人は人間関係で創られる(自分史)

  ――――障害を持って歩いている私の体験披露――――

 私は一卵性双生児の兄(健一)として誕生、弟(康二)は11ヶ月で死亡、
二人合わせて{健康・一二}と名ずけした両親の思いはむなしい結果になった訳です。

 両方とも脳性麻痺という重荷を背負って人生と言う道を歩き始めたののです。
乳児の時はひどい病弱な状態にあったにも関わらず、当時は第二次世界大戦開戦目
前のご時世で充分なケアーは出来ずに、弟を死に至らしたことから生じる母親とし
ての、罪意識が障害を背負って生き残った私への罪意識を益々深めることになった。
そんな母親は当時としては私の障害軽減に血の滲むような努力を何も療育システム
の無い中、手探りで強いるような結果となるが、その成果は母の思ったような結果を
結ばず、さらにまだまだひ弱で、四・五歳で独歩の出来ないで居る、私への罪意識を
深め、母性愛を深めて行く事を妹への母の接し方で判るようになったそうです。(こ
の事は私の小さな頃の話を祖母より聴く中で知った訳です)さらに母はよく「普通の
子はほっといても育つもので、気が付くと妹の方は歩いていた」と私に手をかけてい
て、妹の育児は祖母に頼み母自身は余り手をかけてない比喩として、他人に話してい
たことが私の耳にのこっています。さらに私が5歳になった夏場(当時は冷房は考
えられない)に父の職場関係からの伝で探し当てた市立病院の外科部長が母の気持ちに
引かれ、医学書を見ながら私の両足の内転筋を伸ばす(両股を開きやすくする)手術に
汗を流し、術後の痛みで泣く私を癒す日々を過ごすのに母は暑さとの戦いと、同じ病室
の人の迷惑になら無い様に勤めた時の苦労話しを罪から逃れるかのように聞かされまし
た。私もうつろな記憶ながら手術中ではないかと思いますが「先生のばかやろう」(こ
の暑い中、手術台に動けないように縛られ苦しいじゃあないか)と叫んだ事を覚えてま
す。術後のアフターケアーに
1年くらい母は大きくなった私を背負っての通院を続け
る毎日は大変な苦労を背負う事になったと思いますが、私は連日電車に乗る楽しみと外出
の喜びを味わえた事を確実に記憶してます。とにかく母の手薄な愛と祖母の手厚い世話で
成長した妹が幼稚園を終え、学芸大附属小学校へ入学すると、就学猶予の申請の必要性な
ど知る由も無く在宅状態で居る私に、妹が学校で与えられた教科書で母自ら学習指導をし
2年目に、充分な学習能力と意欲のあることを確認した母は居住区域の普通小学校へ
私を就学させるべきとの判断で当時の校長に直訴、そこで学校内の世話は付き添いをつける
ことの条件の元に、学力のテストでいきなり
2年生に入学を許されたわけですが、そこ
までに至る模索・問いあわせ・交渉等全て母一人で、(責任逃れをしてこの問題を他の部署
に回そうとする)大きな組織の市当局を相手に行ない成功させた事実からも、母の大いなる
罪意識と母性愛に培われた強い決断と実行力がなせるわざと判断出来ます。いっぽう当時父
は結核で自宅療養をしていたので、母は物資不足の中で栄養ある食べ物やストレプトマイシン
(当時結核の治療薬としては評判の高いが入手困難なアメリカ製の薬)の調達といった困難な
面にも、私の学校生活のサポートに心身を傾注せざるを得ない状況を兼ね合わせて考えればそ
の苦労の様子が解ります。当時私の自力移動は家屋内はイザリで、屋外は三輪車でした。そん
な私は通学を始める(始めは既製の三輪車を使っていたが、からだが大きくなり動きも激しく
なって、既存の物では強度的限界によるトラブルが頻発して困ったあげく、
4年生頃父の
考案で特注の三輪車を使用して)事になって、「多くの友人の助けやいい先生に恵まれ多くの
刺激を受けることからの心身の発達が著しくなった」と母は嬉しそうに話していた。その影に
は私自身が屋外生活への魅力を増した事もあります。その一部が住居周辺の子供たちとの遊び
の中から、今までの家内生活では味わえなかった未知の経験をして行く訳ですが、けんかやい
じめもあり、私自身をたくましくして行く点では親も知らない重要な面でもあります。今振り
返って考えると、この近隣社会での遊びでは年上・年下・大家族の兄弟・金持ち・貧乏等の色
々な環境や経験を持つ子供が多く居て、そんな中での人間関係(友達関係)を持ち、色々な種
類の遊びの過程では学校で学べない事、すなわち生きて行く基盤となる人間相互関係の要領や
テクニックと知恵の基礎とその子供の中にある社会に在る社会規範との照し合せの中での葛藤
経験を経て、自己決定をする道を自然に身につけ、又その刺激がさらに肉体の発達を促したと
考られます。所詮私は障害をもって多種多様な子供社会に入って行く過程では、いじめや仲間
はずれの体験をさせられるのですが、その始めの段階は我慢する以外抵抗の道は無くただ耐え
る体験を重ね、母の愛でその精神的ダメージを癒していたのですが、徐々に自分でうまくその
場を交わすようになり、最終的にはそんな事をする相手には自分のほうから苛めるような傾向
に変化したことを思い出し、現在問題となっている少年や若者のキレル問題や学級崩壊の問題
も、居住地域内での子供達の遊ぶ姿が見えない点を愁いている者として、このへんに関係して
いるのではと考えます。(少子化現象と子供の遊びが危険の多くなった屋外から屋内化現象の
結果と推測する。)

