日本経済新聞2002年(平成14年)6月9日(日曜日)
「糖鎖は生命現象の鍵
がん化や感染・・・ 研究へ国際競争力

糖といえば、まず甘い砂糖。でも、人間など生物の体内には、日常なじみが薄い多数の糖があって、様々な働きをしている。特に大切なのは細胞同士のコミュニケーションを担う伝達役の機能。その謎がわかれば、がんや老化の仕組み解明、新薬開発などにつながる。

砂糖はぶどう糖と果糖が結びついてできているが、生物がよく使っている糖には、このほか私たちにはなじみが薄いガラクトースやマンノースなどがあり、こうした糖が鎖状につながったものを糖鎖という。

この糖鎖を研究して、成果を応用する糖鎖工学の研究が、日本をはじめ世界で活発になっている。

ではなぜ今、糖鎖なのだろうかー。

「細胞表面にある糖鎖が、生命現象を解く鍵(かぎ)の一つになっていることが、わかってきたからだ」と糖鎖の研究で知られる西村伸一郎北海道大学教授は話す。

滑らかな細胞の表面も、よく見ると糖鎖が突起のように出ている。これらは、途中でいくつも枝分かれして、その根元は、細胞膜に埋め込まれた、たんぱく質や脂質と結びついている。

この糖鎖に病原菌などがくっつき、細胞の中に入り込んで増殖する。集団食中毒で有名になった大腸菌O−157はベロ毒素を出すが、この毒素は細胞表面にある糖鎖と結びついて細菌を殺す。

病原体との関係だけではなく、受精や、細胞の分化と成長、老化、免疫など生物の多様な機能やがん化といったことに糖鎖が深くかかわっている。

こうした際には、細胞同士が結合するのだが、糖鎖はどの細胞と結合すべきかなど、相手を認識する手がかりになっている。いわば、糖鎖は細胞間のコミュニケーションを取り持つアンテナ役をしており、細胞の“顔”とも言える。

生物はこうした糖鎖を巧みに利用して、生命活動を営んでいる。

逆に言うと、糖鎖の構造や機能が解明できれば、今までわからなかった生命の不思議が解き明かされるかもしれない。

病原体が糖鎖に結合するのを妨害する物質が見つかれば、それは感染を防ぐ薬になるかもしれない。

そうした機能をもったインフルエンザ薬も登場している。乳酸菌表面の糖鎖にワクチンを結合させ、乳酸菌飲料と同じにワクチンも摂取できるようになる可能性もある。

西村教授はタラやニシンなど厳寒の海にすむ魚の「不凍物質」になっている糖鎖がついたたんぱく質を見つけ、その人工合成に成功した。寒さに強い生物の仕組みを解明する有力な手がかりになる。

北海道電力などが設立した生物有機化学研究所と協力、移植医療に使う軟骨細胞の培養材料としての応用も進めている。

さらに東洋紡などと共同で望みの糖鎖を効率よく作る糖鎖自動合成装置「Golgi(ゴルジ)」を開発した。糖鎖工学を推進する強力な道具になる。

現在、情報技術(IT)などと並んで注目を集めているナノテクノロジー(超微細技術)。このナノテクと、分子レベルで相手を識別する糖鎖の性質をうまく組み合わせれば、様々な微量物質を同じ検出できるなどユニークな機能を持つバイオセンサーが実現しそうだ。

糖鎖の研究には北大のほか鳥取大学や東海大学も取り組み始めた。

産業技術総合研究所(旧工業技術院)は一日、糖鎖工学研究センターを茨城県つくばしと札幌市に開設した。

経済産業省もヒトゲノム(人間の全遺伝情報)解読後の重要プロジェクトとして、三年間に27億円を投じ、がんや免疫に関連する糖鎖の研究を進める。

糖は、ゲノムを構成するDNA(デオキシリボ核酸)の塩基や、たんぱく質を作っているアミノ酸より構造が複雑。さらに糖同士のつながり方には何通りもある。

こうした糖鎖を相手に日本の研究者は多くの実績を上げてきた。しかし最近、多くの先進国が糖鎖の研究プロジェクトをスタートさせ、国際競争が激しくなろうとしている。

(編集委員 中村雅美)

ページトップへ
トップページへ

このページに関するお問い合わせはこちらまで
hiroshi@mannapages.com