作者のSessendojiと申します。この度は「大借金&躁うつ病奮闘記」を選んでいただき、大変嬉しく、ありがたい事と思っております。途中、銀行業務や、法律用語等、専門的な個所があって、皆様にとって読みにくい部分もあろうかと思いますが、是非とも我慢していただき、最後までお読み下さい。

タイトルにもあるように、私は躁うつ病です。躁うつ病というのは、落ちこんで行くうつと、ハイテンションになって浪費や周囲に対する迷惑行為(本人は自覚していない)などが発症する躁病を波のように繰り返す病気です。もちろん、躁とうつのインターバルには個人差があり、人によって様々です。

 うつ病の発生率は、約5.7%、躁うつ病は0.5%と十分の一です。1000人に5人ということですね。本当は躁うつ病なのに、自覚がなく、病院にかかってない人も含めるともう少し増えるかも知れません。

さぁ、本番です。

銀行員としてサラリーマン生活をスタート、

躁うつ病に悩まされながら会社を辞め起業。

保証人になったがための返済や、

事業の奮闘ぶりを紹介、

破産整理に至るまでの足取りを描いていきます。

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(1)新潟で躁うつ病発症

 このメールマガジンは、私の自分史風に書き進めていきたいと思います。

 大借金と書いたから、興味本位で読んだり、HPに書きこんだりしてもらって一向にかまいません。というか、むしろ積極的に書きこんでいただけたらと思っています。一方通行のメールマガジンではなく、できるだけ双方向でありたいと考えているからです。

 このメールマガジンを見た方で、実際に返済できないまでに膨らんだ借金で困っておられる方は、経験者として、素人としての相談なら個人的にいくらでものりますから、遠慮せずにおっしゃって下さい。

 まずお断りしておかなくてはならないことがあります。 今から考えると1983年頃からどうも躁うつ病だったようです。

 私は元銀行員で、大阪から新潟支店に転勤して2〜3ヶ月後にに発病しました。

 預金集めの営業をやることになったんですが、転勤したとき運転免許を持っていなかったため、費用は会社持ちで、自動車学校に通いながら、営業(免許がとれるまでは契約タクシーを利用)をしました。免許が取れると新米ドライバーということで、一番傷んだ営業車をあてがわれ、自己運転になりました。

 おりしも11月下旬、新潟はこのころから雪が降り始めます。 転勤や引継ぎによる人間関係のストレスと雪道を新米ドライバーが運転するというストレスが引き金になって、ついにうつ状態になったようです。

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(2)覚られないように

 躁やうつは精神病(現在では気分障害という)であることは、聞いて知っていたので、私はこのことを会社の人に気がつかれはしないかと大変心配しました。当時は、精神科にかかっている事自体が何か不気味で、何をしでかすか分からない狂人というイメージがありましたから、それで心配をしたのです。もちろん、自己保身もありました。だから内科・神経科となっている医院を電話帳で調べて受診しました。

 病院にかかる頃には、もうすでに会社を休みがちで、自分はつまらない人間だ、自分はこの世で存在意義が全くない、だからもう死んでしまいたい、と思うようになっていましたから、医師はすぐ抗うつ薬や睡眠薬を処方してくれました。

 とにかく眠いのです。食事や用をたす以外は、ほぼ1日中眠る日が何日か続きました。療養するのに1週間休みましたし、他の日にも何回か休みました。そのときは、自分がうつ病であるというわけにはいかないと思ったので、風をひいた、熱が出た、吐き気がするなど、うそをついて会社を休んだのでした。

 処方された薬を飲んで1週間くらいすると、薬の効き目がすこしずつ現れてきて、気持ちがだいぶん楽になりました。

 しかし、12月はボーナスが出る月、いわば繁忙月です。猫の手も借りたいくらい忙しいときに、休んだのですから、人事考課の面では×点をくらうことは、ある程度覚悟していました。

 今から思えばうつ病の事はかみさんに打ち明けておくべきでした。この病気は、家族の協力があれば、直るのもそれだけ早いのです。そのころにはまだ、そう言う知識もなく、家族にさえ、病気の事は黙っていたのです。

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()人事考課に×印がつく

 年号が1984年に変わると、会社の人事考課がはじまります。4月1日付で、昇給の割合をどうするかを査定します。標準より多い人は、メリットがつくといってその後の出世レースにもろにひびいてきます。評価はA+、A、B+、B、C+、C、D の七段階になっています。

 標準はCです。C+以上からメリットがつきます。メリットは200円刻みですが、あなどれません。月給の本俸だけで200円〜1000円の差がつくのです。この差が賞与の計算から、退職金にいたるまで響いてきます。そして、このメリットが昇格の査定のときに決定的な影響を及ぼします。

 このときは、83年11月から、休む日が多かったので、私はDの評価を受けてしまいました。休んでばっかりいるわけですし、うつ病のことは会社には秘密にしてありますから、あたりまえといえばあたりまえです。

 ちなみに、自分がもと居た会社では、B+以上の評価が3年続くと資格が一つ上がるのです。C+だと5年かかります。資格というのは、名刺の肩書きとはちがって本俸のランクをあらわすものです。

 蛇足ですが、資格のランクを一応書いておきます。

 書記、主事補1級、主事補2級、副主事、主事、参事補、副参事、参事、理事、役員とまぁ、これだけのメリットが付き続けないと出世レースから脱落するわけです。

 参考までに、副主事以上になると、資格がひとつ上がれば、年収ベースで、だいたい2百万円の違いが出ます。

 普通の会社ですと、主事で課長、参事で支店長と思っていただければ間違いありません。

 で、私の場合には、昇格遅れの評価Dがついてしまったわけです。Dはいわゆるバッテンですから、本俸が上がるどころか下がってしまいます。いったんついたD評価をB+以上に戻すのは並大抵のことではありません。

 出来が良ければ、Cに戻し、1・2年様子を見て、優秀な成績ならC+の評価にしてもらえる、そんなところです。

 生来が生真面目なうつ病になりやすい気質だったのですが、この評価を受けて、やはり俺はダメなんだと一段と落込んでしまいました。

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(4)バカヤロー転勤

 その頃は自分は単純なうつ病だと思っていました。会社には病気のことを隠しての投薬治療を続けながら、休みがちではあるものの、なんとか仕事を続けていました。

 ところが事件が起きました。

 84年10月頃、新潟支店の社員旅行がありました。どうもその頃は今から考えると躁状態だったような気がします。気分が良く饒舌になっている自分がいました。仕事もはかどります。会社にも9時始まりなのに8時ごろには出社していました。

 躁の特徴は、頭の回転が良くなって、しごとはバリバリこなします。朝早く目がさめ、睡眠時間が短くても疲れを感じません。そして、口調がきつくなり、相手を責めるような言いかたになりますし、怒りっぽくなり、周囲との摩擦を生じます。

 以上の特徴を全部備えていたのですが、自分が躁であることに気がついていないので、医者にもこのことは話しませんでした。最近気分が軽いし、調子良いんだなくらいの感覚です。

 で、社員旅行に話を戻しますが、なにかのきっかけで、支店長に「なんだばかやろう」と言ってしまったのです。

 そのときはそれで終わったのですが、支店長としては面白いはずはありません。

 年が明けて、教師や県・市の職員が定年退職でもらう退職金を追いかけて、どのくらい自分の銀行に預金してらえるかが、大体判明するのが3月です。自行に退職金の振込口座を作ってもらって、預金の申込書までもらっておくので、あとは退職金の振込を待つばかりで、営業の仕事はほぼ終わりです。

 忘れもしません。85年3月2日に浜松支店へ転勤の辞令がでました。

 新潟支店には1年5ヶ月しか在勤しておらず、普通は早くても2年ですから、支店長とのあの一件が原因だということは容易に察しがつきました。

 ばかやろう事件のころからです。酒量がが増えてきたのは。

 あの事件依頼、支店内の私を見る視線が冷ややかになっているのは自分自身で感じていましたし、ストレスを発散する術として、アルコールに逃げこんだのでした。

 ただし、朝から酒くさいといわれるようになるのはもっと先の話です。

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(5)十二指腸潰瘍になる

 浜松支店に転勤して所属したのは、預金勧誘の係でした。前回に書いた退職金をもらって定年になる人への預金勧誘の仕事が一つ。これは、業界用語で集退(しゅうたい、集団退職の略語)と言います。元教員や県庁や市役所のOBに嘱託という形で入社してもらっていますから、どんな人がいつ辞めるかという情報が入るのです。

 二つ目は、既に預金者のお客様(これを既取(きとり)といいます)の引継ぎがあります。これの引継ぎが700件ほどあります。朝8時から夜八時ごろまで、ほとんど食事もせずに「転勤の挨拶」と「新任の挨拶」を車で一軒一軒回ります。

 私が受け持った地域は、浜松市内の北部と天竜市、浜北市、水窪(みさくぼ)町などでした。

 引き継ぐ人も転勤先での引継ぎがありますから、ゆうちょうに構えている暇などありません。4日間でどれだけ引き継げるか、時間との勝負です。不在先には新旧の担当者の名刺に「よろしくおねがいします」などと一言付け加えて郵便受けにいれます。

 4日目は午前中で切り上げ、回りきれなかった大事な客様へ電話で挨拶します。

 あとは、引継ぎリストをもとに自分で担当地区を回らなければなりません。これは私だけでなく、新潟支店で引き継がれる立場である新任者もおなじことです。こうしてドミノ倒しのような引継ぎの連鎖(人事異動)がすくなくても年5回はあります。

 参考までに銀行の転勤は、普通の会社と違って内示などありません。その日の朝にわかります。そして一週間から二週間以内に、転勤まえと後の引継ぎを終えてしまわなくてはなりません。

 なぜかというと、銀行が扱うものはお金ですから、内示を出すとその日までに不正のつじつま合せをする余地を与えることになります。だから、内示は出さないのです。

 で、集退も一段落して、薫風香る5月、みぞおちの右側あたりがきりきり傷むようになりました。それとこの頃からまたうつ状態が出始めたようでした。 アルコールを飲む量は新潟支店時代から増え始めたことはすでに書きましたが、日本酒にして毎日々々4合くらい飲んでいました。支店での新しい人間関係や、引継ぎとそのあとのフオローなどの心労等が重なったのだと思います。

 きりきり傷むときは、市販の胃腸薬で間に合わせていたのですが、遂に「血便」が出てしまいました。7月頃のことです。

 血便といっても赤い血が混じるわけではなく、血液は他のものとまじって、全体としては真っ黒(まるで墨汁)な便のことです。さすがの私もちょっと怖くなりました。

 お客さんに内科の先生がいましたので、さっそく行って看てもらったのですが、「あなたの場合は、精密検査をした方が良いから」と浜松医科大学を紹介してもらいました。内視鏡などの検査もあるので、時間がかかると先生がおっしゃるので、私は、当日になって高熱が出たと会社には嘘を言い、検査に行きました。

 結果は十二指腸潰瘍でした。

 うつ状態は気持ちを持ち上げる薬、抗不安薬などを服用するのですが、アルコールと一緒に飲むと変な効き方をするので、飲んではいけないと神経内科の先生に言われていたのです。しかし、アルコールを飲むと気持ちが楽になることを体が覚えてしまっているので、アルコールとうつの薬を両方服用していました。

 かの太宰治は胃の薬を肴がわりにポリポリかじりながら酒を飲んだそうですが、その気持ちがよくわかりました。

 十二指腸潰瘍のことは会社には内緒にしていましたし、神経内科が出してくれる薬が効いていたのでしょう、しばらくはまわりの人から見ると一見正常な毎日が過ぎていきました。

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(6)店内異動と新婚旅行返上の引き継ぎ

 預金集めの係りと同じフロアに、法人営業課がありました。私たちは、法営と呼んでいました。法営のメンバーが一人、7月の人事異動へ本店に栄転したのです。入れ替わりに転入してくる人もいなくて、私にお鉢が回ってきました。

 潰瘍と躁鬱(そううつ)の件がありましたので、○○○だからできませんと、あのときよほど事情を話して断ろうかと悩みました。

 でも、病気の事を会社に覚られるのを恐れて言い出せず、結局はシナリオどおりに私は法営へ転任者から引継ぎを受け、私は私で預金集めの後任に引き継ぎを行うことになりました。

 後任者も可愛そうでした。なにしろ新婚旅行(海外)の最中に、国際電話で呼び戻されたのですから。今回は前任者が前任店で先に引継ぎを行い、その後浜松支店での引継ぎという段取りになりました。

 新婚旅行で幸せに浸っているときに、強制送還させるなんて、銀行の風上にも置けないひどい銀行だと思いませんか?(^^

 個人のお客様の引継ぎは、なんとかなりましたが、問題は法人の引継ぎでした。法人営業は、法人からお金を預かるのが仕事ですから、接待する側に回るのが普通です。 浜松には大きな自動車&バイクメーカーが三つ、楽器メーカーがニつありますし、それにもまして銀行自身もお客様から預かったお金を一部運用に回しますから、銀行さんも上得意先です。

 それに、市役所をはじめとする官公庁、それに付随する外郭団体や宗教法人なんかも大口顧客となります。また、企業が従業員へ支給する退職金、厚生年金の運用なども引き受けます。接待も必須(ゴルフ、酒、マージャン等々)。

 どうです?聞いただけでめまいがしそうになりませんか?

 私の場合、法人との取引がはじめてだったのと、うつ状態に入っていたので、引継ぎで満足な挨拶すらできませんし、建物を出た後、あの人があんなこと言ってたろ?忘れずにフォローしろよ、とか言われても上の空でした。

 うつになったことがない健常者の方に若干補足しますと、うつになると、思考のスピードが大変(極端にと言っても良い)スローになり、決断というものができにくくなります。また表情は能面のように無表情になります。

 気持ちが沈んでいるから何をしても楽しくないし、心から笑えないのです。何事に対しても億劫になって、一人暮しの場合などは、部屋の片付けや掃除をしないし、風呂にも入らないし、着替えもしない・・全部当てはまるとは限りませんが、大部分の人はそうなるようです。

 話を元に戻して、引継ぎだけは終わりました。

 で、引継ぎリストを見ながら案件を拾っていくのですが、上記の通り、行く先々で上の空ですから、何がなんだかさっぱりわからない。

 引き継いでくれた人はニューヨーク支店に行ってしまったので、電話代が高くて、聞こうにもきけません。

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(7)引継ぎと配置転換

 定期預金の満期手続きや、企業年金の決算報告書を持って行くぐらいのことはできましたが、大口定期預金(当時は預入れが億単位)のひきあいで、受け入れレ ートをどうするかとか、年金のセールスなど、高度な判断を要するものは、うつで判断力をなくしてしまっていますから、どうすれば良いのかわかりません。

 課長は勤続20年で休みを取って旅行中だし、副支店長に判断を仰いでも、自分が経験がないものだから、自分で考えろと逃げをうちます。

自分の判断で大口定期の引き合いレートを決めて、落札すると、こんどは、この件で支店長から叱られたらしく、こいつが勝手にやったことですみたいなことを支店長が聞いている前で言うのです。この野郎〜!と、内心思い、よほどぶん殴ってやろうかと思いましたが、かろうじて理性で抑制できました。

 そんなこんなで、毎日落ち込んだ心と、回転数の遅い頭でできることには限度があるようです。支店の人と冗談を言い合ったり、飲み会などで、面白いことを言って人を笑わせることなどもちろんできませんし、第一笑顔が作れないのです。なにもかもが億劫になって、帰宅してからの飲酒の量もまた増えてきました。

 自分の所属する部署に、教員・JR・市役所・楽器メーカー等のOBの方のデスクが一つの島になっているのですが、心に余裕の全くない私は挨拶もせずに自分のデスクに座ったら、女性の教員OBから、「挨拶ぐらいしなさいよ、あんた!」と背中をバン!と思いきりたたかれたこともありました。心身ともにボロボロになっていたのですね。

 あと三日たてば課長が戻ってくるという日から会社を休んでしまいました。自分で言うのも変ですが、もう限界だったんです。

 そして神経内科に行って、状況を説明すると、抗うつ剤を少し増やしてみましょうということでした。処方してもらった薬を服用すると猛烈な眠気が襲ってきましたから、食べたりトイレに行ったりする以外は眠っているという状態が続きました。きっと睡眠剤がまざっていたんでしょうね。いまだから言えることなんですが、うつは脳の病気なので、仕事をしてはいけないのだそうです。それと、脳を休めるには、とにかく眠るしかないようです。(だからこの病気は周りの人の協力が不可欠です)

 一週間ほどして、会社に行くと、あいつじゃ法人営業はだめだとなっていたらしく、みなさんが普段利用している窓口に配置転換になっていました。

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(8)本格的な躁状態へ突入

 前回は配置転換のことを書きましたが、銀行の顔、窓口に異動になりました。

 窓口といっても、銀行にはハイカウンター(お客様が立って手続きを依頼するカウンター。両替、普通預金の預け入れや支払、公共料金の支払などはスピードが要求されますので、女性の係がほとんどです)と、座ってじっくり話せるローカウンターに分かれていて、ほとんどの銀行がそうなっているはずです。

 住所変更や通帳・定期預金の新規、カードなどの紛失届から、資金運用や住宅ローンの相談、外国為替など、ややこしくて時間のかかるものはローカウンターで受付ける仕組みになっています。

 私はローカウンターの係になりました。通常はわたし一人が張り付き、昼食時や混雑時には窓口の課長がローカウンターの席にすわります。

 いろいろな相談を受けます。上記以外には、事業資金融資の相談から、相続税や青・白色申告の相談、節税の相談、確定申告所の書き方、生前贈与(死ぬ前に自分の財産を親族に贈与すること)から、極めつけは自分ちの娘の婿さんを紹介して欲しいといった、ちょっと対応に苦慮する依頼まで、いろんな案件があります。もちろん案件によっては、各課に振ったり、税理士さんを紹介します。

 窓口ではこんなような仕事をやっていました。

 しばらくは平穏無事な時期がしばらく続き、少し強めの抗うつ剤を服用していたため、窓口課の皆とも普通の会話ができ、冗談も言えるし、面白いことを言って女子社員を笑わせることなどもできるようになりました。

 頭も回転が良くなって、理解力がぐんと増します。

 躁とうつは、ハイな気分(お酒で言えばほろ酔い加減)が続く状態、うつはその反対で、放っておくと自殺するくらいにまで気分が沈みます。

 誰にでも、楽しくて仕方がなく心が弾んだり時がありますし、また悲しい時は気分が滅入ってどうしようもないときもあります。その両極端が躁うつ病だと思っていただいていいかと思います。

 ただ、自分でも気がつかないうちに、口調がきつくなったり、相手が最後まで話すのを我慢できずに、先回りして自分が話してしまうなどが目立つようになっていたようです。

 また、他の課へ行ってああだこうだと、自分の意見を言ったり、その課の課長が座っているいるのにその課の社員を叱ってみたり、常軌を逸脱した行動が目立つようになっていきました。常にいらいらして、自分の欲求だけを満たそうとしている自分がそこにいました。

 ついに、支店長席に呼ばれました。

 副支店長、「窓口課の女子社員が最近のまっちゃんは怖いと言って怖がっているんだよ。それに他の課のメンバーも忙しくしてるのに、ベラベラ喋りまくってるんだって?」

「自分では普通に話してるつもりですし、他の課へは手が空いているのを確認してから話すようにしてますけど」と私。

 支店長、「まっちゃんはね、多分自分が思っている以上に疲れていると思うんだ。仕事のことは良いから、しばらく会社を休んだらどうかな?これは支店としての提案なんだ。」

 支店長には見抜かれているなと思いました。

「わかりました、ご心配おかけしてすみません」。

 次の日、副支店長と病院へ一緒に行くことになりました。

 支店が産業医として指定している病院へ連れて行こうとしました。産業医にかかると病状などツーカーになってしまいますから、浜松医科大学に診察券があるからそこにすると強く主張し、結局わたしの主張が通りました。

 診断書をもらって、副支店長に渡しました。診断書にはこう書かれていたはずです。

「躁状態につき一ヶ月の安静加療を要す」と。

休んでいる間にも躁に関するできごとはいくつかあります。

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()躁の特徴

 躁はうつと違って、元気が出過ぎて周りの人が戸惑ったり、戸惑うだけでなく、実際に迷惑をかけることが多いです。そして多動性といって、あちこちにいっては大きなことを言ってみたり、躁状態のときは気持ちが大きくなりますから、普段ならまず手を出さないような高価なものを買ってみたり、飲み屋をはしごしたりと、金銭感覚のたががはずれるのも躁の特徴です。

 多弁になり、頭の回転が非常に速くなりますから、普通の人が喋る思考のスピードをはるかに上回ることから、こいつ頭悪いんじゃないのと、きつい口調で相手を非難したりと、自分の周りの人は、戸惑うか迷惑を被ります。これが仕事のほうに出ますと、できもしない契約をひきうけて来たりと、会社が金銭的な損害が発生することも多いです。

 ものの本によりますと、躁になると、先ほども書いたように、飲み屋をはしごしますから、ホステスや店に来ている女性客とねんごろになり、大きなことを言って、女性のほうに迷惑をかけることが多いようです。私の場合は、運良く女性関係のトラブルは起こさずにすみましたが・・・

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(10)躁状態に突入

 診断書をもらって会社を一ヶ月をめどに休むことになったわけですが、そのときにもらった薬は、躁を押さえる薬と寝る前に飲む睡眠薬、それに下剤。抗躁剤を飲むと便秘になるので、下剤も服用します。

 浜松では社宅に住んでいたため、昼間外に出て、奥さん連中と顔を会わせるのが嫌で、暫くは家の中に一日中いましたが、そのうち車であちこち出かけるようになりました。

 浜名湖や天竜川流域など近場ならまだ良いのですが、家内に何も言わないで、広島の実家に帰ったり、実家から津和野へ行ったりしました。また、東京にいる大学時代の同級生に会いに行ったりもしました。

 もうこの頃は糸の切れた凧状態で、睡眠薬を飲んでも眠くならないし、また二三日くらいなら寝なくても平気なのです。これも躁の特徴です(本人に自覚がないだけで、実は脳も体もクタクタに疲れています)。

 酒を飲みに行っても、多弁ですからカウンターの隣の客ともすぐ仲良くなります。そして盛り上がり、その人と二軒目、三軒目ということもしばしばありました。

酒も毎日浴びるように呑んでいました。

 躁やうつの薬は直ぐに効き目があらわれず、二週間程度かかるようです。私の場合も会社を休み始めて3週目あたりから、薬が効いてきたようでした。多動性や攻撃的な口調、多弁などが徐々になくなってきました。

 うつは自分だけが苦しく最悪でも自殺ですみますが(自殺が軽いことだと言っているわけではありませんから勘違いなさらないで下さい)、躁は自分だけでなく周りの人や会社に迷惑をまきちらしますから、始末に終えませんね。 

 

 今から考えると、あのとき支店長がやさしい口調で「疲れてるようだから、会社のことは心配しないでしばらく休んだら?」と言ってくれたのは大変ありがたいことでした。

 いろんな人を見てきているから、この病気についての知識も持っておられたのでしょう。

 みなさんも、普段おとなしい人が急に元気になり始めたら、ひよっとすると躁状態かなと、冷静に観察しましょう。強く言うと、それ以上に強い反応が返ってきますから、しばらく休んだら?とやさしくうながしてあげましょう。

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(11)不動産課へ異動

 結局、会社は2ヶ月近く休んでしまいました。復帰する部署は今まで通り窓口でした。

 会社が便宜をはかってくれて、住所変更などの書類だけを扱うポジションに一ヶ月おいてもらいました(業界用語で後方《こうほう》といいます)。

 きちんと薬も飲み、淡々と手続きを進める姿を見て安心したのでしょうか、最初はおそるおそるだった女子社員もすこしずつ話しかけたりしてくれるようになりました。

 あ、もちろん給与面は評価Dで、本俸は下げられています。2回デメリットを食らった格好になりますから、同期入社で最低ランクの奴(そいつが誰か知らないけど)よりも2ランク下がった事になります。具体的に言いますと、課長代理(支店長代理というところも多い)になるのが最低でも2年遅れるということになります。

 窓口で黙々と仕事をしているうちに、不動産を扱う部署の社員が転勤、補充なしというので、わたしが内部異動で不動産課に移ることになりました。

不動産と言っても、アパートやマンションの賃貸はほとんど扱わず、主な顧客は土地を持っている個人や法人でした。売買はもちろんのこと、土地の有効利用(マンション、店舗、倉庫などを建てて貸す)がメインの仕事です。

 この仕事は、私の性に合っていたようで、けっこう良い成績をあげました。本俸でのメリットはつかないCランクでしたが、不動産は売買や仲介手数料が現金で入ってくるため、その分を評価してくれて、賞与のメリットがつくまでになりました。

 わたしは、できることならこの浜松でずっと仕事ができたらいいなと思うようになっていました。

 ところが平成元年7月に、東京は新宿支店に移動の辞令が出てしまいました。

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(12)転勤したくない!

 新宿支店への転勤命令に対して、わたしは「転勤したくない、他の店に移動させるのなら辞める」と言ってしまいました。浜松で次の職場が決まっていた訳ではなかったのですが、そのときは本当にそう思ったのでした。

 気がつかないうちに躁状態が出ていたのだと思います。きっと。

 そこで慌てたのは支店長席でした。男性の総合職で転勤したくないなどと言う社員は初めてだったからです。

「もう辞令が出てしまっていて、あなたに辞令が出た時点で、すでに浜松支店の人間ではない。辞める辞めないは我々が判断することじゃなく、あなた自身が決めることだから、新宿支店でしかるべき手続きをとってもらえないだろうか?」という支店長席の言い分です。

 この頃には社宅ではなく賃貸アパートに移り住んでいましたし、会社やクレジット会社、銀行などに借金や住宅ローンなどはありませんでしたから、今から考えれば、断固退職すべきでした。

 しかし、どういうわけか「わかりました」と言ってしまったのでした。

そのときの心理状態はよく思い出せないのですが、辞めるとは言ったものの、先行きの生活の不安などが頭をよぎったのかもしれません。

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(13)引越しとロビーマン

 新宿支店は、JR新宿駅西口のまん前にありました。新宿支店がまだそこにあるかどうか(ここ数年新宿には行っていないので)はわかりませんが、建物はちゃんとあります。

 #って書くと、どこの銀行だかわかっちゃいますね(^^

 新宿支店は、それまでは新宿西口支店と東口支店の二つに分かれていたのですが、統合して新宿支店としてリニューアル・デビューしたのでした。

 おりしも開店間際の引越しの最中での転勤でした。土日を利用して二日で荷物を搬入して、机やキャビネットを配置、荷物を所定の場所に収納するのですが、月曜日には開店しなくてはならないため、二日とも帰りは深夜になってしまいました。

 開店の日から一ヶ月くらいはキャンペーンを張っていますから、景品と引き換えの来店券をもったお客様が怒涛のように押し寄せてきます。手続き待ちのお客様が30人、40人になることも珍しくなく、店舗の立地条件から、昼休みも近隣のサラリーマンやOLでごった返します。そんなわけで、わたしを含めて常時数名の社員がロビーに立って、お客様を誘導する役目をしました。9時〜3時までずっと立っていますから、かなりきつかったですね。多少は慣れましたが、立ち仕事をしている人の大変さがよくわかりました。

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(14)常務(支店長)との話

 ロビーマンたちは、キャンペーンが一段落すると本来の業務に戻ります。私の場合は支店長(といっても新宿支店長は取締役常務殿で、新宿支店は行内では格式が高いのです)から、「君には不動産をやってもらおうと準備していたのだが、辞める予定があるのなら法人筋の多い部署には張りつけられないから窓口の仕事をやってもらうことにした」と言われました。また、「それに第3次オンラインシステムの立ち上げも控えている。聞けば君は多少コンピュータの心得があるようだから、システムが無事立ちあがるまでをめどに窓口の面倒をみてもらいたいし」とのこと。

 このころは、躁状態が治まってきたのだろうと思いますが、辞めると言ったことを後悔し始めていました。自分が勤めていた銀行は、4月と10月に本俸の改定があり、10月の給与明細を見るとまたもやデメリットを食らってDの評価に逆戻りでした。前回やっとこさでC(普通)ランクまで戻したのに、また水面下。今回で3回目です。

 これでもう、同期の仲間を追いぬくということが、不可能であることが確定しました。残念ですが、自分がまいた種ですから仕方がありませんね。

 躁が治まると、波で言えば気分の上下の少ない普通の状態がしばらく続き、その後うつ状態がやってきます。今までも書いていないだけで躁とうつを繰り返しており、うつのときは、一日会社を休むと二日、三日、四日と、連続して休んでしまいます。わたしの場合、午前中が特に気分がふさぎ、会社に行くのが嫌で嫌でたまらないのですが、午後は幾分か気分が良くなります。これは、後から聞いた話ですが、上記のような人がけっこう多いようです。

 新宿支店へ転勤になった年は、有給休暇を使いきってしまうくらい会社を休んでしまいました。

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(15)オンラインシステムと支店長更迭 

 話を戻しますが、新オンラインシステムの練習や、テストなどは、窓口を閉め、その日の勘定が合ってから行うので、帰りがどうしても遅くなります。ある月などは残業が100時間くらいになったこともあります。

