4月号
円形吹き出し: TOKAICLINIC

 

 

 

 

HealthCare

 


 

かむ習慣を問い直す

「よくかんで食べなさい」−子供のころ、親にそういってしかられた経験を持つ人は少なくないだろう。貝原益軒の『養生訓』にもあるように、私たちは昔からかむことが健康にとって大切であることを経験的に知っていた。最近、その理由が次々と明らかにされ、かむことは今まで考えられていた以上に健康面で大きな意味を持つことが分かってきた。

 

かむと唾液の分泌量が増える

「かむことは、成長と健康維持に欠かすことができない顔面の運動だ」と言う。栄養が体に吸収される度合いは、どのくらい運動しているかで決まってくるからだ。例えば、寝たきりになると、バランスのよい食生活をしていても筋肉が血中の栄養素を取り込みにくくなるので、全身の筋肉がやせてくる。歯肉やあごが栄養を取り込んで発達するためには、かむという物理的な刺激が重要なのだ。「かむことは、単に食べ物を細かくかみ砕くためだけでなく、唾液を分泌するためにも必要。かめばかむほど、唾液の分泌量は増える。唾液は、単なる水ではない」(表1)。昔から「よだれの多い子はよく育つ」と言われているように、いろいろな研究者によって唾液の効用が説かれている。「美容にはもちろん、アレルギー予防、心臓病・脳卒中などの成人病予防、老化を遅らせることに一役買うのではないかと期待されている」。その点、多くの歯科医が最近、子供の唾液の出が少なくなっていると報告していることは気がかりだ。

かむことは健康の源

過去二千年の代表的人物の食事を復元し、それを学生に食べさせて、かむ回数と食事時間を測定した(表2・図1)。それによると現代人の食事は、卑弥呼時代に比べてかむ回数が約六分の一、戦前と比べても半分以下というように、極端に少なくなっている。昔は調理法が未発達のため、必然的に歯ごたえのある食事を取らざるを得なかったわけだ。こうしたことから、かむことと健康のかかわりを一般に広く伝えるため、頭文字を取ると「卑弥呼の歯がいいーぜ」となるよくかむ八大効果をまとめている。

「ひ」=肥満防止

よくかんでゆっくり食べると、血糖値をゆるやかに上げ、少量の食事で満腹感が得られるため、食べ過ぎを避けられる。

「み」=味覚の発達

唾液に含まれる酵素、アミラーゼはご飯などのデンプンを甘い麦芽糖に分解し、消化を助けるだけでなく味覚を刺激する。ブドウ酒の鑑定をするとき、伝統的にソムリエは水で口を洗うのではなく、フランスパンを少し食べて唾液を出す。唾液には、舌の味覚をつかさどる味蕾細胞を敏感にする酵素、ガスチンも含まれているのだ。

「こ」=言葉の発音はっきり

正しい発音のかなめとなる微妙な舌や唇の動きは、受乳とかむことによって発達する。歯並びや筋肉の発達が悪いために、正しい発音ができなくなることもある。

「の」=脳の発達

かむことと脳の発達の関係について子ネズミを使った実験では、硬い固形のエサで育て、よくかんで育ったグループ、一方同じ成分だが粉末のエサで、ほとんどかまずに育ったグループとでは、後者の方が学習能力が劣ることが分かった。また、食べている間の大脳の温度は、固形グループでは約〇.四度上昇したが、粉末グループでは約〇.二度しか上がらなかった。よくかむと脳細胞の活動が盛んになって血液の循環がよくなるためだと考え、人間も脳の発育期によくかむことは脳の発達を促すことになると推測している。このほか、ボケ予防、精神安定、ストレス解消効果もあるという研究者もいる。

「は」=歯は病気の予防

よくかまないとあごの発達が悪くなり、八重歯、乱杭歯の一因となる。歯並びが悪いことは美容上の問題だけでなく、食べカスが歯につきやすく、う蝕(むし歯)、歯肉炎、歯槽膿漏の一因にもなる。また、唾液には、歯にしみ込んで歯を固く丈夫にし、酸に対する抵抗力を高めるタンパク質、スタテリンも含まれている。

「が」=がん予防
唾液に含まれる酵素、ポルオキシダーゼには強い毒消し作用があるという。発がん物質であるカビ毒のアフラトキシンや、お焦げに含まれるトリプ1−Pも、この唾液の効果でゼロに近づけることができるそうだ。

「い」=胃腸快調

歯は大切な臓器の一つ。食べ物をかみ砕き、消化酵素を含む唾液と混ぜ合わせることで、胃腸の消化機能を大いに助けている。「歯を治療しないで放っておくと胃を悪くする」というが、よくかめないと消化が不十分で胃に過度の負担がかかるためだ。