 とにかく母の意識や愛による支えに加えて多くの方々の理解ある助けの元に高等学校までは
妹とは同学年で順調に育ち、いざ大学進学という将来への道を決める事になる段階では、今ま
での母の支えや他力本願の流れではどうにもならないと悟ったのです。私自身はこつこつと努
力をしなくても理解力と応用力で進める理工系が望みでしたが、肢体にハンデーを持つ者とし
て細かい事を行う実験や実習がともなう厳しい現実に向かい合うことを希望校の受験して、入
学許可された後にハンデーを理由に特別な寄付を要求されて否応無しに体験させられることに
至った事で、自分の人生について改めて考える事を浪人と言う形で行いました。そこで私のう
ちはクリスチャンホ−ムで妹が先に福祉の道を目指してミション系の大学に学んでおり、自分
自身もキリスト教の日曜学校での教えが無意識に働いたのかは判らないのですが、妹からの大
学で学んでいる話を聞くうちに、私も東京に出て人の為に役立つ福祉の道に進もうとの自己決
定をしていたのです。しかもその事は親元を物理的に約1000キロ離れた生活をする事にも
なり、高校の頃より父や母からの干渉を無意識に離れたい思いが湧いておりました上に、東京
での生活がしたいという欲求も手伝って、両親を強く説得、
2年間の浪人生活にピリオドを
打つ事になりました。生まれつきに文科系でない頭の私でしたが、何とか文化系をクリアーした
私の東京生活は
2年先輩になる妹との共同生活から始まったわけです。通学は小学校6
より独歩が可能になっていた(特注の三輪車での屋外行動が私の手足の筋肉強化とバランスをと
る訓練となったと考えます)ので、地下鉄・山手線・都営バスと乗り換えて行うのですが、その
途中は新宿での乗換えが必要なのです。そこを通過する折の人の混雑ぶりは言語に絶する実態が
あり、実際にそんな実体験に合うと、両親が心配する事も無理はないとも一瞬思いましたが、若
い私は希望と大志に燃える大学生活を楽しみながら福祉に関する色々な事を吸収し、学外生活で
は学友と共にむしろ積極的に広い体験をして私自身の人間の幅を広める事になる訳です。すなわ
ち広い人間関係体験を通じて広い知恵や知識に恵まれるといった自論の実践を両親からの開放と
若さも手伝って又東京と言う特殊な環境が可能足らしめたのです。そんな自由で貴重な経験をに
重ねる生活をして早くも
2年が過ぎ妹も卒業して帰郷して行き、単独生活の始まりとなった
のです。食事の問題は下宿形式をとれるようにして行ってくれた事で妹は両親と私の情報の交換
をしていた事が明確化したのです。薄々は解っておりましたが、食事時私共の住んでおりました
家主の奥さんのおしゃべりの中で「立派なお母さんだね。貴方の事を心配して頼み込まれて食事
を出す羽目になったのは良いとして、女の人からの電話が多い事は母に機会を見つけて報告せね
ばいけない・大事な息子さんをあずっかっているのだからね!」とか「体が良くないのに布団を
敷きパナシにしていた事が無いのねー」と話すではありませんか。このようなプライバシイの侵
害はこの人の良い昔かたぎで無神経な家では当然と思い、食事は自分で作る事を両親に約束して
この家から学友の伝でアパ−トへ引越しました。

 これで完全に独立した生活をして行く事になった訳ですが、毎日の食事造を始めたのですが、
やはり試験時期等の時間的に余裕の無い時は外食をするといった生活をして約1年経つと、
めんどくささが先に起ち外食の方が多くなって、むしろ外食に頼る生活に変わったのは大学生活
の幅を広めた結果、時間的ゆとりの無さや不規則な生活時間ではないかと考えます。当時私の生
活概要は大学キャンパスに顔を出して授業かゼミに臨む以外部活(非行少年の良き友達活動をす
ること)で横浜にあるミッション系の少年院に出向く為の部内学習や警視庁の少年補導の責任者
と家庭裁判所の調査官でわが部の顧問をしている先輩を訪ね事例研究をしたり、澁谷での少年補
導に同行する等の他にも現在別府にある「太陽の家」の設立活動や「筑豊の子供を守る会」運動
(違った大学生との協力で成り立つ)に参加する一方で新宿や澁谷で女遊びに耽るという多面的
で広範囲におよぶ生活をエンジョウイしていた。そんな時間に追われる様な生活をしていた私は
食事の用意が如何に大変かについても学び、妹や母の有り難味を再認識したのです。