 女子社員は遠慮会釈無く残業をつけますが、男性はそうはいきません。あんまり残業をつけると昇進昇格に影響があるからです。仮に100時間残業して

も実際は15時間とか20時間くらいしか申告しません。

 ここの銀行にはタイムレコーダー(でしたっけ、カードを入れてガシャっとやるあれです)というものがないので、残業簿に書かなければ残業はゼロ時間になっています。

 サービス残業もいいところですが、これは他の会社でも同じようなものだと思います。

 会社を出る時間が10時〜12時という帰社時間が1〜2ヶ月続いて、ようやく第3次オンラインシステム稼働の予定期日に間に合う目処がつきました。

 最初は戸惑いや不慣れなこともあり、ギクシャクしましたが、3ヶ月くらいすると、カウンターに座る男女社員(テラーといいます)もスムーズに手続きが終わるようになりました。

 第3次オンラインシステムの特徴は、窓口完結型です。預金も支払いも第一線のカウンターで済ませてしまいます。ただし、カードや通帳をを無くした、住所変更をしたい、カードを作りたい、相続手続きなどは、受付だけすまして他の係りに回します。

 そんなこんなで、ちょこちょこ会社を休みながらも比較的安穏な毎日が過ぎて行きました。

 ところが、理解のある支店長が異動になってしました。子会社の社長としての転出でした。ここら辺りから、私にとっての悲劇が始まります。新支店長は、私に早く退職しろと言わんばかりの配置転換や仕事をさせたのです。

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(16)評判最悪の支店長

 このことを書く前に、新宿支店が法人部門と個人部門に分割されたことを書いておかなくてはなりません。法人部門というのは、融資、法人営業(前出のように、法人の預金を預かる部門)、不動産でした。残ったのは、窓口と個人融資(住宅ローン、カードローンなど)と、個人営業部門でした。法人部門は、近くの某保険会社のビルに移転していきました。

 法人部門を持たない店舗を「吸収店舗」と言っていました。

で、新支店長の登場とあいなるわけですが、入社以来個人部門一筋の副支店長と一緒に新支店長は銀座支店からやって来ました。銀座支店は、「総合店舗」と言って、個人部門も法人部門ももっています。新支店長にとっては格下げの人事で、新宿支店は新支店長にとっては、すごろくで言う「あがり」の人事でした。実際に一年もしないうちに、最近倒産した某ゼネコンに転出しました。

 新支店長は皆が眉をひそめるほど、えこひいきが激しく、飲み会の席などでは、普通支店長の悪口は言わないものなのですが、この支店長に限っては皆「転出間近だかたらやりたいほうだい」だの「自分の好みの社員にしか話しかけない」だのけちょんけちょんでした。

 口にこそ出さないまでも、実は支店長本人もくさっていて、最後だからやりたいほうだいやってやろうってなもんだったのかもしれませんね。でも、そのとばっちりが一部の評価の高い社員(前出の給与メリットが付き続けている社員)以外、全員に飛んでくるわけですからたまったものではありません。

私はというと、デメリットが3回ついていますから、新支店長にとっては、いわゆるダメ社員で、弱い者いじめの対象には格好の人物だったわけです。

 ちょこちょこ休んだりはするものの、窓口で無難に仕事をこなしていたにもかかわらず、特に人事異動もないのに、いきなり個人預金勧誘の渉外係に店内異動されました。

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17)独立の準備

 ここで、少し横道にそれます。横道と言うよりこっちのほうが大通り、木で言えば幹ですね。 前々回のことは、もうすでに平成5年頃のことです。 少しずつではありますが、銀行を辞めて独立しようと思うようになっていきました。

 躁うつ病のことは、一般社員は知らないだろうけど、人事部は知っているはずだし、異動するときの申し送り事項として、支店長席が知っていることはまちがいありません。

 病気持ちのダメ社員として定年まで会社にしがみつくか、いっそのこと別の世界で仕事をするかどうかだと、そのころは思っていました。家族を食べさせていくことを第一に考えればこの会社にどんなことがあってもしがみつくのが安全策ではあります。

 別の世界へ飛び込むのなら、成果が上がった分は全部自分に還元されますが、当然リスクが伴います。しかし、実際に独立するかどうかは別にしてそのときのための準備は少しずつ始めていました。

 平成5年の一番の出来事といえば、独立に向けて、有限会社を設立したことです。普通なら司法書士に頼むところですが、20万円以上料金を取られますから、夏休みを利用して有限会社を自分で設立してしまいました。大きな書店へ行けば書類一式も市販されています。株式会社にしたいところでしたが、さすがに1000万円のキャッシュは用意できませんでした。有限会社なら300万円ですみますからね。

 主な業務はパソコン教室の運営とパソコンやその周辺機器の販売。もうひとつは、テープリライターと言って、会議などに出かけていき、速記をしながら録音、戻ってから、会議の内容をちゃんとした文書にして依頼主に渡すというものです。

#皆さんも一度テープに録音した会話などをそのとおりに文字にしてみて下さい。 とてもじゃありませ んが、人に読んでもらえるものにはなりません。口語と文語とはまったく違ったものでありことを理解 してもらえると思います。逆に言うと、テープリライターの存在価値はここらへんにあるわけです。

 平成6年には、担保に入れられるようにと、東京都立川市にマンションも買いましたし、相前後して銀行が発行するローンカードを3枚作りました。ローンカードというのは、消費者金融の銀行版で、審査が厳しい代わりに消費者金融の四分の一程度の金利で借りることができるカードのことです。融資枠も銀行によって異なりますが、最高で2百万円〜3百万円のところが多いです。

 クレジットカードも自分の銀行以外のところで、3枚作りました。

 上記の与信限度額を全部合計すると、2800万円くらいにはなります。蓄えもほんの少しですがありましたし、いざ退職となると退職金も入ってきます。

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18)毎日ガミガミ

 話を元に戻します。

 この頃の預金集めの体制は、正社員が職域(取引のある会社のこと)で預金勧誘をしたり、あるいは預金にはつながらなくとも資産家に対象を絞って、土地の有効利用やそれに伴うローンの取り込み、不動産の仲介業務、相続や節税対策などを行っていました。

 個人の預金の満期手続きや預金勧誘は、女性の嘱託さんを採用して、彼女らに任せていたのでした。勤務時間は9時半から午後4時半までで、家庭の主婦がほとんどでした。私が新宿支店にいたころは、10名の嘱託さんがいました。

 嘱託さんを管理する部署には既に課長代理(普通の銀行では支店長代理)Kさんがいて、私が割り込んでいくような格好になりました。

 入金や満期更新の実績などの管理はKさんが行い、私の仕事といえば、二つに分かれていたデスクの島の一つに席がある嘱託さんの活動日誌を見ること、嘱託さんに同行することでした。

 自分では普通に仕事をしていたつもりなのですが、支店長は気に入らなかったようでした。私を自分の席に呼んでは、同行しているのになぜもっと実績があがらないんだとか、お客様から得てくる情報量が少ないなどと、毎日毎日いろんな言いがかりをつけてきます。

 前年同月に比べて入金・更新率・情報獲得量が大幅に落ち込んでいるのなら、もっともだと私も思いますが、実績は全部前年同月を上回っているのに、こういう言い方をされるのは納得がいかないというか理不尽としか言いようがありません。しかし、もう一方の課長代理さんには、同行訪問など外へ出ることは一切ないのに支店長は何もいわないわけです。毎日ガミガミ、ガミガミ、しかもみんなが聞いているのを意識して、わざといつもより大きなトーンで怒鳴ります。

 「でも支店長、、、」などと言おうものなら「お前は支店の方針に弓を引くつもりか?」とまたなんくせをつけてきます。

 同僚などとの飲み会では、いつも皆が慰めてくれました。あそこまで言わなくても良いのになぁと。

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19)酒量が増え、入院 

 3ヶ月近く毎日ウジウジ、ガミガミやられると、健康な人でも病気になるのではないでしょうか?この支店長は私が躁うつ病だと知っているはずなのです。

 負けるもんかと自分に言い聞かせつつ、うつ状態で極端に落ち込んでいるのを押して出社していましたから、ストレスを解消するのに大酒を飲んでうさをはらすぐらいしか思いつきませんでした。実際、アルコールは気分を持ち上げる効果がありますから、気分良く寝られるのです。

 年齢的なものもあるのかも知れませんが、朝起きたらまだ酒が残っていることが週に一二回、あるようになりました。それでも会社に着くまでにはアルコールは抜けていたのですが、とうとう会社に行っても残っている日が少しずつ少しずつ増えてきました。通勤には1時間45分ぐらいでしたが。

 ちょうどこの頃会社の健康診断があって、半日かけていろんな検査をするのですが、γ−GTPという項目の数値が異常に高かったらしく、再診ということで、電話で呼び出しがありました。通常は本人宛に親展扱いの社内便を使うものですから私も驚きました。

 医者から電話がかかってくることはあまり聞いたことがないと思いますが、会社の健保が設立した企業内病院だからです。

 企業内病院に行って話を聞くと、もう一度採血して結果が悪いようだと、入院しなければだめだと言われました。ドクターに躁うつ病のことを話し、今自分がおかれている状況を簡単に話しました。ドクターは「君の店の支店長には、注意をしておく。それから今日の採血で結果が悪かったら、国立久里浜病院というところに一ヶ月以上は入院しなくちゃいけないから、気持ちの準備だけはしておくように」と言いました。

 自覚症状は無いのですが、肝臓が悲鳴を上げる寸前まで酷使していたんですね。会社に戻ると支店長は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていました。「企業内病院の先生が電話するとおっしゃってましたが、電話ありましたか?」と聞くと、「あったよ!」と大きな声で怒鳴りました。(これで、新宿支店長は社員をどんなふうに使ってるんだと、人事で問題になるはずです)

 一週間ほどして、企業内病院の婦長から電話があり、すぐ来て欲しいとのことでした。支店長の了解をとって行ってみると、やはり入院が必要だということでした。久里浜病院というのは、神経科や精神科のドクターなら誰でも知っている、有名な病院で、主にアルコール依存症(以前はアルコール中毒、略してアル中と言っていた)の患者を治療する病院です。

 ドクターは「君のところの支店長と人事部には僕から電話しておくから、今日は自宅へ直帰しなさい。いつごろ入院できるかは、ここに書いてある電話番号に電話して相談して欲しい」とのこと。

 久里浜病院に電話した結果、3日後にしてくださいとのこと。平成6年の12月の下旬のことでした。

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(20)久里浜病院のこと その1

 久里浜病院は確か神奈川県の沿岸にあったような気がするのですが、記憶が定かではありません。ご存知の方がおられたらぜひ、

matz2116@yahoo.co.jp

までメールで教えて下さい。アルコール依存症の患者さんが多いので、だまって病院を抜け出して酒やビールを買えないようにと、付近には全く酒屋さんがなかったことは覚えています。

 最初の一週間は、これといってすることもないので、持参した囲碁の本やその他の本を読んで過ごしました。病院関係者の方には申し訳ないのですが、朝・昼・晩の食事は塩分が大幅に制限されてますから、栄養的には百点満点なのでしょうが、味のほうはお世辞にもおいしいとは言えませんでした。私も、同室の患者さんを真似て、売店で醤油を買いました。

 病院内では喫煙は所定の場所でOKでしたが、当然のことながらアルコールはご法度。どうせなら喫煙もご法度にすればより健康的なのですが、ま、いいかと思っていました。自分も煙草吸うし。

一週間も病院の中にいると、喫煙所や娯楽室、風呂場などに人が集まっていますから、自然と同じ病棟の患者さんとは顔見知りになり、世間話などをするようになります。

 アルコール依存症の患者さんを大勢見ますと、ある特徴に気がつきます。それは、酒焼けして、顔の色がどす黒いことです。日焼けの肌の色とは明らかに違います。

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(21)久里浜病院のこと その2と復職

 

 病院内では週2回の採血と、週一回の診察くらいしか私にとってのイベントがありません。あと強いてあげれば月曜日と木曜日の入浴ぐらいでしょうか?それと、囲碁が強い人がいて、時々やっていました。負けたり、負けたり、勝ったりといったところでした。

 10日もすると何もすることがなくて、退屈でしかたがないとドクターに言ったら、それならアルコール依存症の勉強会やケースワーカーを交えた断酒の会などがあるが、出てみますか?とのことでした。

 いろんな集まりに顔を出して分かったことがいくつかあります。

 お酒が好きな方には耳が痛い話しかと思いますが・・・

1.まず、アルコール依存症になったらもう治らないということです。治らない病気ですから、断酒を死ぬまで続けなければいけないということ。飲みたい酒を我慢する補助的な薬剤もあって、シアナマイドなどがよく使われます。

シアナマイドを服用中にアルコールを飲むとどうなるか?

心臓が爆発しそうになるくらい苦しくて、七転八倒するそうです。

2.アルコール依存症の人は、たとえ20年断酒していても、コップ一杯酒を飲んだだけで、再び朝から晩まで酒を飲みつづけるようになるそうです。  怖いですね〜(-_-;)

一般常識では理解しがたいのですが、そういう病気なのだそうです。しかも不治の病 です。

3.女性のアルコール依存症が増えつづけているそうです。

 いわゆる「キッチン・ドリンカー」というものですが、だんなが酒を飲む家庭なら、 台所には常にアルコールが置いてあるわけですから、いつで も酒を飲める環境にあるわけです。女性は男性より依存症になるまでの期間が短くて、10年〜15年くらいだと言われています。

 夜帰って、奥さんが酒くさかったら要注意ですよ、皆さん。朝や昼間に飲む酒がご主人が帰ってくる時間までに抜けなくなっているわけです。

4.夫婦のうちどちらがアルコール依存症になっても、家族の協力が不可欠です。家族で断酒を継続させることが大切なのだそうです。

5.アルコール依存症は様々な合併症を誘発します。肝臓自体は、肝炎から肝硬変に進み、最後は肝臓ガンになります。糖尿病も誘発しますし、壊疽(えそ)と言って手足などが腐る病気にもなります。腹水が溜まったり、失明する事もあります。あと、喉の静脈瘤が破裂して、大量に吐血、死に至ることもあります。アルコールの過剰摂取はこのように大変恐ろしい結末が待っていると言うわけです。

 自分はどうなのかと、私も考えました。毎日のように酒を飲んでいるし、肝機能が低下してもいる。 ドクターに聞いたら、あなたのように、朝、ときどき酒が残る程度ならまだアルコール依存症とは言わないが、立派な予備軍だ。

 朝酒を飲んでから会社にでかけたり、昼間にこっそり自動販売機などでカップ酒などを買って飲むようになったら、アルコール依存症に限りなく近い。

 そして、会社にも行かずに朝から晩まで酒を飲むようになったら、本物のアルコール依存症だということでした。 一家の大黒柱が仕事もせずにお金のかかる酒を飲みつづけるわけですから、行きつく先は家庭崩壊です。ですから、繰り返しになりますが、家族の協力が重要になるわけです。

 この話しを聞いて私も恐くなり、退院後は必ず休肝日(酒を飲まない日)を作るようになりました。

 そんなわけで、断酒と管理された食事のおかげで、肝機能のいろんな数値が正常値に戻り、年明け一月末に退院することができました。

 職場復帰初日、「一月ちょっと休んでしまいましたが、健康を取り戻すことができました」と、支店長に挨拶すると、休んだ中身など何も聞かずに、「預金集めの係は3階に移した。君と同僚のKは課長に昇進させたから、Kの言うことをよく聞いて仕事をするように」とのことでした。

 Kのところへ行くと、「今後○○さんには、入金取次帖の整備と、大口定期の満期管理をやってもらいます」とのことでした。

 入金取次帖というのは、係員がお客様のところへ行って、現金や通帳を預かるときに、「現金いくら、通帳何冊、支払伝票何枚」というふうに4枚綴りに明細を書きこみ、控えをお客様に渡すものです。手続きが終わって、お客様のところへ持参した場合は、手続き済みの通帳等と控えを引き換えにお客様の持っている預かり証を回収します。

 入金取次帖を使いきってしばらくすると、それを使っている社員が自分で整備して、役付き社員に監査を依頼します。不備があったら指摘をして、整備しなおし、保管します。整備中や整備済みの入金取次帖は、本店から検査があったとき必ず見られるもので、整備状況が悪いと、減点の対象になります。

 大口定期の満期管理表は、当時月3回出力されましたが、このころは金利が下がっており、個人のお客様はほとんどなく、法人名義がほとんどでした。

 入金取次帖の整備と、大口定期の満期管理など、一日あればできる仕事で、あとは何もやることがありません。

 「ほかの業務もやらせて欲しい」と何度も要望しましたが、支店長と話しができているらしく、聞き入れてもらえませんでした。

#下手に仕事を与えて、健康を害したら、こんどこそ、自分の責任になってしまうからでしょう。最初の時はおそらく「知らなかった」で通しているはずです。あるいは、私を依願退職に追い込むために仕事を与えない方針に出たのかも知れません。もちろん推測の域を出ませんが。私は、会社が自分を潰しにかかっていると理解していました。

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(22)支店長更迭

 することがないので、毎日上がってくるいろいろな計数をまとめて表にしたり、実数に基づいた提案書などをせっせと作っては、Kさんに渡していましたが、預かるだけで支店長に見せたりはしていないようでした。

 くさってはいけないと自分に言い聞かせながら毎日を過ごしていました。

 そうこうしているうちに、支店長が更迭になりました。某ゼネコンへ転出です(最近経営破綻した)。代わりに来る支店長は本店の秘書室長でした。

 旧支店長が栄転ではないので、送別会では冷ややかな空気が流れました。旧支店長が最後まで私と話したり、目を合わせようとしなかったのが印象的でした。

 旧支店長は転出になった後もたびたび支店に来ました。ちゃんとした出入り口から入ってくればいいのに、預金集めの係がある3階の出入り口を使うのです。

かならずと言って良いくらい単行本をもっていて、一時間ぐらいうだうだと喋っては帰っていきます。転出先の某ゼネコンでの仕事を与えられていないのが見え見えでした。

 自分の暇つぶしに忙しい社員の足止めをひんぱんにやられると、さすがに皆すこしずついやがるようになりました。

 Kさんには、あんなにひんぱんに来て、茶飲み話ばかりされると、皆迷惑だと言っている、Kさんから直接言うか、支店長に言ってもらって欲しいと、何度か話しましたが、課長に引き上げてもらった恩義を感じているのでしょう、一向に動こうとしません。

 しかたがないので、じゃぁ私新支店長に報告しますよと、旧支店長のことを報告したら、それっきり来なくなりました。

 新支店長がいうには、自分のところには一度も立ち寄った事はないとのことでした。

 新支店長は、公平さを旨とする良い支店長でした。

 私に、ほとんど仕事をさせなかったことを詫び、資産家を回っていろいろな情報を取ってくる仕事に変えてくれました。

 しかし、Kさんへの評価は変わることはなかったようです。

 旧支店長の業務命令に忠実に従ったからというのが理由のようでした。

 ただ、Kさんは高卒で、私に対する対抗意識がかなりあるようで、自分から私に話しかけてくることはほとんどありませんでした。そう言う意味では、心の狭い、上のご機嫌ばかりを伺う、部下にとっては好ましくない課長でした。同じ課の社員や嘱託さんたちも、あの人は上しかみていないと、敬遠する人が多かったのは事実です。

 同じ社員なのだから、仲良くやれば良いのにと思いますが、サラリーマンの世界もなかなか難しいですねぇ。

わたしもKさんや支店長にゴマをすって、覚えを良くすれば良かったのかも知れませんが(サラリーマンの処世術)、性格的にそれはできませんでした。

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(23)現在の私(平成14年2月現在)

 連載がだいぶ進んでサラリーマン人生も残りわずかというところまで来ているのですが、いつまでたっても大借金との奮闘が始まらないじゃないか?!という方のために、今現在の私を知ってもらおうと思います。ええ、結論を先に書いてしまいます。

 平成14年2月22日付で破産法による免責(平成13年(モ)7382号)が認められました。

 マンションや株式、保険、貯蓄など資産の処分などがありましたから、差し引きで約3300万円程度の債務でした。

 そして現在は、躁うつ病のため、医師から働くことは禁じられており、通院治療を行っています。医師によれば、躁でもうつでも、脳が大変疲れているので、抗躁剤や抗うつ剤も大事だけど、ともかく良く寝て、脳の疲れを取ることがとても大切なことなのだそうです。ですから、睡眠薬も処方されています。

 対人関係のストレスが少ないため、精神的にはとても楽です。今は躁の時期に入っているのですが、処方された薬をきちんと服用しているので、こうして毎日パソコンに向かって文章を書くこともできます。

 でも、かみさんや子供たちには今までに言葉にできないほど迷惑をかけています。しかし、すこしずつ改善をしていきたいと思っています。

ドクターに確認したわけではないのですが、躁うつ病はアルコール依存症と同じで一度なると、もう治らない病気みたいです。私だって発病が1983年ですから、もう20年近くこの病気とつきあっていることになります。

 主治医の勧めもあって、精神障害に基づく障害年金裁定請求を3月の中旬頃行いました。日常生活のこまごまとしたことは自分でできるので、おそらく3級の認定になるだろうとのこと。

 傷害年金の支給が受けられるかどうかは、3ヶ月くらい待たないとわからないそうです。主治医は「仕事は不可と診断書に書いたんだから、大丈夫ですョ」と言いますが、なにしろはじめての経験なので、心配でした。

 いずれにしても認定されれば、我が家の家計は大助かりであることは間違いありません。次回からまた会社を辞めて、独立するまでの経緯を復活させたいと思います。

 ときどき脱線するとは思いますが、そこらへんはご容赦くださいませ(^^

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(24)転勤 その1

 薬は飲んでいるものの、私の場合躁うつは波のように襲って来ます。薬が効いているので、極端な躁やうつに振れることはありませんが、元気で饒舌、冗談言ってわらわせる自分から、寡黙になり、気持ちが落ちこんで、できることなら会社を休んでゆっくりしたいという自分が交互に現れます。私の場合は、そのサイクルは決まっていないようです。

 うつ状態が長いときもあれば、躁状態が長いときもあります。

 そして、山と谷の中間といいますか、平衡状態のような期間が長いときもあります。

 ただ、何回か書いたことがあるかと思いますが、そのときはそんなことの自覚症状はないわけです。今になって振り返ってみれば、あぁそうだったんだなということです。

 平成7年7月に新宿支店から集中事務部という部署に転勤になりました。あれから転勤までにもいろいろあったのですが、ここでは割愛させていただき、少し先を急ぎます。ただ、課の送別会のとき、正社員よりも、嘱託の女性勧誘員の方々のほうが私の転勤を残念がってくれました。

 集中事務部での引き継ぎは特にないとのことでしたので、私の後任にやってきた課長代理さんに一週間かけて引き継ぎをすませました。

 このころは、もうバブルが終わり、経済全体が下り坂だったころですから、後任の人も成績が上がらず苦労しただろうなと思います。土地の値段が下がるなんて、初めての出来事ですから。

 集中事務部は本部の一部門なのですが、建物自体は、東京の方ならご存知かと思いますが、門前仲町(もんぜんなかちょう 地下鉄の駅名にもあり)というところにありました。

 集中事務部の仕事は、住宅ローンの管理をしたり、お客様が郵送で送ってきた定期預金の満期や入出金の手続きをしたり、首都圏の営業店が預かってきた手続きの代行、株式の名義書換などです。いろんな事務を一箇所に集中させているところから、集中事務部というわけです。

 それにつけても、通勤時間の片道が一時間45分になったのは、アイタタッていう感じでした。毎朝5時起きってのはけっこうつらいものがありますよ、皆さん。首都圏のサラリーマンは悲しいものがありますね。冬なんか朝電車に乗るとき、空が真っ暗なんですから(^^

 超早起きは辛かったですが、会社を辞めるまでに、それにつきあって朝食を作ってくれたかみさんに感謝感謝です。

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(25)転勤 その2

 集中事務部では、銀行本体のオンラインシステムとは別に、MS-DOSの業務プログラムも動いていて、私は主にDOSのプログラムに不具合が起こったときの修正プログラムを作ったり、そのメンテナンス、あるいは新規のプログラム作成などを担当する係になりました。係と言っても先輩社員と二人だけのごく小さな係です。

 蛇足ですが、MS-DOS(エムエス・ドス)って何?という方のために簡単にしておきます。

 #MS-DOSというのは、Microsoft Disk Operating Systemといって、Windowsの前身です。

 Windowsのスタートボタンを押すと、MS-DOSプロンプトというのがありますが 、これのことです(正確に言うとちょっと違うのですが)。WindowsOSが壊れたり、たち上がらなくなったとき、活躍するのはMS-DOSのコマンドです。そして、Windowsの底流には、このMS-DOSが流れています。悪夢 のようなFDISKで時間を浪費した方も多いかと思います。

でも、Web形式の重くてかったるいソフトより、MS-DOSで走るソフトのほうが、さくさくと軽く速く動きます。そして壊れにくい。

 MS-DOSがわかる社員などほとんどいませんでしたから、横やりがはいることもなく、また、自分にとってはやりがいのあるポジションでした。ただし、相変わらず、躁うつのせいで、ちょこちょこ休みました。でも、このプログラムはいついつから動けば良いという期日がはっきりしていますから、少々休んでも調子の良いときにまとめて仕事をすれば良かったので、その点は楽でした。集中事務部では、与えられた仕事に関して、少なくとも迷惑はかけずにすんだと自分では思っています。

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(26)集中事務部の仕事

 そんなこんなで、一年ぐらいは平穏無事(?)に過ぎていき、朝5時起きも生活の一部になっていました。

 集中事務部が扱う事務量は膨大でしたが、集中事務部自体は10数名の所帯でした。ではどうするか?子会社を作って同じビルに入れ、子会社に請負という形で事務を委託していたのです。この形態はどこの銀行も同じだと思います。子会社ですから、そこで雇う社員は給与水準を落とせますから、金銭的にも節約になるわけです。

 で、「長」のつく要職は100%本体からの出向社員で占められていました。子会社と言っても、数百人の社員規模ですから、大きめの中小企業と言ってもいいかと思います。

子会社の本社は別のところにあり、社長位下数名の人員がいるだけです。ここは公務員でいう天下りのポストで、実権は無いのと同じです。仲良し倶楽部のようなものです。

 ですから、集中事務部にある子会社には、課長以上のポストはありませんでした。

 集中事務部はこの子会社を統括(実質的には支配)することと、全店の事務を効率化するにはどうすれば良いかを考えるのが仕事です。ですから、子会社の給与計算や人事権も集中事務部が握っています。出向社員も集中事務部の覚えが悪いと、昇進昇格に影響がでるというわけです。子会社の本社機能自体がが飾り物なんですから、み〜んな集中事務部に顔を向けるわけです。

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(27)部長更迭と出向

 平成8年7月。定例の人事異動があり、部長が更迭になりました。この頃になると、どこの会社でもそうだと思いますが、バブルの後遺症で、全体としての仕事量はだんだん減ってきていますから、過剰人員が問題になるわけです。集中事務部自体と、子会社のスリム化の特命を受けて、異動してきたんだろうなと思っていました。

 で、私ともう一人の先輩は、MS-DOSの仕事をしていたと書きましたが、新部長が来て一ヶ月くらいたった頃、二人とも子会社に出向になりました。

 出向になったといっても、職場や席がかわるわけではありません。そして、仕事も同じです。変わるのは形式上の上司です。本社にいる本部長の部下ということになりますが、事実的な上司は集中事務部長でした。ここらへんは前回にも少し触れました。

 ただ、40歳過ぎてからの出向ですから、私たちと同じかそれ以上の年代の方ならおわかりかと思いますが、会社での自分の先行きがある程度見えてくるわけです。

 あぁあ、俺も子会社の課長さんどまりかぁ・・・ってなもんです。

 人員の削減は子会社の社員についても行われました。子会社の社員は肩たたきをするほどの年配者(20代〜30代がほとんど)はいませんでしたから、都合退職者の補充はしないという方針で望んだようです。

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(28)退職

 住宅ローンも抱えていることですし、おいそれと辞めるわけにはいきません。

家族会議を何回か開いて、こうしたいんだけどと、話しをしました。

 軍資金はあるものの、家族にとっては今までの生活レベルは同じように維持していきたいでしょうし、私も軍資金が底をついたら、事業を辞めなくてはなりません。独立と言えば響きはカッコ良いですが、個人事業主からスタート。なんと言っても後ろ盾となる看板が全くありません。

 結局、こうなりました。私が退職して独立するのは賛成。しかし、子供たちは、いままでどおり、習い事や学習塾に通う。かみさんは、いままで、専業主婦として、日常生活を送っていまっしたが、どこかでパートの仕事かなんかを探してきて働いてもらう。これはかみさんが言い出したことです。最悪の場合になった場合でも、そこからは収入が得られるわけです。もともとかみさんは仕事が好きで、働きたい働きたいと言っていたのですが、他の社員の奥さん連中は働いていないという社員が多かったせいもあり、見栄をはって、私が働いて欲しくないと言っていたのです。

そしてついに、平成8年10月 集中事務部長に、退職したいと切り出しました。

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(29)退職その2

 

 退職理由は?と聞かれて、持病のうつ病(当時は躁うつではなく、うつ病と思っていた)のため、たびたび休んで、会社に迷惑ばかりかけている。大勢の人が集まる職場や、大勢の人を訪問する仕事は自分で向いていないと思う。

 それならば、自分で体調の管理をしながらできる仕事のほうが良いと思いましたと、集中事務部長には答えました。

「ちょっと場所を変えようか?」ということで、近くの喫茶店でこ一時間話しました。

遺留されましたが、家族が了承していることと、本人の意思が固い、と判断したのでしょう、で「いつまでここで働いてもらえるかな。こちらの都合だけ言うと、10・11月は為替システムの変更があって、担当者2名がシステムを触れるようにしておきたい。

 つまり、ここで一名自然減になるのは、システムが動く期日の関係もあって、できれば避けたいのだ。それと12月中旬頃まではボーナス月だし、どの部署もてんてこまいなのはあなたもよく知ってるでしょ?だから、12月下旬にしてもらえると、ありがたいのだ」とのこと。