「ぜ」=全力投球
やる気とかむことも関係が深いとみている。「野生動物にとってかむことはすなわち闘争、食うか食われるか、生存をかけた行為。人間も動物の一種。かむことは生きる意欲を沸き立たせ、全身の機能を活性化するうえで、生まれてから亡くなるまで生涯を通じて大切だ」と言う。

 

現代人は、なぜ、かまなくなったのか

最近、関心が高まりつつあるスポーツ医学の分野では、歯とスポーツ能力の関係について研究が始められている。元巨人軍の王貞治監督は、現役時代「一本足打法」でならしたが、おかげで奥歯がガタガタになり、シーズンオフには毎年治療に通ったという。大相撲の元横綱千代の富士も、引退時には歯がボロボロの状態だったといわれる。力を入れる瞬間には奥歯をグっとかみしめるものだが、その咬合圧は普通人で自分の体重分、プロスポーツ選手の場合は体重の三倍にもなる。その意味ではむし歯が痛んだり、歯周病で歯がグラグラしていると、体に力が入らないことは言うまでもない。かみ合わせと体力、筋力、集中力との間に関係があることは経験的に分かっているが、なぜそうなるのかはまだ明らかになっていない。
 ところで、江戸時代の武家、長岡藩主牧野家の人骨は世代を重ねるにつれあごが細くなり、歯並びは悪く、奥歯はあまりすり減っていないことが分かったという。これは、時代とともに美食が進み、あまり歯ごたえのあるものを食べなくなったことを示している。なぜ、現代人はかまなくなったのか−この疑問に、何人かの研究者が次のような理由を上げている。

     忙しい生活

子供は塾、大人はカルチャーセンターなどのセカンドスクールに通うなど、時間に追われているため、食べ物をゆっくりかんで味わうゆとりを失っている。

     離乳の進め方の問題

かむ能力は生まれつき備わっているわけではなく、学習によって獲得されるもの。したがって身体的な成長、かむ能力に合った食べ物を与えることが大切だ。離乳食は、「ドロドロ状」「舌でつぶれる硬さ」「歯茎でつぶれる硬さ」という段階を踏むことが望まして。かむ能力が備わってきたのに、かまないで食べられるものばかり与えていると発達が止まってしまう。逆に能力以上に硬いものを与えていると、その食べ物が嫌いになったり、丸飲みを覚えてしまう。

     食欲がない

飽食時代のなか、空腹体験が乏しく、食べる意欲やかむ意欲が育たない。

     食べ物が柔らかくなった

脂肪をたっぷり含んだ柔らかい加工食品が増加した。かさが少ない割にはエネルギーが高く、口当たりがよいためにあまりかまずに食べられる。

     食の洋風化

子供や若者が、洋風の柔らかいものを好むようになったことも一因と考えられる。日本食にするだけで、かなりかむ回数を増やすことができる。

かんで味わう気持ちが大切

「カロチンやビタミンについての知識は普及しても、かみごたえについてはあまり考えられていない。健康面では、栄養だけでなく物性(テクスチャー)にも配慮することが必要だ」。

どんなにおいしい成分を含むものでも、流動食にして飲み込むだけでは、おいしさを感じられない。おいしさは、かむことを通して初めて感じられるものだからだ。栄養バランスが整っていることが食事の必要十分条件ではないことは、宇宙食が流動食から固形に変わったことからも明らかだ。「よくかめば健康上の問題がすべて解決するというわけではない。節度ある食生活、休養、睡眠、運動、よくかむことなど、昔から伝えられてきた何気ない養生法の持つ意味が、このところ科学的に裏付けられている。昼夜逆転の生活リズム、運動不足、食べ物の丸飲みなど、日ごろメチャクチャな生活をしていて、病気になったら医者にかかればいいうとうような医療依存の生き方は見直す必要がある。かむこともこうしたライフスタイルの見直しの一つとして位置づけたいものだ」。

よくかむことは、お金もかからず、だれでも始められる身近な健康方だ。が、試してみると、意外に難しい。一度習慣になってしまったものは、そう簡単には修正できないということだろう。「一口につき何回かむかを目標にするよりも、食べるもの自体を変える方が効果的でやりやすい」。材料の選び方や調理法をちょっと工夫するだけで、かみごたえのある食事に変えられるということだ。

「かむ習慣を問い直すことは健康の問題だ」というだけでは済まされない。あわただしい生活の中で忘れかけていたものを見直すきっかけにもなる。「かむ回数を増やそう」というより、むしろ「食べ物の味をじっくり味わおう」という気持ちを大事にしたいものだ。