 私は身障の男性がなぜ健康体の女性との恋愛(セックスを含む)をタブー視する傾向にあるの
かについては自分の精神的ダメ−ジを恐れての事ではとの思いを持っていましたので、身をてい
して(実は自分が本能に負けての方が正しいと思うのですが)健康な男性が試みている「ナンパ」
行為を友人と共に実践、結果は非情に困難でしたがそこはお互いに若い男女ですから話術を駆使し
て繰り返し挑む事になった。困難を極める理由は女性が本能的に見た目がいい男性を求めている事
による事で障害者は外見的に初めから拒否されているだけの事と解り、外見はどうにもならないの
だから自分の全てを明様にさらして見ようと考え、澁谷や新宿で再挑戦して成功したのです。する
と味を覚えた私は時々実践して外見のみで差別視されたほかの障害男性の見本となろうと思い、セ
ックスにあこがれる障害男性が居ると自分の体験を話して勇気ずけして後は「あなた自身で実践あ
るのみ」と助言する運動もしました。大体私の自由恋愛(セックス)の相手は短大生か大学生で、
話の合う点と東京と言う環境にすむ健康な人でしたし、当時は安保闘争で静かで真面目な学生生活
が出来なかった事も幸いな事実です。

 そんな豊で刺激ある実り多き学生生活も卒業論文の仕上げで終止附を打つ事になり、ゼミの教授
の紹介で鉄道弘済会本部の福祉部に働き始め、希望と不安の混在する私は荒海に船出したのです。
その不安は大学3年の夏休みに、部活の合宿で白樺湖畔のコテッジに行った折、参加者全員で非
行少年についての事例研究やデイスカション後の楽しみな飲食会の飲酒後、調子に乗って当時流行の
ツイストを踊っていた折突如私は右股関節(本来私の障害は脳性麻痺でその麻痺は左の手足に強く出
ていた為、それをかばう右足に負担が掛かっていたのにさらに私たち特有の強いX脚歩行があった)
に激痛を感じ倒れたのです。翌朝目が覚めると昨晩に比べ痛みはひどく、立つのも出来ない有様でみ
んなの助けで合宿も計画道理に終え、帰路は
4年生の先輩に背負われて先ずは総合病院へ直行、
検査の結果右股間節亜脱臼との告知でしたが、神経ブロックの応急処置を願ってとにかく予定の施設
実習とアルバイトもキャンセルして緊急帰郷を致しました。その約
16時間の帰郷時間(当時は東
京と北九州市間の寝台特急は約
16時間を要していた)では、これから先の生きる道の模索にフッ
ケタリ、今までして来た事の思いが頭の中で回りに回ったり、もしもこのまま帰郷の一方通行になっ
てしまうのではとの思いが沸いたりしてあっという間に過ぎ、気が付くと車窓に故郷の懐かしい景色
が流れているのが目に映り、私の心は何か暖かな物でいやされたのです。もともと私は脳性麻痺(ア
テトーゼ型)による障害が私を苛めているのは事実で、今回の股関節亜脱臼も其の内と考えるに達す
るのには両親との相談していく過程でした。さらにこれからもこの脳性麻痺とのお付き合いをせねば
ならないと開き直ると、せっかくここまで来たのだから、今までに培ってきた事を土台に生きてゆく
事の決意を強く持って、当時脳性麻痺に関しては右に出る者は居ないといわれる整形外科医に現在の
何時起こるか知れない痛みの不安の解消の相談におおじて頂いた結果として「痛みの起き難いように
薬の服用でしばらくは持たせ、最後の手段は手術しかない」との話をお聞きして、(その時に処方し
て頂いた強い緊張の軽減する薬は現在に至るまで服用をしている)不安は残しての上京となった。そ
んな不安を持ちながらの大学生活も
4年生になった私は混雑する公共交通機関の利用を避ける目的
(股関節に無理の係る歩行を出来るだけの少量化する為)で車の運転免許の取得していざ車を親との相
談の上に手にするとアパ−トの近くに(出来るだけ自分の足で歩く事を避けなくてはとの考え)駐車場
を探さなければならず、ここでは東京都内の人口密度の高く駐車場にするような土地の無さを現実に実
感し、やっとあったとしても利用料金が高くて親のすねかじりの身には利用できないといった厳しい現
実に向かい合った私はアパ−ト近くの下水を流すやや幅のある溝に臭いを防ぐ目的だと思う蓋がしてあ
り、ちょうど駐車するのにもってこいの場所を見つけたのですが、他の人も利用しているので結局は早
い者勝ちで、少しでも遅くなれば路上駐車となり、近所からはいやごとを言われるといった体験をした
わけです。こんなところで障害が生きて行く上で大きなハードルになるとは思っても無かった私は驚く
有様でした。とにかく学生生活は卒業して実社会に着いたわけですが、何時如何なるかの不安はいつも
ついて回る日々を過ごす事で精神的開放と気分転換の意味で大学時代の友達に会って自由な会話を楽し
みながら、外食をとるといった生活をつづけて居りました。或る日夕食の為に入ったスナックで食事を
作る手伝いをしていた女性に出会う機会があり、友達と冗談を交えながらの食事の注文時に目をあわす
と、今までには感じた事の無い光が胸の中にさすと言ったものを感じたので、すぐに今まで磨いた女性
との接し方で話をして行くと相手も私の感じたような感じを持ったことの告白を聞くと、今までの私の
障害との戦いで疲れた心はいっぺんにいやされた感じが沸いてくるのです。その時に食べた食事の味は
格別にうまっかった事を覚えています。とにかくその女性との再開の約束をしてマイカーでの帰路に着
いたのです。私の心を写すかのような星の輝く夜空を見上げて、神様もやはり不幸ばかりをこの障害者
に与えないで、有り難味が判る様にたまには大きなゴホウビを用意していたのだから、私も明日からは