「わかりました。しかし、商売を始めるにあたって、適当な物件の目星はつけているのですが、見て回って、物件を決めなくてはいけません。それに都庁や立川市役所、法務局などでの手続き等、やることが目白押しです。12月まで退職を伸ばす代わりに、12月の中旬から有給休暇を使って休ませてもらえますか?」と。

部長が「わかった」といってくれたので、助かったと思いました。

部長は、12月のスケジュール表に君の退職の件が掲載されるまでは、自分から喋ったりしないで欲しいとのことでした。

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(30)退職その3

 しばらく黙っているように言われ、自分はいつものとおり仕事をしていましたが、MS−DOSの係が1名(位下Tさん)増えると、社員は異変に気がつきます。そして私が新しく来たTさんの教育係という格好が取られたので、私が辞めるという噂はあっというまに広まりました。

 「辞めるの?」と率直に尋ねてくる人もいましたが、質問には答えずに、「TさんはFORTRANは使い慣れてるけど、MS−DOSは初めてに近いんだ。でも、言語を一つマスターしてるから飲み込みはすごく速いよ」と、にこにこしているだけに留めました。

 そして、集中事務部の12月の予定表が、管理職に配られ、掲示板に張り出されると、入れ替わり立ち代わり私のデスクへ来て、あるいは食堂で、階段ですれ違うときなど、

「辞めるんだって?何で?」と聞かれます。

 部長と口裏を合わせるようにしていましたから、「うん、家業を手伝うことになってね」

と、答えることにしていました。実際、父が広島で小さいながらも繊維関係の仕事をしていましたから、実際に継ぐ継がないは別にして、100%うそというわけではありません。

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(31)退職その4

 平成8年12月の中旬、銀行を辞めました。年末まで在籍はするのですが、有給休暇をとらせてもらうので、退職の挨拶は中旬に行いました。

 挨拶の内容はありきたりのものです。父の仕事を手伝うことになった、長い間おせわになりました、くらいの内容です。ただ、ひとつ付け加えたのは、健康診断と言えば身体のいろいろな数値しか測りませんが、こころの健康も大変重要だ。測定はできないけれど、これからは重視されても良いのではないかと、いうことを言いました。メンタル・ヘルスですね。

 恒例なのですが、夕方の全体終礼で、挨拶を終え、、花束を同じ課の女性から受け取ると、今までの出来事が走馬燈のように思い出され、思わず涙が出てしまいました。それから、個別に挨拶に回ります。6階建てのビルですから、全体を回るのはけっこうたいへんでした。

 もう所属している部署や、同期入社社員や有志による送別会は終わっていたので、この日は、同じ係の先輩と焼き鳥屋で最後の乾杯をしました。

 先輩は年齢が私より3歳年上で、資格は二人とも主事でした。「俺は、会社にしがみついていきるしかないなぁと思っている。もう昇格のめはないことは自分で分かっているし、もう少ししたら、関連会社に転籍(銀行を辞めて、そこに就職すること)になるんだろうなと思っている。」と、焼き鳥を食べながらとつとつとした語り口が妙に印象にのこっています。

#蛇足ですが、支店では、支店長より年上の社員は置かないことになっています。これは

 どこの銀行でも同じじゃないかなぁと思います。年上の部下がいちゃぁ、支店長はやり にくくてしょうがありませんね。

 50歳過ぎると支店長、副支店長クラスは除いて、本社のある東京に転勤になります。

 そして、関連会社に出向か、転籍というイベントが待ちうけています。

 給与水準はそれまでの6割以下に下がります。ですから、住宅ローンを抱えている人は大変です。 今までの生活水準を急に落とすことは、言葉にするのは簡単でも なかなかできるものじゃありまあせん。

 ですから、これを機に奥さんが働き始めるというパターンが多いようです。

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(32)開業準備 その1

 前回で書いたように、12月中旬から会社に出なくても良くなったので、開業準備に精を出しました。開業目標は平成9年4月一日に設定して、そこから逆算してカウントダウンです。

 まず、前の会社の厚生年金基金の解約です。65歳まで積み立てておいて、年金としてもらっても良かったのですが、キャッシュが手元にあったほうが良いと思い、解約しました。金額は言えませんが、百万円単位で戻ってきました。

 税金の関係ですが、法人を設立した以上は、利益があろうがなかろうが、法人住民税は払わなくてはなりません。自分の有限会社の設立は平成5年8月で、決算は3月でした。

ですから、サラリーマンの身分の内に3回法人住民税を払いました。誤解のない様に書いておきますが、法人税は利益が無ければ払う必要はありません。

 次にしたことは、青色申告の申請です。商売は、東京立川市で始めますから、立川税務署に行って手続きをしました。(ほんとは平成5年にしなくてはいけなかったのですが)

 それから、立川法人会と商工会議所の会員になりました。どちらも資本金や売り上げの規模で会費が違ってきますから、我が社は一番低いランクからスタートです。

 会員になって何がメリットかというと、会員名簿が手に入ることです。それをもとにDMを打ったり、電話セールスをしたり、戸別訪問などもできますから。

 また、法人会に入っておくと、その時期になると税務署の幹部を招いて決算や法人税の話しを聞く会を設けてくれます。その会合に参加したという紙を申告のときに添えると、親切丁寧かつ、妙なあら捜しをすることもなく、すんなりと受理してくれるのです。

 それと、ほんとかどうか知りませんが、税務署のOBを雇うと、税務調査に来ないか、来てもOBが立ち会うので、強烈なパンチは食らうことがないような話しも聞いたことがあります。真偽のほどはわかりません。税務署のOBを雇ったことがありませんから。

 もっとも、税務署を定年で退官すると、税理士の資格がもらえるのですが、税務署OBで、年金だけでなく、税務申告の代行で食べている人というのはあまり聞いたことがありませんね。なんでも商売ですから、お客さんあってのなりわいです。彼らは人に頭を下げるということをしないで何十年も働いていますから、頭の切り替えがなかなか難しいのかもしれませんねぇ。

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(33)開業準備 その2

 前回は青色申告まで書きました。次は物件探しです。不動産会社にも声をかけてありましたから、ちょくちょく電話があって、見せてもらったのですが、どうも自分のイメージにぴったりしたものがなかなか見つかりませんでした。

 12月の終わり頃になって、立川駅から北側に伸びているメインストリートに面したビルがあって、駅から歩いて5分以内だし、ここなら理想的だなと思ったものですから、自分から管理事務所の責任者をいきなり尋ねて行って、これこれで商売をはじめたいから貸してもらえないだろうと、じか談判しました。

 このビルは以前デパートだった関係上、3階まではエスカレーターがついていました。一階はテナントが3つあって、10年以上商売をしているしだめだ、3階なら年明け早々に出て行くテナントがある。お隣が内科の医院なので、大きな音がでるとだめだが、大丈夫か?と訊きます。

 パソコン教室と速記がメインの仕事になるので大丈夫だと言いましたら、じゃぁ、年が明けて受け入れ体制が整ったら連絡するからそれまで待ってくれとのこと。

 こころの中で「やった〜!!」と叫びました。不動産屋を通すと仲介手数料を払わなくてはなりませんから、その分資金が節約できるからです。

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(34)開業準備 その3

 それにしても、時々気の向くままに脱線するから、自分でも今どこまで書いたのかわからなくなることが時々あります。アルツハイマーが始まってるのかなぁ?蟻さんの歌じゃありませんが、落ち着きがないから、あっちいってちょんちょん、こっちきてちょん、なのかも知れません。

 そうそう、不動産屋抜きで物件の賃貸の依頼に、ビルの管理事務所の責任者とじか談判したというところまででしたね。これは返事待ちですから、これといってやることはありません。

 年末までにしたことは、国民生活金融公庫(以前の国民金融公庫)に、開業資金融資の相談に行ったことくらいです。保証人を立てたり、詳しい事業計画書などを提出しなくてはならないことがわかり、申込書一式をもらったところで平成8年は終わりました。

 保証人は高校の同級生Sに頼もうと思って電話したらOKとの返事でした。といいますのも、Sには彼のお父さんと連名で保証人になってあげていたからです。おあいこってとこですね。これは正月3日に目黒区に住むS宅を訪れて正式に頼みました。そして書類一式にはんこもついてもらいました。

今から考えると、会社を辞める前からすでに躁状態だったようです。本人は睡眠時間が2〜3時間でも目覚めはすっきり爽やか、同時に怒りっぽくなっていて、家族にもきつい口調でものを言ったりしていました。

しかし、本人は気がついていないわけです。

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(35)開業準備 その4

 Sは高校時代からちょっと変わったところがあるのですが、音楽仲間で、なんだか気が合い、卒業後もずっと連絡を取り合っていました。彼の実家は和菓子屋さんでした。彼自身は、中国の気功を教えたり、中国でも高価な岩茶(がんちゃ)、麦わらか葦のようなものを使って作られた、アヒルなどのオブジェなどを扱っていました。平成6年に39歳で結婚し、夫婦で商売をやっていました。

 ただ、ちょっとだけ気になったのは、目黒と言えば、山手線の内側で、東京でも一等地です。貸し家だけど、家賃が30万円だと言うことでした。人通りの多いところで30万円ならわかるのですが・・・。住宅地だったのです。卸し売りで、有名店で扱ってもらっているとの事でしたが、ほんとうにこの先もやっていけるのか、若干の不安を覚えました。

 ま、しかし、奥さんと一緒なら奥さんの分の人件費は払わなくても良いですから、その点は楽ですね。しかし、良い面だけではなく、事業がおかしくなると夫婦共倒れになることです。

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(36)かみさんの仕事と初詣で

 私のところは、かみさんは既に他で勤め口を見つけて働いていましたから、夫婦共倒れになるようなことはありませんが、人を雇うときに奥さんのように只で働いてくれる人は誰もいないということです。

 かみさんは、データ入力の会社に運良く就職できたんです。独身の頃キーパンチの仕事をしていましたから、昔とったなんとかですね。

 自慢するわけではありませんが、かみさんは入力が驚異的に速いです。資格を持っている訳ではありませんでしたが、私のローマ字入力ではなく、ひらがな入力で、1日7時間入力すると、ベタ入力なら、最低でも4万字は入力できます。ピンと来ない方のために書いておきますと、標準的なA4の文書で28枚〜30枚くらいは作れるのです。これぐらいになると、もうプロの領域です。

じゃあ奥さんに手伝ってもらえばいいじゃぁないかと思うでしょ?ところが世の中そんなに甘くはないのです。

テープリライターの仕事は、入力の速度では満点なのですが、単に入力する場合のように元になるものは録音テープしかありません。専門用語のボキャブラリーの観点でも素人に近いですから、仕事を手伝ってもらうには無理があります。専門用語の漢字変換が完璧でないと、商品としては使い物にならないからです。実際の会話には略語もたくさん出てきますから、略さない用語も知っていなければならず、かなり熟練を要するのです。入力が速いに越したことはありませんが、それだけではだめですよということです。しかし、すこしずつ慣れてもらって、手伝ってもらえるようにはしたいと思っていました。

 1月4日は家族そろって初詣でに行き、これからの商売繁盛と家内安全、無病息災を祈りました。

 精神状態もこの頃は比較的落ちついていましたし、ひさびさに晴れ晴れとした気分で帰宅し、テレビの正月番組やビデオを見ながら般若湯(はんにゃとう、酒のこと)をいただき、大学を出て以来、本当に心身ともにリラックスできた正月でした。

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(37)税理士は使わない

 商売をはじめるにあたって、最初から税理士に頼む人がいますが、私見ですが、あまり感心しません。たくさんの売り上げや買い掛けがあって、自分一人では管理できなくなって初めて税理士に依頼するべきだと思います。

 言葉は悪いですが、新規開業者は税理士のかもです。おまけにネギまでしょっています。税務のことはよくわからないでしょうから、私がかわりになにからなにまでやってあげましよう、ってなもんです。

 新規開業者に、税理士事務所が何をしてくれるかと言うと、月に一回来て、帳簿を預かって帰ります。そして、事務所でアルバイトなどを使って会計ソフトに入力します。もうひとつは、会社の帳簿を元に決算書を作成し、税理士がはんこを押して代わりに申告してくれる。申告の代行は料金別立てが原則だったと思います。

 新規開業者に発生する取り引きは最初からそんなに多くはありません。つまり起票する伝票や仕分け処理などたかが知れています。

 新規開業の場合、有限会社なら、税理士に払うお金は月々3〜5万円がその当時の相場でした。

 私は、5万円あったらパートさんが一人雇えるじゃないか、無駄だと判断しました。

 そして、手書きの決算書よりコンピュータが出力した決算書のほうが税務署はすんなり受け付けてくれるというのを聞いて知っていましたから、会計ソフトを買いました。「小番頭」というものですが、ご存知の方も多いかと思います。忙しければ、会社の休みの日に、まとめて記帳とそれに基づいた

「小番頭」への入力をすればいいわけですし、それさえもできなければ(商売繁盛で良いことです)、かみさんに一部入力をやってもらえば良いわけです。

 かみさんに、簿記3級の資格を取ってもらいたいと言ったら、「いいわよ」と言ってくれたので、土日の休みに学校に通ってもらいました。

 短期間集中コースでしたので、朝出かけたら夕方まで帰宅しません。

 その間、自分にできる範囲内で、食事を作ったり(ラーメンとカレーが主でしたm(__)m、が具にはこだわりました)、風呂場の掃除や床や畳に掃除機をかけるのも協力しました。あと、食器洗いや犬の散歩、子供たちとどこかに行ったりと、できる限りの協力はしました。

 犬はシーズーでBENという名前なのですが、BENは私と散歩するのが一番楽しそうだと、下の子が言っていました。普段家にいなくても、家の中の序列はちゃんと把握しているのですね、と言いたいところですが、私だと一時間以上かけて散歩するので、あのおっさんなら外に長いこと居られると思っていたのかも知れませんね。

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 (38)融資申込みと物件契約 その1

 正月休みが明けて、早速国民金融公庫(現在は国民生活金融公庫)へ新規開業用の融資の申し込みに行きました。融資申込書から始まって、事業計画書、収支計画書、保証人の承諾書と印鑑証明、住民票、法人と個人の印鑑証明、会社の定款の写し、賃貸物件の契約書など、めまいがしそうなほどたくさんの書類が必要です。

 賃貸物件はまだ決まっていませんでしたから、後日賃貸借物件の契約書を持参することにして、それ以外のものは預かってもらいました。

 一月中旬に、目星をつけておいたビルの管理会社から電話があり、来てほしいとのこと。さっそく行ってみると、3階にある約10坪のスペースでした。

同じフロアにある、旅行代理店の会社が一部スペースを減らしたので、空きができたということでした。 このビルにエスカレーターがあることは以前書きましたが、正面玄関からエスカレーターで3階に行くとすぐ左側に位置していました。

 蛇足ですが、3階にはさきほどの旅行代理店のほかに、内科の診療所、歯科医院、銀行系カード会社をはじめ、そのほかにも会社が3社入居していました。

 フロアの簡単な配置図をもらって、検討すると言ってその日は帰りました。一坪9000円/月でしたから、10坪で合計9万でした。共益費は別です。あちこちで情報を調べたら、上の価格は高くも安くもなく、いわゆる相場の価格でした。

 勝手に決めるとかみさんのご機嫌を損ねるので、図面を見せながら説明しました。わたしも見てみたいと言うので、現場を見せました。

 思っていたより良い印象をもったのでしょう、ここでいいんじゃない?とのことでした。奥さんはこわいですからねぇ(^^

 管理人事務所をたずねて、契約したいと申し出ました。区画をきれいに直したり、パソコン教室ならコンセントもたくさん必要だろうから、もう少し待って欲しいとのことでした。

 物件が決まらないと、融資の案件が前に進まないので、なるべく早くお願いしますと言って、ビルを後にしました。

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(39)物件決まる

 物件の本契約までは、テープリライターの仕事をしたり、パソコン教室用の教材作りをして過ごしました。

 パソコン教室のコンセプトは以下のような物でした。

1.自分のパソコン教室は、大手他社と対抗するために新機軸を打ち出す。

2.新機軸とは、まず面接をして生徒さんが本当に求めているものをお教えする。完全予約制で8回完結型とする。つまり、オーダーメイドのメニューです。生徒さんによってやってることが違うわけです。

3.8回終わったらやめても良いし、違う分野で継続しても構わない。

4.ターゲットはOLとシルバーエイジとする。

5.広告媒体は、主に○○リビングといったリビング紙やミニコミを使う。

6.フランチャイズではあるが、子供向けのパソコン教室も用意する。

7.必要に応じて会社さんなどに出向いていく出前教室も取り扱う。

8.検定2級以上をめざす生徒さんは、土日にしていただいて、うちのかみさんにご登場願う。(速く正確にキーボードをたたくこつをのみこんでもらう)

9.要望があれば、パソコンと周辺機器の接続、パソコン自体やソフトの取次売買、トラブルがあったときには生徒さんの自宅訪問なども行う。

10.暇を見て法人の営業にも出かける。

11.実績を積み上げて、商工会議所や法人会から推薦してもらえるように なることを目指す。

 そうこうしているうちに、物件の準備が整ったとの連絡がありました。

 次の日契約を済ませました。敷金として、家賃の10ヶ月分払わなければならず、痛いけど、他のテナントさんも皆そうですからしかたないですね。

 さぁ、城の骨格だけは整いました。これから、次から次へとやるべきことが待ちうけています。

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 (40)教室作り その1

 国民金融公庫の融資を待っている間にもやることは山ほどあります。

 まず、電話をつけました。回線はNTTからではなく、電話回線売買専門の業者から買いました。NTTで新規だと7万いくらかかりますが、業者から買ったので半値以下で買えました。

 この場合、NTTは何もしてくれませんから、業者とビルに出入りしている電話回線工事業者と打ち合わせが必要です。回線の基本料金は高いですが、2回線分使えるので、ISDNにしました。ひとつは、普通の電話として、もうひとつはインターネットとFAX用です。

 FAXも秋葉原へ行って、中古の安いのを買いました。中古と言っても9600bpsの通信速度なので、普通のものです。

 電話回線は一週間ほどで開通しました。

 次にパソコン教室ですから、パソコン机が必要です。6台パソコンを置きたかったので、通常より横幅が長いものがないかと、かみさんと手分けしてリサイクルショップをしらみつぶしに当たりました。

 これも一週間ほどで調達できました。イスもパイプ椅子にしました。安く上げるための涙ぐましい努力をしたのでした。

 文具類はかみさんに頼んで買ってもらいました。

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(41)教室作り その2 

 さて、パソコンの件ですが、自宅にはシャープのノートパソコンが一台と、今は伝説化しているゲートウェイのP5−133がありました。ゲートウェイのマシンを教室の事務用とテープリライターの仕事に使うことにしました。

 教室用のパソコンですが、個人的には使いたくなかったのですが、価格の面で魅力があり、富士通のFMVを5台現金で買いました。もう1台は、Power Macintoshでした。マックで教わりたいという人のためにです。いずれも秋葉原を朝から晩まで回って1円でも安いものをと駆けずり回って買いました。

 事務用と教室用のを含めて7台をLANで接続しました。ホストは事務用のP5です。

 運悪くその頃のFMVにはマザーボードに欠陥があり、本体を丸々とりかえるというアクシデントはありましたが、その後は特にトラブルもなく、動いてくれました。

 LANで結んだのは、プリンターが1台で済むからです。つまりいちいちケーブルをつなぎかえる必要がないからです。

 これで、一通りかっこうはつきました。

 あとは、教室と事務スペースを分けるためのパーティッション(ついたて)があれば良いのですが、これもやはりリサイクルショップへ行って調達しました。

 かっこうだけ整っても生徒さんが集まらなければなんにもなりませんし、広告や一番大切な教材を整備する仕事が残っています。

 これらについては後で書くことにします。

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(42)国民金融公庫の件

 国民金融公庫から連絡があって、来て欲しいとのこと。

 そこで受けた説明は、「パソコン教室への貸し出しは今まで扱ったことがないので、融資申込額の半分を融資させてもらう」とのことでした。

 資金計画が大幅に狂ってしまいますが、だからといって、それじゃぁけっこうですというわけにもいかず、しぶしぶ半額で了承しました。

 ただし、半年間は金利のみ返済で、元利金の返済はそれ以降から始まるように便宜をはかってくれました。

 しかし、繰り返しますが、資金計画が大幅に狂ってしまいました。国民金融公庫の分はまるまる融資してもらえれば、そのお金は使わずにそのまま返済に回し、何かあった時に使うつもりだったのです。金利分が持ち出しになりますが、信用をつけるためによく用いられる手法です。毎月の利息は信用料というわけです。

 それではと、資本金を振り込んだS銀行に相談に行きました。S銀行は取り引きがないから、直接融資はできないが、立川市が信用保証協会を使って制度化している融資がある、それなら対応できると思うということでした。

 なるほど良いことを聞いたとその日はそれで帰りました。

 これについては後ほど書きます。

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(43)制度融資

 次の日、立川市役所に行きました。前回の制度融資の相談をするためです。取り扱い窓口は商工課だったかなあぁ、ちょっと思い出せません。女性の担当者から簡単な説明を受けた後、申込書一式をもらって帰りました。

 その足でS銀行の融資課に立ち寄って、立川市役所に行って申込書をもらってきたことを話し、融資はS銀行さんでお願いしますと頭を下げました。

 S銀行によれば、立川市役所に申し込みをすると、東京信用保証協会の人がお宅の事務所を訪問する、そのときに色々と質問を受けて、その返答で、保証するかしないかを決める。信用保証協会の保証がおりれば当行はすぐにご融資いたしますとのこと。

 なんのことはない、S銀行はノーリスクです。融資した分が仮に焦げ付いたとしても、代位弁済(だいいべんさい)といって、私の代わりに保証協会が払ってくれるのです。

 ですから、信用保証協会には毎月保証料を払います。

 蛇足ですが、融資が実現すれば、借り入れの返済と保証料は同じ口座から一度に引き落とされることになります。

 国民金融公庫と同じくらい膨大な必要書類を整え、立川市役所に制度融資を申し込みました。

 一週間くらいしたら、保証協会の担当者が事務所にやって来ました。提出した書類にもとづいて、あれやこれやと一時間ぐらい質疑応答が続きました。

 私の職歴の質問から始まって、テープリライターの仕事の内容、設備資金や運転資金の使途、パソコン教室の内容、どうやって生徒を集めるのか、売り上げはどのくらい見こめるのか、等々、ねほりはほり聞かれました。

 私はひとつひとつの質問に丁寧に答えて行きました。返答に詰まったりすることはなかったため、担当者は好印象を持ったようでした。

 保証がOKなら、2週間くらいでS銀行から貸し付け金が指定の口座に振り込まれますといって、担当者は帰っていきました。

 果たして、20日後くらいに、S銀行から連絡があって、貸し付け金が振り込まれました。この融資も半年間は元本の返済を繰り延べて金利だけを払うようにしてもらいました。

 国民金融公庫と同じように、最初から生徒さんがたくさん集まって、売り上げが予定通りにあがることは難しいだろうとの配慮からでした。

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(44)新しく事業を始めると最初どんなことが起きるか?

 最初に少し雑談を。

 私の済む広島市の家は郊外の町で、小高い山の上によこたっわっています。ですから、朝なんかは、小鳥が鳴いてすがすがしい気分になります。

 躁うつ病については、模範生徒のようにきちんと薬をのんでいるため、今は落ちついていますが、時折気分高揚が出てきます。今は躁の時期に入っているのですが、躁にかならずつきまとう人間関係のトラブルも一切起こしていないので、薬の効き目かなと思っています。

 さて、資金調達の案件は前回で一通り書くことができました。そしてひとつ頭にいれておいていただきたいのは、今書いていることは平成9年(1997年)のことだということです。しばらく年号を書いたりしなかったので、忘れてしまった方も多いかと思いまして。

 さて、クイズです。新しく事業を始めた場合、頼んでもいないのにいろいろなことが起こります。それは何でしょう?

 それは、いろいろなものへの勧誘です。手紙だったり、営業マンやセールスレディからの訪問だったりします。会社組織にすれば、登記が必要ですから、法務局で調べてやってきますし、商工会議所や法人会に入れば、その名簿を頼りに訪問を受けたり、電話がかかってきたりします。会社組織でなくとも、店を構えれば、あ、ここに新しい店ができた!ってことは誰にでも分かります。

 では、なぜ営業屋さんは新規開業者にはしつこく食い下がるのでしょう?

 それは、新規開業者がたんまり開業資金を持っていることが最初から分かっているからです。元手もなしに始められる商売なんてありませんからね。

 元銀行員の私がかつて、2000数百万はいると分かっている退職金を夜討ち朝駆けで勧誘したのと同じです。いついつには千万単位のお金が入るのがあらかじめ分かっているのに、指をくわえてじっとしている営業屋はどうかしてます。逆の立場になって考えると良く分かります。

 私の場合、会社設立がまだサラリーマンをやっている最中の平成5年でしたから、営業活動の洗礼は留守をあずかるかみさんが主に対応していました。

インターホン越しに「主人が全部やってるので、わかりません」、「主人はサラリーマンで、会社だけ作ったんです」というと、それ以上は追求せずに、そごすごと帰ったそうです。

 帰宅すると、「今日○△の人が来て、名刺おいてったわよ」とか、その日のことは一通り報告してくれました。

 法務局で、法人登記簿を閲覧しても、住所だけで、電話番号は掲載されませんから、電話セールスはありませんでした。

 電話セールスがかかるようになったのは、前に書いた物件、KKビルに入居してからです。もちろん訪問セールスもしょっちゅうありました。法人会と商工会議所の2つに入りましたからね。

 例えばどんなものを売り込みに来るか?これは、次回に書きます。 

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(45)セールス部隊

 立川駅北口の近くにあるKKビルに入居してからは、朝8時前には事務所に入り、以前に書いたように電話を引いたり、室内のレイアウトを決めたり、融資の申し込みと、多忙を極めましたので、今まで作ってきた教材の見直しや、新規の教材作りはどうしても夜になってしまいます。

 当時は、事務所の鍵をB1にある警備員室に預けて、帰宅路につく時間は、どうしても午後9時〜10時頃以降になりました。

 実は、当時の前年から、マンションの管理組合の理事長にもなっていたので、このままでは、からだが壊れると思った私は、副理事長以下役員のメンバーの了解を得て、理事長職を辞めさせてもらって、副理事長を昇格させるか、今までのように、迅速な判断はできないと思うが、かみさんを新理事長にするか私抜きの合議で決めて欲しいと依頼しました。

 忙しいだけで、一文の得にもならない仕事は、引きうけたくないのは皆同じ気持ちだったのでしょう、結局かみさんが結局理事長代行という形で落ちつきました。

 さて、事務所で帳簿つけたりと、いろいろな仕事をこなしていますと、コンコンとにノックして、種々雑多な営業屋が入ってきます。

 最初に来たのは、経営者のための保険を勧誘する外務員でした。

 来るなり、開口一番、「ここは大変分かりにくい場所ですね」といわれました。いきなり来て人のものをけなす外務員など生まれて初めてお目にかかりましたし、規模が小さいから人を見下したような言動が鼻につきました。

 私は「申込書はお預かりします。郵送か電話がかかってこなければ、加入しないものと思ってください」とその時はやんわり断りました。

 釈然としない私は、保険の外務員がどうしても許せなくなり、保険会社の管理者に電話をかけ、人を見下すような態度と、人がせっかく苦労して探した物件ををけなすというのは、常軌を逸していると文句を言いました。外務員が来た時とはうって変わって大声で怒鳴りつけるような感じでした。躁状態だから、こんなことをしたんだと思います。

 その管理者は夕方菓子おりをもって、謝罪に来ました。

 私はこんな外務員首にしろと大声で怒鳴りました。外務員の上司は平謝りでした。

 もちろん経営者保険に入らなかったのは言うまでもありません。

 それから、宅急便の黒猫ヤマトのドライバーが、自分はこのビルの担当だと言って、「荷物ありませんか〜」と何度もやってきました。かわいそうだからと一度荷物を出すと、今度は、差出人欄が自分の会社になったのを、有料と着払いと分けて持って来ました。それからは、黒猫ヤマトを運送業者として選びました。

 あとは、「1回100円で電話の送話口を消毒しますが、どうですか?」とか、商品先物取引の勧誘(名刺を渡したのが失敗で、それから何度も電話がかかるようになった)、「使った分だけ料金をいただきます、置き薬はどうですか?」という置き薬の会社、道案内に貴社を載せるからどうですか?という広告業者、コピー機の勧誘等々いちいち数え上げればきりがありません。駄目押しにもう二三あげておくと、昼食用に弁当はいかがですか、配達しますが?電話代を安くできるのだが検討してもらえませんか?等々・・・・・・

また、電話では、バスや駅に広告を出しませんか?という勧誘はしょっちゅうありました。名刺を渡した関係で、商品先物取引の会社からも頻繁に電話がありました。これなどは、担当者が若いため時間帯等を考えずにかけてくるので腹に据えかね、その勧誘は断ったはずだ、明日以降電話があったら、あなたの上司と直談判するがそれでも良いか?と言ったら、それっきりかかってこなくなりました。これも躁状態の言動でしょう。

 ある日、コーヒーサーバーのセールスにやってきた男性に、置いてあげても良いが、生徒を4人紹介してくれたら、置くよと言ったら、本当に4人集めて来たので、コーヒーサーバーを置くことにしました。

 これについては、紹介された最後の一人が辞めた段階で、コーヒーサーバーは返却しました。

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(46)広告について 

 どんな人にパソコンを習いに来て欲しいかについては、以前、OLとシルバーエイジだと書きました。そして媒体はリビング紙とミニコミ紙だとも書きました。ただし、子供向けパソコン教室については、隔週で新聞に折り込み広告をいれました。

 子供たちが2月から3月の間、寒い中投げこみチラシをしてくれたのは、とてもあり難い事と今でも感謝しています。

 まず○○りビングに電話を入れると、取材に来ますとのこと。次の日女性が3人やって来ました。一人は営業担当、もう一人は実際に記事を書く人、残りの一人は2人の上司のようでした。

 営業時間帯や、休みの日、どんな人をターゲットにしているか?授業の内容は具体的にどんなものか?セールスポイントは?資格も取れるのか?

