
「新しい時代の高齢者の生き方」
十九歳の三月、夜間高校を卒業してその翌日、家出同然で大阪に出て来ました。前々から母に「父と余り馬が合わないので丸亀で働いても、いつか父と喧嘩になって気まづい事になってしまう、大阪に出て働いた方が自分の為には将来幸せになると思う。」と云われ決心した。
最初は「かっこいい」板前になろうと頑張ったが、体の方が付いて行けず半年でやめてしまった。すぐに叔母の紹介で印刷屋に住み込みでお世話になった。大阪、天王寺のK印刷に植字工の見習いで、一年半程、Fさんと云う方に厳しく仕込まれ半人前になったころ、職人として出て行くように勧められた。そして、28歳迄に会社を10社ほど転々として技術を皆んから目で見ながら習得した。給料もその当時は職人で回ると会社を替わる度に給料が上がっ行く。本当に魅力のある仕事でした。
29歳の時もう潮時だと思い現在の会社に、入社して間もないころ、仕事をしながら雑談している。手はほとんど動いていない状態の人に、私は腹をたてて「真面目に仕事しろ!」と、その職場の責任者に怒鳴った。皆さんビックリし、その後はずっと恐がって余り相手にされない状態が続いた。会社に労働組合があって職人(プロ)としての技術はもう認めてくれなくなっていた。その当時から標準年令別賃金と終身雇用制度が敷かれるようになりだした。その後、労働組合の選挙に立候補して副委員長になった。そして年齢別賃金を反対し続けたが常に高齢者が多く多数決に負けてばかりで本当に悔しかった。組合員で高齢者だと技術が無くても勝手に給料は上がっていく時代でした。
その後、印刷の技術は他の業種よりも急速に発展して行った。活版印刷(活字)、から写真植字(オフセット印刷)そして電算写植(高速オフセット輪転印刷)、文字もドット文字からアウトラインフォントに変わり、パソコンでの編集・DTP時代(ウインドウズ・マッキントッシュ)と技術革新が進んでいった。
必死に勉強した、パソコンを買って十五年、ベーシック言語を習ったが、なかなか理解するに至りませんでした、入力の練習もブラインドタッチを毎朝一時間早く起きて五〜六ヵ月練習し、どうにか身に付いた。
私は会社人間として「会社のためなら」と真っ正直にほとんど会社も休まず亭主関白で、家庭も顧みず、猛烈社員で通してきました。
私の制作部門は売上が4〜五年かんばしくなく私の職場は積極的に技術を憶えようとする人は無くなり、冷ややかに見られていました。部下はいつも私が打ち合わせをしている時に、ふと気がついてみると一人減り二人減り私一人残業を遅くまでやっている状態でした。部下達に、朝礼で「いつも黙っていつの間にやら消えて帰ってしまう。」「お先失礼します。」と一言でも声を掛けて帰るように。「もっと常識ある態度を取って欲しい。」「みんなと協力して私達の職場を盛り上げて行こう」と必死で注意を促すが全然反応がない、私もついに全員を呼んで怒鳴ってしまう、こんな事が続き会社も私の職場をあきらめてしまった状態になった。
突然、職場の責任を取らされた形で「退職金をプラスアルファするから退職して欲しい」と、何でこんな重大なことをいとも簡単に云うのか、聞いたとき、自分の気持ちを変えようと思っても変われない。会社での「クビ」の言葉、毎日、毎日、社長・部長から怒鳴られる自分に「今日も会社へ行くのがイヤ!」の心だった。でも自分に「何を云ってんだ、そんな弱気でどうする。」「プラス、プラス」の気持ちで毎日夜遅くまで皆んなを引っ張ってきた。会社だけを信用し切っていた世間の見えない私、何日かはショックから抜け切れませんでした。本当に頭の中が真っ白になった。
「私の心は死んでしまった。」
印刷以外にこれと云った技術も持っていない、私自身これから生活するために何か身に付けないと? 途方にくれながら本屋に入ってみる。自分の向いていることはないか、将来的に生きていける道はないかと想って、いろんな本をあさる。「介護福祉」の本に目が行った。「生きていく道はこれや!」勉強しよう。将来、高齢社会の中で自分のためにも絶対必要やと思った。「自分は心の優しい人間なんや、介護の仕事ならやれる。これから精一杯勉強して社会に役立つようにしょう。」
それから、NHK通信教育社会福祉コース二年制(その後ヘルパー二級取得)を受講しました。
「会社なんか信用できへん」「自分だけが本当に信用できるんや」
「会社人間よさようなら、社会人間よこんにちわ」を心に決め、福祉の勉強をすることになりました。
NHK学園の紹介で松原社会福祉協議会から特別養護老人ホーム「新生苑」に紹介されました。
体験学習の一日目は何も解らず様子を見る程度と思っていましたが、朝からトイレの掃除(タイルの濡れているところは滑り易いのでタオルで水分を拭き取ってしまうくらいの注意が必要)、お年寄りの部屋の掃除と大変でした。(今まで家でもやったことの無いことばかり)一日がとても早かった。「明日からはガンバルゾ!」と心に決めた。
正社員として返り咲き生き返った私、気持ちの余裕もできて堂々と仕事が出来、社員の皆様にも心の指導が出来るようになり将来の設計も自分で計画し目標を持ち、毎朝、早朝出勤して、自分から積極的にトイレの掃除で自分の心も磨いています。時間が余ればパソコンの勉強(マック、ウィンドウズ95)、私なりに楽しみながら精一杯頑張っています。この4年間、私は、「退職して欲しい」と云う言葉が無かったら私は意識改革が出来なかったのです。本当に自分がここまで仕事・仕事、私の仕事は自分でしか出来ないんだ。と思っていた。「毎日残業、三時間平均・月80時間」しか頭に無かった、自分なりに良くやったと拍手を送りたい。会社人間から社会人間に脱皮し一回りも二回りも心の大きな人間になったと思う。
私も定年になり、定年前、総務部長に呼ばれ、社長の一声で「大西君、定年後も続いて勤務するように」と言われ、私は定年の日から多分幹部の人達の嫌われ者だったから、定年で終わりと思っていましたので、社長が認めてくれていた事に感激して、家内に直ぐ嬉しくて電話しました。「本当に良かったですね」と家内も喜んでくれました。
現在も健康に注意しながら、毎日朝、五時半に起きてトレーニング、元気一杯頑張っています。「健康が一番です。」