障害を克服して、私のように苦しんでいる人たちの為に働こうとの思いをアクセルに乗せました。独歩
の不安から開放されるマイカー通勤は裏道ばかりを使う事で時間の短縮に勤め、朝食はもっぱら喫茶店
のモーニングサービスで済ませて、甲州街道の四ッ谷駅と半蔵門のちょうど中間に位置する麹町の職場
に行き、全国にある弘済会の営む福祉関係施設や機関の統括と事務的処理を卓上で行うといった業務を
行い、昼食は近くで、やすく済ませ勤務時間の終わる
5時まで卓上業務をして、帰路に着くといっ
た毎日であった。あまりにも福祉の現場には無縁に近い業務に私自身は欲求不満を感じながらの通勤で
したが、自分の障害を考えると今の仕事が適している現実かもしれないとの葛藤の続く苦しい毎日でし
た。だから今回の女性との出会いは私を大きく変えることになる、恋人の出現となり、私の生活に潤い
をもたらし、建設的将来へ思考を変えるステップになる事を誰も解らなかったのです。私の帰路は今ま
でとは精神的に違い、あの女性と会っての会話の内容を考えながらマイカーを甲州街道の新宿駅南口近
くを経て、山手(環状
6号線)経由で目黒道りを経て目的のスナックに向うですが、その表道路だけ
利用の意味は出来るだけ時間を掛けてスナックが暇になる時間に入り、食事はともかく話は落ち着いて
出来る様にする事です。ともかくゆっくりと食事を楽しみながら話に花を咲かせて行くなかで、その女
性とはいろいろな面での価値観が合うこと(後に解ったのですが、クリスチャンであった)や、何処と
無く私の母の眼差しに合致する点があることで始めて目を会わした時のあの胸のときめきは本物であっ
た思いを時間の経つのも忘れて深めて行ったのですが、相手は私の存在をどのように思い、考えるかは
これからの私の接し方だと自分に言い聞かせたのです。私が店を出ようとしていると、「明日はお休み
じゃないの?もう暫くはそこに居てくれれば、もう遅くなったので夜食を私に奢らしてください!ーー
ーいいでしょ?」といわれ、相手も愛とか恋とは別にして、私には少なくても好意を持ったのだなと解
る証拠に、他にも客は居たのにも関わらずに、私に声をかけてきた事です。それに遅く帰っても駐車す
る場所も無い事も手伝い遅くなったついでにこの女性のアッシーになる事を決意して「じぁーそのお返
しに今晩は貴女の家まで送ろうか」といってみて驚いた事に「まあー嬉しいー」との答えが「ともだち
も一緒にね」と加えて帰ってきたのです。いざ閉店して送り道のおしゃべりで、スナックを主になって
やって居る女性もチャーミングで魅力のある女性でルームメイトでもあることや東京オリンピックの時
のコンパニオンを両人ともがしていたし、伊豆出身で今はお互いに助け合いながら生きて行く友達であ
ると共に、障害者への偏見の無い優しさがある事が解るといったことで、私の心は益々始めにインスプ
レーションの働いた女性に対し恋心を深め、強めたのです。それから夕食はそこのスナックでメニュウ
に無い特別な物を食べさせて貰い、彼女たちのアッシィーを勤める事が多くなるが、学生時代のような
セックス処理の対象にする気持ちは起こらず、精神的に彼女が私のそばに居てくれるのみで、むしろ充
足感を覚えるのでした。休日のデイトはもっぱら空気のおいしい狭山湖や横浜の本町付近の港が見える
ヶ丘公園等へ片道約
1時間(都市高速や第3京浜を使って)のドライブをしていましたが、後から
思い出すと何も意味の無い話で時間を過ごしていたものだと思い出してます。そんな共有時間を持つ二
人でしたが確実に愛はお互いに育ち約
1年が過ぎた頃のスナックで客としてきていた他の男性が彼
女にモウションを掛けている現場に出くわした私は躊躇無くその男性に「私も貴方も同じ客ですね!し
かも同じ思いを持つ男性として彼女が選べるような勝負をしようじゃないか!良いか?」との問いかけ
をしたのに相手は「解った」と言って不快な表情でその場を去った後、私も帰ろうとすると「 待っ
て!」と言った彼女は「あの人はしつこく言い寄ってくるので、困っていたのよ、モウあきらめると思
うので
----!良かった」と言うので一案心しながら「貴女にも隙があったのだね!」と言って反省を
促した事を切っ掛けにして、私もこのままではいけないと反省をしたのです。又一方では仕事をも含め
た彼女との将来について妹が結婚したこともてつだって、考える日々を過ごすのでした。

 障害者の結婚は大きなハードルが在る事をマスコミ等で扱ってる事例を良く見たり、聞いては現実の
厳しさを知っておりましたが、実際に彼女の家に出向いた私は、彼女の父へのアッタクは何とかクリア
ーしましたが、母は頑固に反対して私に会ってくれないので、幾日か西伊豆に留まって彼女の家に日参
しましたが、母はついに会ってくれなかったのです。言うまでも無く彼女も口説く努力はいぜんより電
話や帰郷した折に家族との会話の中でしていたそうで、その反応では反対されている事をよく私やいつ
も一緒に居る友達に話していた。反対の理由は私の障害であることも彼女より聞き及んでいたので、私
の人間性を見て欲しいので、直接会って話したい思いを拒絶された事で私は彼女に「他に貴女の母を説
得する方法は無いのか、もう一度考えよう」と言って台風で荒れ狂う中、車を発進させ東京までの約
4時間、彼女はモウ内の家なんか関係なく駆け落ちを実行するしかないと開き直ったり、やはり女は自
分の家族全員から祝福された結婚を望むのが本音なのになぜ家は?と精神的に葛藤しているのが明瞭に
解る様な会話をするのでした。