教材はどのようなものを使うのか?など、いろいろ訊かれ、一つ一つ丁寧に答えていきました。教室や事務所の写真を何枚か撮って取材人は引き上げていきました。

 営業担当の女性は、1回のスポットならいくら、3ヶ月、6ヶ月、1年連載ならいくらと、メニューを見せてくれたり、どこの地域にどれくらい配布されているのか、表を見せてくれたりしました。

 「4月1日開校なので、それに間に合うようにできるか?」と聞きましたところ、大急ぎでやれば同じ物を2回入れることができる、そのかわりゲラができあがったら持ってくるので、すぐさま校正して、FAXで送って欲しいとのこと。(広告会社と事務所が近いのでこんなことができるのです)

 わかったといったので、営業の人は申込書を出して、サインを求めました。申込書に署名、会社判を押すと、喜んで帰って行きました。

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(47)広告について 2

 子供向けパソコン教室はフランチャイズでしたから、広告は本部(九州は博多)に発注しなくてはなりません。KKビルのある周辺3万世に帯配布しようと思い、6万枚発注しました。隔週ですから月に2回チラシを入れられます。

 それと、最初に発注した分が少し残っていたので、学校や幼稚園の校門の前で生徒に配りました。もちろん事前に校長先生や園長先生に仁義は切っておきます。(日本って、偉い人が知っていないと、許可を得ていても、ありゃなんだ?聞いてないぞ、と必ずなりますから、狭い世界だけに要注意です)

 ミニコミ紙については、予備知識がなかったので、かみさんに力を借りました。あちこちまわっていろいろ集めて来てくれました。そのなかで資格やスキルの向上に力を入れていそうなところ2社に電話をかけて、それぞれの話しを聞きました。ミニコミ紙は女性ならよくご存知かと思いますが、それぞれ独自のポリシーやスタンスを持っています。

 2社ともこちらが選ぶと言うよりも、A社、B社にとって掲載し、紹介する価値があるかないかという目で見られ、かえってこっちが突っ込まれてしまいました。

 さすが、ウーマンパワー(特に30代)はすごいと思いました。

 2社両方広告を掲載するわけにはいかないので、しばらく検討し、かみさんとも相談の結果、A社にすることにしました。原稿は○○リビングに出したものがあったので、これをもとに記事を書いてもらうよう頼みました。電話帳広告もできたらやりたかったのですが、時期が過ぎていましたので、次回以降に順延としました。

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(48)新聞広告と車

 新聞広告は、T新聞の多摩版の特集ものに便乗しようと決めていました。

新聞社が、例えば、パソコン関連の記事を集めて一つの囲いの中に掲載するわけです。正月に謹賀新年っていろんな会社の広告がまとめて掲載されるでしょう?あれのレストラン版だったり、パソコン教室版だったりするわけです。

 新聞社への広告掲載は広告代理店を使う必要があるので、D社に電話をかけて、営業マンに来てもらいました。

 パソコン関連の広告掲載は4月にならないと組まない予定になっていますとのこと。見本を見せてもらいながら、この大きさで単独掲載したらいくらになるの?と聞きましたら、○○万円でございますと言われて、高っか〜〜!!と思って、「じゃぁ、4月の特集記事にはつきあわせてもらいます。単独はその反応を見てからということにして下さい」と言いました。

 「じゃ、近々に取材班を越させますので、しばらくお待ち下さい」と言って帰りました。

 話しは変わりますが、自家用車が5月に車検を迎え、まる7年乗った(プレデュード)ので、そろそろ買い替えようかという話しが以前から出ていました。

 支払いは、100万円くらい現金で支払って、残りは自動車ローンを組まずに、会社名義のリースにしたら、丸々経費で落とせるから、そうしようとかみさんにいったら、賛成してくれたのでリースにしました。

 車種はHONDAのアコードに決まりました(蛇足ですが、私はHONDAのファンなのです)。車を運転する頻度は圧倒的にかみさんが多いので、セールスマンとの交渉はかみさんにまかせました。

 はりきって、大幅に値引かせ、オプションもいっぱいつけさせたと言いますので、良くやってくれたねと誉めると、とても嬉しそうでした。

 なんでも、一人では行かずに友達に頼んで3人で押しかけたのだそうです。3人からああだこうだと畳みかけられたら、どんな営業マンだって、タジタジでしょうね。

 だんだんと金額的に後退していく営業マンの顔が目に浮かんでくるようで、

スリーオバタリアン攻撃に遭遇してしまった不幸を不びんに思うと同時に、これ以上ないくらい安くさせたお三方には、そのご褒美として、かみさんにお金を渡し、ごはんでも食べさせてあげてと、労をねぎらいました。

 お金を渡した次の日3人は新宿辺りに食事に行ったようです。「どこに行ってきたの?」と聞いても、「な・い・しょ、でも食事代をふんぱつしてもらって二人とも喜んでたわよ」と答えるだけでした。ま、満足してもらったんならいいやと私も嬉しくなりました。

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(49)子供向けチラシと最初の生徒さん

 時期はもう3月に入っていました。4月1日開業に向けてカウントダウンです。 

 新聞折り込み用のチラシを3万枚持ちこんで、KKビルのある周辺に配って欲しいと依頼しました。時期は春休みが始まる前が良いだろうと思い、15日頃が良いと言いました。これは東京新聞です。

 読売新聞とどちらにしようか迷ったのですが、エリア内の読者数から、東京新聞が良いだろうと判断しました。(自分ちは朝日と日経だったですが・・・)

 KKビルのテナントさんや、KKビルの周辺には、独自チラシを10日に1回ずつの割合で配っていました。

 最初の生徒さんは同じビル、同じフロアの歯医者さんでした。以前パソコンを買おうと思うんだけど、何が良いと思うかと、夜教室に聞きに来たことがあったのです。

私はゲートウェイが良いと思うとアドバイスしました。自分も使っているし。

#今はゲートウェイは日本から撤退してしまいましたが・・・

 それからひと月くらいして、休診日に習いたいと訪ねてきたのでした。わたしもそこの歯医者さんで治療してもらっていましたから、おあいこですね。

 ここの教室のシステムを一通り説明した後、どんなことができるようになりたいのかをたずねました。すると、通院患者やそのカルテのデータベースを作りたいとのこと。歯科医院用に販売されているものもあるにはあるが、値段が高い上に、自分にとっては使い勝手がどうもよろしくない。それなら自分で作ってしまえと考えたのだそうです。先生の高い志には敬服しました。

 Access というデータベースソフトを使うことになるが、自分流に設計するためには、8回では無理だ。最低でもその倍、16回ぐらいは必要になる、というのはAcsess だけでなく、Acsess 用のVBAの基礎知識がどうしても必要になるからだと説明しましたら、それでもかまわないとのこと。Access 自体は持っているのかとたずねたら、もう買ってきてインストールしてあると言います。さすがはお医者さん、手回しが良いなぁと感心しました。

#この先生なら自分でVsual Basic や Visual C とかを自分で買って 自分で勉強し、教室で習ったっことを応用して作ったデータベースをカスタマイズできるようになるなと思いました。

 そして、ここは4月1日開校なので、それまでに、入力が必要な「項目」をすべて書き出して来てくださいとお願いしました。先生向けの教材を別途用意するためです。

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(50)2人目3人目の生徒さん

 2人目の生徒さんはKKビルと並びにある、某損害保険会社の支店長さんでした。WORDとEXCELが一通り使えれば良いとのことでした。WORDは少し使えるのだが、人事考課をするのにEXCELで自分流に表を作れるようになるのが最終目的とも言っていました。

 その支店長が言うには、決められた回数以外に、何も教えなくて良いから、来てみて席が空いているようならパソコンでゲームなどして遊んでも良いか?と訊きます。他の生徒さんに話しかけたりしなければかまわないとOKしましたが、変わったことを言う人だなぁと内心思いました。

 支店長ともなると、私なんかの想像を超えたストレスがあるんだろうなぁと推測しました。それとも、やることがなくて暇なのかな?なんて、そんな訳はなく、支店長職が激務であることは私も良く知っていますし、飯なんか食べられるだけまし、というぐらい忙しいのですよ、実は。

 3人目の生徒さんは、お隣の内科の先生でした。ここのビルともう1箇所で診察をしていて、休みの水曜日に習いたいとのことでした。この先生の家にあるパソコンがマックなので、マックで習いたいとのこと。

 クラリス・ワークスという統合ソフトがあるのですが、これを一通り使えるようになりたいとのことでした。受講申込書に書かれた生年月日を見ると、

60歳はゆうに超えていました。死ぬまで勉強とよく言われますが、実際はたいへん難しいことだと思いますし、りっぱな心がけだなぁと感心しました。

 クラリス・ワークスはWindows版もありますが、もともとマック用に開発されたものです。マック派はこれを使っている人が多くいます。

 中身は、ワープロ、表計算、データベース、ドロー、ペイント、通信とよく使うものは一通り入っています。

 それぞれの専用のソフトに比べれば多少見劣りはしますが、初・中級者が使う分にはこれで十分だと思います。専用のものが100点とすれば、クラリスのはだいたい80点といったところでしょうか?

 それにWindowsのOfficeに比べると値段がかなり安いです。私自身もクラリス・ワークスのWindows版を持っています。自分で使うファイルの場合は、クラリス・ワークスを使うことが多いです。軽くてサクサク動くからです。あと、WZというエディタをよく使います。

 パソコンソフトを扱う店に行ったら、一度手にとって見ることをお奨めします。

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(51)3・3・3・1の原則

 今日は、本筋じゃないんですが、自分が商売をするに当たってのポリシーというかこうあるべきだという考えがありますので、ご紹介します。

 将来会社を経営したいと考えている方、こういう考え方もあるんだと参考にしてもらえれば幸いです。破産した元経営者でお恥ずかしいですが。

 それは、タイトルの、3・3・3・1の原則です。

 例えば5月の売り上げが100万円あったとしましょう。皆さんはこの売り上げをどのように使いますか?

 私なら、30%は従業員の給料、30%は必要経費の支払いに、30%は会社(この中の一部から社長以下役職員が給料をもらいます)に、残りの10%

は会社の資産として、預金などのかたちで残します。

 社長が30%も給料をとるのかと思われる方があるかも知れません。しかし、会社と言うのはそんなに単純じゃありません。「会社に」と書いたのは、会社が不動産を賃借したり、物を購入したり、仕入れをしたり、先を見越してある

ものに投資したり、必要経費以外の全てが含まれています。

 私が事業を始めた時、会社からもらう給与は、20万円からスタートしました。テープリライターの仕事だけでも50万円くらいもらっていたのですが、

これは会社に貸し付ける経理処理をしました。売り上げも立っていない会社から給与をもらうこと自体が不健全な考え方だからです。

 しかし、ゼロでは税務署も変に思うでしょうから、20万円となったわけです。ただし、私の場合はかみさんが別の仕事で稼いでいたからできたのだと思います。

 テープリライターの仕事は、会社の経営が軌道に乗り始めたら、定款を変えて、会社の売り上げとして計上する予定でした。すぐにしなかったのは、仕事をもらう先に根回しをしなければならなかったからです。

 定款については、6月頃落ちついたころを見計らって法務局に行き、必要書類を提出して変更するつもりでした。法人化すると個人事業主と違って、こういっためんどうな手続きが必要になるのです。そのかわり、個人事業主にはない、いろいろなものを経費として計上しても良いことになっています。

 では、法人化して青色申告するとどこにメリットがあるか?将来起業家を目指している方のためにさわりだけ書いておきます。

1.青色申告特別控除がある

2.専従者の給与を必要経費に算入できる(理髪店など普通のお店でも青申し

  ているところはけっこう多いと思いま)

3.貸倒引当金など各種引当金の設定できる

4.交際費・接待費などの経費算入が有利になる

5.減価償却の割り増し償却や、耐用年数の短縮の措置などが取れる

おおざっぱにいうとこれくらいです。

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(52)4人目5人目の生徒さん。

 4人目の生徒さんは、家庭の主婦でした。2人目の損害保険会社の支店長から話しを聞いて来たとのことでした。町田市というところに住んでいて、週1回八王子まで出てくるので、習おうかなと思ったんだそうです。

 ご主人は、マル暴(暴力団などを取りしまる)の刑事さんだと言います。

 なんだか、凄い人をだんなさんに持っているんだなぁと思った記憶があります。ご本人は、とても控えめで努力家の方でした。

 この生徒さんもマック希望でした。何ができるようになりたいのか訊きますと、マシンも最近買ったのだが、マックに標準でバンドルされているクラリスを一通り使えるようになりたいのと、インターネットに接続して、友人とメールのやり取りがしたいとのことでした。それと、どういうわけか、「宛名職人」というソフトを持参して、来年の正月用に使い方を教えて欲しいと希望されました。時間があまれば、実際に住所等の入力までやってしまいたいとのこと。 入力だけなら、お教えしたり説明するわけではないですから、席が空いていればいつでもマシンを使っても良いですよと言いました。

 う〜む。私も男の端くれですね。きれいな女性には弱い(^_-)

 5人目の生徒さんは子供でした。お母さんが6歳くらいのお子さんをつれてきて、パソコンを習わせたいとのこと。お母さんによれば、この子は集中力がないので、何か夢中になれるものを習わせたいのだそうです。

 パソコンの席に座らせて、マウスの使い方を少し説明すると、すぐに理解できましたので、これなら大丈夫だろうと思いました。それと、これはどの親御さんにもお願いしたことですが、パソコンを習っている間は、どこかで時間をつぶしてきて下さいと言いました。母親がいると甘えたりわがままを言うからです。特に小さい子はそうです。

 

 子供は、原則、週1回一時間の授業で、1万5千円に設定していまして、

1年通うと、パソコンの基礎が一通り身につくようになっています。フランチャイズですから、インストラクター用のあんちょこがついています。でも私は、マニュアルにはあまりこだわらず、その子の興味がありそうなことを中心にメニューを組みたてました。

 この子にはお姉さんが2人いて、後になって2人とも教室に通うようになりました。

 よくそんなにお金があるなぁと思うでしょ?その子の家は昭島市というところにあって、自動車の販売や修理・車検などを手広く扱う会社を経営していたのでした。3人の子供の習い事だけで毎月20万以上も使うという、圧倒されそうなくらいなお金持ちだったのです。

 ハワイなんて、5人で年2回は行くというのですから、おくちあんぐりって感じです。

 後々のことですが、その子のお父さんとは時々食事をしたり、お酒を飲んだりと、親しくなりました。いわば家族ぐるみのおつきあいをするようになったのでした。

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(53)生徒募集その他

 チラシやリビング紙、地元の新聞への広告などが奏功して、4月1日のオープンから4月末までに生徒数は40人くらいになっていました。

 月謝は8回分前金で33,600円いただいていました。一方、出て行くお金のほうは女性のインストラクターを一人雇っても、私がサイドビジネスでやっているテープリライターの仕事の報酬でまかない、少しお釣りが残る程度でした。ですから、パソコン教室で売り上げ部分は、まるまる自由に使えることになります。

 しかし、喜んでばかりもいられません。半年経ったら国民金融公庫とS銀行への返済が始まります。それに、40人生徒さんが入っても、8回来たらそれ以降は来なくなるわけですから、常に広告を掲載しないと新規の生徒さんは入って来ません。

 建物の1階に教室があれば、飛びこみも期待できますが、ビルによく付いている縦長の会社名入りの看板だけでは、わざわざ3階まで足を運んでくれそうな人はいないだろうなと、思いました。事実、生徒さんにここを知ったのは何を見ましたかとたずねると、紹介以外は広告を見て来たと答える生徒さんがほとんどでした。

 というわけで、生徒募集の広告は毎月毎月かけないと、生徒さんが集まらずに倒産ということになります。辞めていく生徒さんの頭数は最低集めないと仕事そのものが先細りすることはおわかりですよね?

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(54)生徒さんが増えるのは嬉しいけれど・・・

 ところで、生徒さんの希望に合わせてメニューを組むオーダーメイドのカリキュラムは、生徒さん側にとっては好都合ですが、1回2時間で8回分のメニューを作るのは、実際のところ大変でした。サラリーマン時代からテーマ別に少しずつ作り続けてはいたのですが、こちらが予期していないことも出て来ます

から、そのたびに教材も手作りでした。今は大変でも、がんばっていろいろなテーマの教材を作っておけば、生徒さんのニーズに合わせて、プリンターで印刷するだけですむようになります。将来雇うインストラクターも楽ができますしね。

 朝9時には教室兼事務所に入り、10時には生徒さんがきて、最終組みは夜の7時〜9時まで営業しました。それに加えて、テープリライターの仕事がありますから、帰宅してからやるか、教室でなら生徒さんがいない時間帯をみはからってやるしかありません。加えて、帳簿をつけたり、生徒さんの面接、セールスも含めた来訪者との応対、電話での問い合せへの対応、消耗品を買ったり、教材を作ったり、仕入れやその支払い、営業活動と、なにからなにまで一人でやっていました。

 そんなこともあって、平成9年になってからは、平均睡眠時間4〜5時間という日がず〜っと続きました。相当疲れているし、定休日の火曜日は、昼頃までグタ〜っと寝ていました。

 今から振り返って考えてみると、こんな激務がこなせたのは、躁状態だったからだろうと思います。神経内科には2週間に一度通っていて薬を飲んでいましたから、多少の気分の浮き沈みはありましたが、大きく躁に振れたり、うつになって落ち込むということはありませんでした。病気の面では比較的落ちついた時期だったのだろうと思います。

 銀行に勤めていた時のように、会社を休むということはありませんでしたし。

 ただ、仕事がこれ以上大幅に増えると、電話応対もままならないことになりかねませんし、第一体が壊れてしまうという危機感が次第に募ってきていたことは事実です。

 あと2ヶ月がんばって、5月・6月に4月並かそれ以上生徒さんが入れば、インストラクターの採用を考えようと思っていました。一人では仕事が回らなくなるのが目に見えていたからです。

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(55)インストラクター採用

 一度事務所のパソコン机で眠ってしまったことがあります。目がさめて時間を見ると午前2時を回っています。NHKの「ラジオ深夜便」で、エルトン・ジョンの「僕の歌は君の歌」をやっていました。あ、こんどはジャクソン・ブラアウンやキャロル・キングが。

 年齢がばれてしまいますが、70年代の歌は私の青春そのものです。

 カラオケで自慢できることは、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」を英語で歌えることかな。学生時代、デュオや・グループを組んでバンドやっていましたから、ここら辺の年代くらいのヒット曲はだいたい演奏もできるし、歌えます。

 あ、話しが横道にそれました。話しを元に戻します。

 5月、6月と40名を超える生徒さんが入ったため、インストラクターを採用することにしました。

 ハローワーク(旧職安)や人材バンクに依頼することも考えましたが、私は派遣社員を選びました。確かに時間辺りの単価は高くなりますが、社会保険料や通勤費など福利厚生費用がゼロ円で済むからです。(逆にいうと国民年金や国民健康保険や通勤費用は本人が自分で払うわけです)

 そして使って見てだめそうだったら、別の人に代えてくれと言うこともできます。ですから、使うほうにとって必ずしも派遣社員は高いとは言いきれません。

 また何かの事情で派遣社員が不要になったら、契約を打ち切れます。正社員だとそう簡単には行きませんからね。

 暇を見て人材派遣会社をいくつか回り、資料を集めました。その中で立川周辺に一番登録者数の多いA社にしようと思いました。

 数日後、A社を訪問し、働く時間帯は10時から午後7時までの昼休みを除いた8時間。Excel と、マクロや Excel VBA が分かる人、Access の基本的なことが分かる人で、入力は速くなくてもかまわないと言う条件をつけました。

 2〜3日してA社から連絡があり、こちらの条件に合致する者がいるので、面談して欲しいとのこと。私は休みに日の火曜日を指定しました。

 火曜日にA社の担当者が30歳くらいの女性を連れてきました。

 A社の社員の人に、すみませんが、こちらもお金を払って雇うので少しテストさせてもらって良いですか?と訊ねました。どうぞということでしたので、予め用意しておいたテスト受けてもらいました。

 結果はダメでした。A社の人には本人の前では言いませんでしたが、彼女はキャリアを偽っていたようです。Excelはほぼ完璧でしたが、他はダメでした。

 そして、本人を先に返した後、テストの結果彼女はうちでは使い物にならないことを言いました。こちらの条件に合致した人を別途紹介して欲しいと頼みました。

 わかりました、申し訳ありませんと、A社の担当者は恐縮していました。

少し時間をいただきたいと言って帰って行きました。

 当社が小さいからA社になめられたのか、A社にうそのキャリアシートを提出していたのか、よくわかりませんが、彼女が、Excel VBA と Accseeを使えなかったことだけは間違いありません。

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(56)インストラクター採用 その2

 人材派遣会社社員がこんど連れてきた人は、20代の男性でした。

 専門学校を出てからずっと派遣社員の仕事をしているそうです。

 専門学校の専攻は何かとたずねたら、C言語だと言います。それならうちみたいな給料の安いパソコンスクールを選ばなくても、何十万ももらえるプログラミングの仕事があるだろうと、訊いてみました。すると、自分は性格的にプログラミングのような精緻(せいち)な仕事は向いていないと最近考えるようになったそうです。わけはあえて聞きませんでしたが。

 インストラクターと言っても、この会社にはあなたと私しかインストラクターはいない、勝手に休まれても困るし、土日の勤務もある。そして、インストラクターの仕事だけではなく、面接や、教材作り、総務・経理のしごとまでやってもらうことになるが良いか?と訊きましたら、自分は一人でしこしこと仕事をするよりも人を相手にする営業的な仕事のほうが向いていると思ったし、パソコンスクールなら、今までのキャリアも活かせる。他にやるべきことがあるのなら、今のうちに習い覚えておいたほうが良いと思う。仮に将来別の会社に行くことになっても大変役に立つから、ぜひ総務や経理的なことも勉強させて欲しいとのたまいました。

 以前はどんな仕事をしていたのかと聞きますと、○○商会というところの派遣社員をやっていて、指示を受けて会社に出向き、集団講習のようなことをやったり、パソコンショップなどによくある、デモンストレーターかなんかをしていたとのこと。なぜ辞めたのか?と聞きますと、マニュアルに沿ってただ解説したり、型どおりのプレゼンテーションには、自分の個性を出す余地が少なく兼ねてから不満に思っていたとのこと。

 ここの会社のことはどこから聞いたのか?と聞きました。すると彼は、会社の同僚から話しを聞いたと言いました。ある○○商会さんの生徒さんが、「大手だから来てみたけど、私の経営するMパソコンスクールのほうは、自分専用のカリキュラムまで作ってくれた。「Mに比べる○○商会さんは見劣りがするわねぇ」と、その同僚に文句を言ったそうです。

 前回の面接と同様のテストを受けてもらうと、ほぼ100点に近かったですし、また、話しを聞いて若いのに立派な心がけだなぁと感心しました。

 例によって本人を先に返して、営業マンに、彼に来てもらいたいと思うが,1ヶ月の試用期間を設定させて欲しい、それまでは時給は200円カット。試用期間が終わったら、本来の時給にもどすが、それで良ければ来週の月曜日の朝8時半に本人をここへ来させて欲しいと依頼しました。給料のことは本人に話してあるのかと訊いたら、説明済みとのこと。 もし本人がここへ来たら、将来独立開業もできるりっぱな人材に育つなと思いました。

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(57)インストラクター採用 その3

 翌週の月曜日になりました。KKビルは、地下1階に警備員室があり、鍵の管理もここでやっていました。朝来たときには、鍵を受け取って自分たちの事務所を開け、帰りには鍵を警備員室に返します。

 いつもなら8時頃には事務所に入っているのですが、わざと8時半の10分前に行きました。秋葉(仮称)くんは既に来ていて、事務所の前で鍵の開くのを待っていました。私の顔を見ると、「おはようございます。今日からお世話になります」ときちんと挨拶しました。

 鍵を管理する警備員室があるから、一緒に来てくれと言いました。警備員室のメンバーに新人の秋葉君を紹介すると、朝来たらここによって鍵を受け取り、帰りにはここに鍵を返すことを説明しました。

 生徒さんが来るのは10時ですから、まだたっぷり時間があります。かつて生徒さんだった女性たちとバーターで取り引きしたコーヒーメーカーで、コーヒーをたてて勧め、自己申告表と年末調整用の緑色の紙(名前を忘れました)を書くように言いました。

 出来上がると、ゆくゆくは経理などもやってもらいたいと思っているのだが、帳簿類ははんこをおすところがたくさんある、今日でなくとも良いからシャチハタの認め印を買っておいて欲しいと言いました。

 それから、8階にある管理人室へ秋葉君を連れて行き、紹介しました。

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(58)インストラクター採用 その4

 そのあと、教室に戻り、朝来たらまずやることを教えました。

 パソコン類のカバーを取り、電源を入れて、パソコン類などの機器類のほこりをはらうことと、それらの置かれているデスクのふき掃除をする。次に床の掃除。パソコンやプリンター等の機器が正常に動作していたら、これで一段落。

 つぎに、今日来る生徒さんのカードを時間帯ごとに整理する。このカードには、生徒さんの住所連絡先はもちろん、いつ、どんな教材を使ってなにをどう教えたか詳しく書かれています。医者でいうカルテのようなものです。また、キャビネット類のどこになにがしまわれているか簡単に説明しました。そしてしばらく、カード類やジャンル別にファイリングしてある教材を見ているように指示しました。

 10時10分前になると、私は彼に言いました。今日は1日中私についていてもらいたい。電話も取らなくて良いと言いました。

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(59)秋葉君忙しさに圧倒される

 10時にはWindowsのマシン5台が全部埋まりました。私の場合、この生徒さんは、今日はどんな教材を使って教えるかが、頭に入っていますから、秋葉君から見たら、無造作に取りだしているように見えたかもしれません。

 皆、ばらばらのことをやっていますから、「先生〜」「先生!」とあちこちから声がかかります。

 セールスマンもドアをコンコンとやって入ってきます。ついたて越しに今こう言う状態だから、またにしてくれと、やんわりことわります。

 電話もちょこちょこ入ります。しょーもないもののほうが多いですが、体験入学したいという電話が入りました。秋葉君に明日の予定を見てもらって、午後一時からならOKだが来られるかと聞きますと、大丈夫とのこと。どうも中国人らしく、日本語が怪しかったので、英語は話せるか?ときいたら、日常会話ならできるとのこと。明日一時から体験入学の予定が入りました。

 秋葉君は第1日目からあまりの忙しさに圧倒されたようでした。この日の授業は7時で終わったので、派遣元から渡された出勤簿にサインして、秋葉君の歓迎会を近くの飲み屋でやりました。

 酔う前に言っておかねばと、明日来る中国人の体験入学は、秋葉君に任せるよといいました。

#富士通のマシン、FMVにおまけでついている初心者向けのCD−ROMがありましたので、これを利用させてもらっていました。マウスの動かし方から日本語入力まで、初歩の初歩程度のものです。が、よくできていたので使わせてもらっていたのです。

 中国語も英語もダメですなどと弱音を吐くので、ここは日本だから日本語中心で良いんだ、分からない部分は、紙に書いたり身振り手振りでやればなんとかなるよ。大丈夫だよ、と励ましました。秋葉君は25才で、昭島市から通っていました。3歳年上の彼女がいて、来年の5月に結婚する予定だとのこと。

そりゃお目出度いと、酒を酌み交わしながら夜はふけてゆくのでした。

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(60)体験入学

 当パソコン教室では、無料体験入学制をとっていました。その日に他の人がどんなことをやっているのか、また、どんな教え方をしているのかを見学しても良いし、実際にパソコンに触れながらパソコン操作がどんなものか体験してもらってから入学の手続きを取っても良いことになっていました。体験入学は結構評判で、入学する人とそうでない人の割合は4対1ぐらいでした。

 さて、秋葉君の初仕事、中国人女性の生徒さん候補がやってきました。

 前回書いたFMVのCD−ROMを使って、一通り見てもらった後、ワープロソフトのさわりを説明するのですが、たとえばどのキーをたたけば「ディ」が出てくるのか分からない様子でした。

 秋葉君が困っている様子だったので、あなたは英語のテキストを使ってパソコンをやりたいのか?と訊きました。すると、日本語でやりたいと言います。 では、もしあなたが入学するのなら、日本語独特の文字の出し方を表にしたものを作っておくと言うと、自分は日本語のワープロソフトを使えるようになるのが目的だから、そうしてもらいたい、入学するとのことでした。

 申込書や次回以降の予定等は秋葉君にまかせて、次に来るとき受講料金を前金で持ってくるように説明させました。

 最初に教えた人が日本語のおぼつかない中国人だったので、さぞ冷や汗をかいたことでしょう。五十音やぴゃぴゅぴょなどとキーの対応表の作成は秋葉君にまかせました。できたら見せてねといっておいたのですが、こ1時間すると、できたともってきました。

