。しかも、副作用の危険もある。AZTの場合、胃腸障害を起こしたり、極度の貧血や白血球の減少が起こるし、DDIにもAZTほどではないが副作用の危険がある。その上、長期間使用すると、効かなくなってしまうという欠点もある。
戦術の転換
治療が無理なら、戦術を転換してエイズの発症を遅らせることができないか。感染から発病まで数年から7、8年とされてきたが十数年たっても発病しない長期未発症例が10%程度あることが分かってきたのだ。このため多くの研究者が発症抑制の試みに力を注ぐようになっている。その1つが遺伝子治療である。熊本大医学部の高月清教授のグループが計画しているのは、HIVの遺伝子の一部を組み込んだレトロウイルスを感染者の筋肉などの細胞に感染させ、細胞の表面にHIV特有の抗原をつくらせる。この抗原を異物として認識した免疫細胞が活性化して、本物のHIVが感染している血液のリンパ球細胞を攻撃して、HIVの増殖とエイズ発病を抑える仕組みだ。米国では既に3年ほど前から実施されているが、熊本大学の遺伝子治療臨床研究審査委員会は「安全性に問題はなく効果も期待できる」としており、現在厚生省の遺伝子治療臨床研究中央評価会議で審査が続けられている。 もう1つ注目される報告がある。名古屋市立大医学部の岡田秀親教授のグループがHIVに感染した長期未発症患者からHIVの感染細胞を殺す抗体を見つけたというのである。まだ研究は始まったばかりだが、期待できるかもしれない。長期未発症例にウイルス側に何か要因はないのか。14年前にHIVに感染したオーストラリア人男性のケース。この男性の血液から感染した7人がすべて発症しなかったというのだ。「調べてみるとHIVの特殊な遺伝子に欠損が見つかったというんです。この遺伝子をウイルスに導入してやればワクチンができる可能性がある」と期待をかけている。
予防に勝る治療法はない
このように現在のところ決め手になりそうなワクチンもなければ治療法もない。このため予防に全力を挙げているのはエイズ予防財団だ。「エイズの予防には地域、会社や職場、それに学校が一体になってエイズの予防に取り組む必要がある。そのためにも性教育が大切だ。せめて高校卒業までにコンドームの正しい使用法を教えてほしい」と強調する。「レトロウイルスと呼ばれるHIVは普通のウイルスと違って、細胞の中に入っているので簡単にやっつけることはできない。根治は無理ではないか。エイズが発症しないようになるのは、人間が耐性を獲得するかウイルスが発病しないように変化する以外にないのではないか」とみる。とすると、私たちに残されているのは、HIVに感染しないことに尽きる。まさに「予防に勝る治療法はない」のだ。エイズを撲滅するために1人ひとりが真剣に取り組む必要がある。