 一方の私の母は常日頃より「結婚は考えているの?」とか『いい女性が居れば良いのだがね』と顔を合
わすたびに言っておりましたが、母の深い罪意識が人並みに私を結婚させて幸せにする事で(母自身で私
に与えなくてはとの思いと義務意識が深層心理にあったと考える)軽減化される思いが働いたと思います。
同時に母の思いとして、あんなに苦労してここまで育てたのだから、やすやすと人の手に渡してはならな
いだから相手を選ぶなら母の目にかなう人を選ばなくてはならないといった自己中心的心理があってもお
かしくないとも今の私は考えます。しかし当時の私は恋人の存在を母に話した時の表面的同意の裏側には
そんな育ちの違う女性では心より歓迎は出来ないが、貴方の選んだ人だから自分としては仕方なく同意の
意思表示をしている位までしか母の態度から読みきれて降りませんでした。しかも私は彼女との交際は3
年目になって薬を服用しているにも拘らず、恋愛中で忘れかけていた股関節の痛みが少しではあります
が私を襲ったのです。以前とは違った不安が私の頭の中を巡ってきたわけは将来の彼女との生活を設計に
は安定と今までの不安の混合した課題の解決策を考えなくてはなりません。加えて彼女の母の説得と車の
駐車場所や居住場所の問題を合わせて熟慮して行くと意外にも帰郷して職を新しく求める方がより合理的
との答えが浮かんだのは私の生きがいとも関係してくる事になって、先ずは私一人で帰郷して職を求める
事になった。当時の故郷は新市長の音頭取りで官民が一体となって福祉の向上を図っている最中(我国全
体が経済力を強くして行く過程であった背景)に私は遭遇して、とりあえず私自身がこの地域の福祉全般
を知る必要性を感じ、市社会福祉協議会に出向き、福祉関係の職探しをしている事を話すと当時の肢体不自
由児の親の会会長を紹介され、「実は市のバックアップの元に「あゆみ会」・育成会・身体障害者福祉協
会の
3者連絡協議会を設け、そこが主体でこの分野の社会啓発を行おうとの計画をしているのだが、
誰がどのようにするかはまだなので貴方さえよければ」と持ちかけられ、渡りに船とはこの事で「私はま
だこの辺の実情がわかりませんがやって見ましょう」と無我夢中でこたえていた。それからは暗中模索な
がら
3社の会議の中から全社協と同じ建物に本拠地を置く福祉新聞社が出す新聞が私の頭に浮かび北九
州福祉新聞の発刊を提案して行政当局始め全員賛同の基に多くの方々の協力者の助けもあって創刊する事
に至ったのです。このことは私に生きがいとこの地域の福祉の全容を掴むといった事を与えられ、その上
に私の存在を短い時間で揺るぎないものへした事も忘れてはならない事実となったのです。しかしその事
務局が「あゆみの会」の事務局でもあったことで自然にそちらの仕事も抱える様になった或る日、あゆみ
専属の人が病気入院で居なくなり、その頃福祉新聞は多くの方々から愛読されていたにも拘らず、経済的
な面で休刊か廃刊の決断しなくてはならない段階にあった。いっぽう彼女の方も妹が就職で上京が決まり、
自分自身も半官半民の団体に就職し、妹との同居する為転居している事で私が帰郷して約
2年の時間
が経っていた。しかも妹は母からの言い付けで自分を見張る役目もする事を私の家で明かしたのですが、
私の職場が流動的にあり、落ち着いて受け入れる体制ではない事を話し、気分転換に車で屋外に出るとい
きなりセックスで愛を確かめたい気分があることを訴えるので、お互いにはなれて不安を抱えて生活して
いる事で彼女の思いを納得、翌日実行した後「住居は今の家とは別にね!」満足げに言ったのを今思い出
してます。この一言に彼女は私の母とはうまく付き合って行けない事を女性特有の感覚で掴んでいた事
(私の母との初対面であるが、世代の違いだけでなく生活全般で価値観が違っていて、同一世帯では両
方ともがストレスを溜めて、ささいな事で争いをする羽目になって、それがエスカレイトしてどちらか
が疲れて病気になり、結果は私の仕事にも影響を及ぼしお互いの中にしこりが出来て、お互いの苦労し
て築いた生活を壊す)を久しぶりに会って愛を確認した上で訴えた事も思い起こしているのです。そん
なことが在った後仕事のやりくりしてはお互いに北九州と東京を行ったりきたりのデイトを約
2
くらい結婚への夢を実現しようとの思いを募らせ、続けたのです。一方私の仕事は市以外の
3者の
足並みがうまくいかずに経済的基盤の崩壊で北九州福祉新聞は発刊不可能になり、「あゆみの会」事務局
をあづかる様になっておりました。当時の市側の方針として民間の市委託事業等や非営利事業を行う団体
の育成があり、その一環として市の建設する公の建物へのそのような団体事務局の設置が望ましいと言う
流れに乗る方向に私は賛同、「あゆみの会」は事務局として会創設者が所有するビルの一室を無償で借り
て居りましたので、団体の存在を公にする一方、個人の好意に何時までも甘えていてはならないとの考え
で、会の内外に事務局を公の場所に移転すべきとの働きかけの行動を起こしていたのです。もともと会は
重症心身障害児の親が集まって自分たちの子供の療育を施す施設の建設の必要性を一般社会や行政当局に
強く訴えていたのにも拘らず、ボリオの大流行の陰になってしまい肢体不自由児施設の建設の原動力とし
ての働きで実績を形にした団体であったが、私の関係し始めた当時の会員や役員構成は脳性麻痺やポリオ
やヒ素中毒等多種多様の障害児の親で占められ、会の運営や事業推進は会員や役員の多くの賛同する決議
を必要とする団体にも拘らず、いざ決議となると、そのような現実にある会としての決定事項は多種多様
に違うニーズから生じる微妙に違った思惑や考えを各々が実現を目指す事で、まとまらず困難を極める現
象にあつた。そんな親の気持ちは理解出来る私は事務局が市福祉文化センター内の市社会福祉協議会と同
室に移転したのを契機に会の現状打破と将来計画を考えなくてはならないと決意して行動を始めたのでした。