 「りっぱなのができたね」と誉めると嬉しそうでした。

 こうして、秋葉君の入社2日目は無事終了しました。

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(61)役割分担

 入社3日目になるとだんだんと様子がわかってきたようなので、秋葉君にもインストラクターとして、教室に立ってもらうように言いました。ただし、まだなれないので、電話応対やセールスマンへの対応、受講希望者への説明などは私がやることにしました。中には電話せずにいきなり入ってくる受講希望者もいます。これの対応も私がやることにしました。秋葉君がいるからできることで、それまでは、今授業中だから、いついつに出直して欲しいとお願いしていたのでした。

 毎日平均すると2〜3人新規の受講者が入ってきました。一方で8回の受講が終わって出て行く人もいましたが、4割くらいは、期間延長をして、再受講する生徒さんがいましたから、全体としてのボリュームはすこしずつ増えていきました。

 秋葉君は中年のおばちゃまに抜群の人気がありました。なにせ若いですからね(^_-) 私はホスト秋葉といって時々からかって遊んでいました。

 うちの娘とつきあってもらえないかと、言われることもあったらしく、うそをつくのはかえって失礼だから来年結婚するとはっきり言えば良いとわたしはアドバイスしました。

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(62)うれしい申し出

 2週間ぐらい経つとメンバーが一巡しますから、生徒さんの名前や今やって

いることの中身と、次にやるべきことがだんだん秋葉君の頭に入ってきます。

 私の場合、面接して受講が決定すると、その人の希望に添ったメニューで8回分の教材を決めてしまっていました。既存のメニューがなければ作ってしまいました。

 教材の一層の充実は教室の大事な資産になりますから、派遣社員の秋葉君が自分で作ってみたいと言ってくれればいいなと期待はしていましたが、正社員ではないので、こちらからは一切言いませんでした。

 ただ、私が、秋葉君と同じ仕事をこなしながら、面接・説明・無料体験入学をやって、総務・経理の仕事から、教材も作り、一方でテープリライターの仕事をしていることがだんだんとわかってきたらしく、ある日、嬉しいことを秋葉君が言ってくれました。

「あの〜、教材なんですが、自分の今までの経験を生かして、教材を加えていってもいいですか?」と言います。

 その言葉を待っていたのですが、申し出はあり難いけど、君の勤務時間帯、午前10時〜午後7時までの間だとできないだろうと言いました。

 自分は、独身ですし、週末などに彼女に会うイベントぐらいしかありません。 社長と同じように自宅のマシンで作ってきたいと思っていますとのこと。秋葉君の時給には反映されないが、それでも良いのかね?と訊きますと、自分自身の勉強になると思うし、将来の財産になると思うから、やらせて下さいとのこと。

 言葉に出して言わなくても、実際にやっていることを目の当たりに見せると、やる気になってくれたようでした。ありがたいことだと思いました。

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(63)高校時代の親友Sの訪問

 パソコン教室は、秋葉君と二人体制で、私はテープリライターを兼営し、かみさんはデータ入力の会社勤務、というスタイルはその後も変わることなく継続し、おかげさまで平成9年・10年度は黒字で申告することができました。

 秋葉君は平成10年5月に挙式し、主賓として挨拶もしました。また、秋葉君は、会社や生徒さんのためにほんとうによくやってくれましたので、半年ごとに時給をアップしていきました。前にも書きましたが、自宅にまで仕事を持ちかえり、会社のために教材を作成・修正などを行ってくれましたし、人柄も誠実で生徒さんの信望も厚かったからです。派遣会社の人には本当に良い人材を派遣してくれたと、感謝していました。

 現にある教室のマシンはマックも入れて6台。全ての時間帯にマシンが全部埋まれば延べ席数が180席になり、最大でひと月辺り約600万円の売り上げが可能です。

 これは経験則でわかってきたのですが、軌道に乗れば、最大売り上げの三分の一から二分の一くらいのレンジになるようでした。

 他のパソコン教室がどうなのかは分かりませんが、当教室ではそうでした。

 逆にいうとKKビルでのスペースでこれ以上売り上げを増やすのは難しいということになります。 ビルの管理会社にスペースを広げてもらえないかとかけあいましたが、今はテナントさんが100%埋まっている状況なので無理とのこと。

 それじゃぁ、別天地で、教室を新規開設しかないのかなぁと思っていたところでした。私は学生時代に学習塾を仲間と経営していたことがあるので、学習塾をこの近くで兼営しようかとか、取りとめのないことを考えていました。

 こんなことを考えることができるのは、経営が順調に推移しているからこそで、思い付きでの投資は危険だと、自制心は働いていました。

 そんなことを考えていたところへ、だいぶん前に書いた高校時代の友人で、

お互いに保証人になりあっているSがひょっこり訪ねてきました。

電話もせずに来たのでどうしたのかと思いましたが、時間帯が6時過ぎていましたので、秋葉君に7時から9時まで残業してもらって、近くの居酒屋へ行きました。

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(64)まっちゃん、お金貸してくれないか?

 Sとは平成6年の結婚式以来の再会でした。以前会った時とはイメージが変わっていて、長髪にして髪の毛を茶色に染めていました。

「ひさしぶりだなぁ」と世間話などしながら酒を酌み交わしていると、Sはいよいよ今日来た理由を話し始めました。

 結論から言うと80万円ほど貸してもらえないだろうかということでした。

 たぶんそんな話しだろうとは思ってはいたのですが、やっぱりという感じでした。

 中国からアヒルのグッズを輸入しようとしているのだが、今月は不意な出費がかさみ、月末までに用意しないと、手元に届かない。納品を約束している顧客にもめいわくがかかると言います。

君のお父さんか奥さんの実家に頭を下げれば済むことじゃないのかと言ったら、親父には今月始めに100万円融通してもらったばかりだし、奥さんは実家に返っていて離婚の危機だといいます。

おいおい、おだやかじゃないねと言うと、奥さんについてああでもないこ うでもないと話し始めました。私は話しを途中でさえぎりました。夫婦仲が 悪くなる場合、一方的にどちらかが悪いと言うことはまずないですし、人の 、ましてや自分のベターハーフの悪口など聞きたくもなかったからです。

 こんどの火曜日は定休日だから君の目黒の家へ行くよ。そのときにいろいろ話しを聞かせてくれと言いました。80万については今回限りということで火曜日に持っていく。そのかわり毎月月末までに14万円ずつ6回に分けて振り込んで欲しい。金利は5%くらいになる。そのかわり返済が一度でも滞ったら君の実家のお父さんに電話を入れるが、それでも良いかとたずねましたら、かまわないと言います。

 彼は商売は順調に推移していることを盛んに強調していましたが、奥さんが家にもどらないのは商売がうまく行っていない証拠だと内心思いました。

 また、片一方だけの言い分を聞いても100%うのみにするわけにはいきませんから、私が目黒に行くときに、奥さんも呼んでもらうわけにはいかないかと言うと、やってみるが、たぶん無理だと思うとのことでした。

 話しは大学生時代に遡るのですが、広島の大学に通うSが、山口出身で京都の美大に通う彼女をつれて来て、夏休みに、私の東京は日野市にある下宿に転がりこんできたことを思い出しました。

 本人たちは駆け落ちのつもりだったのでしょうが、仕事をするなど金銭的な裏づけがないとうまくいきっこありません。

 大学生時代、学習塾をやっていたことは前に書きましたが、しかたがないので、私は教室で寝泊まりしました。

 ある日彼女がSのいないときにふと漏らしたことがありました。それは毎晩毎晩細かいことまで詮索して私を責める、もう耐えられそうもないというものです。

 果たして、ある日彼女はSにも告げずに私のアパートからいなくなってしまいました。これはあとからわかったのですが、彼女の母親には、公衆電話で連絡をとっていたらしく、認め印を買って銀行口座を開き、送金してもらって、そのお金で逃げるようにして新幹線で実家の山口に帰ったのでした。

そのあともすったもんだがあるのですが、ここでは省きます。

 ひょっとしたら、同じように奥さんを毎晩毎晩責めたのではないだろうかという疑念が頭をよぎりました。

 なんだか悪い予感がしたのを良く覚えています。

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(65)Sの自宅

 火曜日にSの自宅に行きました。目黒駅で降りて、Sに電話すると、Sが車で迎えにきてくれました。車種は忘れましたが、アメリカの車でした。犬も一緒についてきていました。犬種は忘れましたが、毛足の長い顔のほっそりした大型犬です。たいへんおとなしい犬でした。犬はいつから飼っているのかと訊いたところ3年くらいになるとのことでした。「なぜ犬だけが人間と仲良くできるか知っているか?」とSは質問します。「英語で犬の綴りはDOGだろう、反対から読んでご覧」とS。「GOD、ああ、神様になるね」というと、「犬は神様のお使いなんだ。だから人間は犬とだけは仲良くできるんだ」といいます。真偽は別にして、けっこう説得力のある話しではありました。

Sの自宅に入るなり驚いたのは、異臭が漂っていたことでした。

この臭いはなんだと聞いたら、怪我をしたカラスが飛び立てるようになるまで、世話をしているのだと言います。カラスを飼うなんて話しは聞いた事がなかったので、その時点で圧倒されました。

 今どんな商売をしているのかたずねると、中国高級茶の岩茶(がんちゃ)の輸入販売、麦わらで作ったようなアヒルの置物の輸入販売と、気功術を教えているとのこと。芸能人の○○や△△もきていると自慢していましたが、ほんとかどうかわからんなと思いました。

 奥さんはどうしたんだと訊きますと、半年くらい前にもう離婚したと言います。このまえは実家に帰っていると言ったじゃないかというと、あのときは言い出せなかったのだそうです。

 居間にはアヒルの置物が山のように置いてありますし、いろんなものが部屋の中に散らばり、これじゃぁお客さんを部屋に通すこともできないなと思いました。

 ここの1軒家は月30万円だと訊いているがほんとうかと訊きましたら、ほんとだといいます。

 売利上げは立っているのかと訊きますと、徐々に売り上げが増えてはいるがまだ、赤字だとのこと。平成6年に結婚して二人で商売をはじめていまだに赤字なんて信じられない、いままでどうやって生活してきたんだと訊いたところ、恐るべき事実が明らかになったのでした。

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(66)80万円の貸し付けとパラサイト

 約束したので、80万円は現金でSに渡しました。そして金銭消費貸借契約書をかいてもらいました。収入印紙もちゃんと貼りましたよ。

 80万は君にとっては大した金額ではないかもしれないが、自分にとっては大金だ、うちの経営も左うちわという訳でなく、自転車操業であると、今後のことのためにガードを固めました。

 さて、Sと奥さん(以下Tといいます)とは、Sが今の貸し家で気功術の講習会を開いていたときに知り合ったそうです。Sはずっと独身でしたから、身の回りの世話や気功術の講習の手伝いなどをするために、ちょこちょこS宅に出入りするうちに親しくなり、そのうち同棲するようになったそうです。年齢が2つか3つしか離れていないということでしたので、TさんのほうもSも晩婚と言うことになります。Tさんの実家は、公務員や、教員の多い一族で、晩婚とは言え、商売の家に嫁ぐことには反対意見が多かったそうです。

 子供ができたりはしていませんでしたが、二人が同棲を始めたので、ご両親もしかたないとあきらめたらしいです。

 平成6年に、結婚して新しい商売を始めましたとの、はがきを受けとって、ああよかったなぁ、彼にも奥さんができてと思いました。

 商売のネタは何度も書きますが、岩茶・烏龍茶や例のあひるのグッズです。

 これは後から聞いた話しですが、SはTさんの実家かからも1000万円くらい借りていたそうです。そして、離婚のはなしが出てからは、Tさんの実家から金を返して欲しいと言われていたのでした。

 で、商売を始めて黒字をだしたことがないのに、なぜ生活が維持できるのしょうか?

 種明かしをすると、足りない分は全部自分の父親に無心していたのです。彼のお父さんが、我が子かわいさのあまり、父親名義でお金をかりて、Sに送金していたというわけです。それも東京で暮らすようになってずっとです。私はこの話しを聞いてめまいがしそうになりました。

 ちゃんとどこかに勤めるとか、そういう発想は彼にはなかったようです。

 故スカルの大統領のデビ夫人に関して有名になった言葉で、パラサイト(寄生虫)というのがありますが、私に言わせれば、Sは元祖パラサイトです。

 40過ぎて、自活できずに、親に借金までさせて東京の一等地で悠悠自適の生活をする、これをパラサイトと言わずしてなんと表現すれば良いのでしょうか?

 私が融資した80万円も3回目には振り込まれなくなりました。お父さんに電話で訳を話すと、残金はすぐ送金するとのこと。実際に2〜3日すると残金は振り込まれました。

 そんなに立ち入ったことは聞きづらいのですが、お父さんはなぜそうまでして、彼を支えるのですか?とたずねたことがあります。その答えとして帰ってきた言葉が、父親である私がSを見放してしまったら彼の存在を全て否定することになるから、と言われました。

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(67)無心する子と甘やかす親

 お父さんの話しから分かったことなのですが、彼は大学を出てから、家業の和菓子屋を継ぐわけでもなく、自分の部屋にこもっていることがほとんどだったそうです。今で言う「ひきこもり」の走りかもしれません。

 彼も音楽が好きだったので、シンセサイザーやドラム・シンセサイザー(だったかな?ちゃんとした名前を忘れた)などの機材が欲しいと言うと、お父さんは買い与えたようです。

 彼には弟が二人いて、次男は車のシートベルトを作る会社に就職していました。三男は普通のサラリーマンになりたかったらしいですが、長男のSがこんな状態ですから、しかたなく家業を継ぐべく、和菓子の修行を始めたようでした。

 Sは打ちこみと呼ばれるコンピュータ・ミュージックに一時期傾倒し、広島ではけっこう名前の知れた存在だったそうですが、山下達郎や、細野晴臣など一流と言われるレベルまでには達していなかったようで、そこまでいかなくとも、少なくともお金の取れるプロにはなりきれていなかったようです。

 時期的なことは聞き漏らしましたが、お父さんにお金を出させて、ニューヨークに1年ぐらい住んでみたり、帰国してからは、中国にもしばらく滞在したそうです。そのときの縁で岩茶やアヒルなどのグッズを仕入れるルートをつかんだようです。が、しかし、自分で稼いで自活したことは一度もなかったのでした。

 東京に住み始めてからの生活費から、商売を始める軍資金にいたるまで、すべてSのお父さんが援助していたようです。

 女性関係でも、お父さんに紹介した人は何人かいたようですが、結婚には至らず、SもTも初婚で、かつ晩婚だったのです。

 Tの実家からは、Sのお父さんに融通した1000万円を返してくれと、ちょくちょく電話があったようです。これについては、1000万円をSが単独で使ったわけではなく、夫婦で相談し合った結果うまく行かなかったのだから、返す必要なないとつっぱねていたようです。

 こういう情報を最初に耳に入れてもらえれば、保証人などにはならなかったのにとお父さんに言うと、嫁さんももらったことだし、責任も出てくるから、こんどばかりはちゃんとやるだろうと思った、大変申し訳ないと詫びておられました。共同の保証人になっている分はあなたに迷惑をかけないようになんとかするからと、涙ながらに語っていました。

それから2〜3ヶ月してから大変なことが起こりました。

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(68)Sの失踪

 Sの紹介で懇意になった人から、どうもSが自宅に戻っていないようだ、カラスと犬の吠える音しかしないと連絡がありました。

 連絡をくれた人を仮にKさんとしておきますが、彼女は東京大学等の先生方が発表する論文の英訳を仕事とする会社の役員でした。会社と言っても、自分のところと似たり寄ったりで、役職員全部合わせて4人の会社でした。名刺には株式会社○○とありましたから、共同出資をしたのだと思います。

 で、どうしたもんでしょう?と彼女が言うので、管理人さんに連絡をとって、まずは鍵を開けてみないと何ともいえないと答えました。

 Kさんが何かおかしいと感じたのは、Kさんの通勤路にSの家があり、夜になっても電気がついていないし、人が動いている気配が感じられなかったと言います。

 ちょうど、翌日が火曜日の定休日に当たっていましたので、Kさんから大家さんに連絡をいれてもらって、10時にSの自宅前で待ち合わせようとの段取りができました。

 翌日、約束通りにメンバーがそろったので、大家さんに鍵を開けてもらい、中にはいりました。本人はいなかったので、とりあえずは自殺じゃなかったと安心しましたが、カラスと犬には食べ物を与えないと死んでしまいます。

 大家さんは、「Sさんはもう3ヶ月も家賃をためているし、これ以上のトラブルはごめんこうむりたい」と怒っていました。

 私とKさんはペットショップへ行って、カラスと犬をしばらく預かってもらうことにしました。費用は?とKさんが言うので、今晩Sのお父さんに連絡を入れておくと言って、その場はわかれました。二人ともSの身に何事もなければいいのだがと、思っていました。

 その夜、Sのお父さんに電話しました。ペットをほったらかしにしての行方不明ですって?、私にも連絡一つなかったと精神的に大変ショックを受けられたようでした。気分が悪くなったので家内と代わりますと言われて、電話を代わりましたが、奥さんのほうも電話口の向こうで泣いておられるようでした。

 私は、Sが飼っていた犬とカラスをKさんと一緒にペットショップへ預けたこと、目黒の大家さんが、家賃が3ヶ月たまっているので何とかして欲しいと言っていたこと、この2点を知らせて電話を切りました。

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(69)成長する秋葉君

 ここで少し自分の会社がどうなっているか、概略を書いておきます。

 Sの件で、休みの日に目黒まで出ていったり、秋葉君に残業を頼んで、早めに仕事を切り上げたりしていましたが、業績のほうは、順調に推移していました。

 使った広告の媒体のせいもあるでしょうが、当初の目論見とは多少集まる生徒さんの傾向が少し違っていました。OLさんやサラリーマン用に7時から9時の時間帯を設けていたのですが、この時間帯は満席になることはありませんでした。

 女性とシルバー世代をターゲットを絞っていたわけですが、当教室の場合、現在無職で、次の仕事に向けてキャリアを積むために、日中に通ってくる生徒さんんのほうが多かったのです。ワープロ検定の4級や3級の資格を取りたいと言う人もおおかったです。シルバー世代はサンデー毎日(毎日が日曜日)ですから、予定表を見て、すいていそうな時間帯を予約していきましたから、時間的なかたよりはほとんどありませんでした。

 あと多かったのは、中小企業の経営者の奥さんで、「弥生会計」や「大番頭」を習いたいという要望も多かったです。

 その次に多かったのは、インターネットの接続方法や、メールの出し方、ホームページの作り方を習いたいという要望でしょうか。

 ホームページについては良くわからなかった(今も分かっていない)ので、秋葉君に全面的に頼っていました。ここ2〜3ヶ月の秋葉君の成長は目を見張るものがあり、ひょっとしたら私がいなくてもうまく回していけるんじゃないかとさえ思ったほどでした。

 もうそろそろ良いだろうと経理のことを少しずつ勉強してもらうことにしました。法人会や商工会議所が主催する日商簿記3級の受験コースを受けてもらいました。受講費は会社もちで、講習を受けている間の時給はつけるのだから、がんばって受かってくれよと激励しました。それと合わせて、単純な支払伝票や入金伝票、小口現金の出納帳は練習もかねて秋葉君に任せました。あと、銀行での支払いや送金なども手が空いている時間を見計らって頼んだりしていました。

 秋葉君はここの職場は、仕事の進め方について独自の裁量を認め、大幅に権限を持たせてくれるので、のびのびと仕事ができて本当に嬉しいし、毎日通勤するのが楽しくてし方がないと言ってくれました。

 私は私で、良い人材にめぐり合ってよかったなと思っていました。

 ただ一つ秋葉君に注文をつけたのは、専門学校でせっかくC言語を習ったのだから、利用しない手はない、単なるコード屋さんになるのではなく、上級SEの仕事ができるようにしたほうが良いよということでした。そのためには、習作として、「窓の杜」や「ベクター」に載せられるようなソフトをひとつでも作って、オブジェクト志向のトレンドになじんでおくのが理想的だねと言いましたら、僕もあと4年もたてば30歳ですから、社長が自宅でテープリライ

ターのお仕事をされてるように、がんばって何かフリーソフト作ってみます。

 話しを素直に受け入れてくれたのは大変うれしいことでした。自分がパソコンを使っていて不便だなというのをヒントに作れば良いし、既に出来上がっているソフトのプラグインを作るだけでも、ものすごく勉強になるよと私は言いました。

「はい、わかりました」とのこと。去年結婚した秋葉君の奥さんも彼のこういう誠実な人柄に惹かれたんだろうなと思いました。

 簿記の資格が取れたら、こんどは、広告の仕事も覚えてもらおうと思っていました。

 この頃には、私と秋葉君が作った教材もジャンル別にほぼ体系化できて、新しく教材を作るということはあまりなくなりました。

 このようにパソコン教室のほうは順調に業績を伸ばし、そのたびに秋葉君の時時給もアップするという好循環というか、勢いのようなものが出てきているのでした。また、秋葉君の偉いところは、定休日以外は休んだことが一度もないということでした。自分と比較して雲泥の差がありますね。

 10月の初め頃だったと記憶していますが、夜の7時ごろ教室にSのお父さんから電話がかかって来ました。Sの件で上京するといいます。会えるかと言われますので、夜の7時以降か、昼間なら火曜日しか時間が取れないと言いました。

 じゃぁ、月曜日の夜につくよう新幹線の乗車券を手配するとのこと。

 

 お父さんが来るのだから何かあるんだろうと、胸騒ぎがしたのをよく覚えています。

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(70)Kのお父さん

週があけて、月曜日にSのお父さんは新幹線でやって来ました。どこか適当なホテルに一泊予約しておいて欲しいと頼まれていたので、目黒に比較的近い新宿のホテルに予約を入れておきました。

 夜の8時ごろに待ち合わせをしていましたので、7時ごろには立川を出なければなりません。例によって7時〜9時の授業は秋葉君にまかせて、中央線の電車で待ち合わせ場所のHホテルのロビーに急ぎました。

 私がホテルに着いて辺りを見回すと、ソファに座って新聞を読んでいるSのお父さんを見つけました。今回はいろいろと面倒をかけたので、夕食は自分が持つと言って、ホテル内の寿司屋に行きました。

 お父さん自身は、せっかく上京するんだから、前から気になっている和菓子屋を何軒か訪ねようと、朝一番の新幹線で来たそうです。それで紙袋を持っておられたのですかと言うと、いやこれはあなたへの土産で、商売の参考にしようとおもったのは、山ほど部屋においてあるとのこと。

 寿司をつまみながら、お父さんが話したのは、Sは大学を出ても就職もせず、彼が欲しがるものは買い与え、アメリカや中国に行きたいと言えば、渡航費や滞在費を出してやり、会社を起こしたいと言えば、自分(お父さん)名義で借金し、かねを渡してきた。金がなくなったと言えば、そのたびにお金を送ってきた。

 親ばかと言われようと、Sのやることがままごとだと言われようと、私がSを見放してしまったら、彼の存在を否定してしまうことになる、といった意味のことをとつとつと話されました。

 明日の予定を聞くと、ペットショップに行って料金をはらうことと、目黒の貸し家と、Tさんの実家に言ってみるとのこと。Tさん宅へは夕方行くと言ってあるとのこと。

 これは、話しを聞いて驚いたのですが、Sのために借りたお金が1億円ちかくあること、保証協会のひもつき融資が約5千万円あると言います。

 私がお父さんと連名で保証人になった分が7千万円ありますから、全部合計すると二億円を軽くオーバーします。

 お父さんが倒れでもしたらどうしようと、背中に戦慄が走ったことを良く覚えています。

 で、S自身の借金は無いのですかとたずねると、はっきりは分からないが、おそらく2〜3千万あると思うと。Sから一度電話がかかってきて、商品を納品してもお金を払ってくれなくて、今裁判をやっている最中だと言う話しは聞いたことがあるとのこと。

 Sのことはどうするつもりですかと聞きますと、捜索願い等はしばらく出さないで様子を見ることにする、大屋さんには私から家賃を払って借りたままにしてもらうつもりだということでした。

 お父さんの店の資金繰りですが、数年前に店舗兼自宅を建て替えたので、その借金もある。それに加えて上の借金の返済だから、火の車だと。

 店を継いでくれた、今修行中の三男には、小遣い程度のお金しか渡せていない。三男の嫁さんには申し訳無い気持ちでいっぱいだとのこと。

 明日私は、行った方が良いかどうか訪ねたら、Tさん宅へ行く以外は付き合ってもらえればありがたいのだがと、言われるので、わかりましたと答えました。

 寿司屋を出たところで、失礼し、ロビーの公衆電話からKに電話しました。今Sのお父さんが上京していて、先ほどわかれたところだ、ペットショップやSの自宅へ行くとおしゃっている、一緒に立ち会いはできるかと言いますと、OKという返事が返ってきました。例によって、大家さんへの連絡はKからいれてもらうことにしました。

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(71)Sのお父さん目黒へ、 かみさんに本件について話す

 翌日朝10時に3人で待ち合わせて、大屋さんに鍵をあけてもらいました。お父さんは、この度は息子が大変迷惑をかけて申し訳無い、未払い分の家賃と向こう3ヶ月分の家賃を今日払わせてもらいますと大家さんに言いました。

 中に入って、その散らかりようにお父さんも驚いたようでした。片付けられるものは3人で片付けました。Sがどこに行ったのかということに関して何か手がかりは無いかと探しながらの片付けでしたが、それらしきものは何もでてきませんでした。

 次にペットショップへ行って、これまでの預かり料と向こう一ヶ月分の預かり料を支払いました。ただし、カラスについては、うちは犬と猫をおもに預かっているので、獣医を紹介するからそこへ持ちこんでもらえないかとのこと。その足で紹介された獣医を訪れ、預かってもらうように依頼しました。ここでも向こう1ヶ月分の預かり料を支払いました。

 そのあとで、適当なレストランに入って昼食をとったのですが、Sのお父さんは大変お疲れのご様子でした。連絡先も告げずにどこかへ行ってしまったことは今までに一度もないとのことでした。

 これからTさんの家へ行くからと、そこで3人は分かれました。

 翌日の夜、Sのお父さんから電話があって、Tさんには息子がかなりひどい仕打ちをしているようだとのこと。DV、家庭内暴力は無かったようだが、暴力に匹敵するくらい酷いことを言われたらしい、もうSのもとには戻りたくないと言っているとのこと。

 Tのお父さんからは、やはり、二人で始めた商売の出資金を返して欲しいと言われたとも、おっしゃっていました。これについては、二人で相談して始めた商売だから、返済する必要は無いときっぱり言われたそうです。そして、自分も二人の商売のためにかなりの援助をしているから、返済云々を言われるのなら、こちらの分も返して欲しいと相手の両親に告げると、黙ってしまったそうです。ただ、SがTさんを広い心で包んであげられなかったことに関しては親として責任を感じているし、とても残念だと言ったそうです。

 私はこの話しを聞いてお父さんは、こんな折にも冷静さを失わない、りっぱな方だなぁと思いました。

 私は家に帰ってかみさんにこのことを話しました。たいへん驚いた様子でした。保証した7千万については、最悪の場合自分が返済しなくてはならなくなるかも知れないと言いました。

 ここのマンションはどうなるの?と聞きますので、そうなったら、自主的に売却するか、放っておいたら裁判所が競売(けいばい、この読み方が正しく、最近はきょうばいとアナウンサーも言っている)にかけるだろう。商売もうまく言っているし、不安に落とし入れることを言うようだが、万が一のために心の準備だけはしておいて欲しいと話しをしました。

 かみさんは言いました。マンションなんかなくても構わない。雨露がしのげて、家族4人で仲良く暮らして行ければそれで十分ヨ、今まであなたが働いて楽をさせてもらったのは私だから、そうなったらなったで昼間だけでなく、メーカーによっては夜働けるところを募集するところもあるから、かけもちで働いてもかまわないわ、と言ってくれました。

 思わず涙がこみ上げそうになりましたが、ぐっとこらえました。

 え〜っ?!そんなのやだ!と言われると思っていただけに、持つべきものは伴侶だなと思いました。 

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(72)弟の嫁さんYと我がかみさんMと私たちの母

 ここで少し私の母、弟の嫁さん、私のかみさんのことを書いておこうと思います。このトライアングル関係は後々重要なファクターを構成するようになるからです。

 母は大正13年生まれで、7月の誕生日がくれが、78歳になります。母はいわゆるパーキンソン病です。パーキンソン病というのは、脳の代謝異常で、その結果手足の震えや、筋肉の緊張が昂進し、運動障害に陥る病気で、国が難病として指定しています。普通町医者や病院などに通っているぶんには、難病指定と言うことで、医療費は一切かかりません。入院すれば話しは別で、医療費以外の費用、たとえば食事代などは、所定の経費がかかります。

 この母に私たちは育ててもらいました。父は、私が小学校2年生頃にはもう家にはほとんど帰ってきませんでした。なぜそうなったのかは未だにわかりませんし、聞いてもこたえてくれません。小学校高学年になるまでは、月に2〜3万円くらいは、家にお金を入れていたようですが、その後はぷっつり途切れたようです。

 かと言って、父がたま〜に、家に来ても、父の嫌いな私を除いて、世間話や食事などしていました。生活費を入れないから離婚するわけでもなく、我が家は大変奇妙な関係の上に成り立っていたわけです。そして、父は懇意な女性と同棲していたのでいた。

 大学生時代に、父の経営する職場に行ってみたことがあるんですが、彼女のことを従業員は、奥さんと読んでいました。

 生活費は母が一人で稼いでいました。ですから、我が家は母子家庭のようなものです。

 今から考えると、父が時々来ては、母に住宅の家賃相当分くらいを渡していたのではないか?でなければ、母は父の仕事に否定的だったのではないか?ということです。父母は大阪で繊維関係の仕事をしていたのですが、私が大阪の小学校に入学しないで、広島の小学校に通うことになった事実をつなぎ合わせると、どうしてもそこに行きついてしまいます。

 余談ですが、大阪からどんこう列車に乗り、広島に近づいていく車窓の景色は、今でも、良く覚えています。

 女手一つで食べ盛りの男の子2人を育ててもらった恩を、私は忘れたことがありません。子を持って初めて知る親の恩といいますが、ほんとうですね。

私でさえ、娘に銃口が向けられたりしたときがあれば、迷わずに娘のついたてになると思います。

 血のつながった者はそうですが、そうでない者はどうなるのでしょう?

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(73)削除

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 (74)弟の嫁さんYと我がかみさんMと私たちの母 その2

  Mとは、文通を通じて懇意になり、大学時代には、学習塾が休めるお盆や年末年始には会うようになっていました。同い年です。

 そして、就職して、赴任先が大阪になると、頻繁に会うようになりました。

 独身寮に入っていたのですが、大阪に来て1年もすると、Mが借りているアパートで一晩過ごして翌朝Mの家から会社にいったり、土曜日や祝日の前の日にも同様に彼女のアパートに泊まっていました。(独身寮の同僚や先輩にはかなり冷やかされました)

 よくある話しですが、自分のタオルや歯ブラシ、髭剃りやワイシャツ・下着類など、すこしずつ増えていきました。

 そして、昭和57年の5月に私たちは結婚しました。

 私が浜松支店にいたとき、父の会社の資金繰りが悪化して、私に助けを求めてきたことがありました。最初は貯金や株式を売却して援助しましたが、あるとき銀行の担当者から、今日中に手形を決済しないと銀行取り引きができなくなるとのことです。

 もう自分の資産は全部取り崩していたので、銀行の担当者に決済できない、今後のことは父と相談して欲しいと言いました。余談ですが、あのとき父に貸したお金は一円もかえってきていません。

 ここからが、重要なポイントです。父が借金返済のために奔走しているときに、母にとばっちりが行っては大変だということで、母を浜松のアパートに呼んだことがありました。

 最低でも2〜3ヶ月は居てもらうつもりだったのですが、1ヶ月くらいして事件が起きました。

 母が行き先も言わずにいなくなってしまったのです。昼の3時ごろ電話連絡がかみさんから入って分かったことでした。

 その夜、かみさんに何かあったのか?と聞いても何も言いません。広島に帰っているかと電話してみましたら、本人が出ました。なぜ書き置きもせずに広島へ帰ったのかとたずねても、この件に関しては、なにも言いませんでした。

 2人とも何も言わないので、推測の域を出ませんが、やはり嫁と姑の関係なのかなと思いました。ご両人とも、嫁が姑を、また姑が嫁の悪口を言ったら間に立つ私が辛い思いをするから、それをおもんばかって黙っているのかなと、善意に解釈するしかありませんでした。

 ただ、かみさんが母を台所には立たせなかったのは事実でした。

 それ以降、かみさんが母に電話するのは、歳暮など何かが届いたときだけで、それ以外は全く無くなりました。

 話しや本で嫁と姑のことは、読んだり、聞いたりはしていましたが、これほど凄まじいものなのかと、あらためて思いました。

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(75)弟の嫁さんYについて

 私と弟とは6つ年が離れています。私が大学生のときには中学1年生でした。

 昼間は母が勤めているし、うるさい親父は帰ってこないし、兄貴は盆暮れしか戻ってこない。家庭が金銭的に困っている。非行化する条件が全部そろっています。

 年2回戻ったときに母に弟の事を聞くと、もうたばこも吸っているし、酒も飲んでいると言っていました。

 そして、高校も最初観音高校という県立高校に受かったのですが、つぎに同じ県立の国泰寺高校の夜間部に通いました。しかし、それもながく続かなかったようです。最終的には大検の勉強をして、高卒の肩書きを手に入れたようでした。

 大学に行きたかったようですが、仕事しながら勉強するのは口で言うほど楽ではないことがわかたようで、大学には行かず、近くのお菓子しメーカーでアルバイトとして勤めながら、速記(テープリライター)の勉強をしていたようです。

 これは、私がテープリライターの勉強(早稲田式速記)をしているのをみて興味を示し、弟も真似して学習を始めたようです。どういうわけだか、速記の勉強だけは長続きし、私より先に、速記事務所に所属し、職業として日々の生活の糧を得ていました。

 さて、弟と嫁さんYとのなれそめですが、弟がよく行く喫茶店兼スナックがあるのですが、そこで、飲んだり歌ったりするうちに仲良くなって付き合うようになったそうです。

 平成7年ごろだったと思いますが、広島から私に電話があり、結婚したい女性が居るので一度会ってほしいと言います。土日を利用して本人にあいました。 フラメンコのインストラクターをやっているということでした。年齢は弟よりは3歳年上でバツイチとのこと。弟によれば、Yは上智大学出身で、英語とスペイン語はぺらぺら、高校も女学院と言って、広島の女の子なら一度はあこがれる、超お嬢さん学校です。

鍋をつつきながらいっぱいやって、帰りがけにYの家があるので、Yを家の前で降ろし、そのあと、2人でラーメンを食べてから帰宅しました。

 家についてから私は弟に言いました。この結婚には反対だ。

1.Yの顔色は普通の日焼けや化粧焼けでなったものではない。肝臓かどこか悪いはずだ。酒はよく飲むのかと聞いたところ、毎日飲むとのこと。それなら余計にいけないと言いました。

2.家に入って母と同居しれくれると言うが、ここんところがどうもうさんくさい。バツイチだろうとなんだろうと、花嫁は姑との同居を嫌がるのが普通だし当然だからです。Yは母に食事ぐらいは作ると思うが、介護など一番しんどいことはやらないと思うと自分の意見を言いました。

3.バツイチとは言え、Yはたいへんな資産家の娘、それに対して家は市営住宅に住む低所得世帯だ。釣り合いがとれない。

 家に遊びに来たときに、Yは母の介護を手伝った事があるか?と訊きますと、ないと言います。

 そうだろう、だから反対なんだよと言いました。聞けばYの実家は車で10分以内のところにあって、これもバツイチの弟と、Yのおかあさんと二人で同居しているとの事。彼女はもう若くないし、Yの実家で暮らせば、何不自由無く暮らせるわけだ。それに近所の手前など気にする年代はとっくに過ぎている。

 それと付き合い始めてまだ3ヶ月だそうじゃないか?なぜそんなに結婚を急ぐのかと訊きますと、Yが早く入籍したいと言うとのこと。これについても変だなと思いました。

 とにかく、俺としてはこの結婚には反対だ、と言いました。母はなんて言ってるんだと訊きますと、母もあまりよい顔をしないとのこと。

 兄と母の忠告には耳を貸さず、私が東京に戻った翌月くらいから、弟と母の家で暮らし始めました。

 3人の暮らしぶりについては、後で書きます。次回は和菓子屋の息子Sの話しに戻ります。

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(76)Sの捜索願いと年越し

 Sが失踪して約2ヶ月が経過、その間全く先方からの連絡が入らずじまいだったので、Sのお父さんから警察に捜索願いを出すことにすると連絡が入りました。

もう年も押し詰まった12月です。

 家やペットはどうするのですか?とたずねたら、貸し家のほうはあと3ヶ月だけ借りておいて、それでも本人が現れなかったら賃貸契約を解除するとのこと。これについてはもう大屋さんにも言ったと話しをされていました。

 ペットについては、犬とカラスの両方とも注射を打って「安楽死」させようと思うと。このことについても、すでにペット屋さんと獣医師に話したとのこと。

 こんなことになるなんて、夢にも思っていなかっただけに、まっちゃんには迷惑のかけっぱなしでたいへん申し訳ないと、しきりに謝っておられました。

 借金はお父さんだけじゃなく、私も大きな金額の借金を抱えている、商売屋は体が資本だから、お互い健康には留意しましょうと言って、電話を切りました。

 かみさんにこのことを話すと、案外東京にいるんじゃないかしらと言っていました。東京か郷里の広島に居てくれればいいんだけどなぁと、私。

 なにか釈然としないまま、平成11年が暮れようとしていました。サラリーマンのときは、正月は、会社の保養所か、車で簡単にいけるくらいの旅館を予約して年を越すのが恒例行事だったのが、商売を始めてからは、どこへも行かず、大晦日に、年越し蕎麦(小麦粉2そば粉8の二八そば)をみんなでこしらえて、麺棒でのし、自分たちで切ったものを、自分がたべるのが新しい恒例になりかけていました。

 料理でもそうですが、自分で打った蕎麦は美味しく感じるらしく、子供たちは普段の倍くらい食べました。初めてのときは、そばがぼろぼろになってうまくいきませんでしたが、3回目ともなると、慣れたのでしょう、手つきなどが毎回良くなって来ました。

 そして除夜の鐘が鳴ると、みんなあらたまって、「あけまして、おめでとうございます。ことしもよろしくお願いします」と挨拶してから、お年玉をあげていました。

 平成11年はかく去り行き、平成12年度はかくして幕を明けたのでした。

 今平成14年ですから、あと2年分と少し残っています。平成12年度から本当の意味での奮闘が始まります。それと躁鬱病のほうは、服用している薬との相性が良いみたいで、平成11年は、大過無く過ごせました。

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(77)S自身の借金

 Sは自分自身でも借金をこしらえていました。平成11年の11月分と12月分の返済が滞っていて、Sのお父さんに電話がはいるようになったので、分かったのです。

 貸し主は低金利の銀行ではなく、いわゆる高利貸しです。お父さんには言いませんでしたが、返済が滞るなどして、もう銀行では借りられなくなっていたのでしょう。

 高利貸しは、最初は1年以内の短期で貸すのが普通です。金利は約30%くらいです。担保があれば、根抵当といって、貸し出し枠をこさえておき、枠の範囲内で何度でも借り入れることができる制度があります。なければ、高利貸しに白紙委任状を差し入れます。ここの業者は銀行系で、私も名前だけは知っていました。

 一時期、この手の高利貸しが、腎臓を売って返せ、死んで保険金で払えと、むちゃくちゃな取りたてが社会問題化しましたが、Sが借り入れた高利貸しは、そんな要求はしなかったようです。しかし、金を借りるとき、緊急時の連絡先として、親・兄弟の住所・電話番号を書かせますから、返済が滞れば連絡が入るのは当然です。

 そして、白紙委任状を提出していますから、例えば、Sのお父さんの不動産にも抵当権をつけて、最悪売却を余儀なくされることもあり得ます。白紙委任

状と言うのは、トランプで言えばジョーカーで、オールマイティなのです。

 法律的にはSのお父さんが払う必要はありません。息子の借金は息子が返すのが筋といえば済むわけです。しかし白紙委任状をもっていますから、Sが輸入した高級茶である岩茶やアヒルのグッズ、電話回線も売却して資金化してしまうでしょう。 返済を突っぱねれば、いわゆるブラックリストに載り、銀行はもちろん、通常の町金からも借りられなくなるでしょう。

 借りられたにしても、10日で5割の利子といったとんでもない条件を提示されます。10日以内という超短期での返済を前提とするので、「利息制限法」から外れ、こんなむちゃくちゃな金利がまかり通るのです。この世界ではこれを、「日掛け(ひがけ)」と呼んでいます。

 Sのお父さんは、わかった、2〜3日考えさせてくれと言って電話を切ったそうです。 

 Sのお父さんから相談の電話があったとき、上記のことを言い、なにしろ白紙委任状を持っているはずだから、何をしてくるか分からない、リスケと言って、返済期間を延ばすなどして、1回あたりの返済額を少なくしてもらって、返済したほうが良いと思うと言いました。

 金額は聞きませんでしたが、また一つ返済しなくてはならない業者が増えたことになります。

 私は私でSのお父さんと連帯保証した分の請求が来ていました。これは、Sのお父さんが「自分でなんんとかする」と言われたので、助かったと思いました。

 今まで総合して聞いたところによると、S自身の借金(無担保)とSのお父さんが保証人になっているもの、Sのお父さん自身の借金を全部足し上げると、元本だけで、4億5千万円になります。

 ピンと来ない方のために、どのくらい途方もない数字かと言うことを、書いておきます。

 これはSのお父さんには言いませんでしたが、仮に4億5千万円を金利5%、10年(住宅ローンではありませんから、30年などという長期の貸し出しは商売の世界にはありません)で返済すると、毎月毎月、480万円返済しなくてはなりません。

 年にじゃありませんよ、一月にです。これだけあれば従業員が10人は雇えます。

 月額500万円程度の売り上げなら、手元に20万円しか残らない計算になります。

 私は債権者じゃありませんから、店の売り上げなどは聞きませんでしたが、個人経営の人にとっては、大変厳しい返済であることは言うまでもありません。

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(78)かみさん、わたしテープリライターの仕事したい!

 年が明け平成12年になりました。躁うつ病のほうも、医師が処方する薬をきちんと飲んでいたので、普通に生活ができていました。

 ただ、テープリライターの仕事とパソコン教室を両立させるのは、体力的にはとてもハードでした。

 ここ2〜3年の仕事ぶりを見ていたかみさんがある日こんな事を言ってくれました。専門用語は漢字に変換しないベタ打ちはあたし速いから、手伝おうか?と。

 しかし、かみさんも仕事を持っていますし、家事がおろそかになるといけないから、いいよと断りました。でも、土日の休みの日や家事の合間にだってできるからやりたいと言います。じゃぁ頼もうかということになりました。

 速記士の仕事は本来は現場に行って、テープで録音しながら、重要な部分を速記で書きとめ、文章にまとめるときの参考にします。そして、録音されたことをそのままワープロに入力したのでは、単なる話し言葉に過ぎませんから、話しの内容を損なわないように注意しながら、書き言葉の文書に変換していくのです。 言葉にすればたったこれだけなのですが、これがなかなか手強いのです。

 たっぷり時間があるのなら、誰にでもできますが、お客さんは、早く出来上がって、正確で、きちんとまとまった出来映えの文書に対してお金を払ってくれるわけです。

 かみさんより入力の遅い私でさえ、ワープロ検定1級の肩書きがありますから、それが全てではありませんが、入力の速度は必要条件の一つです。一月あたりにこなせる本数に関係しますし、報酬もそれに比例します。この世界も良くできたもので、正確で早くしてくれる人に仕事が集まります。

 よく新聞や雑誌に、テープリライターになって、副収入!とか広告が掲載されていますが、上記の条件プラス、専門用語の知識が必須で、受講するのは自由ですが、我々に言わせると世の中そんなに甘くないですよということです。

 入力速度を上げるために、みなそれぞれ自分なりの辞書をパソコンに入れています。たとえば「私はそう思う」と入力する場合、キーボードの「W」「S」と入力します。ひらがな入力で「て」「と」と入力すると「私はそう思う」が出てくるように、ワープロソフトの辞書をカスタマイズしていきます。逆にそう言う風にしないと能率が上がらないわけです。

 上には上がありまして、人間が喋るスピードで漢字かな混じり文を作れる人もいます。そうゆう超人的な人は、私が5本仕上げる間に、10本はアップできるのでかなりの収入になります。ただし、そういう人は速記士が1000人いたとすれば、3人〜5人くらいしかいません。私に言わせればプロ中のプロ、天才としか言いようがありません。

 で、かみさんには、いつでもできるときだけで良いからとテープとFDを渡しました。そして、よくわからないところはひらがなで入力し、クォーテーションでくくっておくように言いました。

 土日でどのくらいできるか様子を見たところ、かなり良い出来映えで、これだけできれば上々だよ、本当に助かると誉めると、とても嬉しそうでした。

 入力速度は私よりずっと速いし、これならある程度は任せられるなと思いました。

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(79)友人Sの破産宣告と保証債務

 2月のある日、沖縄の弁護士Nから1通の手紙が届きました。

 Sの代理人としての手紙です。

 内容は、Sは信販会社等に負債を負っており、その総額は○○円余になり、

その返済の目処が立たず、自己破産の申し立てをせざるを得ない状態となった。今後は本人およびその親族への直接の請求、連絡は遠慮いただき、問い合せはNまでお願いします。

 こういった内容でした。

 私の頭の中は一瞬真っ白になりました。

 沖縄に居たのかという驚きと安堵感、そして、その次に来る返済。7千万円。

 Sのお父さんは、全額払いきってくれるのか?そうではないのか?

 自分の興した会社の存亡と家族への責任が頭の中をぐるぐると猛スピードで回っていました。

 冷静になれ、冷静になれ、と自分に言い聞かせました。

 仕事から帰ってから読んだので、秋葉君に電話して、体調が悪いので申し訳無いが明日1日休ませてもらうと伝えました。今までに一度も休まれたことがないのですから、明日は1日ゆっくり静養して下さいと言ってくれました。

 かみさんに話すのも今夜は止めました。そして、Sのお父さんの保証の件については、自分から動くのではなく、Sのお父さんから連絡があるまで待つことにしました。

 こういうときはジタバタせずじっとしているほうが安全だと思ったからです。

 この日だけは昂ぶる神経を押さえるために、ぐでんぐでんに酔うまで、酒を飲みました。明日からどうしようという不安と、なるようにしかならないという冷静な自分が、酔った頭の中にかわるがわる出てきて、ちっとも酔わないし、なかなか寝られなかったことをよく覚えています。

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(80)Sの居場所!

 翌日の夜、Sのお父さんから電話がありました。弁護士から文書が届いたかと言われたので届いたと答えました。

 お父さんによれば、今沖縄のリゾートホテルで住み込みで働いているらしいとのことでした。アルバイト情報などの雑誌にのっているあれかなと思いました。

 で、給料は安いが宿泊施設と3食付きなのだそうです。

 Sのお父さんには言いませんでしたが、業者などから金を借りたり、手持ちの資金を持って、沖縄に行ったのかなと思いました。

 これからどうされるのですかと訊いたら、公衆電話からの電話らしく、電話番号や寝泊まりしているところはまだわからないとのことでした。

 私は内心、たとえわかっていても言わないだろうと思いました。Sの立場に立って考えても連絡先は教えないと、金を送ろうにも送れないからです。

 つまり、Sのお父さんはSをかばっているなと、直感しました。

 私は、Sは芸術的な才能はあると思うが、経営者には向いていないと思う。

Sはおそらく消費者金融の会社などから、借りるだけ借りて、沖縄に行っているはずだから、もう資金援助はしないほうが良いと言いました。消費者金融からも督促がきてるでしょ?と訊ねると、来ているとお父さん。

 私はお父さんにはっきり言いました。Sはもう目黒の貸し家には戻らないと思う。経費の無駄だから、即刻賃貸借契約を解除して、換金が可能な岩茶などを残して他の荷物は処分したほうが良いとアドバイスしました。

 我が子可愛さからか、その件はもう少し様子を見てからにすると言われました。

 消費者金融はまだしも、前に出てきた高利貸しには白紙委任状を出しているのだから、そこからまず交渉を始めるべきだと私は言いました。

 まっちゃんの言うことはもっともだし、よく分かるのだが、まだ踏ん切りがつかない、もう少し考えさせて欲しいと言われました。

 それ以上のことは言えないので、親子と言えども金の貸し借りは別物とよく言われますから、熟慮なさって下さいと言って電話を切りました。

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(81)Sからの電話

 平成12年1月下旬にSから電話がありました。今沖縄に居て、住みこみでホテルの雑用やその他の業務をしているとのこと。電話があったのは嬉しいと私は言いました。私が思ったとおり、お金を借りられるところから借りられるだけ借りて沖縄に来ていたようです。電話代が高くつくからかけ直すと言ってもいいよといいます。

 破産宣告はするつもりなのかと問いただしましたら、もう弁護士には書類一式書いてわたしてあり、2月には破産宣告がなされるだろうとのこと。借りたお金で、酒を飲み歩いたりはしてないだろうなと聴きますと、ほとんど1日中ホテルの敷地内にいるからそれなないとのこと。

 個人の貸し借りではないし、金額も我々が扱うものとはゼロが一つ多い。場合によっては俺も同じはめに陥るかも知れないと言いました。

 これは父にも連絡したが、もう東京に戻るつもりは無くて、夜逃げしたのだと言います。父親には億単位金を出させて、申し訳無いと思っている。こないだ電話を入れたら、体調が良くないようだと母が言っていたと。

 あと数ヶ月したら破産の免責が降りる予定だ。でも、法律的には借金棒引きにはなっても、まっちゃんにだけは、月々たとえわずかでも払いたいと言います。

 それは、ありがたい話しだが、月にどのくらい収入があるのかと聞いたところ、1日5千円の日給月給だといいます。

 じゃぁ、月12〜13万円くらいだね。もうこうなった以上は、お互いの信頼関係しかないから、君の気持ち次第だと私は言いました。それと、東京から持ちこんだお金は全部弁護士と相談して、どこかの支払いに充てないと裁判所から許可が降りないぞと言うと、同じことを弁護士にも言われたとのこと。

広島に帰るつもりは無いのかと訊きますと、ないとのこと。

 連絡先や住所を教えるのはもう少し待って欲しいと、Sが最後に話して電話を切りました。

 ほどなくSのお父さんからも電話がありました。Sは伝家の宝刀を抜いたわけですから、法律的には債務の免責が認定されると、借金棒引き、債権債務の関係はまったく無くなります。あとは自分とSの信頼関係だけだねと言った旨お父さんには話しました。

 お父さんは、私が元気なうちは私が借金を返して行きたいと思っている。今販路を拡大しようと、よその県まで営業活動をしているとのこと。

 和菓子作りだけでも大変なのに、営業活動までされて、お大事になさって下さいとだけ言いました。

 この日は、子供が寝てから、借金の保証の件について、一通り話しました。

かみさんはこう言ってくれました。

 「そうなったら、そうなった時の事よ、働き手が二人いるんだし、子供たちが学校に行けて、ご飯をちゃんと食べられれば十分よ。今は贅沢し過ぎるくらいしていると思うわ」って。

 私と違って太っ腹なのか、事の重大さがわかってないのか、どちらかだとは思いましたが、この言葉はとても嬉しかったことは事実です。

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(82)Sのお父さん倒れる

 2月のある日、Sのお母さんから電話が入りました。Sのお父さんが倒れて入院したとのこと。病名はくも膜下出血で、右半身不随だと言われていました。それで、先生はなんとおっしゃっているのですかと訊きますと、入院して2〜3ヶ月療養とリハビリをすれば退院できるが、意識が戻らなくてそのまま死んでしまうことも少なくなく、命があるだけありがたいと思ったほうが良いと言われたそうです。半身不随はおそらく回復することはないと思う、しかし、運動をしないとますます筋肉が衰えるため、リハビリは欠かせないとも。

 Sのお母さんが、これまでどおり仕事はできますかと、先生に訊ねたら、車椅子にのって、片手でできる仕事ならできることはできると言われたそうです。その際に先生が付け加えられたことは、仕事はできるが、無理をさせると再出血が心配だ、くれぐれも安静にして、ストレスのあることは避けるようにとのこと。

 お大事にして下さいと言って、こちらからはお金のことは言わないで電話を切りました。

 夜仕事が終わって帰宅し、Sのお父さんのことを話すと、いよいよ来るべきものがきたわね、と言いました。言葉にこそ出しませんでしたが、こうなることはある程度覚悟していたような口ぶりでした。

 私はかみさんに言いました、SとSのご両親とは人間関係を損ねたくないので、先方から何か言ってくるのを待ちたいと。かみさんは、そうねと同意してくれました。

S家の借金は4億5千万円以上。

こちらはS家よりはだいぶ少ない借金ですが、それでもあることはあります。私はこの時点で、今住んでいるマンションの売却を決意しました。

 そこで、かみさんには、S家は、破産するしないは別にして、一家の大黒柱が倒れたわけだから、全部の借金は払えないだろうし、売り上げも減少するだろう、そうなると当然保証している分に関しては、債権者がこちらに請求してくることは間違いないから、マンションは売却して払えるものは払った上でバンザイするならしたほうが良いと思う。幸い今はお金に困っていないから、この近くで良さそうなアパートを探しておくよう心がけておいて欲しいと言いました。

かみさんは、うん、わかったと返事しました。

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(83)Sのお父さんへのお見舞いと我が母 その1

母が3人暮らしになってどうしているか?また、Sのお父さんの病状も気になりましたので、定休日を利用して、広島に帰りました。

Sのお父さんの入院先が実家への帰る道に当たるので、立ち寄りました。受付で面会を申し出ると、行き方を教えてくれました。

 Sのお父さんは、ここじゃなんだから、食堂へ行って話しをしようとのこと。

 わざわざ見舞ってくれたことに感謝すると言われました。

 まずは、お見舞いの口上を型どおり述べて、Sからは私にも電話があったことを伝えました。なんでも必要書類は全部整えて弁護士に渡してあると言っていたと付け加えました。

 お父さんは、息子のSからはあれから連絡はない、そして、破産の準備をしているということだけしか知らないと、ため息混じりに話されました。

 でも、沖縄だと債権者もまさか追っかけてくるとは思えませんから、Sも考えましたねと私は言いました。

 Sが毎月いくらぐらい稼いでいるかご存知ですかと訊ねたら、12〜13万と話していたなぁとお父さん。

 なにしろこちらからも連絡が取れないのだとおっしゃっていましたから、ひょっとしたら、本当に知らないのかも・・・とおもいましたが、半分以上は親御さんはSの居場所と連絡先を知っていると思っていました。

 入院期間は短くて、2ヶ月くらいになるとのこと、三男が今修行中なのだが、始めたばかりで、まだまだ任せるには程遠い。昔から勤めてもらっている職人さんにお菓子作りの責任はまかせたとのこと。おとうさんの奥さんはお菓子作りのことはわからないので、今まで通り店先に立ってもらうとも言われていました。

 こんな場で、保証した支払いのことを話すのは良くないので、くれぐれもお大事にと言って病院を後にしました。

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(84)Sのお父さんへのお見舞いと我が母 その2

 そのあと、実家へ行きました。実家と言っても、4階建ての市営住宅です。

 Sのお父さんが入院している病院まで弟が車で迎えに来てくれました。

 家に着いて、気がついたことは、弟の嫁さん(以後Y)がいないことです。どうしたのかと訊くと、母が今実家に帰っているとのこと。

 実家の間取りは、3DKで、母の部屋とダイニングキッチンはふすま一枚でしきられています。母の部屋には、角度を何段階かにわけて傾きを調整できる、回転式のリクライニングシートがありました。それの片一方だけ、表皮が剥き出しになっていました。座椅子から降りるときにこすれるのでしょう。

 なにかのひょうしに、母の腰から横腹にかけて見てしまったのですが、これは完全に床ずれです。たち歩いたり散歩していない証拠です。

「Yさんは散歩につきあってくれる?」

「いや、一度もない。フラメンコを習いに行ったり、週1回大阪までフラメン

 コを習いに行っている」

「そのお金は誰が出しているの?」

「おまえの弟だよ」

「家事はちゃんとやってるの?」

「やっているが、実家が近いせいか、家にいないことが多い」

「お母さんが台所に立つことはないの?」

「Yが何日か留守にするとき以外は立たない」

「それななぜ?」

「食器を並べる順番とか、女はそういうところけっこう細かいから 気を使う」「からだの具合はどう?」

「今はあまり良くない」

「Yはお母さんの介護手伝ってくれる?」

「介護は全部おまえの弟に任せている」

「Yはお酒を飲むの?」

「おまえの弟以上に飲むよ。酒癖は悪くないから助かっているが」

 弟と話しをしました。嫁さんが介護を全く手伝わないのは、ちょっと問題があるんじゃないかと言いました。まぁ、そのうちやってもらうように話しをするよと弟の返事。うん、ぼちぼちとやれば良いと私は言いました。

 弟が言うには、おとうとのかみさんYは実家に帰っているのではなく、C型肝炎の疑いがあり、精密検査に言っているのだと。

 もしも本物のC型肝炎なら、インターフェロンなどの投与にものすごくお金がかかると言います。

 どのくらいかかるのか訊きましたら、年に300万円〜500万円はかかると。

ただし、それは1年目だけで、一定限度以上は申告すれば戻ってくるらしいとのこと。しかし後で還付されるにしても初年度は、自己負担になります。

 母が言うには、おまえのかみさんYは、毎週大阪までフラメンコを習いに行ったり、スペインに旅行にいったりしてるそうじゃないか?