 いっぽうでは遠距離恋愛を結婚に向けての努力もしていた中で、再度彼女の母に会おうとの行動をする
事で私の誠意を解ってもらおうとしたのですが、やはりその願望は拒絶されて、彼女も駆け落ちの形で我
が方へくる決断をして我が家に来たのです。そして自分たちの結婚の準備に入り、結婚生活を始めるため
に借りておいた家屋やその周りの環境確認に、彼女は私の母と出かけたのです。その時私は仕事で同行で
きずに、母と彼女は女同士で出かけ、賃貸住宅の中に入った折、母が彼女に「貴女は何を持ってくるの」
と問い掛けられたことを私に訴えるかのように話したのですが、私は「貴女は体一つでくればいいのだよ
」と言ってたのにも関わらず、仕事の事を深く熟慮していた頭には大事な事として受けとめずに聞き流し
ていた事を後になって理解する事になった。つまり孤独で不安な状態で居る彼女(家族からは分かれて、
見知らない土地、友人も居ない等で不安と緊張状態にあった)を真けんに受け入れ、母が問いかけた意味
は貴女が何か物を持ってくることを望んだのではなく、むしろこのような空間にはどのような物を配置す
るのか心配しての問いかけであったのに、彼女は私の言っていた『体一つでーーーー』とは反対の何か物
を持参する事として解釈していたにも関わらないで居る私への不信感を抱いたとは、考えなかった事に加
えて7年間お互いに違う環境での生活から生じる変化がお互いの生活観の微妙なずれとなってた事を
今になって思い起こし後悔しているのてす。その夜はこれでお別れよという意味も含めてセックスにのめ
りこんだ彼女を思い出しています。その後彼女は私に「貴方が東京に居たら結婚をしていたのに」とやは
り母の私への罪意識から生じた異常な愛が何者をも介入を阻んでいる事で北九州では結婚は出来ない現実
があるので
7年間の恋に終止符を打って、これからはお互いの幸福を追求する生き方を提唱して分か
れた事や障害さえなければこんなことにはなってないのになあと思った事も今思い出して居ります。同時
に彼女の幸せを祈るでした。そんな私は現在の福祉法人北九州「あゆみの会」基礎になる役員の構成や会
の財団法人化に精を出していたことで心の痛みをまぎわらせていたのですが、私は常日頃より結婚は心身
ともに健康な女性と考えていた理想が音をたてて崩れ去ったことになったことになった。私の場合多くの
方々のおかげと母の支えで、ごく当たり前のように障害の無い人たちの中で育ち、生活をしてきたことで
自分が障害者である自覚があっても、お互いが障害者の生活はお互いの慰め合いによる愛の結びであって、
理解し合えるというメリットがある反面、お互いの実生活の中で障害の積み重ねによるより大きなバリア
ーになり、お互いが疲れて行くと言うデメリットがあると考えていました。しかし実際には私のたどった
道のりに比べれば、合理的・効率的な幸福の追求方法かもしれないとも考える昨今です。