 おまえが言えないのなら、俺から言おうか?と水を向けると、弟は自分の裁量でYを大阪にやったり、旅行にもやっている、兄貴が直接言うと角が立つから、もう少し待ってくれ、自分が年収これだけだという、所得証明書を見せるから、それを見れば少しは考えてくれるだろうと。

 おまえの年収はどのくらいあるんだ?兄貴が速記で稼ぐより1割くらい多いくらいだとのこと。それにしても話しの内容のようにあっちこっち飛びまわっているようじゃぁ、おまえの稼ぎだけでは足りないよな。きっと実家のお母さんに無心しているのだろうと弟に言いました。

 それにしてもC型肝炎のことは気になるなぁ、もしそうなれば費用は実家が出してくれると良いんだがと言ったら、弟もそうしてもらえれば大変助かるが、まだC型肝炎だと決まったわけでもないし、費用の話しはYの実家とは話していないとのこと。もっともだと私も思いました。

 弟には母のことについて、床ずれができるくらい運動不足になっている。気にかけてリハビリできるような環境を整えてやって欲しいと言って、実家を後にしました。

 帰りの新幹線の中で、缶ビールを飲みながら、いったい母はどうなってしまうのだろうと考えずにはいられませんでした。それと、母のことで夫婦仲が悪くならなければ良いがとも思いました。

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(85)デイ・ケア

 東京に帰ってしばらくして、弟に電話し、自分で歩けるしボケもないから、日帰りでリハビリができるデイ・ケアの施設に通わせたらどうだろうかと、提案しました。介護保険も使えるし、母の場合パーキンソン病だから費用面は心配ないのです。お前が忙しいのなら、俺が広島に帰って段取りしても良いよと言いました。弟は、それだけのことでわざわざ帰ってもらうのは申し訳ないから、自分で当たってみると言いました。

 数日すると、弟から電話があり、家から少し遠いが○△という施設で面倒をみてもらうことにした、送迎バスもあるしと。それは良かった、同じくらいの年代の人も多いだろうし、気晴らしになるしねと私。週に2回通うとのこと。

 広島に帰ったときはバタバタしていたから言わなかったのだが、母は背中が曲がって、もうまっすぐにはならないらしい。それに入浴が一人でできないから、自分が浴槽に入れたり出したり、髪や体をあらっているとのこと。

 奥さんは手伝ってくれないのか?と言いますと、やはり嫁と姑のなんたらで、なんだかんだ言って手伝わないそうです。

 母は私が子供の頃から、無口で、あまり人にとやかく言わない代わりに嫌なことには口には出さないけど決して従うことのない女性でした。

 母のそんな性格が、私が浜松に住んでいるとき、かみさんと母が険悪ななかになったように、弟の嫁さんYとも同じなんだろうかと思いました。

 弟が普通のサラリーマンでなく、比較的時間が自由に使えるテープリライターで良かったなと思いました。でなければとっくに、弟の嫁さんは実家に戻ったきりで家には寄り付かなくなっていたでしょう。もっとも、実家が近くですからなにかにつけ実家にはちょくちょく帰っていたそうですが。

 弟が商売のほうはどうなんだと聞きますので、業績は順調なのだが、お前も知っているSの保証人になっていて、破産した、Sのお父さんもくも膜下出血で入院中で、半身不随になってしまった、いずれ請求はこちらに回ってくるだろうと言いました。

 保証人なんてそう簡単になるもんじゃないねと、弟の感想でした。Sには俺の保証人になってもらったしね。断るわけにはいかなかったんだよと言いました。

 ともかくお前は嫁さんをなんとか説得して少しでも良いから介護を手伝ってもらう様にしないと、介護保険つかっていても、嫁さんはなにもしてませんというのは通用しないよと念を押しました。弟も、そうだね、説得してみると言っていました。

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(86)保証分の返済

 Sのお父さんとの口約束で、毎月の支払いは3:7にしようと決めていました。

もちろん私が3です。この”3”の分については毎月売り上げの中から、なんとか払っていました。

 ところが何ヶ月かすると、S側の送金がなくなったのです。Sのお父さんが病気で入院していること、将来店を継ぐ三男が不慣れなせいもあって、店の売り上げが落ちこみ、払えなくなったのです。病院に電話して、看護婦さんに電話口まで、お父さんを出してもらうと、たいへん申し訳ないと詫びた後、他

への支払いも滞っているとの事。このままでは店を閉めなければならないと嘆いておられました。

 私がSのお父さんと保証した借り入れ金は5年返済で7000万円です。月々の返済は約130万円です。

秋葉君の給与の支払いや、家賃、借り入れ金の返済等の必要経費はテープリライターの収入だけではまかないきれませんでした。

 こんなときにネックになってくるのが、サラリーマン時代に借りたマンション購入代金のボーナス返済でした。7月の夏の返済は自分の預金を取り崩してしはらいました。自分は会社の代表者でしたが、会社からはボーナスをもらっていなかったからです。

このままでは秋葉君にいずれは迷惑をかけると思い、辞めてもらう決心を固めました。秋葉君には事情を話し、派遣会社に連絡を取って就職の世話をしました。残念ですがし方がありません。送別会も兼ねて事情を話すと事情を良くわかってくれたようでした。2次会3次会と進むと秋葉君は「さびしいよー」と言って泣いて別れを惜しんでくれました。

 平成13年1月には住宅ローンのボーナス払いはカードローンで支払いました。

まだ借り入れ枠はある程度残っていますが、借金をして借金を返すこと事態が不健全です。でもしかたがありませんでした。

 そんな折、Sのお父さんが破産宣告したと、弁護士から書面が来ました。

お父さんに電話すると、泣いておられました。家族と従業員のためには取るべき方法がこれしかなかったんだと。

もうしわけないとあやまられても借金自体が消えるわけではありません。

保証人になったんだから仕方がないと、あきらめるほかありませんでした。

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(87)マンションの売却を決意。

 Sのお父さんが破産宣告の申請をしたとなると、7000万円の返済はすべて私の肩にかかって来ました。

 マンションの住宅ローンについては、毎月の分はきちんと払えますが、ボーナス払いがネックになります。立川市で長く商売をやっているR社に電話をかけて自宅に来てもらい、売却を依頼しました。幸い支払いが滞っているところがなかったので、住宅金融公庫の抵当権を外せるとのことでした。

 一方、子供がまだ小学生と中学生で、学区が変わらないころに物件を探す様にかみさんに頼みました。

 さいわい1ヶ月もしないうちに、買い手がついたので、かみさんには自分のポケットマネーをだして、これでそこの物件を押さえる様に言いました。

 このころは、もうバブルがはじけて、マンション価格も値崩れを起こしていましたから、買った値段では売れず、差額の部分は借金として残ります。

 新しいアパートはマンションから歩いて5分くらいのところにあり、仲介手数料や敷金礼金などの諸経費はポケットマネーで支払いました。

 新しいアパートに荷物を運び入れたころに、マンションの代金決済がありました。住宅金融公庫は常に第一抵当権者ですから、売却代金は全部住宅金融公庫に渡り、そのうえに未払い分が何百万円かのこりました。

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(88)病気の再発

 SやSのお父さんの破産、それにともなう激務、母と、弟夫婦のよめさんの問題など、心労が重なったせいでしょうか?

 極端なうつ状態に陥りました。

 医者に言わせれば、仕事をしてはいけないとのこと。しかし現実に生徒さんがいますので、どうしましょうかと訊ねると、人の会社のことをとやかく言える立場ではないが、医者としては、今の状態だとパソコンの授業にも影響がでますよとのこと。

 その夜、かみさんと相談しました。こうゆう状態になったので、教室を閉鎖しようと思う。毎月毎月の家賃と共役費の10数万円は大きいからと。8回の

うちまだ残りの回数がある生徒さんには現金で返そうと思うと。

 テープリライターの仕事はできそう?と聞きますが、仕事をしてはいけないと言われていて、ともかくぐっすり寝て、頭の脳内物質を補充しないといけないそうだ。1〜2週間くらい様子を見るよと言いました。

 翌日、パソコン教室のあるKKビルの管理人室に行って、こういうわけで、賃貸契約を解除して欲しいと申し出ました。

 管理人さんが言うには、規約にもあるように半年前に言ってもらわないと敷金は返せないのだが、事情が事情だから、返金の手続きを取りましょうと言ってくれました。

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(89)パソコン教室の閉鎖

 部屋を返すことが決まったら、机、椅子、キャビネット類、パーティションなどをリサイクルショップに引き取ってもらいました。

 また、パソコン類はソフマップに買い取ってもらいました。

 電話はこのころは3回線もっていたので、連絡用に1本だけ残して電話買取業者に買い取ってもらいました。生徒さんへの返金が全部終わったら、残りの1本は自宅へ持っていく予定でした。

 このころはぐっすり寝るために、長時間寝られる睡眠薬を処方してもらっていましたので、朝は10時とか10時半に起床しました。それから、支度して会社に行くので、実質的には半日の仕事です。

 その頃は生徒さんが100人近くいましたから、1軒ずつ電話をかけて、返金のことを話しました。どうしても連絡が取れない生徒さんには手紙を郵送しました。近くの方は現金で取りにこられましたが、そうでないかたは送金を希望するかたが多かったですね。

 郵便局のほうが手数料が安くつくので、郵便貯金総合通帳を持っている人にはそれに振りこませてもらいました。

 生徒さんからお別れ会をやろうと提案していただいたのですが、心労が重なってうつ状態になっておりますと、事情を話して辞退しました。

#あの頃の生徒さんとはいまでも時折メールのやり取りを

 しています。

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(90)債権者との交渉

 これは、経験則ですが、債権者は2〜3回督促してもまだ払わないと、法的手続きを取るぞと脅かす手紙がきます。これは、電話をかけるとか、文書で連絡しない債務者の場合です。それでも返さないと今度は裁判所に仮処分の判決をもらって、換金できるものはしようとします。それさえできないとわかれば、大手の業者ならたいていは破産待ちということで、何も言ってこなくなります。消費者金融は借りていないので、良くわかりませんが、前書いたような腎臓売れ!死んで保険金で払えなど、脅迫まがいのことはしないでしょうけど、しつこいことは間違い無いでしょう。

 ちょっとずるい方法ですが、自宅の電話は利用休止にして、会社の電話を家に設置しました。生徒さんのLAN用に買ったものなので、どこにも話していないし、掲載もされていないのです。

 電話も処分して、公衆電話しか使えないことを強調したかったのです。

 こちらから電話をかけ、相手先から電話番号を聞かれても、電話は処分してありませんで通しました。

 そして、わざと帰りがけに「あ、そうだ、債権者表を今持っているんですよ。御社で必要ならコピーしますか?」と言います。するとコピーは必ず取ります。

その会社が全体の中でどのくらいの位置にいるのかを知ってもらうのと、上司に見せてもらうためです。

 

 私の場合、債権者から手紙が来ると、必ず電話連絡を入れていました。公衆電話か106で。現状はこうこうだと話すと、債権者の心証が良くなります。

私が毎回毎回でんわするので、向こうから「わざわざお電話頂いて恐縮です」なんて言われたところも多いです。

 逃げ回ったりするのが多いのでしょうね、彼等に言わせればわたしなんかはまともな債務者と言うことになりますね。

 つねに自己破産と言う爆弾を抱えてはいますが。

 で、今までに蓄えていた財産を、債権者の金額に応じて払いました。これは、電話ではなく、直接出向いていきました。本社が東京駅付近とか新宿なので、午後から出かけて行って、1日1社しか訪問するパワーがありませんでした。

 債権者は、じゃぁこれからどうやって払う?という話しに当然行きます。

これに対しては、

今、預貯金・保険・不動さんを全部処分し、こうやって頭を下げて払って回っている。パソコン教室も廃業したので収入の見通しがつかない、もう少し落ちつくまで待って欲しいと言いました。だいたいいつ頃かと聞かれますと、私の場合、躁うつ病の話しを持ち出しました。

 躁うつ病の患者ががむしゃらに働いてお金を返して良いものかどうか、会社が使っている病院に聞いて見て欲しいと。そうすると大抵、破産するのかと聞いて来ます。だから、さきほどもう少し落ちつくまで待って欲しいと言ったんだと話せば、債権者はそれ以上追及しませんでした。他の業者も同じです。

 躁うつ病と聞いただけで、貸し倒れにして追求を諦めるという、ある銀行のカードローン担当者もいたほどです。

 私の場合、借金は、住宅金融公庫、S銀行(実質は信用保証協会)、M銀行、Y銀行、それにSのお父さんが保証した分だけでした。いわゆるサラ金に手を出さなくて良かったと思います。

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(91)事業からの撤退と、うつ状態について

 最後の受講費を払い終えるまでに、1ヶ月くらいかかりました。かみさんも勤めを休めるときは休み、返金を手伝ってくれました。教室から比較的近い場所にお住まいの方は、直接出向いてパソコンの授業をしてもらうわけにはいかないかとの打診が、けっこうありました。しかし、病気のこともあり、丁重にお断りしました。

 債務返済の優先順位は、Sがからんでいないものを先にせざるをえませんでした。何かの拍子にSかSのお父さんが返済を再開するかもしれないからです。

 パソコン事業から完全に撤退した私は、テープリライターの仕事に専念することにしました。

 躁うつの躁は、頭脳明晰になり、眠くならず元気いっぱいにはりきるのですが、うつは全てをマイナス思考で考えてしまいます。躁は社交的で元気いっぱいなのですが、元気がありすぎて周りに迷惑を撒き散らすのです。うつは、その正反対、おれはなんてダメな人間なんだ、存在価値が無い、死ぬしかない、最終的にはそこにたどり着いてしまいます。

 医師の処方する薬を飲んで、1週間ほど家でごろごろしていました。

 子供たちは私に聞きづらいものですから、かみさんになんでお父さんが毎日家にいるのか聞きたがったようでした。

 かみさんはお父さんは仕事のし過ぎで疲れているのよといって、上手に説明してくれました。

 うつというのはとても苦しい病気です。判断力が無くなり、頭の回転が極度に低下します。この苦しさから逃れたい一心で自殺する方が年間に3万人は下らないといわれています。

私の場合、小心者なのか、そういった兆候が現れるとすぐに医者にかかっていました。その頃かかっていた、神経科のクリニックの先生が、若いのに良くできた先生で、一度奥さんを連れてらっしゃいと言いました。2人で行って私の診察が終わったあと、かみさんが呼ばれて診察室に入っていきました。

 なんの話しだった?と訊くと、うつ病の場合、家族の協力がとても大切で、頑張れとか言って励ましてはいけない、かえって本人の負担になる、心身ともにリラックスできるように気を配ること、と言われたそうです。

躁についてはあとで書きます。

 おかげさまで10日ほどすると、だんだん普通の状態に戻って来ました。夜寝られなかったり、寝られても真夜中の2時・3時に目が覚めるということもなくなりました。

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(92)債権者との交渉 その2

 病気による気分の落ちこみが徐々に取れて、かろうじて普通に話したり書いたりできるようになりました。

 何回か前に、直接債権者を訪問して、状況を説明したと書きました。

 そこで、今収入はこれくらいだから、月々の返済はこれだけしかできないという内容の手紙を、債権者全部に郵送しました。

 当然、どの債権者も自分のとこの債権を優先して返済させたいわけですから、これでは少ないと文書が来ます。

 文書が来たら、コレクトコールで相手方債権回収担当者と交渉しました。

私の答え方は決めていました。前回行ったときに債権者と債権金額の一覧表を渡したと思う。返せるお金は、借り入れ残高に応じて均等にお返しする以外にはありませんと。

それじゃぁダメだと言う債権者も中にはいました。その場合は、仮処分でも何でもやって下さい。心労でひどいうつ状態になり、こうして電話すること自体がものすごいプレッシャーになっている。今の状況では貴社にはこれだけしか返せないから、最初に言ったように法的措置をとってもらっても一向に構いませんよと。

 私は、サラリーマンではありませんし、ボーナスも会社からもらっていませんでした。で、覚えている方もおられると思いますが、実際に給与は20万円しか会社からもらっていませんでした。

 よく給与の差し押さえという言葉を使いますが、差し押さえるのは25万円を超えた部分だときいたことがあります。

 ですから、給与や賞与の差し押さえもされなかったのです。

 奥さんは働いているんだろうということもありました。しかし、かみさんは保証人ではないから、支払いの義務はない。これはあくまで私と私が作った会社の借金だ、何を根拠にかみさんの金を返済にあてろというのか?と逆襲すると黙ってしまいました。

 あなた、法律に詳しいねという回収担当者がいました。こうみえても法学部を出ている。それにこんな事態になって、債権債務関係の本は何冊も読んだからねと答えました。

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(93)家族で広島へ その1

 ある日弟から電話がありました。実は弟のかみさんYがC型肝炎だったというのです。今まで自分がインターフェロン投与など、高い治療費をまかなっていたのだが、蓄えもそろそろなくなりかけている。仕事を増やさなくてはやっていけない。そうすると日常の母の介護にあててきた時間も仕事に費やさないといけないので、このままでは母の介護がおろそかになると言います。

 おまえのかみさんの実家に泣きつけばいいじゃないかと言ったら、Yは実家と金銭トラブルを起こしていて、援助は受けられないと言います。ついこないだもYは今までどおりの生活を維持するために、Yのお母さん名義とY自身のカードで借金を抱えていて、その分の埋め合わせをYの弟がする代わりに、Yは実家に出入り禁止になってしまったと。

 はでな生活をしていればお金の出所には関心が行くはずだ。お前は何も感じなかったのかと弟に訊きました。YはYのお母さんに無心してお金を出してもらっていたと信じていたと。

 1回だけで出入り禁止ってのは、ちょっと厳しすぎないか?と弟に尋ねました。そうすると、実は今回だけじゃないと弟が言います。

 Yがバツイチなのは知ってると思うが、Yが作った借金がもとで離婚になり、借金の埋め合わせに、実家の土地を半分売却することを余儀なくされ、お父さんも心労が重なって亡くなり、Yの弟も自分の資産を一部取り崩したといいます。

 それで、結局何が言いたいんだ?と訊きました。

 母の面倒を見てもらえないかと言います。

 母は東京には来てくれないだろう?そうすると、こちらが家族全員広島に帰ることになるが、おれのかみさんとの同居はだいじょうぶなのか?と訊きました。母の口ぶりでは、2人とも嫌だが、弟の嫁さんYよりずっとましだそうだ。思わず苦笑しました。

 私は、事情はよくわかった。母とも一度じっくり話してみたいし、家族にも話さなきゃいけないから、少し時間をくれと言って、電話を切りました。

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(94)家族で広島へ その2

 広島へ電話をかけて母と話しました。母は、人の悪口をだらだらと言うような女性ではありません。自分はどうしたいのかと訊きました。

 自分は誰の世話にもなりたくないと言います。できれば介護老人ホームのようなところで、嫁の世話にならずに暮らしたいのだと。

 でも、民間の介護施設は何千万もするし、公の介護老人ホームは2〜3年またされると聞いている。だから、嫁の世話になりたくないと言うのは、気持ちはわかるが実際問題として、難しい、母がパーキンソンじゃなくて、日常生活に不便を感じないなら話しは別だが、今まで弟と嫁さんの介護を受けてきたんだろう?と言うと、嫁には介護してもらったことは一度もないと言います。

 最初は介護をしましょうかと何度も言われたが、自分が断りつづけるので、結果的には、入浴・洗髪などの介護は一度もなかったそうです。

 気持ちはわかるが、誰でも年を取ったら子供の世話になるんだから、順送りだ、今はあれはいやだこれはいやだとわがまま言えるときじゃない。弟の嫁さんが肝炎になって大変な額の医療費がかかる。介護は弟にしてもらいたい、仕事もたくさんして嫁の医療費も稼げというのは、言っちゃ悪いが虫が良すぎるとたしなめました。

 今の状況を良く考えて、俺のかみさんの世話を受けるつもりがあるのなら、母からかみさんへ電話をかけて、介護でめいわくをかけるが、広島へ帰って来て同居してもらえないかとお願いするしか方法はないよと言いました。

 かみさんにしたって、頼まれてもいないのにはいそうですかというわけにいはいかないと思うし、俺にしたって、借金抱えて四苦八苦してる、俺だけが単身で広島に帰るわけには行かない。

 意地を張らないで、あとのこともよく考えて、かみさんに電話して欲しいと言って電話を切りました。

 数日後、夜帰宅したら、かみさんが、あなたのお母さんから、広島へ戻ってきて一緒に住んでもらえないかという電話があったと報告を受けました。

 かみさんには自分から母にはこう言ったと、あらかじめ話してありましから、姑のほうが先に折れてきて、お願いされたのですから一応嫁としての面子は保てたんじゃないかなと思います。ここらあたりは、自分は嫁にも姑にもなったことがないので、よくわかりません。

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(95)家族で広島へ その3

 母と同居することについて、かみさんはこう言いました。長男に嫁いだのだから、いつかはこんな日が来ることは漠然と思っていたと。

 住宅は、市営住宅が良いだろうということになりました。新しい市営住宅は人気も高く、年に3〜4回くらいしか募集しません。

 常時募集といって、希望すればすぐに入れるところがあることがわかりました。

筑後20年以上は経っていて、風呂、ガスコンロ、湯沸かし機、そのうえ網戸もついていません。その代わり家賃が安いわけです。

 私が先に住民票を広島に移し、手続き的なものは弟に手伝ってもらいました。

で、引っ越すタイミングは子供が2学期から新しい学校にいけるようにしようということになりました。

 子供たちは、東京の友人と別れることになるので、最初は嫌だ嫌だの連続でしたが、私の広島の家族の状況がどうなっているかを、丁寧に説明するとわかってくれたみたいです。

 広島でもっとも親しくし、信頼していたSとこんなことになって、不本意ではありますが、広島に帰る事にしたのです。

 前回広島に帰ったときに、実はSのお父さんの店の周りを見てみたのですが、ウィークデイなのに店のシャッターが下りたままでした。

 Sのお父さんはに文句のひとつも言いたいのはやまやまですが、お父さん自身も返済に追われ、遂に自己破産ということになってしまいました。やはり毎月400万円以上の支払いはきついでしょう。

このころにはSおお父さんに対しては、怒りと言うより憐れみにに近い感情を抱くようになていました。

 引っ越し費用や、4人分の新幹線代、風呂・ガスコンロや湯沸かし機、その他子供の制服などの代金、それと当座の資金を3〜4ヶ月分残して、生命保険や損害保険(貯蓄型)や、車などは、解約するか売却しました。車については会社でリースを受けている関係上、売却した残りは法人に対するリースの残金に組み入れられます。蛇足ですが、入居時に風呂もガスコンロもないところは生まれて初めてだったので、正直言って、ちょっとカルチャーショックを受けました。

 こうして、1学期が終わってしばらくしたら、広島へ帰りました。

20年前の建物にしては、3DKで、母の部屋が一つ、夫婦の部屋が一つ、そして子供たちの部屋が1つずつとれるので、まぁまぁです。

かみさんはベランダが広いのが気にいったと話していました。

そして、観葉植物植物をすこしずつ増やしたいね、などと話しあいました。

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(96)Sのお父さん来宅、その他。

 親の介護の関係で広島に帰ってきたとSのお父さんに電話しました。すると、ぜひ伺ってお詫びがしたいと言われますので、引っ越したばかりで取り散らかしていますが、よければどうぞと返答しました。

 次の日Sのお父さんが見えました。

 この度はたいへん迷惑をかけて申し訳ないと詫びられました。

 私は、こう言いました。法律的には、返済の義務はないかもしれないが、私は金貸しでもリース屋さんでも銀行でもない。一介の個人だ、あとはあなたとわたしの信頼関係だけだと言いました。

 自分は和菓子以外の世界は知らないので、もう一度一からやり直してみようと思っている。返せる分は返したいから、口座番号を教えてくれと言います。

私もそうしてもらえれば助かると言って、銀行口座を書いた紙を渡しました。

 Sのお父さんの名誉にかけてお話ししておきますが、のちのちのことですが、Sのお父さんは7000万円のうち、私が負担した分は返してくれています。これはほんとうに助かりました。

かみさんはかみさんで仕事を探さねばなりませんし、教育委員会へ行って転校の手続きもしなくてはなりません。彼女も大忙しでした。

子供の学校については、長女は広島市立の高校へ、次女は最寄りの小学校に転校することになりました。

 仕事のほうですが、東京に比べて広島は大企業が少ない分、就職に関しては不利でしたが、どうやって調べたのか、今まで通りデータ入力の会社に就職できました。あとから、聞いた話しでは、なんとかキャリアスタッフとかの人材派遣会社から誘いがあったんだそうです。かみさんの圧倒的な入力の速さに、担当者が驚き、最優先で斡旋してくれたそうです。ピアノで言えば、バイエルしか弾けない人と、ショパンの難しい曲が弾けるくらいの違いと言えばわかっていただけるでしょうか?時給も普通1300円位のところを2200円もらえることになったそうです。すごいねと誉めると、えへへと喜んでいました。

 さて、私の借金のほうですが、債権者は出した郵便物が返戻されると、住民票をあたるみたいですね。新しいアパートに、債権者から郵便物が届くようになりました。

 郵便物が届くたびにコレクトコールで状況を説明していました。

 ただ、転居にともなって、躁うつ病の薬を服用していなかったし、新しい病院を探す余裕がなかったこともあって、朝は2時とか3時に目が覚め、起きている間は何かをしていなければ落ちつかず、電話で債権者と話すときにも、きつい口調で話すようになりました。

 これは、かみさんに感謝しているのですが、立川に住んでいたときに受けた医師のアドバイスを覚えていて、やさしい口調で近くの精神科に行ってみたらとアドバイスしてくれたことです。

 わかったと言って、近くの精神科を訪れて診察を受けました。かみさんんも同伴でした。医師は、とりあえず、1週間分の薬を処方してくれました。

 薬を飲むとすぐに眠くなり、食べたり飲んだりする以外は眠ってばかりという状態でした。その間に脳も休息が取れたのでしょう、躁はかなりおさまっていました。

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(97)弟

 引っ越しがだいぶ落ちついたので、弟宅へ行きました。弟の嫁さんYは実家に帰っていていないとのこと。結婚するにあたり、私が大反対しましたから、

いずらかったのでしょう。(実家へは出入り禁止になっているはずなのにおかしいなっと思いましたが、それには触れませんでした、それともYの弟さんがいないのを見計らって帰ったかどっちかです)

 嫁さんの具合はどうだと訊きますと、インターフェロンを使って治療中とのこと。日本の場合半年間インターフェロンを投与するらしいのですが、これがものすごく高い。何百万とかかるのです。前にも書いたように一定額以上の医療費の出費は翌年申告すれば、一定額を超えた金額は還付されて戻って来ます。東京と広島だったかなぁ、C型肝炎の患者に対しては手厚い保護があるのです。

 それでも、初年度は自己負担になります。

 弟が言うには、仕事を倍に増やさなければやっていけない、からだが持つかなぁと不安げでした。しかし、もう仕事は今まで以上に増やしたんだろう?と訊きますと、増やしたと言います。体の調子もいまのところは大丈夫とのこと。安心しました。速記なら俺も手伝うからなと言いますと、手が回らなくなったら頼むよと喜んでくれました。

 母はどうした?と訊きますと、弟はこう言いました。兄貴に心配かけたくなかったから黙っていたんだが、テーブルに手をつこうとして、それができず、肩から落ちて、鎖骨を折って入院中だといいます。パーキンソン病の新薬の投

与を受けたのですが、薬との相性が良くなく、めまいがして歩くとふらふらするようになり、結果こうなってしまったそうです。今は以前の薬にもどしてもらったそうです。

インターフェロンは、俺がこんな状態にならなきゃ援助してやれるのだが、すまんと言うと、俺より兄貴のほうが大変だから、そっちに打ちこんで欲しいと言ってくれました。

 じゃぁ、さっそく見舞いに行かなきゃ、母の件は引き受けるから安心して仕事に打ち込めと言って、弟宅を後にしました。

 母の入院先は広島市の中心部にある大きな外科病院でした。

母に面会して、住宅も借りたし、子供の学校のこともちゃんとした。嫁さんは働きに出ている。自分も弟のように速記の仕事をするつもりだから、家にいる時間のほうが長いと思うから、介護のことは主に自分がやるから心配しなくて良いと言いました。ただし、弟の嫁さんにしたような、介護を拒む姿勢だけはあらためて欲しいと言いました。わかったと、母はうなずきました。退院するまでにどのくらいかかるのかと訊ねると、1ヶ月くらいだと言います。わたしは、わかった、退院できる日が決まったら早めに電話をくれと言って、病室を出ました。

 その後、院長先生と面会して話しをきいたのですが、実を言うと、入院させる必要はほんとはなくて、痛いことは痛いが、湿布をして安静にしていればどうということはないとのこと。弟さんの嫁さんとうまくいかないらしく、あなたが広島に帰って来て落ちつくまで、どうしてもここにいて、治療とリハビリをさせてくれと、あなたのお母さんが言うものだから、ベッドに空きがあったし、1ヶ月程度ということで、お預かりしているとのこと。

 院長先生には、あと1週間くらいで落ちつきますから、それまで待ってくださいとお願いしました。

 そのあと縮景園や広島城、護国神社、広島公園などなつかしい場所を歩いて見て周り、広島では有名な「みっちゃん」というお好み焼き屋で遅い昼食をとりました。学生時代は1軒だけだったのに、支店が何軒もできていたのには驚きました。

 広島に行かれたら、一度寄って見て下さい。広島の人間ならたいていの人は知ってていますから。

 ほんとうに久しぶりにくつろいだ時間を過ごせました。

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(98)母のこと

 母は、約1週間後の土曜日に退院しました。車があれば良かったのですが、タクシーで母の身の回りにの荷物を積んで自宅までたどり着きました。母の部屋は今まで通りダイニング・キッチンの隣にしたんだけど、まずかったかなというと、手洗いが近いほうが良いので、廊下をはさんで向かいの六畳間が良いといいます。

 わかったと言って、部屋にあるものを移動させました。母の荷物はまだ、前の市営住宅に、かなり残っているので、処分できるものは処分して欲しいと言いました。

玄関に一番近い部屋が子供たちの部屋になり、その隣は母の部屋になります。

そうすると、私たち夫婦の部屋はダイニングキッチンの隣と言うことになり、私が夜仕事するときはキーボードの音が気になったり、ヘッドフォンから流れてくる入力のもとになるテープの音声も、夜は静かなぶん良く響きます。

 かみさんは、忙しいときは、子供たちの部屋に寝るからいいわ、と言ってくれました。その代わり私が忙しいときには協力してねということでした。

 私は、母に役割を持ってもらえれば、充実した日々が過ごせるのではではないと思い、朝食は母につくってもらえないだろうかと提案しました。材料があらかじめ用意されているのならできると言いました。