 ともかくそのような時期を私は市障害福祉課長・阿部正俊氏(現在は厚生省で保健福祉の分野での実績
をある大物議委員よリ買われて、参議院委員としてやはり保険福祉の分野で活躍中)の強力な助けと多く
方々の協力で財団法人化をなし終えたのです。その後間もなく又股関節の痛みを段々強く感じながらも、
経済的基盤のより安定した在宅心身障害児・者訪問指導活動を市事業として位置付けると共に実際に訪問
指導をしていたが痛みを強くして脳性麻痺に関して高い評価を受けてる整形外科医で市立総合療育センタ
ー長に痛みの源になる股関節亜脱臼の改善を目的とする大手術を昭和57年にして頂きました。その際に
自分のすむ家は今まで物を壊してバリアーフリー住宅への立替を決断し、自分で基本設計して後は信頼で
きる業者に依頼して手術に臨み退所と同時に新築された我が家には入れたのは幸運な私の読みでも在った
のです。そして私は車椅子生活の始まりとなるのでしたが色々と人の及ばない体験もしてきたことを自分
に言い聞かせ開き直ると身障1級の精神的にも痛みから解放された生活も決して悪いものではないと
思い始めた頃、総合療育センターの売店を考えているのでやらないかの誘いに飛びつき、約
11年間
経営しながら、元々私の地元での出発の足場でもある福祉法人化された北九州「あゆみの会」の運営に
も手や顔を出す生活をしていました。ところが私の母が平成
4年ごろより多発性脳梗塞による痴呆の
症状で母と私の二人生活に影響を及ぼすようになり、又違った意味での不安やストレスのかかる私となっ
たのです。もちろんわずかに離れた別世帯の妹の助けを求めながらの生活ですが、段々進行する母の症状
で想像を超えるストレスのかかる日常生活を余儀なくせざるを得なかったのです。唯一私の息抜きは中学・
高校とも同じだった親しくしている友達が近くで
自動車学校(この近辺では障害者を対象に教習する歴史
ある)を営んで居るので、尋ねては何もシガラミノ無い話や自由な時間のもてることが出来ることでした。
そして平成7年になると母は私がそばを離れると情緒不安定の状態になり俳諧をする困った症状を表
す傾向になったのです。時には地域の民生委員さんより私の後追いをするかのように交通量の多い国道に
出ての徘徊してる母を心配しての助言を受ける段階なのに、私に対してはまだ私を本能的に養わなければ
いけいとの態度を示すのでした。障害を持つ子供と母性本能の働きが如何に強いのかと、改めて知らせら
れた訳です。そんな時点では妹の存在ですら母の頭には無いのですがその妹と私は相談して痴呆専門病院
でのスティケアー依頼目的で連れて行って、いざ入院決定されると何か物悲しく感じる私と妹でしたが一
方では精神的重圧と時間的束縛と肉体的束縛からの不完全ながも解放に安心する私たちでした。そこで母
を入院させて帰路に着こうとする私に「健一何処へ行くの?」「ご飯はあるの?」と言うかと思えば、「私
はどうしてここに居なくてはならないの?」とも訴えるように言うのでした。そんな母の姿は私にはどうし
ょうも無い哀れな実像として私の目に焼きついています。それから私たちは母の病状が同じような症状の
仲間の中で集団生活をしていれば精神的安定化による肉体のより健全化がなされて行く事を認識した訳で
すから、母はこれからも同じような生活環境で生きてゆかねばならないとの考えで痴呆老人専門の特別養

護老人福祉施設の探索を始めました。しかし厳しい現実として病院の入院は3ヶ月という時間的制限があ
り、施設の方は母の入所目的を充分に満たすものは少なく入所希望者が多く順番待ちだけで約
1年は掛
かると言った点が在る事でした。

 そこで私達はお互いの人脈を頼って入院期間の延長や施設に関する情報の収集に励むのでした。車椅子
と車を使っての生活する私は母の入院で精神的重圧以外には独身者としての自由な生活を謳歌する毎日へ
と代わった訳で、センター売店業務は勿論、会の運営、その他会に関係組織団体会議への参加、母に関す
る活動と旧友との交際という時間を過ごし、(昭和55年に他界した父は糖尿病を持っていた事を母の
拘束から解かれたときに忘れていた)食事も好きな物を好きな時にするような自由奔放な生活をしていた。
ところが平成
86月の日曜日の自宅で朝食後突然私は脳梗塞で車椅子から転がり落ちて床に倒れ
たのです。以前より私はこの病気で倒れた方の症状を耳にして居りましたので、すぐに自己診断の元に冷
静になって先ずは言語機能のチェクをして明確に発音が出来ている事を確認して利き手の右手が意思道理
に働く事も確認して、消防署か妹に電話するのには迷い、よく考えると我が家の出入り口は全て施錠して
あり外からは簡単に開けられない事に気づき、妹に詳しく連絡した後の約
20分が非常に長く感じなが
らも自分の生きてきた道のりの瞬間瞬間を思い出したり、このまま死んでしまうのではとの思いをした事
をはっきり覚えています。それから救急車で救急病院へはこばれ
3ヶ月間の治療を受ける訳ですが、
作業療法の無いリハビリには私自身が納得できず、さらに本格的なリハビリ可能な大病院に転院して目的
でもある現実社会への復帰に向けた
3ヶ月の入院生活を重ねるでした。しかも訓練士も驚く努力をし
たのはやはり現実社会への憧れ(強く、広い人間関係)が私には在ったのです。そんな私は以前からの障
害の上に脳梗塞による左麻痺の重なった複合障害にもめげることなくリハビリの効果をあげ、その年の

12月には退院したのです。今思うには私の精神的な支えは私の出来うる社会への使命感を持った事と、
多くの人々よりのエールに応えなくてはならないという気概であったのですが、これもやはり良く考えれ
ば恵まれた人間関係から生まれてきたと結論付けられます。一方の母は妹が多くの方々の力添えで、当時
としては新発想の良い事で話題になっていた新しく出来る痴呆専門の施設入所を以前よりお世話になって
いた病院で待っている段階に達していた。私が
6ヶ月間の入院で母とは会えないで居た結果、母の頭
にこびりついていた私の存在は消えていると言う事実を妹より聞いて、悲しい事実ながら私はこれでやっ
と母から本当に開放される喜びも生まれ、何か複雑な気持ちになってました。そして或る日幾人かの旧友
と我が家で食事会をしている時に妹に連れられた母が我が家に一時帰宅してきたのですが、私に対しては
「お宅はどちらの方ですかネエー」と問いかけてきたのには驚きました。親しくしていて母とは頻繁に
会って会話を交わしていた私の友達には「こちらの方はなんていうお名前でしたか」と話し掛けることで、
母の症状の進んだ事を再確認したのです。同時に私はこの母の後見人として生きなくてはならない事を身
も引き締まる思いで自覚させられたのです。さらに私は痴呆状態になると普通の社会人との人間関係が普
通には出来ないので社会不適用になり、本人は情緒不安定となるのだと知るに至りました。ともかく私の
築き上げた売店は「あゆみの会」関係者維持されていました。しかし私の障害の状況では以前のように一
人で全てをまかなうのは困難ですから、ひとまずは本部とも相談して障害のある方を選任させ、私はボラ
ンティの身分ながら長い間に培ったノウハウで下支えの責任者として社会復帰したのです。売店のある場
所は障害児の総合療育機関としては我国に類の無い内容(より専門的かつ広範囲からのチームアプローチ
によるサービスを行っている)の現場を背景にしていることに加えて障害児の重症化のため、より専門性
と多少の医療知識と福祉的センスが必要な現実が私の存在を重くしていたが、何せ右手のみの私生活は週

2回のホームヘルバーの家事援護と終3回の訪問看護による入浴サービスで成り立って居る為、私の
売店への出勤は原則として月・水・金の週
3回が限度ですから、自宅で出来るものについては必要にあ
わせて済ませるようにしてリました。ところが現場を担当している者がこの売店の背景を充分認識すること
はないままにこの業務を続けていたものですから、私との間は勿論売店を支えるそこのスタッフや売店利用
者との人間関係に影を落としだしたのてす。そんな担当者は精神的重圧が掛かり自ら辞めてしまうという現
実に当たり、私自身の障害さえなければとの思いが膨らみ、私も思う様になら無い現実との葛藤生活をつず
けざるをえないでいるのに比べ、母は痴呆になる事で色々な現実との精神的シガラミから開放され、現実社
会では避けられない人間関係から生じる精神的葛藤など無縁の生活をさせてらっているので、むしろ肉体は
痴呆になる以前より健康な状態にある現状が私の現状との対比で思い浮かぶのです。そんな現実に至る間の
平成
9年には私達の望みの施設に入所が出来、さらに病院入院時親しくしていた方と今回入所した施設
のグループホーム的処遇では同一部屋にしてもらっていたのです。そうした母ですから新しく入った場所に
も拘らず情緒面の安定化を増した様で、一時帰宅で妹が連れて帰宅した折には良く太り、肌のつやも輝き、
元気が歩いてかのような姿を見て私は安心した思いで居る反面、もしも母が痴呆になっていなかったら現
在の私に対して言語では表せないくらいの大きな罪意識に否められ、精神錯乱やそれに伴う肉体の弱体化
に落ちていたのではとの推測をするのでした。とかくこの道の専門家は母子分離の必要性を説き、それを
物理的に分離する事で実践して体験をさせていますが、母の本能まで変える必要性があり、その方面から
の専門的アプローチが望まれる事も提案しときます。(私の場合は母が痴呆になって母子分離が出来たと
言えます)現在の売店担当者は私と同じ脳性麻痺によるアテトーゼ型ながらもセンターの目指すものや福
祉のセンスを持ち合わせ人間性も信頼でき、私は安心して売店は任せています。

 そして平成12年4月には介護保険法の施工に伴い私の受けていたサービスも内容は要介護1と認定され、そのまま変わることなく移行するのに伴い、私はこの保険での金儲けを主眼にして走る業者
の乱立する現実の渦中に置かれている立場からそのあり方をチェックを入れてみようと決意したのです。
その後私の使うごく少ない業者の態度に被介護保険者の人権などには無神経で無配慮な事実を発見したの
です。その体験はわずかな業者数と短い期間での事ですから、実際にはまだ想像を超える事象や数が潜在
していると推測できます。私は今
59歳ながら一人生活を多くの方々の支えと、これまでに述べてきた
ような体験を基礎とする自己決定や開き直る事に基ずいて続行中です。(自分で自分をほめるのは可笑し
く思えますが、
59歳の私は他人と比較をして現実問題の対応力に掛けては引けを取らない自身が在り
ます)だから私は多くのそして広い人間関係を通じて現在の判断力や社会適応力が培われたことに感謝の
気持ちで日々を過ごしています。今までに私と直切・間接的人間相互関係を持ってくださった多くの方々
は勿論そのような方々を与えてくださった社会に感謝の気持ちを形にしたい思いでこのようなページを増
設致しました。

 少しでも私のたどった半世紀に渡る道(体験)が今の社会で皆様方の生きる上でのヒントや力ずけにな
る事を希望いたします。

 どうぞ私の考えなり意見に対しご自由な感想やご意見をメールでお寄せ下されば、お返事は必ず致す所
存です。宜しく!

 その他の障害福祉に関するご相談にも私の経験や今持ち合わせの知識でよければお答えいたす所存です。
どうぞご遠慮なく!