 食べ物の嗜好はどうだと聞きますので、うちのは最近肉から魚に好みが移っていると。

 うちのかみさんは、子供が要求するから、肉料理は仕方なく作っていて、そんなときは和食と洋食がまじるけどいいかと問うと、わかったと言いました。

 Yは年よりの嗜好の変化には無頓着なのと、年寄りの好きな、魚や、野菜系は作ってくれなかったらしい。

こんどは朝、あらかじめ夜の分まで付くっておけばいいよ。

前の日にメモをもらえれば夕方には材料の準備できるとようにするとも言いました。

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(99)財産ゼロに

 母が退院して新しい我が家にやってきました。5人の所帯になりました。子供たちは帰広するたびに小遣いをくれたり、お菓子をもらったりしたのでしょう、歓迎しました。かみさんには複雑な思いはあったとは思いますが、ま、歓迎です。

 母には朝食を任せましたが、夜のうちにこさえておいても良いし、体調の良いときだけで良いからといいました。あと、手が震えるときは無理しないでかみさんにバットタッチすれば良いとも。

 母と同年代の親を持つ友人がいて、彼のお母さんは、今でも高校生の娘さんの弁当を作ったり、奥さんが看護婦だから、夜勤のときはごはんも作ってるって聞いたよ、というと、母は偉いねぇと言いました。

 母の朝食は簡単なものです、一汁一菜に、あとなにか一品がつくくらいでシンプルそのもの。例えば、ご飯と味噌汁、ほうれん草のおひたし、大根おろしと言ったメニューです。和食は子供たちにも好評でした。我が家の子供たちは、気持ち平均体重より重いので、和食はダイエットに良いんだよねと言いながらよろこんで食べていました。

 1ヶ月くらいすると、生活のリズムがついてきますから、かみさんは朝お姉ちゃんの弁当をこさえるだけで、あとは、母任せ。体調が良い時には掃除をするなど、かみさんは助かると言っていました。

 介護ですが、海水浴場やホテルに行くと日焼け用に寝そべる用具がありますね、名前が出てこないのですが、それを買ってきて、寝てもらい、首から下には理髪店にあるようなビニールの水除けをして、洗髪と体を洗ってもらっていたようです。最低でも週2回は髪を洗わないと、気持ちが悪いですから、これにはかみさんに感謝していました。

 かみさんも、母に自分が至らないから言ってもらわないとわからない事が多いので、言って下さいね、私は言ってもらったほうが嬉しいと母には説明していました。母は、ありがとね、うんありがとねと言ってうなずいたそうです。

 2週間に1度市民病院に診察を受けに行っているのですが、母を連れていったとき、先生が調子が良さそうだねといわれたので、長男と暮らすようになって、朝ご飯を私が作っているから生活に張り合いがあると話してくれました。先生は、そりゃ良かったね、無理しないでできることだけやって下さいと言われました。

 これで、一段落したわけですが、そろそろ蓄えが底をつくようになて来ました。

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(100)貯金がゼロに,

 貯金がゼロと言っても、お金の管理はかみさんに任せていましたから、家族で新幹線に乗るとか、家族旅行に出かけるとか、高価なものを買うとか、そういったお金がなくなったという意味です。上の娘の学費に関しては、使ってしまうとけないので2年分先払いしたのでした。

 下の娘が高校を卒業するまでには、6年の猶予があります。なんだか執行猶予みたいですね。書いていて自分で可笑しくなりました(^^

 下の娘が高校を卒業するまでは、運転免許を取ったり、大学へいくなら、その費用も貯めなくてはなりません。

 前回に書いた精神科の先生のことを覚えている方も多いと思います。

 この先生のおかげで自分が躁うつ病だとはっきり自覚しました。うつなら、投薬で病気と上手につきあえば良いのですが、躁うつ病というのは、落ちこんでいた自分におもちゃのネジのようにネジが巻かれ、つかれも覚えず、気分がさわやかで、仕事でも良いアイデアが次からへと浮かんできます。

 一方で自分の頭が凄いスピードで回っているのに、苛立ち感を覚え、強い口調でものを言うようになります。躁の昂進と言うらしいですが、組織の中で仕事をしていくには不向きな状態ではあります。

 ですから、精神科の先生も、私に負荷がかからない程度にしないとだめだといいます。先生は、あなたも経験ずみだからわかると思うが、躁が昂進すると、糸のきれた凧状態になって、あっちこっちでトラブルを起こすようになるらしいです。ある意味ではうつ病より性質の悪い病気と言えます。

 その先生によれば、精神保健法(だったと思います)によって、この病気に関しての治療費は無料になるとのこと。

 先生がさらに言うには、あなたは重い病状を抱えてよくここまで持ったものだと。じゃぁ、ほんとは仕事をしてはいけない時期なのですか、私は?と訊ねますと、先生はそうだと返事されました。

 いろんな患者を看ている先生がそこまで言うのだから、経済的には苦しいが、じっとしているしかないなと思いました。

返せるものは返し、広島に帰る費用だけ手持ちの資金として持参していましたから、使えばなくなるのは当たり前です。

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(101)先生、躁うつ病って治るんですか?

 速記の仕事を弟から回してもらって、すこしずつ仕事を始めるようになりました。急がない仕事で、正規の報酬は一応弟が一括してもらい、一部を私の口座に振りこんでもらうという形をとりました。簡単なものを一本仕上げるのに、ふだんの3倍くらい時間がかかりました。

 こんな状況が1〜2ヶ月続きました。

 弟が速記事務所の代表者に私の現状を話したようです。仕事を頼んでストレスがたまって私にとって良い方向へ行かないおそれがあるのなら、登録だけしておいて、普通の状態になったら仕事をまた頼みたいと思うと。

 弟によれば、ここの事務所は高齢で後継ぎがいないから、所長が健康を害したら、てんてこまいの状態になることは目に見えているから、仕事には不自由しないから大丈夫だといいます。

 夏休みが終わろうとする8月の下旬頃から、なんだか気分が落ちこむようになってきました。債権者との話し合いも継続してやっているし、こどもたちも元気で学校に通い始めた。かみさんの仕事も決まりました。母も引きとって、かみさんの介護を受けてもらえるようになった。

自分のイメージしたことが大体実現したので、安心したんだろうと思います。

躁から一転してうつ状態になったようです。

 病院に行って診察を受けると、うつに転換したようだと言います。今、働いたりして、ストレスをかけると、良いことは一つもないですよと、医師。

 借金の話しをしましたら、こういう状況だから今は返せないと言えば良いんじゃないですか?そのための診断書なら何枚でも書きますよとのこと。

 先生、躁うつ病は、うつ病の様に快復しないものなのですか?と思いきって聞いてみました。すると、糖尿病に例えて説明をして下さいました。

 糖尿病が絶対に治らないとは言いきれないのと同じですよ。いったん糖尿病にかかると、この病気と、だましだまし対応していくしかないんですよ。同じように躁うつ病も、絶対治らないとは言えないし、軽い躁うつなら、本人も気がつかないで生活している人もたくさんいる。ただし、躁うつ病を自覚していない人の場合、躁とかうつに大きく振れたときに、歯止めがきかなくて、新聞に掲載されるようなことも起きやすいとのことでした。

 わかりました、1〜2週間考えてみますといって、診察室を出ました。処方された薬は抗うつ剤に変わっていました。

 かみさんに今日の病院のことを話すと、そうね、あなたは今つかれてるのよ。先生が言うように静養に専念したほうが良いわと、あっさりしたものです。

 多額の債務を抱えていて、そんなにさらりと言われるとは思わなかったよと言いますと、だって、仕事ができないんだからしょうがないじゃない、債権者にはその旨言えば良いのよと、涼しげな顔をしています。

 あのときの言葉は、私のプレッシャーを和らげようと、言ってくれたものだと感謝しています。

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(102)破産手続き

10日ほどして、病院に行き、破産宣告をしたいので、診断書を書いて欲しいと頼みました。

 先生の言葉がまともに理解できないくらい頭の回転がスローになっていましたし、何もする気が起こらないのですが、お金の問題だけは決着をつけておかないと万が一のとき、かみさんや子供たちにとばっちりが行きます。

 極端ですが、私が自殺したら、借金も相続されてしまいます。

 こん身の力を振り絞って病院に行ったのです。抗うつ剤は、まだちゃんと効いていないようで、気分は落ちこむ一方だったのです。こん身の力といったのは、自分はこの世では不要な人間だから、死んでしまったほうが良いという、希死念慮(きしねんりょ)が自分を襲ってきて、片一方ではそんなことをしてはダメだという自分との闘いが頭の中で起こっていて、生きていること自体がとても辛いのです。

 診断書を書きながら先生は、食欲はあるか?朝は何時ごろ目が覚めるか?睡眠薬は効くか?など問診をされて、「抗不安薬と睡眠薬を少し増やしましょう。今回のようなストレスを伴なうことは、なるべく避けて、食事や生理現象以外は寝て、脳を休めなければいけません」とのことでした。

 先生の言うとおり、寝て起きて何か食べ、薬を飲んでしばらくすると猛烈な眠気が襲って来ます。これを4・5日繰り返すと、以前ほどの気分の落ちこみはなくなりました。

 そして、広島地裁に近いビルにある、ST弁護士を尋ねました。この先生は、法律扶助会の紹介を受けて訪問しました。

 法律扶助協会とは、生活保護者など、自分で弁護士費用を出せない人に代わって、費用を一時的に立て替えてくれるところです。

 費用はあったのですが、法律扶助協会に登録している女性弁護士に頼もうと最初から決めていました。いきあたりばったりで弁護士を選定すると、忙しい忙しいを理由にちっとも手続きが進まないということを知り合いから聞いて知っていました。(弁護士にしてみれば、あまり儲けのない美味しくない仕事)

 先生と面談して、精神科医の診断書を渡し、聞かれることに対して淡々と答えて行きました。

 わかりました、お引き受けしましょうと言ってもらえました。大学へ入って、銀行につとめ、銀行を止めてからも順調に行っていたのにほんとに残念ねと先生は気の毒がっておられました。

 そして次に来るときまでに。

1.破産申立書のかけることろを書いてもってくる

2.住民票・戸籍謄本と、債権者から来ている書類

3.債権者一覧表

4.市営住宅の入居証明書

5.課税台帳記載事項証明書

6.無資産証明書

7.電話加入権証明書

8.預貯金通帳(コピーは先方でとる)

などなど、必要なものをリストにして渡してくれました。

 で、事務員さんからは、あなたが、早く必要なものを用意できたら、それだけ早く手続きが終わりますとのこと。通常で半年、それより早く終わることもあるそうです。

総額で約7000万円なんて、どう考えたって払えっこありません。

払いますが、月々5万円というわけにはいかないでしょう?そう思いませんか?

元本を払うだけで116年かります。

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(103)広島地裁

 弁護士のST先生のところへ、前回書いたものや必要書類を持参しました。

預金通帳のコピーは事務所の女性にお願いしてとってもらいました。

先生のアドバイスに従って、破産に至った経緯について、これは付け加えたほうが良いとか、削除したほうが良いとアドバイスを受け、書きなおしました。

 次に破産申立書のことで、つじつまが合わないところの指摘を受け、訂正しました。

 事務所の女性によれば、各債権者ごとの残高は、前回リストをもらったので、取り寄せてあると。

 再度見直してみて、不備がないようなら、広島地裁に持ちこむとのことでした。

 ST先生は、元気がないけど「うつ」のせいなの?と訊かれますので、顔を引きつらせながらそうですと答えました。「うつ」になると表情がなくなって顔が能面のようになるって聞いていたけどほんとうなのね、お医者さんにはちゃんとかかってるんでしょう?早く良くなるといいわねと、やさしい言葉をかけてくれました。回転の鈍い頭で、先生は立派な先生だなと思いました。

 事務所の女性によると、この書類一式を裁判所を持ちみますが、順番があるので、私の場合は呼び出しがあるのは12月上旬くらいになると思いますとのこと。

最初に法律扶助会に行って、ST弁護士に面会したのが、11月の始めでしたから、「超」がつくくらい早い手続きだったと思います。

 11月末にST弁護士事務所から電話があり、裁判所へ行く日が決まったとのこと。12月10日の朝10時半頃に事務所に来て欲しいとのこと。

 指定された期日に弁護士事務所に行くと、先生が待っておられて、注意事項を簡単に説明してもらったあと、先生と一緒に裁判所に行きました。

 廊下のソファに座って待っていると、呼び出しがあり、先生も付き添いで部屋に入りました。私の場合聞かれたのは、主に通帳に入金があった分の使途でした。

 故意に隠しているのではないかということを確認するためだと思いました。

 わたしは、今うつ状態で思考がスローになっているので、その点ご容赦くださいとことわってから、記憶の糸をたどりながら、ゆっくりこれは○○です、それは△△に使いましたと、きちんと説明のつく返答ができました。

 裁判官が「以上で申尋(しんじん)をおわります。お帰りになってけっこうです」と言われました。先生もすんなり行ってよかったねと喜んでおられました。

 財産を隠す人が多いので、あんなこときくのよ。通帳のコピーをくまなく調べているし、もし、隠し財産が発覚すると破産手続きが取り消されるからね。結構厳しいのよ、と。

 破産の申し立てが成立したら連絡をいれますから、ここでわかれましょうと先生。先生に丁重に挨拶して裁判所でわかれました。

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(104)破産申立の判決

数日するとST弁護士事務所から、手紙が来ていました。開封すると破産申立の判決でした。内容がどんなものであるか、皆さんの後学のために書いておきますね。

-----------------------ここから-----------------------

 

平成13年(フ)第○○○○号破産申立事件

 

決    定

 

広島市○○○○

債務者 まっちゃん

 

主    文

 

債務者まっちゃんを破産者とする

本件破産を廃止する。

 

理    由

 

一件記録によれば、債務者が支払不能の状態にあり、かつ、破産財団をもってその支払いが不可能であることが認められる。

よって、破産法126条1項、145条1項を適用して主文のとおり決定する。

 

平成13年12月10日午後5時宣告

広島地方裁判所民事第四部

裁判官 △△□□

 

 

これは正本である。

平成13年12月10日

広島地方裁判所民事第四部

裁判所書記官  ○△ □○    印

 

----------------------ここまで--------------------------

実はこれが終わりではありません。

これは私が破産した状態で支払不能であることを宣言しただけで、借金が棒引きになるわけではないのです。

このあと裁判所側で、うそをついていないか調査したり、私の破産に異議の申したてがあればそれに対応したりして、最終的に、破産者まっちゃんの債務が免責をうけられるわけです。

10日くらいたってST弁護士事務所から電話があって、判決の写しが届いたかどうか、あれから債務者から電話や文書で督促が来るかどうか聞かれましたので、全くありませんと答えました。

 2月22日昼の12時40分くらいに事務所に来て欲しいとのこと。

 この日に免責が受けられるかどうかが、決定されるとのこと。

 指定された日時にST事務所を訪問して、弁護士の先生と一緒に広島地裁へ行きました。事務的なことに関して若干質問を受けて、私の場合はおわりでした。

なかには、財産を隠していたり、破産宣告をしているのにもかかわらず借金を重ねたりする人がいますので、そういう人は、きちんと説明がつくようにしないと、破産状態にあるだけで、支払いの義務は残ったままになります。

 先生が、何もなくてよかったね、判決が出たらあなたの家に写しを郵送しますからねといって、広島地裁でわかれました。

2月22日は西暦に直すと、2002 0222で、2ばかりですから一生忘れることはないでしょう。

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(105)破産確定

 数日して、弁護士事務所から郵便物が届きました。中身は判決文です。

 上記と形式はまったく同じで、主文が、

破産者まっちゃんを免責する。

理由が、

破産者には破産法366条の9所定の免責不許可事由に該当する事実は認められない

に変わります。それと日付けですね。

 さっそく弁護士事務所に電話を入れてお礼を言いました。

ST先生は、あなたは私の年に比べればまだまだわかいし、お子さんもおられるんでしょう?病院の先生と相談しながら、少しずつでも収入が増えると良いわね。

 第二の人生をどうするかは、ゆっくり静養して、奥さんと相談しながら決めるといいわよとアドバイスを下さいました。

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(106)和菓子屋

 前回で大借金奮闘記は、寄り道しながらも、一応ゴールまで達したわけですが、払いきれなかった金額は全部で約3300万円ありました。そのうち和菓子屋さんの息子Sの保証により支払いを余儀なくされた金額が2000万円くらいありました。

 Sのお父さんが破産宣告をしたとだいぶ前に書きましたが、商売を続けるために店舗兼住宅は売却したものの、そのまま売却先から賃貸で商売を続けていたことや、隠し財産が発覚(不動産)して、破産の免責が受けられなかったようです。そうすると、商売が継続できるのならたとえわずかでも各債権者に毎月支払いなさいということになります。

 これには、さすがの私も怒りました。こちらは持てる財産を全部換金して、資産ゼロなのに、隠し財産を保有し、仲間と結託して今まで通り商売を継続している。そんな馬鹿なことは許せないと私は強く抗議しました。

 Sのお父さんは、大変申し訳ない、あなたが100%財産を放出し、私が姑息なことをやったのは確かだと平謝りでした。しかし、破産しただけで、免責は受けていないから、引き続き借金は払っていかなければならない。

 そこで、あなたには、7年返済で28万円ずつ支払わせてもらいたいと思っているが、どうかと言って来ました。

全額払ってもらいたいのはやまやまですが、しかたなくそれで結構ですと言いました。ただし、2000万については、新規に貸し付けたことにして、保証人を一人立ててもらいたい、それでなければ承知できないと言いました。

 わかりましたと言って、保証人の印鑑証明付きの金銭消費貸借契約書を差し入れてもらいました。

今のところきちんと月末までには指定の口座に振りこんでくれています。

 このお金については、無いものと思って、子供の学資や、結婚するときの費用にしようと、かみさんと話し合いました。通帳はかみさんにあずけ、記帳してみて振りこみが無かったら言って欲しいということにしました。

ただ一つの贅沢は、私の仕事や、かみさんの買い物などに必要と、中古の軽自動車を1台買いました。それ以外は積み立ててあります。

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(107)母のパーキンソン病について その1

 パーキンソン病のことをご存知ないかたのために、若干解説をしておきます。 パーキンソン病とは、脳が出す運動の命令が阻害され、筋肉が硬直したり、手足が震えたりして、その結果歩行などの運動に支障をきたす病気で、わが国では難病に指定されており、所定の手続きをすれば治療費が無料になります。

パーキンソン病になる原因は、実はまだよくわかっていません。脳の出す神経伝達物質が不足することがどうも原因らしいというところが最新の情報と聞いたことがありますが、定かではありません。

 パーキンソンという医師がこの病気のことを学会で発表したため、医師の名前が病名となりました。不遜かもしれませんが、故昭和天皇が、最晩年、歩行のし方がヨチヨチ歩きだったのを覚えている方も多いかと思います。

公式には発表されていませんが、あれはパーキンソンの典型的な歩き方です。

 それと、インターネットのサイトを検索すると以下のページがヒットしましたので、ご紹介しておきます。

 参考にしたサイトは

http://www.parkinson.gr.jp/

です。編集・追加・削除は行っておらず、全文を掲載させていただきました。

--------------------ここから------------------------------------

パーキンソン病は、脳が出す運動の指令がうまく伝わらず、スムーズに動けなくなる病気です。何か難しそうな病名ですが、これは、1918年、ジェームズ・パーキンソン医師が初めて報告したため、それにちなんでつけられた名前です。

我が国の患者数は人口10万人につき80100人くらいで、決して珍しい病気ではありません。発病するのは5060歳代が多いのですが、20歳代〜80歳近くまで幅広い年齢で発症します。男女差はありません。この病気については「発症10年後くらいには人形のように動けなくなる」といったイメージを持っている方もいますが、現在では様々な薬があり、症状もかなり改善が期待できます。また厚生省の「特定疾患」に指定されており、ヤールの重症度分類III(3)度以上になると治療費の補助も受けられます。無用な不安を抱かず、積極的な生活を送りましょう。

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 治療費が無料になるのは良いのですが、そのかわり、新薬が開発されたときモルモットがわりにその薬を投与されて、副作用や薬の効き目を見るということが行われるようです。でもこれはある程度はしかたがないですね。

 現に私の母も、薬を変えたために、ふらついた歩き方になって、テーブルに手をつくつもりが、ものが二重に見えるため、手をつけないでそのまま床に肩から落ちて、鎖骨を骨折、入院したことがあります。このことは一度書いていますので、覚えておられる方もあるかと思います。

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(108)母のパーキンソン病について その2

 話しを少し戻しますが、広島に越してきて賃貸の狭い団地で母と同居するようになったことは、前に書きました。

弟と同居していたときに使っていた、無段階リクライニングシートつき回転座椅子は持って来ました。別の部屋で何かしていて、気がつかないとまずいと思い、コードを各部屋に伸ばして、母がコードの先についているスイッチを押すと小さくチャイムがなるようにしました。

高齢者は目が早く覚めますから、チャイムがなると私かかみさんが母の部屋に行って、用をたす手助けをするといった具合に利用しました。

 うつのほうは、年があけてからは快方に向かっていましたから。弟経由で仕事をもらっていました。指定されて、録音機器を携えて現場に行く以外は、自分の家と速記事務所の往復ですから、ストレスはあまりありませんし、自宅にいる時間が長かったのです。

 一方でかみさんは9時〜5時までの仕事をしています。ですから、昼間私がいるときは気がねなくものを頼めるので、母に取っても良かったのではないかと思っています。

 母が朝食を作るのはその後も続いていました。後かたずけや皿洗いなどは私がやっていました。昼食は母が食べたいものを聞いて、私がスーパーに行って買い物をして、作っていました。体調が良いときは母が作ってくれることも多かったです。母の好みは野菜の煮ものや魚類でした。最初はうまく作れませんでしたが、母が口頭で教えてくれましたので、だんだんと、レパートリーも増えて行きました。

 魚を3枚におろせるようになったのもこの頃です(^^

 高齢者がよく使っている手押し車も買って、天気の良い日には一緒に散歩に出ました。最初は家の回りを、ぐるっと一周するだけでしたが、少しずつ散歩の距離も伸びました。大人の足で10分くらいかかるところへ出かけても平気なくらい、足腰の筋力が回復しましたので、一緒にスーパーに行き、母が望むものを買えるようになりました。

 夕食はかみさんが作りました。なぜなら、高齢者が好むあっさりメニューでは体力が維持できないですし、子どもが望むメニューが必要でした。かみさんは子ども用の料理と母用の料理の2種類を作っていました。

 ときどき仕事を家に持ち帰ることがありましたので、そんなときは私が皿洗いをやっていました。

 そうです。けっこう主夫していたんですよ、あたしゃ(^^

 破産が成立してしばらくたった頃でしょうか、母からこんな話しがありました。

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(109)母のパーキンソン病について その3

 かみさんが働きに出ている昼間のことです。私を呼んで母は言いました。

私も、かみさんもよく面倒見てくれて嬉しいのだが、面倒見てもらうこと自体が自分の気持ちの上で負担になっている。弟夫婦と暮らしていたときもそうなのだが、公的施設でなくとも、どこかの入院施設のある外科医院で良いから、そこに入院して暮らしたいと言います。お金を払うのだから気がねなくものを頼めるし、そうしたいと言います。

 かみさんと気が合わないからか?と訊ねたら、そうじゃないといいます。弟と住んでいたときにかかっていた病院の先生は顔が広いらしい。今言ったことを頼んでもらえないだろうかとのこと。

 私たち夫婦や子どもは母との同居を望んでいるが、気持ちは変わらないかと訊きました。これは、弟夫婦たちと住んでいたときからの気持ちで今に始まったことじゃないと言います。

 かみさんが帰宅してこのことを話すと、え?と驚いたようで、すぐに母の部屋に行って何か話していたようです。しばらくたつと戻ってきて、決心は堅いようだと。

 次の日、母の言う顔の広い先生のところへ出向き、母の意向を話しました。

あなたのお母さんはプライドが高いので、家族に下の世話まで受けるのが耐えがたいのでしょうと先生は言います。あなただって同じでしょう?と訊かれたので、今の自分なら嫌だとこたえました。

 せめて下の始末ぐらいは自分でできる様になりたというのがあなたのお母さんの希望だと思いますと説明してくれました。

 じゃぁ、どこへ入らせてもらえば良いでしょうと訊きますと、その場で電話をかけてくれました。1週間後にはベッドが空くそうなので、家に帰ったら相談して入院手続きを取ってくださいとのこと。

 帰宅して母にこのことを話しました。

 母はそこに入ると言いました。これを受けて、弟に電話しました。仕事量を倍くらいに増やしたので、飯を食う時間もないと嘆いていました。母のことを話すと、自分と住んでいるときも時々言っていたとのこと。年を取ると頑固になるから言ってもきかないだろう、好きにさせたほうが良いかもしれないと弟。

 嫁さんのほうはどうだいと訊きますと、インターフェロンの副作用で大部分髪の毛が抜けてしまったとのこと。見舞いに行かないといけないなぁと言いますと、彼女は兄貴が苦手みたいだからいいよ、おれから伝えておくからと。結婚に反対したために嫌われてしまった様です。

 母には弟とも相談してそこに入院するよう段取りを進めるといいました。

母は悪いけどそうして欲しいとのことでした。

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(110)母のパーキンソン病について その4

 弟の嫁さんが肝臓の病気になり、高額の治療費を払うために、母の面倒が見きれなくなったから、広島に引き上げて来たのであって、こうなるなら最初から入院してもらったほうが、家族が住み慣れた東京にいられたのにと、ちらっと思いましたが、いまさらそんなことを言っても始まりません。上の娘は専門学校に行き始めて、学費は前払いしてあるし、子どもたちの教育環境を考えると、動こうにも動けません。私はもう郷里の広島に骨を埋めるつもりでした。

 母を指定された病院にタクシーで連れて行きました。院長先生に挨拶をして、看護婦さんにと、前もって買っておいたクッキーを差し出しました。

 これは院長先生から聞いた話しですが、あなたのおかあさんはパーキンソン病を患っているので、完全看護の入院を認めたとのこと。介護保険もスタートしているし、入院費用はお母さんがもらっている厚生年金で十分おつりが来るとのことでした。この点は、もし入院費が不足するようだったら、Sのお父さんからの返済金を充てようと思っていましたから助かりました。

 それと、院長先生が言うには、病院は入院施設であって、介護施設のようなリクリエーションの部分が欠落している。当面はここで、パーキンソンの治療と運動能力のリハビリをしたらいいでしょうと。

 パーキンソンなら空きが出れば優先的に入れてもらえるかも知れないから、申しこみも今からしておきなさいとのことでした。

 先生の言われたことを母に説明したら、そういう施設に入れるなら入りたいとのことでしたので、申込書を代筆しまし、婦長さんに渡しました。

 母の振る舞いはわがままと言えばわがままですが、母の望むようにするのが一番良いと思いました。何十年か先には私も同じようになるかも知れないからです。

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(111)弟の嫁さんYの退院

 弟から電話があって、嫁さんが退院したとのこと。インターフェロンの投与は一応終わって、改善の兆しが見られるようになったかららしいです。

今後はどうするのか訊ねたところ、嫁さんが病院内で知ったといって、インターフェロンに代えて、漢方薬を使うらしいと答えました。漢方薬と言ってもかなり高いものらしいですが、インターフェロンよりはだいぶましとのこと。

 肝臓の病気は、とにかくだるいのが特徴です。私もだいぶ前にお酒の飲み過ぎで肝機能が弱くなった時期がありました。

10分電車にのって立っているのがつらく、できれば寝転んでしまいたいと思うほどでした。ですから、何も知らない人が嫁さんを見ると、この人は寝転んで何もしない怠け者と映ってしまいます。

 点滴をするとだるさはなくなるのですが、所詮は対象療法で、時間がたつとまただるくなります。

 弟にこのことを話すとそうなんだ、嫁さんはだるいだるいと言うし、俺も最初は炊事や火事をやりたくないのかなとおもっていたんだけど、医者に電話をかけて訊くと兄貴と同じ説明を受けた。薬を漢方に変えたから、効き目が現れてくるまでに時間がかかるから、家事・炊事も当分は自分の役目だと言っていました。だけど、インターフェロンのように副作用がないから良いよとも。

 金のほうは工面できたのか?と訊きますと、給料だけじゃ足りなくて、速記事務所からも融資を受け、少しだがサラ金も少し借りたと。

漢方薬なら高いと言っても、工面できるし、来年確定申告すれば高額医療費で大部分戻って来るから心配しなくて大丈夫だと言います。

 母が病院に入院しちゃったんだって?と弟。うん、身内のものに介護されること自体が嫌だと言うんだよと答えました。

 弟は自分ちにいるときも、しょっちゅう言っていたよ。あのころはあまり知識がなくて、入院させるとたくさんお金がかかるのではという頭があって、そのうちにとお茶を濁していたとのこと。

 嫁さんが介護を嫌がったのではなくて、母がいつもいつも断るから、ついつい自分がやるはめになってしまったとも言っていました。

 俺んちでは最初に言って聞かせたからそんなことはなかったけど、結果的には完全看護(24時間看護体制)の病院に移っちゃったからなぁ。

 こんなことなら、兄貴一家が広島に移り住む必要はなかったのにねぇと慰めてくれました。それは良いんだ、何かの巡り合わせでこうなったんだ、子供も広島の学校に通い始めたから、いまさら東京って訳にはいかないよと説明しました。

 弟には、時間が取れるなら、見舞いに行ってやってくれ、おれは週に2回は行くつもりだと言いましたら、わかった、時間を見てなるべく行くようにするとのこと。

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(112)最終章

 これで、一応「大借金奮闘記」は終わりです。

 つたない文章を読んでいただいたことに感謝します。